嬉しいおくりもの

またも大雪です。

前の大雪の時には、我が家の進入路を登ってきた生協さんのトラック
が滑って下れなくなり、近所の人間で雪掘ったり牽引したりで、やっと
出てもらいましたが、今朝は娘の婿さんが雪にハマりました。

もう私は全くの役立たず。早朝のことでご近所さんも呼ぶことならず、
娘から「風邪引くから家の中にいるように」と厳命を受けて、家の
中でヤキモキしていたら、間も無く夫婦ふたりで車を引き上げました。

婿さんの馬鹿力とある時期北海道に住んだ娘の知恵を合わせて、コト
無きを得ましたが、もっともっと北のほうに住む方々や豪雪地域に住む
方々はこの大雪で大変な思いをなさっているでしょう。
事故や怪我が少ないことを祈ります。

嬉しい贈り物のお話です。

昨年のクリスマスの頃に、いつもPCメインテナンスなどでお世話に
なっているkarino さんから荷物が届きました。
何も頼んでいないのに何だろうと思いながら開けると、思いがけない
嬉しいおくりものが出てきました。

頂いたのは帆布のトートバッグ。

このバッグの柄は、私が毎日の仕事に使っているお餅のラベルです。
毎日見てるものなのだけど、違う意味でほんとうに懐かしい。

このラベルは私の友達のご主人がデザインしてくれました。
彼女は中学入学以来現在に至るまで最も近しい友達ですが、私の夫が
東京の企業を退職して田舎暮らしを志し、この町の道の駅で「お米を
使う仕事」としてお餅を売ろうと決めた時に、デザイナーのご主人が
作ってくれました。

赤い椿の花にも四角いマスにも暖かい励ましの意味があります。
この先私がいつまで仕事を続けられるか分からないけれど、最後
までこのラベルを使おうと決めていました。

彼女とは中学高校と通じてテニスのパートナーでしたが(6年間同じ
クラスというのは現実的じゃないけれど、でも別のクラスになった
記憶もないので、それも分からぬくらい何時も一緒だったということ
かも)卒業して就職、結婚してからも遠かったり近かったりしながら
共に人生を歩んできました。

という関わりなので、どうしてもご主人とお会いする機会も多い。
うちの夫も同様ですが。

50代に入った頃にご主人のお許しを貰って、ふたりであちこち旅を
しました。まだ運転免許を持たない彼女が助手席に座り、運転担当は
私で、長野県の高峰高原、地獄谷温泉、そして日光周辺や阿蘇山を
巡って遊びました。

調子に乗って彼女に請われて山登りもしました。
80歳の現在までテニス現役の彼女は滅法脚力が強いのです。


ある年の5月初めの頃、福岡から出てきた彼女と共に会津駒ヶ岳に
登りました。
その日こじらせた風邪で私の調子が悪く、同行を誘った友人と3人
普段なら3時間で登れるところを4時間かかって山頂の山小屋到着。
そのまま私は食わず遊ばず寝て休憩して過ごし、彼女と友人はスキー
で遊んで2時過ぎには下山開始。

順調に5合目近くまで下ったところで彼女の「あんた、こげなところには
来とらんよ!」のひと声で一気に緊張。

尾根間違えた。
下る前、山小屋のおじさんから「尾根間違えるな。ワンダリングするな。
隣の山では今捜索隊が入っているから尾根に気をつけろ」とあれほど
注意を受けたのに、話半分に聞いて、尾根間違えました。
それ以上下るわけにはいかず、雪が溶けた木のウロに入って野宿決行。

さんざん休んだ後だから死ぬかも、という気持ちは全くなかったけれど
日帰り装備しかない食べ物もない会津駒ヶ岳での一夜はとにかく
寒く、澄み切った星空と、夜明けの待ち遠しさは今も忘れられません。

夜明けとともに凍った山道を登り返し、7時半だったか8時だったかの
彼女とご主人のコールタイムリミットには間に合い、コトなきを得ました
が、彼女はご主人にバレるのが、私は捜索願いを出されるのが怖かった。

それから数年してご主人は病を得、その後亡くなられましたが、私の夫
もいなくなり、彼女も私もどこへ何日行こうと、電話をかける必要もなく、
心配かけることも叱られることもなくなりました。

夫が亡くなって、ひとり暮らしももう10年にもなろうとする彼女と私の
時折りの会話の中には、夫たちが話題になることもないのですが、
今回のご主人のお餅バッグには驚かされました。

ご主人が戻ってきてくれたようでほんとうに嬉しかった。
彼女に見せたくて(彼女に画像は送れない)方法を考えているのですが
「いいよ、送らなくていいよ」と言ってくれる彼女にやっぱりこのバッグ
は送ろうと思います。

karinoさんに心から感謝します。


新聞バッグをとりに

頼んでいた新聞バッグをとりに、南三陸歌津のけいこさん宅に行って
来ました。

けいこさんのところよりもだいぶ気仙沼よりに住んでいるむっちゃん
から頼まれていた「キクイモ」と「ヤーコン」も持って行くことに
して、むっちゃんにけいこさんちまで取りに来てもらうようにしました。

