お中元商品ができました。

        また福岡からたくさんのキルトのバッグを送っていただきました。「支援品だ

      から売ってください」と親切なお手紙が添えられているけれど、やはり簡単に

      お金に代えるのがためらわれるようなプロ仕様です。大切に大切にお心

      に添えるよう役立たせていただこうと思います。ありがとうございました。

      それから前にも布を送ってくださったサトー様、また布と針を送っていただき

      ありがとうございました。なにより覚えて頂いているのがとても嬉しいです。

      ありがとうございました。

      話は変わりますが今日商品ができました。東京の会社より海山ネットにご注

      文いただいたお中元商品です。中味は山の手3人の商品、よっちゃんなんばん

      梅農場の干し梅、梅エキス、それに私の「あられ」と「蓬のお茶」、そして海の手

      さんが作ったコースター。皆さまから送っていただいた布で作ったコースターは

      とてもお洒落です。ほんとうは自慢のエプロンも入れたいところですが、お中元

      にエプロンでは格好がつかないので、コースターにしました。

      そういえばエプロン、なぜこんなに出来栄えが素晴らしいのか、判明しました。

      よっちゃん農場の南三陸看板母さん、タカちゃんによれば、エプロンを縫ってい

      るのは津波で流された縫製工場で30年も制服を縫っていた方達だそうです。

      なんて私たちは運がいいんでしょう。菊栽培のOさんといい、復興のため小さな

      商いから始めようと、やり始めた布小物作りに携わってくれている方たちは

      その道のプロなんです。巡り会いたいからって、願って巡り会えるようなもので

      はない方たちに私たちは津波をきっかけにして出会ったのです。

      「私たちが援けてもらえるんだわ!」内陸被災者の私たちの感想です。

      話を戻します。よっちゃん農場でよっちゃんは「わあ、いいじゃないですか」

      あられをポリポリ食べながら「うまい!」

      誉めてもらって嬉しいけどそれだけでは足りません。加工場で仕事をしている

      奥さんと南三陸母さんタカちゃんにも見てほしい。

      初めは南三陸には何もないからまず支援なんて思っていたけど、3ヶ月もたって

      みればタカちゃんもOさんも海山ネットの中に絶対にいてもらわなければならな

      い人に既になっているのでした。

      「どう思う? タカちゃん」

      「いいじゃないですか。いいよ。よくがんばったねえ」

      この言葉を聞いてようやく安心。海山ネット商品の完成です。

      海山ネットの最初の始まりは、「沿岸地被災者、内陸被災者が海の手と山の手

      と手を取り合って小さい商いに取り組み、経済回復に助け合いましょう」という

      目的だったのですが、すでに心だけはちゃんと通じ合ってほぼ目標どおりに

      なっているようです。が肝心の経済回復は、まだまだ道のりは遠い!

      そう肝に銘じて生産活動、これからもがんばります。

                                      山の手S記                            

      

     

      

                  

       

       

      

出会えて良かった!

      菊の栽培と海山ネットの布製品を作ってくれているOさんご夫妻の仮設住宅入

      居が決まりました。これまで販売した代金を持って雨の中中山平温泉へ。緑濃

      い鳴子の山々は雨で煙って墨絵の世界。Oさんはこのひどい雨の中、山の手

      Sの梅農場で梅の収獲とのこと。雨でも風でも収獲の時期には時期を外さず

      どうしても収獲しなければならないのが農業なんですねえ。

      Oさんは元南三陸町志津川の菊栽培の小菊部門の会長さん。菊作りのプロな

      んだよ、と先日県の担当の方から聞いたばかりで、きっかけが津波だから喜

      んでいいんだか、とは思いますが花栽培20年くらいやっていても菊を作ったこ

      とのない私にとって、巡り会えてほんとに良かった会長さんです。

      眺望天下一品のお部屋に上がって、奥様とこれからの話をします。仮設に行

      っても作ってもらいたいものがたくさんあるのです。まずエプロンたくさん。数

      日前6枚出来上がって人に見せたら、その日のうちに全部売り切れてしまいま

      した。仕上がりが素敵とういうだけではなく、腕前がすばらしい。

      たくさんの方からたくさん布地を頂いたからたくさんエプロン作ってプレゼント

      したいねえ、と意見が一致。あと温泉のお風呂で泊り客の方から糸の提供の

      お話をもらったそうで、これでレース編みも存分にできそうです。

      「これじゃあ仮設に入っても忙しいねえ」そう言ったら

      「津波のことは仕方がないの。でもここに来てみんなに会えたからこうして毎日

      楽しく暮らせる。ここに来てほんとに良かった!」

      と思いがけない言葉を聞きました。

      お二人には内緒ですが、仮設に越される前にOさんが好きなクラシック音楽の

      CDとプレーヤーをプレゼントします。

      私たちもOさんご夫妻に会えてほんとに良かった!!

