新聞バッグ再考

曇りや雨の日が続いています。

雨に打たれて黄金色に色付いた田んぼの稲がすこーし倒れてきた。お天気になれば、すぐに稲刈りが

始まるでしょう。

 

10日と11日、昨年は豪雨で流れた岩出山の「政宗公祭り」。今年はなんとかもちました。

10日土曜日は宵祭りで11日は本祭り。

宵祭りには夜店が出て有備館を中心に踊りなどが繰り広げられ、本祭りには凛々しい甲冑姿の政宗公、

そして愛姫さまが馬に乗って町をねり歩き、岩出山の幼稚園や保育園、そして五つの小学校の低学年の

生徒たちもお行列に加わって歩く、ということで我が家の孫も今年初めて歩くことになっていたのですが、

あまりの人の多さで、見落とした。

 

このところ、新聞バッグのお仕事が増えています。

新聞バッグを作ったり、講習したり、イベントの販売だったり、やることは様々だけれど、予定ギュウギュウ。

 

ひとつは岩手の酒蔵会社さんでの新聞バッグのワークショップ。

10月1日のお酒に日に合わせて新聞バッグ作りのワークショップをやるだけではなくて、お客様へ贈るお酒

を入れるバッグも用意するというので、強度やデザインなど、いろいろ思考を重ねています。

 

そして昨年もご注文いただいた大阪のゴルフ協会さんからのゴルフ大会景品用新聞バッグ。

これは量が多くて、鳴子や岩出山や南三陸など場所を分けて作ってもらっている最中。

同時期にロイズ新聞バッグの検品、発送も重なるので、9月末はかなり厳しくて、期限に遅れてはいかん、

と時間配分考えるだけで今から緊張します。

 

9月、10月、11月と新聞バッグを販売するイベントも重なりますが、販売イベントを常々からコーディネイト

してくれている東北村さんが先日、仙台で新聞バッグワークショップを開催した際に参加したインターン生が

書いたブログをUPしてくれました。

新聞バッグに始めて接した楽しさがそのまま素直に綴られたあたたかい文章で、新聞バッグのことをそんな

ふうに思ってくれたのか、と改めて新聞バッグの本家本元海山の自分たちが新聞バッグを見直す心境。

田舎群東北村のブログをごらんください。

 

明日から大特急で富良野へ行ってきます。

お芝居は全く関係なくて、ラベンダーのお勉強兼、苗の購入等々。

私たちのラベンダーは花を切ってそのままなので、もう剪定時期がギリギリの状態。

戻ってすぐに作業に入ります。

また雨が降ってる。明日飛行機に乗る時、止んでほしいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

http://www.tohokumura.com/blog/visit/201609_250.html

 

 

 

 

 

国際ガールストーク

3回目のホストファミリー。

自分の予定が混んでいるので今回はパスと思っていたのだけれど、招聘の人数が多そうなので二人だけ

ということでOKとしました。今回はカンボディアのお嬢さんがた。

カンボディアという国については詳しくは知りません。でもフランス、そしてベトナム、ラオス、タイなどの周辺諸国

ひと時期は日本まで加わっての侵略の歴史の中で、中立、内紛、クメール・ルージュ、ベトナム戦争、ポルポト

の大虐殺などの大変な歴史を生き延びて、ポルポトが死んで、ようやく平和な新しいカンボディア王国という国に

なったくらいが私の知識で、今度調べたら新生カンボディア王国がスタートしたのは1993年、9月。

まだ新しい国です。

国の基幹産業は農業。就業人口の7割が農業ということで、今回来てくれたヘンは農家出身、ピサイはたぶん

カンボディア有数のアグリカルチャー(農業)の会社で働いている女性でした。

ということで、話の主体は米だとか稲だとか農業中心。あと20歳のヘンと既婚者で32歳のピサイと40代の娘と

74歳の私の森羅万象に渡る英語中心の通じても通じなくても委細構わぬガールストーク。

 

これやってて思うんですけど、ヘンは英語はほとんどしゃべれない。私は半端、娘はアメリカ英語でピサイは

アジア独特の英語。お互い聞き取りにくいとごちゃごちゃ言いながらも、このガールストークは何時間でも

続けられるし、面白いし、笑ってばっかだし、2晩夜中まで続けたら楽しかったけれどけっこう疲れました。

 

1日目はお迎えに行って対面して連れて帰ってきたらもう7時。

お魚のフライにサラダ、味噌汁と普通の晩御飯を家族みんなで一緒に食べました。好き嫌いもなく、ヘンもピサイ

もひと口食べてはにっこり、「オイシーーイ」と言ってくれるのでひと安心。お世辞じゃない証拠に完食でほッ。

 

2日目は、たぶんカンボディアの名跡アンコールワットと歴史的に並べていいと思うんだけれど、同じような寺院

中尊寺へ。

その前に毛越寺の浄土庭園と、平泉文化遺産センターに寄って古代絵巻のお人形見物と十二単の試着をします。

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ついでに孫も藤原武者に。

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しかし、暑い!