大震災後、けいこさんやむっちゃんが鳴子温泉に避難していた時には
毎日のように顔を合わせていたけれど、南三陸に戻ってからはみんなで
顔を合わせる機会は滅多にないので楽しみです。

お天気は上々の快晴。
こんな日じゃないと鳴子温泉にほど近い我が家から車で1時間40分ほど
かかる南三陸到着までの2ヶ所ほどの山越えの道路の雪が気になって
出かける気分にはなれません。
雪は残っていたけれど支障なくけいこさん宅に到着しました。

高速道路や護岸工事や復興住宅建設工事や防潮堤工事などの複数復興
工事真っ最中の時は、行く度に道路が変わって迷子になったり、わから
ない内に海に出ちゃったりしていたけれど、今はそんなことはなくなり
出来上がるものはできたという感じ。でも川や海が見える風景も
巨大なコンクリートで固められて、なんというか馴染み難いけれど、
仕方がないのですかね。

むっちゃんもやってきて、久しぶりに炬燵を囲んで92歳のおばあちゃん、
けいこさんとこのお父さん、むっちゃん、私と思い出話に花を咲かせました。
顔が足りないのは、もう天国に行ってしまったけれど、ほんとに優しくて
頼り甲斐があったおじいちゃん。そして今は体を悪くしているむっちゃんち
の旦那様。むっちゃんのだんな様には大震災後、菊栽培を教わりました。

そしてその教わった実績が現在も私たちの町の道の駅花生産者の菊栽培
に続いています。

私たちがいる間吠え立て続ける犬のクロ。
まだ仮設住宅の入居も決まらぬ時にどこから来たのか、クロを手に入れ
一緒に散歩に出かけるお父さんの姿に、普通の生活に戻れる未来を感じて
嬉しくなったものでした。
そのお父さんも体調不全。

70歳を超えた女子は全員大丈夫。
男子組の体調不全が寂しく気になるところです。

今年は何故だかワカメがこの時期なのに大きく育ってしまっているのだ
とか。昨年は私たちの畑の土の中も温度が高いらしく、びっくりするような
デッカい大根やサツマイモを見ることがあったけど、海の中でも同じような
現象が起こっているのかしら。

新聞バッグおおかげで久しぶりの楽しい再会でした。

ワカメの仕事が始まらない今は牡蠣の仕事に行ってるけいこさんから
りっぱな牡蠣と採ったばかりの大きな生ワカメを頂きました。
途中高速入り口に間近い新しくできた魚屋さんで、鯖、海タナゴ、イカ
など買い込んで帰途に。楽しい一日でした。

新ワカメはこんなに大きかった。

本格的なワカメのお仕事は3月くらいから始まります。

たくさんの犠牲者を出した志津川の防災庁舎は緑のお椀をふせたような
公園になってました。気づかなかった。

年末から年始へ

昨年の年末から今年のお正月にかけては、毎日毎日しんしんと雪。
特にクリスマスの頃のどか雪は45センチくらいも積もって、車を出せず
二日間家の中で缶詰状態になりました。

せっかくの缶詰なので、12月の半ばまでがんばって収穫したけど弾かずに
硬い蕾のままの綿の実を弾かせようと大奮闘。

長ーい畝(70メーター)2本に植えた綿の木を、友達の農家のお母さんのクリ
ちゃんとふたりで、きれいな綿を収穫することは半ば諦めつつ、でも全部の木
の枝を切って収穫しました。

そのままでは綿の実が開かないので家の中に移動。
リビング中、凄いことになりました。わただらけ!

足の踏み場もない。
家族がいたら叱られそうだけど、夫は写真の中。猫しかいないの
広げ放題で乾かしたら、少しずつ綿らしくなってきました。
本来ならこんなふうにならなきゃならないのだけれど。