                                         山の手S記

      

      

     

地震の時のトイレ

           朝早く、検査のため夫を車に乗せて病院へ。

     下ろして検査が終わるのを待つ間、古川の町に用足しに行く。

     まず久しぶりに古川で最も大きいショピングセンタージャスコへ。地震から3ヶ月

     半は経っているのだけど、まだ爪痕は深い。その上に節電で暗くて暑い。

     2階は相変わらず使えず、1階のみの営業だけど、ガランとして品物が少ない。

     食品のみ買って、地震以来行かずじまいになっている隣りのビル1階のパソコン

     教室へ行く。すぐには直しようがないのか、入り口階段の上、ビルの土台と建物

     の間の横7、80cmくらいにかけて、縦15㎝くらいの穴がパックリ開いたままに

     なっている。その他の部分が繋がっているから大丈夫なのかもしれないが、地震

     当日、這ってビルよりできるだけ遠くに逃げながら、振り返るとメリメリバキバキ

     と音がしてタイルがパラパラと弾け、みるみるコンクリートに裂け目が入っていくの

     を目の当たりにして、その少し前に起こったクライストチャーチの地震のように

     このビルは崩壊すると必死に逃げたことを思い出した。以来、もう再開しました。

     来てください、と何度電話をもらっても来る気をなくしていたのだが、教室は相変

     わらず盛況で空いている席がないくらい満杯状態。退会手続きをするはずがや

     っぱりやりたいなあ、と気が変わった。「続けてもいいですか」先生にお願いして

     みるとOKが出て、以前のように週1ではなく2週に1度、フリーで来てもよろしいと

     許可をいただいた。

     これも小さな復旧というところか。地震当日、ガタガタガタガタと止まらない震えを

     押さえつけながら家まで帰った途上で最も困ったのはトイレだった。トイレどころ

     かどこかの建物にさえ入れない。早く早くと家に帰る道のりの、あっちが壊れ、

     こっちが壊れしている道路を行き詰ったり、どうにか迂回したり、行きも戻りもでき

     なくなったりしながら家に辿りついた時の泣きそうな思いは今も忘れない。

     でも巨大地震が起きたらトイレに行けないというのは大発見だった。ここは田舎

     だからどうにかなっても都会の大地震だったらどうなるのだろう、と想像もつかな

     い。                            山の手S記

     

手を使って物を作ろう

             福岡の友人達から荷物が送られてきた。

      友達のまたお友達という方から(お歳は80歳を越えられているらしい)これまで

      作りためたというキルトのバッグをたくさんと、みんなで作ったというたくさんのお

      炊事帽子。全部を売って支援金にしてくださいということだが、あまりにも手の込

      んだキルトバッグで、こういうものを簡単にお金に替えていいのかと思うほどレベ

      ルが高い。デザインも色使いも都会的で、知り合いの手芸店で値段をつけても

      らったら1万円でも買うお客様がいると聞いて仰天。お返ししようかと友達に尋

      ねたら、それでもいいと仰ってくださっているというので売ることにした。

      もうひとつのお炊事キャップは、どんなものだろうと私自身も思っていたが、可

      愛いデザインで、お餅屋の私には丁度よい。三角巾を被るよりよほど涼しく

      軽いので、同じくお餅屋の夫にも被せた。出かけたところで帽子を見せたら

      あっという間に売り切れた。蕎麦屋の女性たち、厨房で使うという男性、ヘル

      メットの下に丁度よいという男性、闘病中の病床で被るという方、使い方はさま

      ざまだ。ほんの少しの布地で作れる簡素で可愛いお炊事キャップ。 Oさんに

      たくさん作って、とお願いしたが、これからはこうしてみんなが手で作れるものを

      作ったほうがいいのではないかしら。私が子育てをしていた頃は、子供の服を

      自分で縫っていた。本をみながら。セーターも自分で編んでいた。それが何時の

      間にかできるだけ安価な既製品を買い、着なくなったら捨てるような生活を長

      年続けてきた。全部が全部とは言わないけれど、少しでも手を使おうよ、と見直

      すきっかけになればいい。キルトのバッグはまた作って送ります。目標ができて

      ありがたいとのこと。心を込めて作りますから売って支援金にしてくださいという

      みんなの想いを受け止めて、丁寧に販売しようと思います。

       ありがとうございました。                   山の手S記

      

    