東北で9月に入ったというのにこの暑さは異常でしょう。

これまで行きたいとも思わなかった海外旅行。歳をとってきたら「行ってもいいかなあ、行けるうちに」なんて思い始め

て初めて昨年娘家族にくっついて台湾に行ったらその暑いこと暑いこと!

あまりの暑さと見るとこ見ること全てが大都会なので(私は農村が観たい)今年は遠慮しました。

その他どこ調べてもアジアは暑い。と思っていたらカンボディアの乾季は暑くないのですって。それに農業国。

アンコールワットも近いよ、というので俄然興味が湧きました。

 

中尊寺では下の駐車場からえんやこら急飯登って金色堂まで。杉木立ちと蝉の声の中でカンボディア語の練習。

キノコはプサッ、ごめんね、はプレッ、ありがとう、はオックン、聞いたってすぐに忘れるんだけどね。

私の健忘症を心配するヘンが、あまりにも熱心に教えるものだから、さすがにこのみっつだけは覚えました。

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中学生の頃、手塚治の漫画を読んでその壮絶な最後に涙した弁慶の立ち往生。

武蔵坊弁慶が祀られた弁慶堂。久しぶりに来ました。IMG_0229

帰りにイオンに寄ってお買い物。みんなバラバラに散って好きなもの買って集合。いつものパターンです。

これから素敵な男性との出会いを夢見る20歳のヘンが選ぶのはコスメティック。

 

食事を終えて新聞バッグ講座開始。

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そして朝は私の仕事、お餅屋のお手伝い。道の駅直売所での出荷まで手伝ってもらいました。

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新聞バッグと米を原料とするお餅作り、そして地域の農業者が自分で作った野菜を自分で販売する道の駅の

システムは彼女たちにとって重要な意味があるようです。

かつての日本の高度成長期、バブル時代を彷彿とさせる現代のカンボディアの経済成長状況。

古い新聞紙と糊で作っただけなのに売れる新聞バッグと春巻きのようなお餅は存在するものの、日本の私が売る

お餅は存在しないカンボディア。作ってみるというので、餅米、蒸し板、蒸し布まで持って帰ってもらいました。

餅を作ってまた日本に来るそうです。新聞バッグ修行とお餅修行のために。

成果が楽しみ。

忙しかったけれど、楽しい3日間でした。

お餅を作って運転して歩いて運転してしゃべってまたお餅を作る私に、「オカーサン、ストロング!」とヘンは言って

くれたけど、ストロングじゃないよ。へとへとだよ。1日休みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新聞バッグwithお酒/海の手山の手酒の会発足

去年の土砂崩れ二の舞になりたくないと、大雨に怯えた台風10号。

雨が気になって朝まで寝られないと思っていたのが、あれ? というぐらいにたいしたことなく過ぎて、ホッと

したのも束の間。宮城に上陸するはずだった台風10号が50キロ北の大船渡に上陸してからの岩手の被害は

眼を覆わんばかり。だけでは足りなくて北海道まで大雨が降って複数の川の決壊で家は壊れ家畜や収穫

前の作物は流されるという大災害になってしまって、言葉もありません。

本当に人ゴトではなく、難儀なさっているであろう皆さまに心からお見舞いを申し上げます。

 

四万十の畦地社長にご縁を繋いでいただいていずれ時期が来たら、とうかがうことになっていた岩手県、

盛岡のわしの尾酒蔵さんをお訪ねしました。

10月1日のお酒の日に、お酒のビンが入る新聞バッグワークショップを企画なさっているというお話で、

デザイン、その他詳細を決めるために、今回は海山女子部、よっちゃん合わせてメンバー全員揃って盛岡へ。

迎えてくださったのは、わしの尾酒蔵さん、新聞を提供くださる岩手日報さん、そして岩手酒蔵組合の理事さま。

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この5年半で、新聞紙や広告の紙などを自在に繰って新聞バッグ作りに熟練した黒田、上條インストラクターの

手によって初見参の岩手日報で造られたお酒ビン入り新聞バッグ。

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ワークショップの後の企画の中に「きき酒コンテスト」というのがあって、よっちゃんは参加を申し込みました・

5人一組。名づけて「海の手山の手酒の会」

えーーっ! お酒なんか飲んだことないんだけど、ちょっとした色の違いでも美味しそうに見える美しいお酒

のビンに惹かれて、少ーしづつお酒を飲んでみようかと目論んでいます。

 

打ち合わせが終った後は、陽盛りの盛岡の町をぶらりぶらり。

盛岡名物、福田屋のパンを真面目に並んで買って、お昼は話には聞くけれど行ったことはないわんこ蕎麦に

初挑戦。

といっても挑戦するのはよっちゃんと上條さんで、黒田、みっちゃん、私は普通のお蕎麦を食べながら観戦。

 

始まりは余裕。

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まだまだ余裕。

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おそばをよそってくれるおばさんの掛け声に合わせて「どっこいしょ」と返すくらいにまだ余裕。

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当人たち二人は余裕らしいけれど、見ているこっちのほうが不安になり始めた100杯越え。

もうやめたら?