東北は寒いので、綿の栽培には向かないとは思うだけれど、2022年の今年で
3度目。もう一回挑戦しようと思います。クリちゃんは、もう止めようと
言うけれど。

雪の中で迎えたお正月。
もう80歳になったのでおせち料理など丁寧に作って、3が日はお餅の仕事
はお休みにすることにしました。

元旦は正月用の餅切りで痛くなった肩の休息日。
2日は初詣に行くことにして、雪がないところを目指して石巻、女川へ。
女川に行けば、海が見られるしお魚も買えます。

初めて詣でる女川の熊野神社。令和2年に建造されたピカピカ新品の
鳥居と社殿でした。


人影まばらなハマテラス。そして女川の海。すっかりきれいになりました。

残念ながらお魚屋さんは終わってました。

お店はお休みだけれど、干物が買える自動販売機。
さすが女川。冷凍のお魚が買えるベンディングマシンというのは
初めて見ました。

石巻に戻って、1ヶ月に2回教えを乞うている洋裁と織物の先生宅へ。
この先生宅に来ると糸談義が白熱します。

今先生がはまっている(私たちもはまっている)カシミアのマフラーが
実に軽やかで素敵です。

これもカシミア。

そしてこれはポーランド、ヤノフ村のヤノフ織り。

3月には展示会をやります。

やることが多くて目が眩むようだけど、なにはともあれ今年も始まります。

コロナに罹らないように、病気をしないように留意して、モノ作りに
励んでいこうと思います。


よくわからないけれど、、。

80歳になった日の朝は、変わらず加工場でのお餅仕事。
今年の秋は毎日嘘のように暖かくでずいぶん楽をさせてもらった
けれど、流石にこの2、3日は冷え込んできました。
加工場の気温は2度。
霜で畑の花は全滅だろうから、仕事的にはこの先楽になって
内心嬉しい。

定時どおりに道の駅に出荷。
今のところコロナが落ち着いているからか、よくは分からない
けれど、宿代が安くなるとか食事代が何割引とかコロナ後の
地域ごとのキャンペーンで温泉に行く人が多いのか、ガラガラ
だった道の駅の狭い店内は連日の大混雑。平日、休日ほぼ変わらず
混雑するのはなんなんでしょうね。

出荷後は鳴子温泉の森の中の小さなログハウス、カフェレストラン
LIMEへ。ふたりのお友達と一緒です。


LIME のママさんも高齢者の部類。お孫さんがいるので文字通りの
おばあちゃんパワーですが、毎日2種類のランチ作りにコーヒー豆
の焙煎、地場産の野菜や山菜の漬物作りまでひとりでこなすツワモノ
女性です。料理が大変美味しい。コーヒーもばんばんお替りして
くれます。おしゃべりしたければ何時間でもいてね、というスタンス。

私はこのママさんとお客として親しくなったのではなく、私が宮城に
越して2年後に86歳で福岡から来た母が慣れぬ雪で大骨折し、入院した
温泉病院で同時期に入院していたママさんのお友達から自分の母親の
ように親切に面倒みて頂きました。それ以来のおつきあいです。

私の誕生日の当日は大入り満員。4つあるテーブル席は全て埋まって
お食事のお客さまですが、彼女は慌てず騒がず悠然と食事を出し、
おかわりコーヒーまで勧めてくれます。

今年の夏頃、ログハウスが古くなったので、今期限りでお店をたたむ、
という話を聞き、大慌てしたものですが、思い止まってくれたようで
安心しました。冬の間の3ヶ月のお休みが終わったらまた春に
会えるし、なにより高齢になればなるほどお店を閉めるのではなく
小さい規模でも開き続けていってほしい。そう思います。
閉ざしたら終わるから。再開はないからね、、、。

お誕生日だからと、お友達からご馳走してもらいました。
楽しい時間でした。

そして夜は本番の誕生会。

80歳というのはなんなのか、特別の節目なのか、今日の誕生会は
私は主賓で何もせずに待ってればよいらしい。
うちの誕生日は続いていて、私の前日は女の子の孫、翌日が私、その
次は娘と3連チャンの合同誕生会です。

千葉にいる長男夫婦に次男、娘夫婦に孫から大掛かりにプレゼント
をもらい、お金も労力も費やして豪勢な食事を準備してもらい、
ついには花束を贈られ、東京銀座の千疋屋のケーキまで届くという
豪華版。

いや、ほんと、80だわ。
千疋屋のケーキはフルーツ主体の冷凍だけれど、解凍しても美味しく
頂けました。ひと昔前なら考えられない。

中一になる孫からもらったプレゼント。
上は数年前にもらった青セキレイ。常に持ち歩くのでだいぶ汚れて
きました。
今回のは数年前に天国に行った私の愛犬春ちゃんそっくりの黒ラブ
ラドール。バビーは私の呼称でなぜか私はバビーなのです。

次は次男から届いたターエンチェックの本。

ついこの間までポーランドのヤノフ村の絵織物にハマって
調べたり織ったりしていたのですが、今度はスコットランドに
はまりそうです。

これはヤノフ村の織り方で「サバンナの夕焼け」です。
左からヒツジ、キリン、ダチョウ。。お気に入りの絵柄です。

80歳になって今思うこと。

病気はありますが、耳も目も体も今こうして元気で日々を送れる
要因はなんだろう。と考えると、
よくはわからないけど、後期高齢者になっても役割りがあること。
やりたいことがたくさんあり、付随して友達や仲間がいて楽しい
ことが多いこと。達成したい目標があること、等々。よくは
わからないけど。

体がまだ元気であるのは、これもよくわからないけれど、40代から
60歳まで山を歩いて、1日中歩くのは当たり前が体に染み込んでいた
こと。今はそんなに歩けないけれど、疲れて休みたくなっても休まず
止まらず、超スローで歩き続けるのは習慣になっています。