新しい生活がはじまる

           今朝のテレビ番組で、みのもんたが南三陸町を訪ねていた。南三陸の町を撮り

     続けているという写真家の人が「この町を訪れる人に、南三陸町をこんな町だと 

     思われたくない」とみのもんたに津波で流される前の南三陸町の写真を見せて

     いた。きれいな町だ!入り江の向こうもこちらも緑の中にこぎれいな住宅が建ち

     並んでいる。

     首都圏からこの地に移ってしばらくした頃、結城登美雄氏の著書で知った唐桑

     半島に行ったことがある。驚いたのは手付かずの自然だった。この時代であり

     ながら海に向かってなだれ落ちる岸壁を覆うように白い花が咲いていた。

     岸壁の上の原生林の中にも紅色の百合や野生のキクが咲き乱れている。

     深い松林や砂浜が目に馴染んだ郷里の福岡の海辺の町はもうすっかり様代わ

     りして、こんな風景は残っていない。なんと美しいところだろう、と感動して帰って

     きた唐桑半島は、もう美しさも何もなく、「今は写真に撮るよなところではない」先

     日訪れた知人はそう言っていた。

     菊栽培の先生になっていただいた南三陸のOさんご夫妻が仮設住宅に当選され

     た。奥さん曰く「当たっちゃったのよ」おめでとうとも言いにくい。歌津の外れのほ

     うだとか。ここから車で2時間半では行かないかもしれない。海山ネット商品の

     布小物作りをお願いしていた奥様は「当たっちゃったから行くしかない」けれど、

     仮設に入ってからも小物づくりは続けてくれるそうだ。

     もう一人のエミコさんは仮設入居を止めて、鳴子の住宅を借りることが決まった。

     これから始める週1回のパンとお菓子づくりに参加してくれるそうだし、海山ネット

     の簡単な事務も引き受けてくれた。

      せっかく知り合った人たちが遠くに行くのは寂しいけれど、これが新しい生活

     の始まり。これからまた送られてきた支援の品々を持って南三陸まで押しかけ

     て行こう。地震、津波で知り合った縁を大切にして。

                                       山の手S記

                                       

     

     

    

     

     

     

   

