小さい学校

孫の卒業式が終わりました。

首都圏からこの地に来て20年。

夫の定年後に思い立った田舎暮らしに娘がついてきて、まさか
結婚するとは。

福岡の生まれ育ちで人生の大半を首都圏で暮らした私たち夫婦が、
見も知らない宮城県北部の小さな田舎の町で新しい暮らしをする
だけでも冒険なのに、まさかここで孫を持つことになろうとは、
想像だにしませんでした。

男の子の孫は家の中では言葉も暮らしぶりも都会風、外に出れば
集落の子供としてトラクターに乗せてもらったり蛙やトカゲを
捕まえたり雪で遊んだりですくすく育ちました。

幼稚園はうちから近いので隣町の市立幼稚園。
小学校入学に当たっては、新入生の数が少なすぎて存続が危うい
集落内の小学校に戻って入学しました。

なんと新1年生の数は9人。その上の2年生は7人、3年生は4人か
5人だったから9人は成績優秀です。
9人の内訳は女の子が7人。男の子が2人で、ああ、男の子がひとり
じゃなくてよかった、と胸を撫で下ろしました。

それから小学4年生で町内5個の小学校が合併されるまでの3年間は
孫の学校友達はT君ひとり。T君からしてもうちの孫ひとり。
ひとりがインフルエンザで長く休むと、置かれたもうひとりが
待ちわびて1日でも伸びると泣くという場面もありました。

保育園から持ち上がってきたこどもたちはそれぞれがそれぞれの
個性をよく弁えていて、泣いたら泣き止まない子も怒ったら乱暴な
子もそういうもんだと理解して受け入れているこどもらの関係性
は都会しか知らない私には珍しく面白く、TVドラマの学校を見る
ようでした。

たった9人の濃密で楽しい集落の小学校での日々が終わり、4年生で
恐怖の小学校合併。知りつくしている9人から突如として30数人の
クラスで学ぶことになる子供たちの不安はいかほどだったか、と
思います。

合併してからの1年は、少人数から大人数に増えた学校の設備や授業
に関わる諸々も、子供たちの通学や勉強やおともだち関係も不安定
でした。学校に行けてた子が行けなくなったり、情緒不安定になったり、
学校も先生も親もこどもたちも課題満載でした。

あれから3年。

子も親も先生もよくがんばって合併を乗り越え、今日、卒業の日を
迎えました。
卒業アルバムには卒業する岩出山小学校の卒業生全員の写真と
3年生まで学んだ5つの小学校での全員の写真が掲載されていました。

全員といっても孫の同級生は9人、
驚いたことに隣の集落の同級生は2人でした。
3年生までふたりだったのね。

大人になっても決して忘れ得ない同級生になるのでしょう。

これから中学に進むけれど、顔ぶれは変わりません。
たった2クラス。クラス替えとはいっても限られた人数が入れ替わる
だけだから、これからの3年間、同学年全員の顔も名前もわかるよ、
という環境なのではないかと想像します。

それにしても人数が少ないということは、卒業写真の数々の場面に
孫の顔の登場の多いこと。
すっかり背丈が伸びてお姉さんになった7人の女子、スーツ姿の
2人の男子のかわいいこと。

お互いを忘れずしっかり成長していってほしい。
みんな(9人全員の名前を私はばーちゃんだけど言えます)
卒業おめでとう!
よくがんばってりっぱでした!

10年

あの恐ろしかった日から涙が止まらなかった日から10年の月日
が流れました。

長かったけれど短い、短いけれど長かった時間に感じます。
大震災前には考えられないほどたくさんの方々と会い、名刺を
たくさん頂いて、覚えてられないほどたくさんの出来事を
乗り越えてきた日々だったような気がします。

今日の日と思い決めて送ってくださったのだと思いますが、
フリー刺繍家の天野寛子先生からフリー刺繍画集「繋ぐ」の
第3弾が届きました。

ほんとうに素晴らしい、素晴らしいという一言では私のこの
感動と賞賛と先生への尊敬の心を言い表せない、天野先生の
魂がこもった刺繍画集です。日本中の人に見てほしい。

東日本大震災以降、天野先生は大震災に関する報道の写真や
記事を、先生の心に浮かぶ風景として色鮮やかな細い糸と針で
刺繍の絵に表されました。
先生が東日本大震災を忘れないためのかたち、だと冒頭に
書かれています。

第2部は先生が2013年から陸前高田で続けてこられた陸前高田の
みなさんに刺繍の作品をつくってもらう活動「みんなのたからもの
ししゆう高田松原」の作品集です。

この立派な一冊には丁寧に報道写真や記事の日付や、活動の
内容が日本語と英語で詳しく説明されています。

右の刺繍画は陸前高田の一本松の赤ちゃんですが、刺繍も
さることながら、選び抜かれた言葉での説明、そして世界に向けた
英文解説。たくさんの方の力の結集でしょうが、今年81歳に
なられる先生のお仕事への熱意と力量に敬意の言葉が見つかりません。