しかしいつまでこの生活が続けられるのかはわかりません。
2年か3年か5年か。

でもこうしていられるのは周囲のみんなの協力や応援の賜物です。
歳を重ねても扉を閉めず開いた扉でまた次の扉を開いて、1日
1時間を大切に過ごしていきたいと思います。

お祝いしてくださったみなさん、ありがとうございました。



70代の終わりの日に

80年も生きてきたとは信じられない思いだけれど、とうとう80歳に
なりました。

70代の終わりの日は、朝はまず1番に仕事。
今の体力を考えるとたくさんとは言えないけれど、日々決まった量
のお餅を作って道の駅に出荷する日常は変わりません。

このところ天気が良くて、葉を落としたクルミの大木の上に広がる
空は真っ青。周囲の樹々は琥珀色に色を変え、イチョウだけが黄金
色に輝き、集落のあちこちには大きな木に鈴なりの取らない柿の実
が目立ちます。

道の駅でお餅と切花葉牡丹の出荷を終えて、病院に向かう道々の
空一面に一列だったりVの字だったりと自在に形を変えて列をなす
雁の群れを見ました。飛来したのかこれから田んぼで朝食なのか。

私の受診科は呼吸器内科。
たまたまのタイミングでこうなったのだけれど、先週、今週と
2度ずつ市民病院で受診することになり、合わせて4回、予約時間
もなんのその待つこと2時間近く。本が読めて嬉しいのは1時間
くらいで、2時間ともなると目も体も待ちくたびれて疲労困憊。

検査なしの今回は待ち時間も少なく早めに終わって、調剤薬局に
薬をもらいに行ったらここも混雑で、だいぶ待ちました。
東北の小さい町だからこのくらいの混雑で済むけれど、これが
東京近郊の大病院だったらどれだけ待つんだろう。と60歳を過ぎて
都会を離れて引っ越してきた自分の境遇をありがたく思います。
明日80歳がこれだけ待つのはしんどいわ。

ようやく薬をもらって、車で10分ほどの友人が営むパンとランチの
カフェ「青い虹」まで行ってやっと休憩。
この友人もパン作り一筋の年季の入った70歳超え。息子さんに
お嫁さんが来てからランチを始めました。

彩豊かなランチを食べながら、これまで訊かなかった彼女の歴史を
初めて聞いて一驚。感心し感銘を受け面白かったからここに書いて
おきます。
お医者さんの娘である彼女は高校でお嬢さん学校に入ったとのこと。
勉強には熱心じゃなかったけれど、学校のプログラムで行った施設の
子どもたちの姿に惹かれ、こどもに関わる仕事に就こうと一念発起、
必死に勉強して国家試験を受け保育士免許を得、自分で保育園を
作ったとのこと。こどもと関わるうちにこどもたち良い食事をと
考えお菓子やパンを作ったり粉を学んだりするようになったとのこと。
パンの味に自信がなくて、有名パン屋さんに味を見てもらいに行き、
全然褒められなかったとのこと。ああでもないこうでもないと
パン作りに励むうちに人や縁に恵まれて本気でパンを焼く場所に
出会い、自分で作った保育園を人に譲ってパン作りの道に入ったのよ、
とのことでした。

彼女との付き合いは長いけど、大好きな人だけど、自分で保育園
を作ってしまう力強い人とは知らなんだ。面白くてますます大切な
人になりました。

実は一昨日にも病院に行って生検のために足の皮膚を切って縫った
ところがまだ痛んでいて、ランチの後、仕事をする気にはなれず。
まっすぐ帰宅してロールキャベツを作って70代最後の1日は終了。

そして最後に驚かされたのは郵便受けに入っていた1枚のハガキ。
4年前に合併で廃校になった集落の小学校跡地にジビエ処理施設が
できるそうな。

今年の夏から秋にかけて最も悩まされたのはイノシシ被害でした。
お盆や彼岸の忙しさが終わって草を刈ったら、これは掘り易くなった
と思ったのか、掘って掘りまくって崖は崩れ歩こうにも歩けないほど
の乱暴狼藉。向こうに見える花の畑に辿り着くのも一苦労です。

熊なら人がいるよ、と大声を出したりラジオをつけっぱなしたりする
のだけれど、イノシシばかりは人と出会うとどんな行動をとるのか
わからなくて、ネットを張り巡らした畑の中で切花を切る作業中も
木が折れる音やがさつく藪が気になって怯える日々でした。

栗の実が落ちる時期は、イノシシに落ちた栗を食べに来られたくなくて
毎朝早起きして、ボールと火挟みを持って栗を拾いました。

動物を殺したいとは思わないけれど、そんな悠長なことも言っていられ
ない昨今、ジビエもまたひとつの道ではないかと思わせられます。
この集落では狩猟免許をとる人が増えてきました。うちの婿さんも
そのひとり。