美味しいと思ううちに止めるか、腹いっぱいまで続けるか、思案のしどころ。

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この満足そうな笑顔!。

よっちゃん、180杯、上條150杯でよっちゃんの勝利。

上條50代半ばにして150杯の好成績をあげました。

二人ともまだ余裕があるらしく、別腹で福田屋のパンを食べられると言っていたから、凄い人たちだと思います。

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笑い転げた後は盛岡の町をぶらりぶらりと散策。

宮沢賢治「注文の多い料理店」出版の地、光源社において、海山女子部。

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楽しい1日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝まで眠れない!

気象観測史上初めてという台風の東北初上陸だとかで、今午後4時。

台風らしい風はまだ吹かないけれど、雨、雨、雨。

土砂降りの雨が降り続く外を眺めながら息を殺して棲息中の気分。

昨日発送する予定のロイズ新聞バッグ入り段ボール箱、デッキにあった物干しなどなどリビングに引き込んで

ごちゃくちゃ一緒に同居中。

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福岡育ちで台風は子供の頃から慣れているけれど、この大雨で土砂崩れというのは、ニュースで聞いてはいたけ

ど、昨年秋の大雨で上の家の敷地で崩れた土砂がうちまで流れ込むという経験をして、それからすっかり

雨が恐ろしくなりました。

深夜にドードーと降り続ける雨音は、自然への畏怖というのか手も足も出ない感じでほんとに心臓によくないわ。

この辺りの集落の人は土砂崩れがあっても、治せるとこは治して後はほったらかしでそのうちに木や草が生える

に任せるという手法のようだけれど、町人間の私は治せるとこも治せないでブルーシートを被せてため息をつく

くらいがせきの山なのです。

ああ、早く行ってほしい。

明日は海山チーム全員で秋田の八幡平に行くことになってます。遊びではないよ。

新聞バッグの仕事の打ち合わせです。

 

そうだ、先日南三陸のけいこさんのところにロイズバッグを回収に行った時に、珍しく津波被災した志津川の

写真を車の中から撮りました。今造成された道路は前の一般道のような感じではなく、観光道路のような作り

になっているので、車を停めるに停められず写真を撮る機会がないのだけれど、今日はうまいこと赤信号に

ひっかかったので撮りました。

土の山だらけ。普通の道のように見えるけれど、この道路はたぶん造成された土の上に作られた道路

(どうなっているのかよくわからない)で進まされるとおりに進むようになっています。

しかしこの道路、盛り土の上だったら大雨でこんなに車やダンプ乗っかって壊れない?前からそう思ってて、

走るの怖い、私は・・・。

道路損壊というのはアスファルトが壊れたくらいしか見たことがなかったのに、震度6強から7の地震では

道路は造り上げられている根っこからいとも簡単に崩れ落ちるんだ、という事実を眼の辺りにしてから、

私はどんな立派な道路をも信じられなくなりました。うちの周りの町へと通じる道路は全部根っこから壊れて

治すのに1年もかかって、壊れないのは細い畦道のような道路なんだと知ってしまったから。

311以来、総じて私はなんでもかでも疑い深く、信じられないようになって人が悪くなった。

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ひと月ぶりに訪ねたけい子さん宅では、一番忙しい時期は終ってひと段落の筈なんだけれど、残念ながら

大黒柱のお父さんが前から疾患があった心臓の手術を翌日受けることになっていて、私はショックを受けた

のでした。5年半でやっとここまで来たのだから、なんとしても元気になってあのあったかい力強い笑顔で

戻ってきてほしい。

 

「ピンチはチャンス」をせっかくしゃべったのだから忘れちゃいけないと思って書き続けながら、その間東京

に行ってきたら、なんと私の大事な一族のゴッドマザーのような従妹が治り難い病気になっていた。

今年の春には福岡での「屋根」公演にバスを仕立てて従業員や親戚50人ほどを連れて観に来てくれたと

いうのにほんとにあっというまの変転にびっくりするばかり、明日はわが身です。

 

窓の外の目の前の栗の大木の枝先にくっつい青いいが栗が風に振り回されています。

明日の朝までに落ちるのかなあ、落ちないのかなあ。

今は実りの秋、道の駅ではぶどうもりんごも出始めたばかり。

被害が最小限に留まることと祈って祈って、たぶん今日は私は朝まで眠れない。

それにしても凄い雨!

風が強まってきました。木が折れそうに揺れてる!! みんな無事でね!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス④

世の中にはいろんな暮らし方、職業があります。

公務員とか会社員とか店員さんとか、お給料もらって働く人。

農業、漁業、お店や食堂などの自営の人。工場などで働く専門のお仕事の人たち。

みなさんはどんなお仕事の人が、大災害の時に一番早く動き始めると思いますか?

頭がいいから先生とか、ITに精通したIT関連業務の人とか?