それに比べて私はどうかというと、頭の不出来は当然ですが。
先生の足の強さにも歩くスピードにも遠く及ばず、この10年で
まとまった何かというとなんにもできていない。

大震災の年に二次避難で鳴子温泉にひととき逗留された沿岸部の
方たちとともに海の手山の手ネットワークを立ち上げ、助け合い
ながら延々新聞バッグを作り続けてきた。それのみです。

先日元楽天球団の松井稼頭央選手のご縁で、今年から楽天に入団
して活躍を期待される田中投手の記事の新聞バッグのオーダーを
いただきました。

こういう記念すべき新聞バッグは、最初から新聞バッグを作り
続けてくれている南三陸のけいこさんにお願いしなければ、と
ワカメ収穫で大繁忙中のけいこさんを浜辺の作業小屋に訪ねました。

日中はワカメの仕事、夜は新聞バッグ製作で仕上がった多量の
新聞バッグを、持ち帰って次には洋裁機織り仲間が袋に詰めて
田中投手新聞バッグが完成。

どんな形でつかわれるのでしょう。楽しみです。
そして楽天にも優勝してほしいと思います。
宮城の人たちがどんなに喜ぶかと。

あの日から10年といっても区切る何かがあるわけでもなく、
機会あるごとに目にする沿岸被災地の復興という名の変貌に
驚いたり戸惑ったりしながら、なおこつこつと歩を進めて
東北の本来の力を取り戻す覚悟を新たにする通過点の1日です。

3月11日を挟んでの数日、その当日には電気も水も絶たれて、
実際には自分で観ることがなかったTVでの津波の映像は見るのも
つらい。寸法の合わない他人の服を工夫を凝らして身につけていた
鳴子温泉住まいの方々を思い出して胸が熱くなります。

そしてこの間の強い地震には慌てました。
あれだけ大きいのがきたのだからもう来ないだろう、と多寡を
括った日頃ののんびりが吹き飛んで、玄関の扉を開けて外に
出ました。そして東日本大震災の地震の恐ろしさを全く忘れて
いない自分の心に気づきました。

ビリビリと地面が裂ける黒い亀裂に驚愕し、「地球が壊れる!」
と指の震えが止まらなかったあの日を恐怖を、記憶が遠ざかったり
忘れかけたりする東北の人はいないと思う。

たまたま病院での予約診察の日で、診察を終えお薬ももらった
帰りの車の中でその刻を迎え、車を停めて黙祷しました。

10年経って私もそして一緒に助け合ってきた南三陸のけいこ
さんたち仲間も10歳をとりました。
この10年で紡いできた山と海の繋がり、人と人の繋がりが
何ものにも代えがたい私の宝物です。




正座のお稽古

昨年の春頃からか、
正確にはわからないが、気がついたら膝から下が痛くてしゃがんだり
普通に立ち上がったりすることができなくなっていてびっくり。

立ってるぶんにはよいけれど、床を掃除したり畑や庭で花を植えたり
草を刈ったりするのは痛くてできない。しゃがんだら立つのも苦労する。

原因は、まったく不明。
加齢?ということもあるかもしれないが、それにしても部落の新年会
では畳に座布団で座ってたのにこの急激な変化には戸惑いました。

しゃがめなくなってほぼ1年。
40歳から20年間も登山をして1日中山を歩いていたせいか歩くのは普通に
1時間でも2時間でも歩けます。

ところが、今度は腰が痛くなってきた。
お餅の仕事や直売所の仕事で朝から夕方までほぼ1日中立ち続けて
平気だったのが、近頃は2、3時間も立つと椅子を探したくなってくる。

歳なんだから痛くなって当たり前。と周囲には言われそうだけど、いつも
混んでる整形外科には行きたくないし、どうしたもんだかと悩んでました。

先日町に出た時に、用事と用事の間にできた3時間ほどの空き時間。
時間潰しにふと行ってみようかと思いついたのが整骨院。
私にとっては未知の世界です。

ネットで調べて特に腰痛治療と宣伝された鍼灸整骨院を受診することに
しました。若いスタッフさんがいるなかで私の治療をしてくださった
のは年配の先生で、鍼灸師、柔道整体師さんであるらしい。

うつ伏せに寝て最初にマッサージ。たぶん触る程度に軽いマッサージ
なのだろうけれど、これが悲鳴が出そうに痛い。ついで人生初体験の鍼。
鍼を刺す、とかまえた割には痛くない。次いでゼリー状のものを塗り
ながらのマッサージを受け腰は終了し、次にはしゃがめない足のこと
も相談して治療をお願いしました。

帰り際先生から告げられた言葉が頭に残りました。
「痛い時はまた来てください。まだ固まっていないのでお風呂に
入った時に正座の練習をしてくださいね」

夜、不安だった突然のマッサージの後遺症の痛みが出ることもなく、
これなら1週間に2度ほど通えば腰も足も治るかもしれない、と
期待を抱いてその気になったところで、なぜか治療を受けたところ
一帯に発生してきたのが蕁麻疹。なんで蕁麻疹なんか出るんだろう。
訳がわからず、次の予約はキャンセルしました。