なによりジビエにびっくりしたイノシシが近づかなくなってくれれば
一番いいのだけれど、と淡い期待を持つのですが。

明日から80歳。
体力を考えて身の丈に合った形での仕事をしつつ、ゆっくり丁寧に
行きたいな、と思っています。


覚悟を決めて

久しぶりのブログです。

今日は珍しくまとまった雨。

毎日午前中に1時間町中を歩くウオーキングもできないので、道の駅
から帰って、迷いに迷ってワクチンの予約。

電話は何回もしたくないし、口頭だと否応なしになりそうだから
インターネットで申し込みを試みました。

いやだー。迷いに迷ったのに一発でOK。
ただし私の場合は集団予約希望で、7月はじめの予約で空きは1時15分
ひとり分のみ。あとの時間は全て満員。

ほんとうは私はワクチンは打ちたくない。
1回目でも副作用が出ることがあり、2回目の副作用は発熱したり、全身
倦怠で寝込んだり、1回目よりもさらに強く出ることが多いらしいから、
1回目だけ予約して様子を見たい。
ところが、1回目、2回目をセットで申し込むようになっているので
やむなく2回目を3週間空けて7月終わりに予約。
これも空きは1時15分からの15分ひとり分のみであとは終日満員の赤文字
が並んでいました。

なんか不思議な感じ。
75歳以上の私が申し込んで8月までどの時間枠も満員の赤文字なんだけど
じゃあ若い人たちのワクチンっていつ打てるのだろうか。

ワクチンが残るってどういうことなんだろう。

ワクチンでこれだけ副反応の事故が多いと、緊張するし、私のように
突如肺炎になったりする年寄りは、「もしなんかあったら」とある種の
覚悟を迫られます。

ともあれ今日は雨だったから予約完了しました。やるべきことをやった
ようなやりたくないことをやったような複雑な気分。
ともあれワクチン打ってコロナに罹らないようにして、コロナ収束に
向けた努力をしないと、東京にいる友達や叔父や叔母にも会えず終いに
なるのではないかと不安です。

窓から雨に濡れる緑を見とれている間に、ハウスで数日前にポットに蒔いた
インゲン豆の種が見事に鳥に食べられました。

商売上がったりの自衛にためのタネ蒔きなのに、まったくおちおちして
いられない。また蒔き直しです。

小さい学校

孫の卒業式が終わりました。

首都圏からこの地に来て20年。

夫の定年後に思い立った田舎暮らしに娘がついてきて、まさか
結婚するとは。

福岡の生まれ育ちで人生の大半を首都圏で暮らした私たち夫婦が、
見も知らない宮城県北部の小さな田舎の町で新しい暮らしをする
だけでも冒険なのに、まさかここで孫を持つことになろうとは、
想像だにしませんでした。

男の子の孫は家の中では言葉も暮らしぶりも都会風、外に出れば
集落の子供としてトラクターに乗せてもらったり蛙やトカゲを
捕まえたり雪で遊んだりですくすく育ちました。

幼稚園はうちから近いので隣町の市立幼稚園。
小学校入学に当たっては、新入生の数が少なすぎて存続が危うい
集落内の小学校に戻って入学しました。

なんと新1年生の数は9人。その上の2年生は7人、3年生は4人か
5人だったから9人は成績優秀です。
9人の内訳は女の子が7人。男の子が2人で、ああ、男の子がひとり
じゃなくてよかった、と胸を撫で下ろしました。

それから小学4年生で町内5個の小学校が合併されるまでの3年間は
孫の学校友達はT君ひとり。T君からしてもうちの孫ひとり。
ひとりがインフルエンザで長く休むと、置かれたもうひとりが
待ちわびて1日でも伸びると泣くという場面もありました。

保育園から持ち上がってきたこどもたちはそれぞれがそれぞれの
個性をよく弁えていて、泣いたら泣き止まない子も怒ったら乱暴な
子もそういうもんだと理解して受け入れているこどもらの関係性
は都会しか知らない私には珍しく面白く、TVドラマの学校を見る
ようでした。

たった9人の濃密で楽しい集落の小学校での日々が終わり、4年生で
恐怖の小学校合併。知りつくしている9人から突如として30数人の
クラスで学ぶことになる子供たちの不安はいかほどだったか、と
思います。

合併してからの1年は、少人数から大人数に増えた学校の設備や授業
に関わる諸々も、子供たちの通学や勉強やおともだち関係も不安定
でした。学校に行けてた子が行けなくなったり、情緒不安定になったり、
学校も先生も親もこどもたちも課題満載でした。

あれから3年。

子も親も先生もよくがんばって合併を乗り越え、今日、卒業の日を
迎えました。
卒業アルバムには卒業する岩出山小学校の卒業生全員の写真と
3年生まで学んだ5つの小学校での全員の写真が掲載されていました。