全然そんなことはありません。勿論職業だけで分けるわけにはいきませんが、でも経験でみたところでは

即刻復興に向けて動き始めるのは、日頃から手足で動いていた人たち、現場仕事の方たちだったと

思います。会社で偉い役目をしていたとかの人たちは、現場仕事は不慣れでやりづらいからか遅れがち

でした。

 

何が言いたいかというと、頭脳だけで働いていた人たちは、電気もガスも水も食糧もなくなるような大災害が

起こったら何もできないということです。311の大災害の時、この岩出山では電気も水もガソリンもなくなり

ましたが、農業の人たちは全く動じず、1年間でもそのまま暮らせる状況でした。でももし東京で大災害が

起こったら、日頃から会社で働く仕事が中心の人たちは、何をどう調達してよいのか解らず、2、3日もすれば

食べるにも事欠くようになるだろう、と心配しています。

今日東北まで来てくれて、南三陸で船に乗ったり災害のお話を聞いたり、貴重な体験をされた皆さんには

人が生まれながらにして備わった能力をなくさないでほしい。能力を育てて磨いてほしい。災害が起こっても

自分が生き残るだけではなく、人をも助けられる力のある大人になってほしいと思います。

 

そしてみっつめ。最後のお願いは想像力を養ってほしい、ということです。

人は自分の人生しか生きることはできません。人の人生は生きられないので、人の心は分かりません。

だから自分とは違う人の心や人生が描かれた本や漫画を読んだりドラマや映画を観て、自分以外の人の

心や生き方を知ろうとします。それをしなかったら、自分が生きるひとつの生き方を人の人生だ、と思い

こむような狭い考えに囚われてゆき、人や自分が接しない世界のことがわからなくなります。

 

例えば今ここにいるこれから皆さんに新聞バッグを教える上條さんは、福島の南相馬から原発事故の翌日に

バスに乗って鳴子温泉に避難してきて、今も鳴子温泉に住み、働いています。一緒に来た時には小学生

だった娘さんは高校生になり、高校生だったうえのお兄ちゃんは大学生になり、高校生だった下のお兄ちゃん

も今年大学に入りました。お父さんは今も福島でお仕事をされていて、それまで普通に暮してきた家族一緒の

暮らしや学校や部活や習いごとなどは、原発事故で一瞬に断ち切られてしまいましたが、今は新しい生活で

みんながんばって元気に生きています。

言われなければ知ることもない新聞やテレビで報道される原発や津波の被害者の方々は、もしかすると遠く

にいるのではなく、すぐ傍にいるのかもしれません。

ここ岩出山は福島から遠く、原発の影響を受けていないように見えますが、実は山の山菜やきのこや動物たちは

放射能で汚染されてまだ食べてよい、という許可がおりていません。

想像してもわからない、まして想像する力もなかったら、何が起こっているかもわからない今の自然界の状況です。

自分が住む以外の土地で暮す人々や、自分が知らない広い世界、そしてそこに住む人の暮らしや心を想像する

力を育ててください。

 

東北は農業や漁業が盛んで、広大な耕土に恵まれ、自分でモノを作り出す底力が強い土地柄です。無口で辛抱

強い東北の人たちは、困った人を受け入れる心の余裕がある人が多いように私には感じられます。

長年東京で仕事をし、ディズニーランドの近くで暮してきた私は、東京での何もかもお金で買う、経済に揺さぶられる

生活を知っていますし、15年住んで、自分の手でモノを作り出すのが普通のこの岩出山の暮らしも知っています。

その違いがわかります。

 

どちらも大事でどちらも必要です。どちらも知っておいたほうがいいです。

皆さん、今日の日を忘れずに、東京に戻っても東北を胸の中に置いてください。

そして1年に1度でも海で出会った山で出会った東北の人たちが、今どうしているだろうと想像してみてください。

私たち、私も同じですが都会の人間は家を売ったり引っ越したりどんどん生活を変えていきますが、ここ東北

の人たちはこれからも同じ土地で同じ仕事をしながら復興の道を歩んでいかれると思います。皆さんが大人になって

もその状況はあまり変わらないと思うので、どうか思い出したら会いに来てください。

 

長時間私のお話を聞いて頂いてありがとうございました。これでお話はおしまいです。

ありがとうございました。

 

 

頂いた1時間は長かった。

年寄りの話で分からないことも多かったと思うけれども、みんなの心の中にちょっとでもひっかっかっていてくれたら

いいな、と思って話しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス③

新聞バッグはモノも入れられるし、飾ることもできるし、新聞バッグの絵柄や作り方によってはメッセージ

を送ることもできます。会社などから注文をもらえば、作った人が報酬をもらえるお仕事になり、おしゃべりを

しながら新聞バッグを作る人たちの心を繋ぐツールにもなります。糊と古新聞で作った新聞バッグは、ただの

紙の袋ではなく、実はいろいろな役目を果たすことができる凄い袋なのです。

今日作る新聞バッグは誰のために作ろうかなあと考えてください。あげよう、と思う人の顔が浮かぶと、とたんに

力が入ります。そして作り終えた後はみんな「やったあー」と笑顔になります。

 

私からのお願いです。

新聞バッグを作った今日この日を忘れないでください。

東京にいると東北や熊本やその他の土地の災害に関連する言葉や文字に触れることはほとんどない、と思い

ますが、東北では思いがけない災害で大変なめに合い、そこから今も抜け出せない人たち、仮設住宅で小学校

から高校まで通わなければならない子供たち、補助事業の打ち切りでお仕事がなくなり不安な思いをしている

人たちなど、災害後の暮らしの立て直しを今も一生懸命に努力しておられる方たちがたくさんいます。東北の

他にも熊本にも茨城にもその他の地方にも同じように頑張っておられる方がいることをどうぞ忘れないでほしい

と思います。

 