でも先生から聞いた「お風呂で正座の練習を」の言葉は頭に残り、
以来、1日2日置きに通う川渡温泉の温泉のお湯の中で毎回正座の
練習をしています。
腰痛はさほど治ったとは感じないけれど、正座のほうは効果がある
ようで、少しずつ痛いけどしゃがめるようになってきました。

しかし話は全然違うけど、週に3度通う温泉のお客さんの姿の少なさは
胸に痛く感じられます。お客さんの姿があって見慣れた近隣の方々の
顔も見えての温泉貸切りは、「やった! 今日はひとりだ、貸切だ!」
と得した気分にもなるけれど、ほぼ毎回源泉掛け流しの温泉のお湯の
なかでひとり「正座のお稽古」というのも寂しいものがあります。

早くコロナが収束して普段の生活が戻りますように。

帰れてよかった

2020年の終わりから2021年の我が家です。

落ちてくるのが怖いつらら。

町までの道。

裏庭。

雪の重みで全ての竹が撓んだ裏の竹林。
竹林の向こうの雑木林がまる見えになるのは初めて光景。
丈の高い竹林に遮られて普段は雑木林は見えません。
3日後、折れた竹が棒状に突き出てる。

ああ、雪が溶けた後の竹林の惨状を想像したくない。
折れた竹をノコギリとチェーンソーで切断し、折れた先をズルズル
引きずって捨てる重労働を思うと気落ちする。

ああ、JEJEさんがいてくれたらなあ。
こういう時、どんな重労働でも「なんでもない、なんでもない」
とニコニコ引き受けてくれたjejeさんを思い出します。

コロナの所為で長いこと自国のナイジェリアに帰れなかった
JEJEさんは12月半ばに飛行機が飛んでやっと戻れてもう
日本にはいないのですが。

帰り着くまでほんとうにハラハラものでした。

jejeさんとは昨年の春の終わりに教会で知り合いました。
牧師さんから「礼拝にくるようになったアフリカの青年が
日本語を全く話せないのでちょっと来てみて」と言われて
行ったのが最初の出会い。

黒光りするような褐色の肌とキラキラ光る大きな眼と真っ白な歯
が印象的な、手足が長くて背が高い、初めて接するアフリカの
人です。とてもシャイでとても敬虔なクリスチャン。

東北大学で感染症、特にマラリアの研究をしているとのこと
だけれど、日本に来たばかりでもないらしいのに、日本語が
全く話せないのか、話さないのか、これまで出会った外国人で
これほど日本語を話さない人は初めてでした。

いつも静かでひっそり微笑むだけで、サヨナラもンニチハ
もアリガトウも普通外国人が言うような日本語も言わない。
「どうして日本語話さないの?嫌いなの?」
一度訊ねてみたら、また恥ずかしそうに笑って交わされました。

アフリカ音痴の私はナイジェリアがどこにあるかもわかって
なくて、テレビの旅番組で見るアフリカの国々くらいしか
知らなかったのですが、調べてみるとナイジェリア連邦共和国
は人口2億、アフリカ1位の経済大国であり、そこの大学で
化学を学ぶjejeさんは超エリートなのだと思います。

初夏、思いもしなかった世界中のコロナの蔓延で、夏に留学
期間が終わるjejeさんの帰国予定は全く立たなくなりました。
そこでjejeさんの数少ない日本人知り合い仲間で相談して、
jejeさんの大学での時間以外の余暇をどうするかと、、、。

ということでうちでは非力の私が持て余している庭仕事を
少しhelpしてもらえないかと。一緒に花の仕事をするYおじさん
は、これから始まる畑作りを少しhelpしてもらえないかと。

快諾を得て、jejeさんは筍が出揃う時期辺りから我が庭や
畑に来てくれるようになりました。

電車で来るjejeさんを駅まで迎えに行くのは私。なんですが、
これがなかなか大変で、ちょっとでも時間が遅れたりすると
jejeさんは私を「待つ」とか「探す」とかの選択なく、確固
たる意志をもってどんどん歩いて行ってしまう。
歩くことなどなんとも思っていないアフリカ人の足チカラを
目の当たりにさせてもらうようでした。

そして私たちに立ちはだかるのは言葉の壁。
jejeさんが話す言葉は(500の民族、言語が集まった連邦国
であるナイジェリアの公用語は英語。1960年の独立までは
イギリス統治下にあったことから)イギリス英語です。
軟弱な私の耳には実に聞き取りずらい。

花の仕事をhelpしてもらうYおじさんは言葉での疎通は
ハナから放棄してモノを指差しながら「What you say?」
を連発。jejeさんの答えを待って「ソレ、をやる」という
新しい交流方法を生み出していました。