全員といっても孫の同級生は9人、
驚いたことに隣の集落の同級生は2人でした。
3年生までふたりだったのね。

大人になっても決して忘れ得ない同級生になるのでしょう。

これから中学に進むけれど、顔ぶれは変わりません。
たった2クラス。クラス替えとはいっても限られた人数が入れ替わる
だけだから、これからの3年間、同学年全員の顔も名前もわかるよ、
という環境なのではないかと想像します。

それにしても人数が少ないということは、卒業写真の数々の場面に
孫の顔の登場の多いこと。
すっかり背丈が伸びてお姉さんになった7人の女子、スーツ姿の
2人の男子のかわいいこと。

お互いを忘れずしっかり成長していってほしい。
みんな(9人全員の名前を私はばーちゃんだけど言えます)
卒業おめでとう!
よくがんばってりっぱでした!

10年

あの恐ろしかった日から涙が止まらなかった日から10年の月日
が流れました。

長かったけれど短い、短いけれど長かった時間に感じます。
大震災前には考えられないほどたくさんの方々と会い、名刺を
たくさん頂いて、覚えてられないほどたくさんの出来事を
乗り越えてきた日々だったような気がします。

今日の日と思い決めて送ってくださったのだと思いますが、
フリー刺繍家の天野寛子先生からフリー刺繍画集「繋ぐ」の
第3弾が届きました。

ほんとうに素晴らしい、素晴らしいという一言では私のこの
感動と賞賛と先生への尊敬の心を言い表せない、天野先生の
魂がこもった刺繍画集です。日本中の人に見てほしい。

東日本大震災以降、天野先生は大震災に関する報道の写真や
記事を、先生の心に浮かぶ風景として色鮮やかな細い糸と針で
刺繍の絵に表されました。
先生が東日本大震災を忘れないためのかたち、だと冒頭に
書かれています。

第2部は先生が2013年から陸前高田で続けてこられた陸前高田の
みなさんに刺繍の作品をつくってもらう活動「みんなのたからもの
ししゆう高田松原」の作品集です。

この立派な一冊には丁寧に報道写真や記事の日付や、活動の
内容が日本語と英語で詳しく説明されています。

右の刺繍画は陸前高田の一本松の赤ちゃんですが、刺繍も
さることながら、選び抜かれた言葉での説明、そして世界に向けた
英文解説。たくさんの方の力の結集でしょうが、今年81歳に
なられる先生のお仕事への熱意と力量に敬意の言葉が見つかりません。

それに比べて私はどうかというと、頭の不出来は当然ですが。
先生の足の強さにも歩くスピードにも遠く及ばず、この10年で
まとまった何かというとなんにもできていない。

大震災の年に二次避難で鳴子温泉にひととき逗留された沿岸部の
方たちとともに海の手山の手ネットワークを立ち上げ、助け合い
ながら延々新聞バッグを作り続けてきた。それのみです。

先日元楽天球団の松井稼頭央選手のご縁で、今年から楽天に入団
して活躍を期待される田中投手の記事の新聞バッグのオーダーを
いただきました。

こういう記念すべき新聞バッグは、最初から新聞バッグを作り
続けてくれている南三陸のけいこさんにお願いしなければ、と
ワカメ収穫で大繁忙中のけいこさんを浜辺の作業小屋に訪ねました。

日中はワカメの仕事、夜は新聞バッグ製作で仕上がった多量の
新聞バッグを、持ち帰って次には洋裁機織り仲間が袋に詰めて
田中投手新聞バッグが完成。

どんな形でつかわれるのでしょう。楽しみです。
そして楽天にも優勝してほしいと思います。
宮城の人たちがどんなに喜ぶかと。

あの日から10年といっても区切る何かがあるわけでもなく、
機会あるごとに目にする沿岸被災地の復興という名の変貌に
驚いたり戸惑ったりしながら、なおこつこつと歩を進めて
東北の本来の力を取り戻す覚悟を新たにする通過点の1日です。

3月11日を挟んでの数日、その当日には電気も水も絶たれて、
実際には自分で観ることがなかったTVでの津波の映像は見るのも
つらい。寸法の合わない他人の服を工夫を凝らして身につけていた
鳴子温泉住まいの方々を思い出して胸が熱くなります。

そしてこの間の強い地震には慌てました。
あれだけ大きいのがきたのだからもう来ないだろう、と多寡を
括った日頃ののんびりが吹き飛んで、玄関の扉を開けて外に
出ました。そして東日本大震災の地震の恐ろしさを全く忘れて
いない自分の心に気づきました。

ビリビリと地面が裂ける黒い亀裂に驚愕し、「地球が壊れる!」
と指の震えが止まらなかったあの日を恐怖を、記憶が遠ざかったり
忘れかけたりする東北の人はいないと思う。