月曜日の夕方にここで大きい地震がありました。

震度5くらいの揺れ方でけっこう長く揺れました。ここ宮城にはもう町が壊滅するような地震はこないだろうと

思っているのでそんな不安はないのですが、大きな地震が来ると「関東に来たのじゃないか」「その余波じゃ

ないか」とすぐに思ってしまいます。その時は福島でしたが、福島にも大きい地震が来ては困るのですが、首都圏

には子供も友だちも多く住んでいて、もしも東京に大地震が起こったら大変なことになると分かっているので、

その警戒感、危機感は東京に住んでいる人たちよりも「来たらどんなふうになるか知っている」私たちのほうが

もっと強いのかもしれません。

 

もしも東京に震度6強以上の大地震が来たら、勿論ハード面では建物も道路も首都高速道路も地下鉄も壊れ、

人口が多い分だけ水や食糧の確保も困難になりますが、人の心がどうなるかという別の問題も発生してきます。

よく町の復興、人の復興といいますが、町の復興は国にやってもらうにしても人の復興は自分たちの問題です。

長い間自分の家族や仕事を護って生活を築いてきた大人は、地震でその地盤を一瞬にして奪われると、その

壮絶な変化に耐えられなかったり、立ち直る気力を失くして立ち尽くす大人が多く出るかもしれません。

東北でもそうでした。その時に大活躍したのはみなさんのように大きい子供たちでした。

 

家や家族や仕事など、一家の安全と安定を担う大人は混乱して大変なのです。何をどうしていいのかわからず

呆然としていても、それでもそんな時でもお腹は空くし、寝る場所も作らなければならないし、人が生きるうえで

必要なことは普通に起こってくるのです。

そんな時子供は一家の家や仕事の心配をすることはできないけれど、災害を受けたもの同士が助け合うための

掃除係りだとか食糧係りだとか衛生係りだとか、心配の多い大人に代わってやれることはいくらもあります。

東北でもたくさんの仕事を子供たちがやってくれて、時間が経ってくると大学生が小さい子供に勉強を教える

ことなどもやっていました。

今世の中ではスマホひとつあれば顔を合わせなくても友達と話せる。計算もできる。地図なんかなくても約束

したところまでスマホ見ながら行ける。なんでもできてしまいます。でもスマホがなくなったらどうするのか。

 

ここで二つ目のお願いです。

スマホに詳しくなるのも必要なことだけれど、大災害が起こった時にスマホでできることはほんの一部です。

生き延びるためには自分の頭で考え手足で動く力がなんといっても重要なので、みなさんにはその自分で

動ける能力を失わず蓄えてほしいと思います。

スマホもパソコンも電話もナビも3月11日の2時46分に一瞬にしてなくなってしまった東北では、南三陸と

岩出山で連絡をとることもできず、用事がある時には車に乗って1時間半もかけて話をしに行ってました。

行っても電柱も建物も道路も標識も全部なくなって目印がない町はどこがどこだかわからず、到着するのに苦労

しました。満ち潮になると地盤が下がった道路に海水が流れこんでくるのが怖くて、そして灯りが全くない壊れた

町が怖くて行く時から帰りの心配ばかりして疲れていました。

 

男は船で仕事をし、女は浜の共同作業で魚の加工や養殖の仕事をしていた沿岸部の人たちは、団体で動く

力が強く、避難先では船頭さんたちリーダーが若者を統率し、足りないものは自分たちで作りだしていました。

子供たちも大人を助けて一緒に働きました。そのような経験から被災地の子供たちは、被災地に残って被災地

のために仕事をしたい、という若者が多く出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス②

頭上の新幹線の外灯が折れ曲がり、水が噴出し、駐車場の車が左右に動き回り、ビルのエントランスのタイルが

バチバチと弾け飛んで裂け始め、もう地球が壊れるかと思うくらいの恐怖の6分間という長い時間を耐えて、

ようやく静まり、ブルブル震えながらメチャメチャに壊れた古川の町をどうにか家に辿り着きました。

東京でも震度3や4の地震は普通にあるので、地震が怖いなどは格別思ったことはなかったのでしたが、もう今は

私は地震は本心から怖いです。あんな恐ろしく悲しい思いは2度としたくないと思っています。トラウマになって、

その後は東京で地下鉄に乗っても、一瞬でもガタンと音がしたり、電気が消えたりすると立ち上がって逃げそうに

なっていました。

 

 

 

私が住む岩出山の真山地域はほぼ震度7の揺れがあったところで最も被害が大きかったのです。町に繋がる道路

はほとんど壊れて、電気も水も止まりました。家は壊れなかったけれど、家具は倒れ、食器類は90パーセントくらい

壊れてしまい、電気がない生活は8日間続きました。その頃海のほうでは津波で大変な被害が出ていたのですが、

ラジオで切れ切れに聞くだけで、その様子を知ることはできませんでした。

水もガソリンもない生活が続いて1ヶ月ほど経った時、隣町の鳴子温泉に沿岸部で津波の被害に合った方たちが

1000人くらい、仮設住宅ができるまでの期間を各旅館に分かれて滞在されることになりました。2時避難です。

市の広報誌に「避難して来られる沿岸部の方たちを家族のように迎えてください」という市長の言葉が載せられ

ました。

 