言葉の壁もなんのその。
ほぼ1日一緒にいて、笑いながら喋りながら耕運機を動かしたり、
畑にマルチを張ったりの農作業を進めるふたりを見ると、
うーーむ、言葉というのは喋れれば便利なんだろうけど
なくてもなんとかなっていくのか、と妙な感慨を持ちます。

歩くのも木に登るのも重いものを持つのもjejeさんは平気。
来ると上から下まで作業着に着替えて、どんなに暑い日でも
平気。勧めても勧めても休みたがらずに水を一本飲んで
(コーラとか絶対に飲まない)ハウスの屋根に届きそうに
伸びた大木の胡桃の枝を払ってくれたり、伐った枝の始末
をしてくれたり、時間がある限りいてくれる本当に有難い
存在でした。

不透明だったjejeさんの帰国は12月になってやっと動き出し
12月も半ばを過ぎてやっと飛行機を確保し、奥さんと
息子のダニエル君、jejeさんがまだ会ったことがない女の子
の赤ちゃんが待つナイジェリアに帰れることになりました。

このコロナ禍のなか、小さい送別会をしました。

「大学で研究をしていた時よりも、知り合ったみんなとと仕事を
したり食事をしたり話したりした帰れなくなってからの時間が
自分にとってはとても貴重で楽しかった。
Yおじさんと一緒に作った畑をしっかり記憶しておいて、
ナイジェリアで畑を作ってみたい。またいつか家族を連れて
ここに戻ってきたい」

そんな言葉を残してくれての出発でしたが、飛行機の途中の
乗り換えのフランクフルト、そしてナイジェリアに到着する
までほんとうに着くのかと心配しました。

今年の正月、jejeさんがようやく帰ることができてひと安心。

でもまだ心配は続きます。
ヨーロッパで南アフリカで猛威を振るう新型コロナの変異種。
そしてナイジェリア北部を拠点とする「西洋教育は罪」という
思想を持つテロ組織「ボコ・ハラム」のコロナ禍での擡頭。

敬虔なクリスチャンで西洋教育の成果を体現したようなjeje
さんに危険が及ばないようにと祈るばかりです。

いつかまた奥さんや子供達を伴って宮城に戻ってきてほしい。
その時には是非、どんな畑ができて、どんな作物が穫れるのか
聞いてみたいものです。

やっと大寒波が過ぎ、少し気温が上がって、破裂した水道管
も修理が終わりお湯がでるようになりました。


2021年新年

あけましておめでとうございます。

コロナと自分の肺炎と最後の最後になって時ならぬ大雪に翻弄された
2020年が終わり、新しい年が明けました。

12月の半ば過ぎに降った前回の大雪は家周りを4、50センチの積雪
で埋め、除雪車が間に合わず2日間家から出られなくなりました。
引っ越してきた20年前の大雪以来です。年々雪が少なくなり、油断
していたところにドーンとこの大雪。

そして前の積雪が少しの晴れ間と雨でなんとか溶けたと喜んだら、
またもや大晦日から正月にかけて降り続ける雪。おまけに超低温で
今朝のマイナス8度でお湯が出なくなりました。日中温度が低いので
どうにもならず鍋で湯を沸かして洗い物をする正月です。

9月から始まった病院通いは、4ヶ月でレントゲン6回、CTが2回。
このコロナの状況の中で、胸や背中の痛みを訴える私をよく丁寧に
診てくださっている担当医の先生に感謝しています。


あちこち痛くて調子が悪い時は、さすがにもう終わりか、と思ったり
したけど、ここにきてなんだか元に戻ってきたような気がします。

今年は大震災からまる10年の年。
新聞バッグはまだ1ヶ月に1度は定期的に納めるお客様もいて、静かに
続いています。
道の駅で販売するバッグもコンスタントに売れていきます。が、新聞紙
を提供してくださる青山学院大学図書館からの宅配は間遠になっていて、
このコロナ禍でこの先どうなていくのかなあ、という先の見えなさも
実感します、

秋には介護事業を展開している東京のある企業からの依頼で、高齢者
住宅などの入居者の就労に関連して、認知症の方でも可能な手先の
仕事としての新聞バッグの講習を行いました。

介護施設の入居者であれ、もちろん軽重の違いはあるけれど、認知症
の方々であれ、できる仕事をやってもらう、お金を稼いでもらう、と
いう介護の世界の新しい取り組みは、後期高齢者の一人として希望の
光に思えます。

食も時間も管理され、こんなところには入りたくないなあ、と今の
自分が思う施設に入居しても、介護する側、される側、双方が
楽しいわけがない。

難しいことだけれども、そこを少しでも変えようという取り組みが
若い介護職の方たちの中で始まっているのを知り、少しでもお役に
たつことを手伝いたいと思っています。

東京の高校生たちが、大震災からまる10年たったこの東北沿岸部に
今年は訪れ、新聞バッグを作ってみたいというお話も来ています。

でもほんとになにもかもすっかり変わってしまって、100人の生徒
たちに新聞バッグを教えるのは、大震災直後とは全く違う手法を
以って臨まざるを得ない。これは年初早々の課題です。