キャンベル先生の「読もう」第2回

     原発がまた危なげな様子になっている。稼動し始めた高濃度汚染水浄化装置が

     わずか5時間で止められ、再稼動まで数日はかかりそうだとか。汚染水が溢れ出

     すまであと1週間余というのだから予断は許されない。東京や九州など遠いところ

     で聞くのなら遠い話のように感じられるのかもしれないけれど、根菜だの葉物だの

     の放射能の線量の数値や風評被害に怯える日々では無関心ではいられない。

     「もう原発は嫌だ。いらない」というのが私の意見。「その考えは早計である。原発

     全体を放射能が漏れないようにお金をかけた設備をつくるべきだ」というのが夫

     の意見。家庭内の問題ではなく原発でお互いの意見は折り合わない。

     午後から東鳴子温泉のO旅館に行く。海山ネットで販売を始めたお炊事キャップ

     を厨房で1枚使ってくださるそうだ。このお炊事キャップについては私の友人達の

     一大ネットワークの支援品であるので、その物語は改めて書きたい。会いたい方

     を待っている間に今日のロバート・キャンベル先生の「読もう」の講座の本、川口松太

     郎の「深川の鈴」を読む。ずいぶん久しぶりの川口松太郎だけれど、あッという

     間に引き込まれ一気に読んでしまった。後でのキャンベル先生の言葉によれば

     一気読みの本だった。

      3時より「読もう」講座。今日は前回よりも参加者が多く感じる。新しい人も数人

     いる。被災者向きのプログラムだけれど避難者の参加はない。ロバート・キャンベル

     氏は江戸、明治、大正の日本文学を専門となさる東大の先生。テレビや講演で

     人気の高い方らしいが、テレビに詳しくない私は知らなかった。前回から参加さ

     せていただいているが、日本語が大変上手なもの柔らかい優しげな方である。

     前回翻訳をお願いした日本語での「東北の復興なくして日本の再生はない」とい

     う意味の文章について、「利用できましたか」と質問されたが、今本気で準備中

     です」とお答えした。できあがったら真っ先に「日本中に配りますよ」とその成果を

     お見せしたい。                             山の手S記

被災証明

             明日6月19日で高速自動車道の交通料、土、日、1000円が廃止され、20日

      からは、東関東大震災の被災者を対象に東北地方の自動車道が無料化され

      る。沿岸部の津波被災者が対象者だと思い込んでいたが、私たち内陸部の被

      災者もその対象であることがわかった。

      被災したとはいっても、寝るところもあり、仕事もできるのだから、被災証明の申

      請については考えたことがなかった。「被災証明の発行は各自治体の判断で」と

      いうことであるから自治体によって発行基準が違う。岩手や盛岡は全戸を対象

      に発行。宮城県は不動産、動産に被災があった者ということで、我が家もその

      対象になる。高速料がタダになるというのは客観的に見れば結構な話だけ

      れど気持ちはすっきりしない。我が家から北へ向かえば岩手や秋田、自分たち

      とはさほど変わらぬ被災地で、海の方向へ向かえば沿岸被災地に突入、西、つ

      まり東京方向へ向かえば福島へ行くのだから、休日だからと言ってどこかへ

      行こうという気にはまずならない。被災者の方にとって高速道を無料で必要

      な場所に行き来できるということはそれはそれで大事なことなのだけれど、それ

      と同時に、元気になろうとさまざまな復興計画を立てている沿岸部の町々に

      県外からの人の足が向かなくなるようなことがあったら、それは大問題だ。

      今の時期、東北地方にはたくさんの人々に来てもらわなければならない。

      3月11日の震災後、道の駅で観光バスを見たことがない。ようやく乗用車の

      お客様が増えたように感じられるこの時期に、またお客様が来なくなるのでは

      道の駅にとっても隣町の鳴子温泉にとっても大打撃だ。

      

      ともあれ、車が足代わりのこの住環境ではいくらどこにも行かないとは言っても

      高速道に乗らねばならない時もある。普通高速料金を払う余裕はないから、

      壊れたポンプ、傾いた作業小屋、床下の大穴、ついでに9割方割れて小さな

      ダンボール1箱分に収まってしまった食器など、諸々の写真を撮って役所に

      持って行くしかないかなあ、と自問自答する。それにしても東北一体のほとんど

      の住民に中型以上のトラックまで無料にして国の財政大丈夫なんだろうか。

      

                                      山の手S記

      

     

      

      

    

   

      

      

     

     

      

NHK仙台のスギイさん

             どなたかもしご存知の方がいたら教えてほしい。

      本日6月17日夜8時からののNHK総合の番組「直撃、被災者の目線で」で、作

      家の結城登美雄さんや慈眼寺のご住職にインタビューをしていたアナウンサー

      はどなただろうか。挨拶の時ちらりと「NHKのスギイです」と聞こえたような気がし

      たのだが、定かではなかった。

      3月11日の地震の日から18日の夜遅くまで、山奥の我が家には電気が復旧

      しなかった。外出先の古川から血相変えて割れてガタガタになった道路をどうに

      か家まで戻って、古ストーブを引っ張り出し、ありったけのポリタンクに湧水を貰

      い水し、近所の小さな食品屋に残っていた少量のお菓子やラーメンなど買い

      占めるほど買った後はすることがなくなった。ほとんど割れてしまった食器や

      ガラス類は居間の半分ほどに散乱しているのだが、片付ける気持ちが全く

      起こらず、寒いので布団にくるまって寝てばかりいた。その時に何よりも大切

      にしたのがラジオだった。日頃から準備の悪い我が家にはろくなラジオがない。

      昔々夫が若かった頃、会社で何かの行事にもらったというカメラのレンズのよ

      うな小さいラジオ、それだけがライフラインを断たれた日々の唯一の情報源

      だった。真っ暗な闇の中でくるくるくるくるレンズを回してようやく捉えたNHK総

      合ラジオのアナウンサーの声。朝から夜まで、夜から朝まで息を詰めるように

      ニュースを聞いているうちに、そのアナウンサーの名がNHK仙台放送の「スギ

      イ」さんだと覚えてしまった。24時間の間断ない放送にさすがのアナウンサー

      の口調にも疲れが感じられる夜遅い時間だった。「ユリアゲ」という言葉が耳

      に入り、スギイさんが声を詰らせ泣いていた。「ユリアゲは朝市があって賑やか

      だったんですよねえ。それがこんな・・・」

      アナウンサーが泣くってどういうことなんだろう。何があったのだろう、とは思

      たが、津波とは想像すらしなかった。

      18日までの1週間、夜が明ければ起き、暗くなれば寝るという生活を続ける

      間、スギイさんの声だけを聞いて過ごした。情報が途切れるのは恐ろしく、

      ラジオは身体から離せなかった。ほかの放送は聴きたくなかった。

      もしかしたら、今日のアナウンサーはそのスギイさんだろうか。もしそうだった

      ら「あの電気も水もガスも灯油もガソリンもない1週間、スギイさんの声を聞いて 

      過ごしました。その情報が私たちを安心させてくれました。ラジオの放送がどれ

      ほど大事なものかこの震災でよくわかりました。心から感謝してお礼を申し

      上げます」とお礼を言いたい。

                                      山の手S記    

      