ここ岩出山には、東北一か自己所有では日本一くらいに大きい梅の農場があります。丁度梅の花が咲く時期で

その梅農場の専務の佐藤宗一さんが、被災者の方々を慰めるために農場で梅見の会を催したらどうだろう、と

提案しました。こんな時にお花見なんて・・と怒られるかもしれないと思いながらも、宗一さんは毎日仕事を

終えたあと鳴子温泉まで通って、旅館を一軒一軒廻り、「梅の花を見に来られませんか」とお誘いしました。

初めは全然反応がなかったのですが、4,5日後くらいから「行く」という方が出始め、最終的には200人以上の

大お花見会になりました。

その梅の花見で出会ったのが、今新聞バッグを作っている海の手山の手ネットワークのメンバーです。

 

その会で避難して来た方々に「今一番必要なことはなんですか」とうかがったら、「お仕事がしたい」ということ

でした。旅館での避難生活は3度のご飯がちゃんと出て、一日中温泉に入れるけれど、その他には何もやる

ことがありません。これまで船に乗ったり養殖で身体を使って働いていた方々が、全ての持ち物を失って何もなく、

電話やパソコンや本などがあるわけでもないので、こんな生活をしていては身体や頭がなまってしまう、と

考えられたのかもしれません。

梅農場ではその時から鳴子温泉の被災者の方にたくさんの梅農場のお仕事をしてもらうようになりました。

車がないので、ある車に満杯に人を乗せて鳴子温泉まで送ったり迎えたり、なかなか大変でした。

そしてそんなことができない私たちは、海の人と力を合わせてお仕事を作り出そう、と考えました。

 

でも仕事といっても材料が何もありません。

とにかくなんでも作れるものはなんでも作って売ろうということで、津波で流れ残ったワカメを売ったり、山の竹を

伐って植木鉢替わりにして花を植えて売ったり、残った布でエプロンを作って売ったりしましたが、最終的には

狭い旅館の部屋でも仮設住宅でも作業ができて、材料が新聞紙を糊だけで作れる新聞バッグを作ることになり、

高知県四万十町にある四万十新聞バッグに作り方を教えてもらうことにしました。四万十新聞バッグは通常は

四万十以外で教えるということはしていないのですが、事情を話して一生懸命にお願いしました。

その時に最初に電話に出て親切に対応してくれたのが、これから皆さんに新聞バッグの作り方を教える

インストラクターの黒田みゆきさんです。黒田さんはその後宮城まで新聞バッグを教えに来てくれ、またその後

お仕事の切り替わり時期に、東北を助けるために宮城に来てくれました。今ではこの岩出山に住んでいます。

 

四万十新聞バッグの教えを受け、販売してもよいという許可をもらって、新聞バッグを作るチームの名前を

「海の手山の手ネットワーク」とし、南三陸、石巻、南相馬、岩出山の人たちが一緒にになって新聞バッグ作りを

スタートさせました。

最初の2年間はお金がなくてほんとうに大変でしたが、周りの方たちの応援で1年1年どうにか切り抜け、それ

から5年半という月日が経ちました。そしてふと気づくと、私たちは最初には想像もしなかったような様々な分野

で活躍されるたくさんの方々とお知り合いになっていました。

今ここにおられるJTBの方もそうですが、いろいろな学校の先生や生徒、大小の銀行や企業、キズナプロジェクトで

日本に来られた外国の人々など、九州から北海道まで、本当に震災がなかったら決してお会いすることはなかった

だろう方々との出会いがありました。

全ては新聞バッグが運んでくれた出会いです。私は毎日お餅を作って道の駅でお餅を売っているお餅屋ですが、

お餅屋だけだったらこんなにたくさんの方々とお知り合いになるなんで、決してあり得ません。

今日みなさんとお会いできるのも、そして今10000枚の注文を頂いて1年半近くかかって毎月北海道のロイズと

いうチョコレートの会社にロイズ新聞バッグを送り続けているのもロイズの社長と新聞バッグの出会いがあったからです。

北海道の富良野に住まわれている脚本家の倉本聰さんにも同じように新聞バッグを知って頂いて、そのご縁で

今年の春はこの岩出山の小さな文化会館で「屋根」という舞台を上演することができて、岩出山や古川やその他の

町の方々にも喜んで頂きました。

 

初めて沿岸部の津波の様子を知った時、もう「東北は終わりだ」と私たちは打ちのめされました。失ったものの

あまりの大きさにどう考えていいかもどうしたらいいのかもわからない。そんな時、今日は用事があって来て

いませんが、私たちのメンバーの高橋博之がいつも言ってました。

「ピンチはチャンス」だ。「ピンチはチャンスにしなければいけない」と。

その時には現実味のない言葉でしたが、今5年半経って、私たちは高橋が言っていたとおり、一歩一歩ピンチを

チャンスに変えることができてきたのだろう、と思います。

しかしながら、今日皆さんも南三陸でたくさんのことを見たり体験して来られたと思いますが、まだ復興は道半ば

です。半分もいっていないのかもしれません。10年も20年もかかる大仕事です。

 