たまたま病院での予約診察の日で、診察を終えお薬ももらった
帰りの車の中でその刻を迎え、車を停めて黙祷しました。

10年経って私もそして一緒に助け合ってきた南三陸のけいこ
さんたち仲間も10歳をとりました。
この10年で紡いできた山と海の繋がり、人と人の繋がりが
何ものにも代えがたい私の宝物です。




正座のお稽古

昨年の春頃からか、
正確にはわからないが、気がついたら膝から下が痛くてしゃがんだり
普通に立ち上がったりすることができなくなっていてびっくり。

立ってるぶんにはよいけれど、床を掃除したり畑や庭で花を植えたり
草を刈ったりするのは痛くてできない。しゃがんだら立つのも苦労する。

原因は、まったく不明。
加齢?ということもあるかもしれないが、それにしても部落の新年会
では畳に座布団で座ってたのにこの急激な変化には戸惑いました。

しゃがめなくなってほぼ1年。
40歳から20年間も登山をして1日中山を歩いていたせいか歩くのは普通に
1時間でも2時間でも歩けます。

ところが、今度は腰が痛くなってきた。
お餅の仕事や直売所の仕事で朝から夕方までほぼ1日中立ち続けて
平気だったのが、近頃は2、3時間も立つと椅子を探したくなってくる。

歳なんだから痛くなって当たり前。と周囲には言われそうだけど、いつも
混んでる整形外科には行きたくないし、どうしたもんだかと悩んでました。

先日町に出た時に、用事と用事の間にできた3時間ほどの空き時間。
時間潰しにふと行ってみようかと思いついたのが整骨院。
私にとっては未知の世界です。

ネットで調べて特に腰痛治療と宣伝された鍼灸整骨院を受診することに
しました。若いスタッフさんがいるなかで私の治療をしてくださった
のは年配の先生で、鍼灸師、柔道整体師さんであるらしい。

うつ伏せに寝て最初にマッサージ。たぶん触る程度に軽いマッサージ
なのだろうけれど、これが悲鳴が出そうに痛い。ついで人生初体験の鍼。
鍼を刺す、とかまえた割には痛くない。次いでゼリー状のものを塗り
ながらのマッサージを受け腰は終了し、次にはしゃがめない足のこと
も相談して治療をお願いしました。

帰り際先生から告げられた言葉が頭に残りました。
「痛い時はまた来てください。まだ固まっていないのでお風呂に
入った時に正座の練習をしてくださいね」

夜、不安だった突然のマッサージの後遺症の痛みが出ることもなく、
これなら1週間に2度ほど通えば腰も足も治るかもしれない、と
期待を抱いてその気になったところで、なぜか治療を受けたところ
一帯に発生してきたのが蕁麻疹。なんで蕁麻疹なんか出るんだろう。
訳がわからず、次の予約はキャンセルしました。

でも先生から聞いた「お風呂で正座の練習を」の言葉は頭に残り、
以来、1日2日置きに通う川渡温泉の温泉のお湯の中で毎回正座の
練習をしています。
腰痛はさほど治ったとは感じないけれど、正座のほうは効果がある
ようで、少しずつ痛いけどしゃがめるようになってきました。

しかし話は全然違うけど、週に3度通う温泉のお客さんの姿の少なさは
胸に痛く感じられます。お客さんの姿があって見慣れた近隣の方々の
顔も見えての温泉貸切りは、「やった! 今日はひとりだ、貸切だ!」
と得した気分にもなるけれど、ほぼ毎回源泉掛け流しの温泉のお湯の
なかでひとり「正座のお稽古」というのも寂しいものがあります。

早くコロナが収束して普段の生活が戻りますように。

帰れてよかった

2020年の終わりから2021年の我が家です。

落ちてくるのが怖いつらら。

町までの道。

裏庭。

雪の重みで全ての竹が撓んだ裏の竹林。
竹林の向こうの雑木林がまる見えになるのは初めて光景。
丈の高い竹林に遮られて普段は雑木林は見えません。
3日後、折れた竹が棒状に突き出てる。

ああ、雪が溶けた後の竹林の惨状を想像したくない。
折れた竹をノコギリとチェーンソーで切断し、折れた先をズルズル
引きずって捨てる重労働を思うと気落ちする。

ああ、JEJEさんがいてくれたらなあ。
こういう時、どんな重労働でも「なんでもない、なんでもない」
とニコニコ引き受けてくれたjejeさんを思い出します。

コロナの所為で長いこと自国のナイジェリアに帰れなかった
JEJEさんは12月半ばに飛行機が飛んでやっと戻れてもう
日本にはいないのですが。

帰り着くまでほんとうにハラハラものでした。

jejeさんとは昨年の春の終わりに教会で知り合いました。
牧師さんから「礼拝にくるようになったアフリカの青年が
日本語を全く話せないのでちょっと来てみて」と言われて
行ったのが最初の出会い。

黒光りするような褐色の肌とキラキラ光る大きな眼と真っ白な歯
が印象的な、手足が長くて背が高い、初めて接するアフリカの
人です。とてもシャイでとても敬虔なクリスチャン。