      

      

      

      

   

    

      

      

     

      

   

      

      

 

      

     

経済復興の始まりの始まり

           勾当台公園のイベントに行ってきました。

     私たち海の手山の手ネットのブースはほんの少量の品数ですが、南三陸の海の

     手さんたちが作った布の小物。小手、(海の仕事用。ツルツルしているけど、水濡

     れOK)保険証入れ、バッグ、ティッシュ入れ、レース編み、手ふきタオル、エプロン

     など。そしてSさんご夫婦、とノブちゃんが作った竹盆栽、旅館で避難者の皆さん

     に作ってもらっている新聞のバッグ。たくさん買っていただいてありがとうございま

     した。 また来ていただいたお客様のお話を聞くのが楽しみです。ここで品物を買

     っていただく以外にもいろいろなお話をすることで、みんなこの困難をどうやって

     乗り越えたらいいんだろう、考えているのがよくわかります。この困難があるから

     みんなで手を繋いでその輪を大きくして一緒にがんばるしかないんだ、という想い

     が実感されます。

     海の手山の手ネットワークの目標は、海の手と山の手が手を繋いで仕事を生み

     出すこと。今は海の手さんは仕事場と材料がないので、野山を仕事場にしていた

     だき、野山の材料を使って物を作り、小さな商いをして、得たお金で物を買って

     お金を支払い、また物を作ってと経済を回すこと。小規模だけど、それが経済

     復興の始まりの始まりだと信じて明日も商いに精を出します。

     みなさまのご来場をお待ちします。              山の手S記

     

     

     

     

     

仮設住宅、4人家族向き標準的間取り

           きのう、勾当台公園のイベントを14、15、16日と書きましたが、13、14、15日

     の間違いでした。

     よっちゃん農場のブースで置かせてもらう海の手山の手ネットワークの販売品は

     海の手さんが作った布小物、竹盆栽です。お天気もよいので、多数のお客様の

     ご来場をお待ちします。

     今日の話題は仮設住宅。

     南三陸の仮設住宅に12日の日曜日に入居された元南三陸新聞社の記者Oさん

     から仮設住宅の写真を見せていただきました。

     入り口に車椅子のスロープがついていることから、身体が不自由な方、高齢者

     向きの応急仮設住宅なんだろうけど、その標準的間取りが4畳半2間にキッチン

     がついた2DK。と書いてあるけれど、床に大きな冷蔵庫と洗濯機と炊飯器が並

     べられたDはダイニングの用は足さないだろうから2K、といったところでその印象

     は狭い!  小さい! それに較べて、テレビと電子レンジが大きい。こんな大き

     なテレビと電子レンジを4畳半の居室に置いたら、荷物を置く場所がなくなるで

     しょうに。収納は押入れ1個のみ。4人分の布団を入れたら上は満杯。下段に

     4人分の衣類や雑貨をいれるなんて到底無理でしょうから、この住まいは荷物

     の上に寝なきゃいけないように設計されてるみたいです。車椅子のスロープの

     わりにはお風呂の入り口に高さがあり、要介護のご両親のお世話をなさるには

     大変な苦労があるでしょう。Oさんは今まで鳴子温泉の避難所で一緒に生活な

     さっていたご両親を仙台のご親戚に預けられたそうです。

     予算と納期のみが重要視されて、住む人間の生活のことは忘れられたような

     設計。全国から寄せられた義捐金を基に備えられた家電は家電を揃えること

     のみ重要視されて、入れる家のことは忘れられたような発注。

     なんともバラバラでお粗末、いくら国で用意する、お盆までに入れるようにする

     と言っても、ここでOさんご夫妻とご両親が暮らせるわけがない。収納場所はなく、

     飲める水もなく、買い物も病院も車で30分も40分も離れた町まで行かねばな

     ならない。真面目に働いていたんですよ。税金払っていたんですよ。津波だった

     んですよ!

     私はOさんがお気の毒で、いてもたってもいられない気持ちになります。自分が

     両親の介護をしたからだと思います。仮設住宅1軒建てるのに3百万以上かか

     るのだと聞いたことがあります。ならばお盆すぎまで時間をかけても、一旦入っ

     てまた引っ越すなんて2度手間をかけたりしないように、せめて2年身体も心

     も病気にならないような仮設住宅を建てることはできないのでしょうか。

     標準的な間取りだという図面を見る度、信じられない、と毎回思います。

                                     山の手S記