ここから話は変わります。

こらから作る新聞バッグについて皆さんに知っていただきたいこと、そしてお願いがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス①

大震災後、3回目になる明治大学付属中学校高等学校東北研修での新聞バッグ体験。

来てくれている生徒たちは同じではないと思うのですが、中にはリピーターになって2回目という子供たち

もいるのだそうです。

教えるのはいつも同じ海山メンバー、メインインストラクターに黒田さん、サブに上條さん。

いつもなら必ず同席する生徒たちの先輩、明治大学で学んだよっちゃんは今日は仙台の市でなんばんを売って

いるので欠席。私はお話係りとお手伝いという役割になってます。

 

今回体験講座の前に1時間という時間を頂いて、災害のことや海の手山の手ネットワークの始まりや歩みなど

お話することになっていますが、私にとっては一人で中学校、高校生の前で1時間もお話するのは初体験。

生徒たちから見ると私は先生よりも年長のおばあちゃん、私から見ると中学生や高校生は普段から最も

接する機会がない年頃の孫に話しかけるようなもので、実に戸惑います。

 

でも、こうなった以上は、自分の言葉で孫に思うことを伝えるようなつもりで、この2、3日ノートとペンを持って

うろうろしながら考えた「ピンチはチャンス」というお話を聞いてもらうことにしました。

眠いだろうけれど、居眠りしてても話し通します。

 

[ピンチはチャンス」

まずはご挨拶。

ここから始まります。

今日は何かお話を、ということなので、311の大震災以来起こった様々なことを皆さんにお伝えしたいと思います。

私は東北の生まれ育ちではなく、15年前に田舎で暮したくて千葉県からこの宮城県岩出山に移り住みました。

生まれて初めて田舎に住んだので、田舎のことはなんにも分からなくて、この岩出山の方々からたくさんのことを

教えてもらいました。

 

引っ越してきて3年くらいして大きな地震がありました。地面には広い範囲に亀裂が入り、近くの山が崩れて下に

あった小学校の教室に土砂が流れこみました。その時私は岩出山の町の中の病院にいたのですが、屋上の貯水

タンクから水が噴出し、地震が終った後、病院の洗面所のコンクリートの洗面台が全部崩れ落ちて壁に水道の

蛇口だけがくっついて残っているのを見て、凄いところに来たもんだと驚愕しました。

それまで東京で震度3だの4だのの地震しか経験していなかったので、この時、こんな大きな地震が起こったら

その町にはその後数ヶ月、道の駅のお客さんや温泉の観光客は来なくなるのだと知りました。

 

そして次は2008年の6月の朝、今度は宮城内陸地震がありました。震度は6強で岩出山の隣町、栗原で大きな

被害が出ました。標高2000メーター近い栗駒山が大規模に崩落し、温泉が埋まり、亡くなった方もたくさんの負傷

者も出ました。今窓の外に見える広い駐車場が土砂崩れ現場の捜索を続ける自衛隊の交代場所で、私たち

道の駅の生産者は、毎日泥だらけのトラックや重機類、泥に汚れた自衛隊員の方たちを見て過ごしました。

岩出山で最も栗原に近い場所にある私のうちでも井戸のポンプが壊れたり、地面に亀裂が入るなどの大きな被害を

受けました。

この地震で私は初めて、大きな地震が起こったら、ものの1時間もしないうちにスーパーやコンビニからは水も食べ

ものもなくなって、空には自衛隊や報道のヘリコプターが飛びまわり、国道は自衛隊の災害トラックやその他の

車輌、サイレンを鳴らしながら走る救急車やドクターカーなどでいっぱいになって、テレビドラマでしか見たことが

ない戦場のような状況になるのだ、と知りました。

 

そして次が3年後の3月11日です。

その日私は古川のイオンモールの駐車場に車を駐めて、隣りのビル1階のパソコン教室にいました。

地震馴れしているので、揺れ始めてすぐ誰よりも早く真っ先に外に逃げ、飛び跳ねるような揺れのなかを、道路まで

這って街路樹にたどり着いてしがみついていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台風一過

昨日から台風7号接近中。

関東辺りで元気いっぱいの台風は大体東北に来るころには勢いが弱まって、直接大被害を受けることは

あまりない、というのが定石となっていたのですが、昨年秋の大雨被害を受けてから、台風に伴う

大雨がやたらに気にかかるようになってしまいました。

去年のような土砂崩れが起こったら、と思うだけで恐ろしい。上から流れてきた土砂で車が埋まるなんて

2度とごめん。

 

今朝は窓から降り続ける雨を眺めながら、昨夜搗いたお餅を道の駅に持って行く気にもならなくて、

心ならずもお休みに。

後でレジの人に聞いたら「普通にお客さんきたよー。土砂崩れが怖かったんでしょう~」

そうなんです。

でも雨が降る時間は短くて、大過なく台風は去り、午後には晴れて庭いっぱいに蝉しぐれ。

台風一過、白い薄い雲がたなびく夕焼けの空の美しいこと!心に残ります。

 