それにしても新型コロナ。
これが蔓延する限り何を考えても先に進んでいきません。

平穏な日々が1日でも早く戻ってきますようにと願う、雪に
降り込められた2021年の年明けです。

本年もよろしくお願いいたします。





ご馳走ランチ

晩秋の北海道。

今年は暖かいのか、北国の紅葉は、想像していたほどには進んで
いませんでした。
東北に比べて紅い色が少ない。黄色い紅葉というのもへんだけど
全体的に木々の葉は黄色に染まっています。

これから向かう富良野の「風のガーデン」、そしてガーデン街道の
主だったガーデンの今季閉園は10月10日だとのこと。

病み上がりでも今の時期に私が富良野に行きたいのはみっつの目的
があって、ひとつは閉園時のガーデンの様子と閉園後の冬支度を
見たいこと。

もうひとつは、薔薇の庭のローズヒップを見たい。
それと一度は行ってみたいと憧れていた新イタリア料理レストラン
ル•ゴロワ フラノでランチを頂きたい。

ル・ゴロワ フラノは倉本聰氏がメニューの監修やデザインなどを
された「創」の思想に基づいて創設されたレストランとのこと。

シェフは東京表参道のフランス料理レストラン「ル・ゴロア」の
大塚シェフで、その奥さまが「フランス料理が専門で今からイタリア
料理は、とお誘いを受けた時に迷ったのですが、倉本先生から
自分は80歳でも新しいことに挑戦していると仰って頂き決心したの
です」とお聴きしました。



ということなんですが、閉園後のガーデンなんて観光客には見られる
わけがないので、今回はできるだけ閉園直前のガーデンに入って
植物の様子を見、閉園後は今繁盛している全ての宿根草を根元から
切ってしまうという北海道の庭の冬支度を、その作業を担うN君から
情報収拾しようと思います。


晩秋とはいえ、「風のガーデン」の花々はまだ健在でした。
薔薇の庭の薔薇の実、ローズヒップさえ、まだ実を落とさずに豊か
な姿を保っていました。

閉園したらこのヤギたちは本来の自分のおうちに帰るそうです。

咲いた花を切らなければ、こんなふうに実を実らせる原種の薔薇群。
しかしこんなふうに大きく育ち広がった薔薇の木を風雪に折れない
ように雪囲いするってどんな仕事?
トゲトゲじゃないですか。恐ろしい。

憧れのトマトのような「はまなす」の実。
1個でも2個でも貰って食べてみたいのだけれど、言う勇気がなくて
いまだ食べられません。


N君のお仕事仲間であるガーデナーの方々に訊いてみると、閉園翌日
から全ての宿根草を根元から切ってしまうとのこと。
刈り払い機でも鎌でもなく全て「鋏で切ります」と聞いて驚き、
「全部ですか」と尋ねたら「全部です」と言われてまたびっくり。

全部ということは植えて3年のものでも15年のものでも切ってしまうと
いうことなのか?
「植物は切れば芽が出る」というのは確信的にわかるけど、植えて
15年のものを切っちゃったら翌年15年の姿に戻るのかしら。
そこのところが消化しきれなくて我が庭の20年来の植物たちを私は
切れずにいるのです。全ての古い葉がなくなって新しい瑞々しい葉
に覆われた20年来の植物たちを思い描くのですが。

そこのところを学びたい。今回は。


さて、お昼の時間。
見るだに敷居が高かったル・ゴロへ。

完全予約制。
こんな時期ですが、さすが、席は全て埋まっています。
窓の外は緑一色。遠くに馬たちも見えて素晴らしい景観。

で、ランチメニューは、というと、うわ、これはお高い。
普通にランチを想像していた3倍以上。
すごく美味しいんだと思います。

奥様のご挨拶もあり、その後に舞台「屋根」の時から数回お会い
したことがある女優、Rちゃんに遭遇。このレストランで結婚式
を挙げたそうです。素晴らしい。お幸せそうでした。

そしてランチは。
海のものも山のものも畑のものも大変に美味しく食の細い私が
全部戴いてしまいました。

目を奪われてしまったデザート。
食事の写真を撮らない私が美しいアイスの写真を撮りました。

食材、料理、その美味しさ、美しさ、スタッフの応対。
そのどれをとっても文句のつけどころのない素晴らしいご馳走
ランチでした。

そして最初に驚いた代金のほうは、どのようなシステムになっている
のかわからぬままにN君のおかげでgo to の恩恵に預かりました。

今回の宿泊は久しぶりに新プリンスホテル富良野。

街のホテルに戻らねばならない面倒がないままに、食事後はホテル
周りのニングルテラスやcafe森の時計などをぶらぶら。
ホテル内、ニングルテラスなど明らかに前回来た時よりも観光客の
姿が増え、通常どおりとはいかないまでも活気が出ていました。