東北大学で感染症、特にマラリアの研究をしているとのこと
だけれど、日本に来たばかりでもないらしいのに、日本語が
全く話せないのか、話さないのか、これまで出会った外国人で
これほど日本語を話さない人は初めてでした。

いつも静かでひっそり微笑むだけで、サヨナラもンニチハ
もアリガトウも普通外国人が言うような日本語も言わない。
「どうして日本語話さないの?嫌いなの?」
一度訊ねてみたら、また恥ずかしそうに笑って交わされました。

アフリカ音痴の私はナイジェリアがどこにあるかもわかって
なくて、テレビの旅番組で見るアフリカの国々くらいしか
知らなかったのですが、調べてみるとナイジェリア連邦共和国
は人口2億、アフリカ1位の経済大国であり、そこの大学で
化学を学ぶjejeさんは超エリートなのだと思います。

初夏、思いもしなかった世界中のコロナの蔓延で、夏に留学
期間が終わるjejeさんの帰国予定は全く立たなくなりました。
そこでjejeさんの数少ない日本人知り合い仲間で相談して、
jejeさんの大学での時間以外の余暇をどうするかと、、、。

ということでうちでは非力の私が持て余している庭仕事を
少しhelpしてもらえないかと。一緒に花の仕事をするYおじさん
は、これから始まる畑作りを少しhelpしてもらえないかと。

快諾を得て、jejeさんは筍が出揃う時期辺りから我が庭や
畑に来てくれるようになりました。

電車で来るjejeさんを駅まで迎えに行くのは私。なんですが、
これがなかなか大変で、ちょっとでも時間が遅れたりすると
jejeさんは私を「待つ」とか「探す」とかの選択なく、確固
たる意志をもってどんどん歩いて行ってしまう。
歩くことなどなんとも思っていないアフリカ人の足チカラを
目の当たりにさせてもらうようでした。

そして私たちに立ちはだかるのは言葉の壁。
jejeさんが話す言葉は(500の民族、言語が集まった連邦国
であるナイジェリアの公用語は英語。1960年の独立までは
イギリス統治下にあったことから)イギリス英語です。
軟弱な私の耳には実に聞き取りずらい。

花の仕事をhelpしてもらうYおじさんは言葉での疎通は
ハナから放棄してモノを指差しながら「What you say?」
を連発。jejeさんの答えを待って「ソレ、をやる」という
新しい交流方法を生み出していました。

言葉の壁もなんのその。
ほぼ1日一緒にいて、笑いながら喋りながら耕運機を動かしたり、
畑にマルチを張ったりの農作業を進めるふたりを見ると、
うーーむ、言葉というのは喋れれば便利なんだろうけど
なくてもなんとかなっていくのか、と妙な感慨を持ちます。

歩くのも木に登るのも重いものを持つのもjejeさんは平気。
来ると上から下まで作業着に着替えて、どんなに暑い日でも
平気。勧めても勧めても休みたがらずに水を一本飲んで
(コーラとか絶対に飲まない)ハウスの屋根に届きそうに
伸びた大木の胡桃の枝を払ってくれたり、伐った枝の始末
をしてくれたり、時間がある限りいてくれる本当に有難い
存在でした。

不透明だったjejeさんの帰国は12月になってやっと動き出し
12月も半ばを過ぎてやっと飛行機を確保し、奥さんと
息子のダニエル君、jejeさんがまだ会ったことがない女の子
の赤ちゃんが待つナイジェリアに帰れることになりました。

このコロナ禍のなか、小さい送別会をしました。

「大学で研究をしていた時よりも、知り合ったみんなとと仕事を
したり食事をしたり話したりした帰れなくなってからの時間が
自分にとってはとても貴重で楽しかった。
Yおじさんと一緒に作った畑をしっかり記憶しておいて、
ナイジェリアで畑を作ってみたい。またいつか家族を連れて
ここに戻ってきたい」

そんな言葉を残してくれての出発でしたが、飛行機の途中の
乗り換えのフランクフルト、そしてナイジェリアに到着する
までほんとうに着くのかと心配しました。

今年の正月、jejeさんがようやく帰ることができてひと安心。

でもまだ心配は続きます。
ヨーロッパで南アフリカで猛威を振るう新型コロナの変異種。
そしてナイジェリア北部を拠点とする「西洋教育は罪」という
思想を持つテロ組織「ボコ・ハラム」のコロナ禍での擡頭。

敬虔なクリスチャンで西洋教育の成果を体現したようなjeje
さんに危険が及ばないようにと祈るばかりです。

いつかまた奥さんや子供達を伴って宮城に戻ってきてほしい。
その時には是非、どんな畑ができて、どんな作物が穫れるのか
聞いてみたいものです。

やっと大寒波が過ぎ、少し気温が上がって、破裂した水道管
も修理が終わりお湯がでるようになりました。