明日は明大付属中野中学、高等学校の生徒諸君が東北研修に来る日。新聞バッグを作ります。

その前に1時間のお話をすることになっているので、何を話そう、何を伝えよう、とノートとペンを持って

沈思黙考。うろうろうろうろ。一生懸命に考えたんだけれど自信ない。

ばーさんの説教くさい繰言のようにならないように、楽しく自分の言葉で話そうと思います。

 

夜、携帯の着信に1年ぶりに見る大阪のMさんの名前があるのに気づき、驚いてかけ直しました。

 

昨年は所属しているゴルフクラブの大会で、賞品として新聞バッグを使いたいとのお申し出で、

2百数十枚の新聞バッグのご注文を頂きましたが、なんと今年も去年と同様、賞品に新聞バッグをお使い

くださるとのご連絡でした。

そんなふうに覚えていてくださること自体がほんとうに有難いことで、心からの感謝をしつつお受けする

ことにしました。

11月にはある東京の中学校の3年生に300枚の新聞バッグを、暮れには会社の社員全員の誕生日の

プレゼント用にというご注文も受けています。

賞品に、誕生日のプレゼント用に、結婚式の引き出物用に、というご注文も時々ありますが、こんなふうに

糊と新聞紙だけで作った新聞バッグがさまざまな舞台で利用され、喜ばれるということが信じられない

ような気持ちになります。

私たちが何かをどうしたということではなく、新聞バッグ自体が一人立ちして愛嬌よく歩いているような。

 

昨年も忙しかったけれど、今年はさらに去年を上回るような忙しさの中で、何をどう動かそうかと廻らぬ

頭をめぐらせています。

8月の鳴子の森の中の喫茶、ライム。

ノートとペンを持って2時間ほど籠もらせてもらいました。

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「ちゃんと栄養とって」と出してもらったランチ。

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野菜いっぱいのひやし中華というのもありましたよ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真山の花火

今日はお盆の15日。第2次世界大戦が終った日。

 

朝のあ・ら・伊達な道の駅は、裏の駐車場まで車満杯。

店内もお客様がいっぱい。

どのお客様も家族連れでいかにもお盆、夏休みを楽しんでいる、という印象。

朝ついたお餅を籠に入れながら、そうだった。昔は私も生産者ではなくて、夏休みには山に登ったり、遠くの町

の道の駅嘆探訪などしていたなあ、と思い起こすと感慨深い。

今はそんな時間は全然なくて、お餅をついて道の駅に行って、お餅をついて道の駅に行ってを繰り返し、

今日辺りはへとへとで頭も痛く、さっきお薬のみました。

でも今日はお客様から

「お餅を作っている方ですか? 私はこのお餅が好きでどこで売っているのかと思ってました。

お餅を作られている限り私はお餅を買いに来ますので、お元気でお仕事続けてくださいね」

と言って頂いた。感謝です。

 

 

昨日の日曜日は近所の直売所当番で、1日花のおじさんを手伝って切花の花束作りをし、夕方は庭の木々に

絡まる蔓を鎌で刈りまくる作業をしたのが余分だった。

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今日もとりあえずはお盆なので、直売所は開けて店番しながら、18日木曜日の明大付属中野中学、高校の

新聞バッグ講習の準備をするつもり。

 

明大付属中野中、高等学校が夏に東北研修に来てくれるのは3度目です。

年々参加する生徒さんが減っていくなか、震災後5年半も経った東北の地に毎年継続して研修に来てくれる明大

付属中高校の校長先生、担当の先生、そしてJTBの担当営業のAさんに深い感謝を覚えます。

毎年来てくれる生徒さんは同じではないけれど、今年は大バッグに挑戦してもらうことにし、たくさんの英字

新聞の中からできるだけ素敵な柄の新聞紙を選び出しました。 男の子だから男の子に好まれる柄にしたいの

だけれど、なにせもらった新聞紙なのでなかなかそう都合よくいかないのがつらいところ・・・。

道具の準備が終ったら、講習の前にみなさんに伝えたい話の内容を考えます。

 

今夜は私が住む真山集落の夏まつり。

資金不足で花火をやめていく町が多いなかで、なんと真山集落では史上初めて打ち上げ花火をやる企画を立てた

のだそうです。岩出山町でも一番小さな集落なのに、たいしたもんだと私は思う。ほんとに立派。

打ち上げるのは大曲の花火大会で実績のある隣町高清水在住の花火師さんだそうで、是非見にいかなくちゃ。

 

ああ、それなのに、夕方直売所を閉る頃から無情の雨が・・・。

始めポツポツ、後ザアザア降りで、花火を見る、久しぶりにお友達に会えると、夏まつりを楽しみにしていた

孫も私もガックリ。でも小雨決行ということで、孫は父親と出かけて行きました。

と、ざあざあ雨音が響く午後8時過ぎ、ドーーン! バリバリバチバチバチ! 空を揺るがす花火の音が。

小さい予算なので僅か5分で聞こえなくなりました。

でも立派な音だった。行って見ればよかったー。

なんだか、どこの花火を見逃したよりもとても残念。ああ、行けばよかったなあ!