ホテルレストランでの食事は避け、夕食は街へと出たものの、これが
思惑外れで簡単ではありませんでした。

フラノ名物スープカレーのお店に行ってみれば開いていない。お蕎麦
屋も開いていない。街中や駅周辺、ぐるりぐるりと回ってもお腹を
満たせそうな店は1軒も見つからず、テイクアウトできそうなところは
コンビニくらい。

朝がセイコーマートで夜がセブンイレブンではあまりにも悲しすぎる
のであっちを探したちこっちを回ったりしながらいつの間にやら
富良野の街を離れ、暗い夜道を20分も走ってやっとたどり着いた
のはなんとネパールカレーのダイニングレストラン。

富良野でネパールカレーを食べることになろうとは、、。
なりゆきにびっくりですが、ホームセンターとおぼしき一角に煌々と
灯りがあるのが嬉しいし、夕食が食べられるのも嬉しい。

ここはネパール人経営の本格的ネパールカレーのお店ということで
成功して旭川やその他の町にもお店があるのだとか。
メニューは多彩。彩りも多彩、そして量が凄い!

私がオーダーしたなんとかという(ロマンティックな名前でしたが
忘れた)セットは、カレーと30センチ以上はあろうかと思うナンと
サラダとお茶碗にご飯までついていました。

ようやくお腹を満たしてホテルへ帰還。

晩秋の富良野の町は静かです。

明日は一緒にきてくれるというfcsのすいちゃんと一緒に特別町民に
してもらっている東川町と裏大雪に向かいます。







旅のはじまり

今朝は今年初めての霜が真っ白におりて、畑の切り花がメチョメチョに
なりました。メチョメチョ。この辺の方言かな。
使いものにならなくなって、これで追われていた切り花の仕事が終わり。

秋が深まるにつれて、果実も木の実も実って、木から下ろしては処理に
忙殺されます。今日はキウイを完全制覇。まだ柿も夏ハゼの実も残っている。

今年の冬はやたら暖かいかと思うと急激に寒くなって、北海道からはもう
雪の便りが、、、。
富良野に行く途上でいつも通っていた岩見沢の積雪が40数センチとか。
11月初めで信じられない数字ですが、10月初めの北海道は例年になく
暖かかった。



10月1日からは東京からもOKになったGo to の影響で空港や空港のお店の
混雑はどうなのかな、と多少の不安も持ちながら向かった空港の状況は、
というと、、、。

仙台空港。出発は珍しく朝ではなくて夕方5時。
こんな時間の駐車場はどうなんだろう。満杯で駐車に手間取って時間が押す
のでは、という心配は杞憂で、少なくはないけど多くもない。
国内線が飛び始めても、国際線が飛ばないということはこういうことだったか
と改めて現状を見て拍子抜け。

Go to、Go to とテレビの画面で見る混雑した空港の状況。
そんな場面もなく人の少ないカウンターで手続きをし、スムーズに荷物検査
を通り抜け、5時には機上の人となりました。機内では全員マスクを着用、
沈黙の1時間。

そして北海道新千歳空港の状況は。
前回よりは人の動きが出ている気はするけれども蜜というにはほど遠い。
閉まっているお店や時短のお店が多い気がします。

今夜の宿はエアターミナルホテル。ということで空港から外に出る必要はない
けれど、ホテルのレストランは休みで空港内のレストラン等での夕食を余儀なく
されました。でもね、なんだかやってるのかやってないのだかわからない店が
多いレストラン街。

せっかく来たんだから、これ食べよツというモチベーションが全然上がらない。

待ち合わせていたN君が富良野から到着。Sちゃんと3人合議のうえ、無難に
回転すし屋に入ることにしました。

肉も魚も海産物も豊かで美味しい北海道。
北海道で初めて食べる回転すしが嬉しくて、あれこれ吟味して食べようと
張り切っていたのだけれど、入店したのが7時過ぎ、オーダーストップ7時半
閉店8時で焦って選んで飲み込んで全然ゆったりできませんでした。


一夜が明けて新千歳空港の朝。

お天気は最高。
真っ青な空の下、広い広い空港の滑走路は見晴るかす彼方までなーーんにも
いない。
見えるのはホテルの窓下に駐機したANA小型機のしっぽのみ。

コロナ禍の飛行機がいない飛行場。


どうなりますか。今回の北海道の旅は。

またセイコーマートの鯖おにぎりを朝食に富良野に向かいます。


お米がきた。

夏に訪れた時に、町の株主になった北海道上川郡東川町から、お礼のお米が
届きました。

前から食べてみたかった東川米「ななつぼし」

さすが東川町。
お米が入った段ボール箱にも配慮が行き届いて、ほんの少額で株主(特別
町民)にしてもらった私が嬉しくなるようなお手紙が添えられていました。

たったこれだけの一行でも、見たものの心が温かくなる言葉。荒々しい自分の
日常を振り返って反省させられます。

町役場の課の名前も行政も大変ユニークな東川町が、これからどのように
変化し発展していくのか楽しみです。

その株主たちが集まる株主総会が10月に開催されるというので、これは
行かねばと楽しみにしていたら、コロナでお流れに。残念。

この株主制度の特典には、日数の限定はあるけれど宿泊施設が無料で使える
というのがあり、秋の東川町や大雪山周辺を歩いてみたくもあり、夏に山の
ように購入したスエーデン製のリネンを直接目で見て買いたくもありで、
「やっぱり行こう」とSちゃんと北海道に行くことにしました。


しかし今の自分の状況としては病み上がりの身。
言い出しにくかったけれど言い出して、家族の了解をとり病院では検査を
受けて、再び晩秋の北海道に向かいました。

長いお休み

久しぶりのブログ。

10月の半ばになって、紅葉はどれくらい進んだかなあ、と紅葉見廻りに行って
きました。
最高潮だと聞いた栗駒山へ行くつもりでいたら、曇って山容は見えず、変更
して秋田県の秋の宮温泉郷へ。

途中通りかかった鳴子温泉郷の紅葉。
想像していたよりも色付いていて、驚いたのは鳴子峡周りを歩く人の数!
近隣の人だか遠くからの観光客だかわからないけれど、コロナ騒動の前に
戻ったような賑わいでした。
9月初めの土曜日、発熱もなく食欲不振もなく咳もなく、普通の体調なのに、
「あれ? ちょっと痛いかな」という程度で左胸の上部に軽い痛み。

その日は普段通りにお餅仕事をし、直売所の店番もして時々感じる軽い痛み
だけで夜を迎えたのだけれど、翌日曜日の朝は「ん? これは仕事はやめた
ほうがいいな」と感じるくらいの痛みに変化してました。

そして夜。痛みは脇の下に移って更に強くなり、右にも左にも動けない。
天井向いたまま身動きをせずに一晩を過ごし、翌月曜日の朝、娘の車に乗せ
られて病院へ。

身体状況は全く悪くなく、ただ脇の下が強く痛むという症状から肋間神経痛
であろうという診断を受け、念のためとレントゲンをとったら、先生の
表情がみるみる変わってそのまま市民病院送りに。

血液検査だのCTだのの検査を経た結果の病名はなんと「肺炎」でした。
血液検査の数値は悪かった。
なのに何の症状もなくて肺炎に罹り、胸水まで溜まっているという病状。
いや、恐ろしい。
高齢者の肺炎は無症状が多いとは聞くけど、私が体現してるということか。
それもこんな時期に。コロナと間違われるでしょう。

でもコロナ検査で待たされる、ということもなくすぐに治療が始まり、薬を
飲みながらの家での絶対安静。薬が効かなかったら入院という形で診て頂ける
ことになりました。

「呼吸が苦しくなったらすぐ来てください」
との先生の言葉で、これでコロナ検査で時間がかかったりしていたら、短時間
で病状が進み、死んじゃったなんてことになるのかも。
と日頃の不摂生を反省。

朝、昼、晩の食事は娘任せ。病院へも娘夫婦に連れていってもらうという有様
でほぼ10日間薬をきちんと飲んでベッドでの絶対安静を守っていたら、痛みが
軽減。
9月はほぼひと月、長いお休みをとることになってしまいました。
体の状況は悪くないけれど、胸の痛みはなかなか引かず、時間がかかりました。


そして10月初めの早朝。
日頃からお世話になっているTさんから「枝豆ができたからとりに来て」と
連絡がありました。
5時半くらい。Tさん、よほど早くから畑に出られているらしい。

「ありがとうございます。明日でもうかがいます」
とお返事したその日の夕方。
「本日お昼に肺炎で入院しました。退院は14日以降になります」との肺炎連絡。

Tさん、まだ70歳にはなっておられないと思うのですが、日頃からトラクターに
乗ったり重機を動かしたり、休みなくよく働かれます。
翌日奥様に伺ったら、朝早く畑に出て枝豆とって湯がいて、疲れたからと
一眠りして起きたら体が動かず、救急車で病院に行かれたとのこと。

驚いていたら今度は朝のワイドショーに出ているタレント氏が肺炎で緊急
入院とのニュース。まだ若いのに。
仕事に穴が空けられないからか4日間の入院で、少しの安静期間を置いて
番組に復帰していたけれど、肺炎は肺を傷めたり、気管支を傷めたりして
後遺症が残ることもあり、クセになる病気です。

ご用心、ご用心。

人のことは言えないのだけれど、私も無理をしないように気をつけながらの
活動開始です。






またもやの北海道(十勝)

北海道の旅の最後の日を書く前に、自分がダウンしてしまってドクター
ストップがかかる、というていたらく。

今回のドクターストップで、熱もなく咳もなく食欲も普通で自覚症状は
ゼロでも、体の中で何かが動いて突然病気になって現れる、ということが
あるのだ、とよくわかりました。用心、用心。
だいぶ元気になりました。

北海道に戻って、旅の終わりの日の最初の訪問先は、広尾町の大森ガーデン。

訪れるのは4度目です。
富良野のfcsの谷山さんのご紹介で、3年ほど前に伺ったのが最初で、
その時にはガーデンデザインや1000種を超える宿根草栽培では日本でも
第一人者でいらっしゃる大森氏にガーデンの隅々からナーセリーに至る
までご案内をいただき、そのご親切に心から感謝、恐縮しました。


東京から日高山脈の麓、十勝に来られて、最初は野菜の栽培から現在の
ガーデン経営に至るまでの数々の困難や、十勝の気候の厳しさなどを伺い
ましたが、そんなご苦労を少しも感じさない大森さんの温かいお人柄と
ガーデンの美しさに魅了された忘れがたい時間でした。


以来広大な畑のお仕事にもお忙しい大森さんにはなかなかお目にかかること
は叶わないけれど、今回もご子息のケンタロウ氏にご厄介をかけました。



大森ガーデンの美しさは言葉で語れるようなものではなく、ただ歩いて
花の美しさ、色の美しさ、木々の美しさを見るのみです。

駐車場がある前庭。

これは今回初めて見る前庭の作りですが、これがどのようなことになるのか
想像がつきません。植栽されているのは特殊なタイム一色。
春にはピンクの小花がびっしりと咲かせる這性タイムです。

広い2階にギャラリーを備えたcafe脇から始まる大森ガーデン。

手入れが疎かなところが全く見受けられない7月の大森ガーデン。

夏がだいぶ進んだ時期に来た昨年とは、盛りの花も庭の色も異なります。
無駄なものがない美しく整えられたガーデンですが、ここでは群れから
外れて飛んだこぼれ種もこぼれた場所でそのまま大きく育っています。
整えられているけれどのびのびとして大雑把。育てる人の温かさを感じます。

大森ガーデンではお庭を見るだけではなく、1000種類を超える宿根草が
栽培、販売されていてこれも必見。

我が家ではケンタロウ氏にお願いして送ってもらった白樺が、鉢の中
でスクスク育っています。もちろん他の花々も。



大森ガーデンを心ゆくまで楽しんで、次は十勝千年の森。

十勝千年の森は、大森ガーデンのように個人経営ではなく、千年の森の
創始者、運営者である十勝毎日新聞社が、大量の紙を使う新聞社が
植樹をして森を造っていけば、カーボン(二酸化炭素)をオフセット
(相殺)できるという構想のもとに、1000年後の未来に遺す財産と
して作られている広大な森には、メドウガーデンやアースガーデン、
キッチンガーデン、ファームガーデン、と4つのガーデンがあります。


人なつこいヤギが遊ぶファームガーデン。農の庭。


どこまでも緑波打つアースガーデン。大地の庭。
広がりの先がどこまで続くのかわかりません。

キッチンガーデンの小さなカフェでソフトクリームを食べるのが毎回
立ち寄る度の楽しみです。
例年ならここでは中国語が聞こえないことがないのに、閑散として
静まっています。


いつも時間が押して入らないままだったメドウガーデン、野の花の庭。
を初めて歩くことにしました。
踏み込んですぐにこれは!?と驚愕、感動・

細い小道の」両側に植えられた背の高いグラス。背丈も株も花も巨大な
クリーム色のスカビオサ(西洋マツムシソウ)。
そのグラスとマツムシソウの間をびっしりと埋めるアルケミラモリス。
その有様は、まるでアルケミラモリスが原。
アルケミラモリスは夏一期咲の宿根草ですが、一株一株増殖させていく
性質であり、この黄色い小粒の花の種を振りまいて増やせる花ではない。
のに、どうしてこういうことができるのだろう。

ところどころに配置されている丈が高い大株、同系色のスカビオサが
見事に場を締めているという素晴らしさ。世界有数のガーデンデザイナー
ダン・ピアソン氏の設計だと思いますが感服しました。


その先を進むと、こちらはやはり同系色のコレオプシスデージー。
こっちもまるでコレオプシスデイジーが原。
これも植えてほうっで置けば年々増える花だけど、それにしてもここまで
にするにはどう栽培するのか。
私などにはどう考えてもわかりません。



本当に素晴らしいものを見せてもらいました。
決して忘れられない目にも心にも焼き付けた千年の森のお花畑の風景。



最後の訪問先は紫竹ガーデン。

もう90歳をいくつか超えられたと思いますが「紫竹おばあちゃん」の名で
親しまれている園主紫竹あきよさんが作られたお庭です。
昨年の5月にに訪れた時には、白樺の真っ白い樹々の下をびっしりと埋めて
色とりどりに咲きそろった球根の花々がとても見事でした。







でもことしの夏は花園のお花があまり良い状態ではないではなかった。
また来年、訪れようと思います。
人気ものの紫竹のおばあちゃんにも是非お元気でいていただきたい。



今年の夏もいい旅ができました。
また秋に。
それまでに新型コロナが少しでも落ち着いていればいいのですが、、、。