頭上の新幹線の外灯が折れ曲がり、水が噴出し、駐車場の車が左右に動き回り、ビルのエントランスのタイルが
バチバチと弾け飛んで裂け始め、もう地球が壊れるかと思うくらいの恐怖の6分間という長い時間を耐えて、
ようやく静まり、ブルブル震えながらメチャメチャに壊れた古川の町をどうにか家に辿り着きました。
東京でも震度3や4の地震は普通にあるので、地震が怖いなどは格別思ったことはなかったのでしたが、もう今は
私は地震は本心から怖いです。あんな恐ろしく悲しい思いは2度としたくないと思っています。トラウマになって、
その後は東京で地下鉄に乗っても、一瞬でもガタンと音がしたり、電気が消えたりすると立ち上がって逃げそうに
なっていました。
私が住む岩出山の真山地域はほぼ震度7の揺れがあったところで最も被害が大きかったのです。町に繋がる道路
はほとんど壊れて、電気も水も止まりました。家は壊れなかったけれど、家具は倒れ、食器類は90パーセントくらい
壊れてしまい、電気がない生活は8日間続きました。その頃海のほうでは津波で大変な被害が出ていたのですが、
ラジオで切れ切れに聞くだけで、その様子を知ることはできませんでした。
水もガソリンもない生活が続いて1ヶ月ほど経った時、隣町の鳴子温泉に沿岸部で津波の被害に合った方たちが
1000人くらい、仮設住宅ができるまでの期間を各旅館に分かれて滞在されることになりました。2時避難です。
市の広報誌に「避難して来られる沿岸部の方たちを家族のように迎えてください」という市長の言葉が載せられ
ました。
ここ岩出山には、東北一か自己所有では日本一くらいに大きい梅の農場があります。丁度梅の花が咲く時期で
その梅農場の専務の佐藤宗一さんが、被災者の方々を慰めるために農場で梅見の会を催したらどうだろう、と
提案しました。こんな時にお花見なんて・・と怒られるかもしれないと思いながらも、宗一さんは毎日仕事を
終えたあと鳴子温泉まで通って、旅館を一軒一軒廻り、「梅の花を見に来られませんか」とお誘いしました。
初めは全然反応がなかったのですが、4,5日後くらいから「行く」という方が出始め、最終的には200人以上の
大お花見会になりました。
その梅の花見で出会ったのが、今新聞バッグを作っている海の手山の手ネットワークのメンバーです。
その会で避難して来た方々に「今一番必要なことはなんですか」とうかがったら、「お仕事がしたい」ということ
でした。旅館での避難生活は3度のご飯がちゃんと出て、一日中温泉に入れるけれど、その他には何もやる
ことがありません。これまで船に乗ったり養殖で身体を使って働いていた方々が、全ての持ち物を失って何もなく、
電話やパソコンや本などがあるわけでもないので、こんな生活をしていては身体や頭がなまってしまう、と
考えられたのかもしれません。
梅農場ではその時から鳴子温泉の被災者の方にたくさんの梅農場のお仕事をしてもらうようになりました。
車がないので、ある車に満杯に人を乗せて鳴子温泉まで送ったり迎えたり、なかなか大変でした。
そしてそんなことができない私たちは、海の人と力を合わせてお仕事を作り出そう、と考えました。
でも仕事といっても材料が何もありません。
とにかくなんでも作れるものはなんでも作って売ろうということで、津波で流れ残ったワカメを売ったり、山の竹を
伐って植木鉢替わりにして花を植えて売ったり、残った布でエプロンを作って売ったりしましたが、最終的には
狭い旅館の部屋でも仮設住宅でも作業ができて、材料が新聞紙を糊だけで作れる新聞バッグを作ることになり、
高知県四万十町にある四万十新聞バッグに作り方を教えてもらうことにしました。四万十新聞バッグは通常は
四万十以外で教えるということはしていないのですが、事情を話して一生懸命にお願いしました。
その時に最初に電話に出て親切に対応してくれたのが、これから皆さんに新聞バッグの作り方を教える
インストラクターの黒田みゆきさんです。黒田さんはその後宮城まで新聞バッグを教えに来てくれ、またその後
お仕事の切り替わり時期に、東北を助けるために宮城に来てくれました。今ではこの岩出山に住んでいます。
四万十新聞バッグの教えを受け、販売してもよいという許可をもらって、新聞バッグを作るチームの名前を
「海の手山の手ネットワーク」とし、南三陸、石巻、南相馬、岩出山の人たちが一緒にになって新聞バッグ作りを
スタートさせました。
最初の2年間はお金がなくてほんとうに大変でしたが、周りの方たちの応援で1年1年どうにか切り抜け、それ
から5年半という月日が経ちました。そしてふと気づくと、私たちは最初には想像もしなかったような様々な分野
で活躍されるたくさんの方々とお知り合いになっていました。
今ここにおられるJTBの方もそうですが、いろいろな学校の先生や生徒、大小の銀行や企業、キズナプロジェクトで
日本に来られた外国の人々など、九州から北海道まで、本当に震災がなかったら決してお会いすることはなかった
だろう方々との出会いがありました。
全ては新聞バッグが運んでくれた出会いです。私は毎日お餅を作って道の駅でお餅を売っているお餅屋ですが、
お餅屋だけだったらこんなにたくさんの方々とお知り合いになるなんで、決してあり得ません。
今日みなさんとお会いできるのも、そして今10000枚の注文を頂いて1年半近くかかって毎月北海道のロイズと
いうチョコレートの会社にロイズ新聞バッグを送り続けているのもロイズの社長と新聞バッグの出会いがあったからです。
北海道の富良野に住まわれている脚本家の倉本聰さんにも同じように新聞バッグを知って頂いて、そのご縁で
今年の春はこの岩出山の小さな文化会館で「屋根」という舞台を上演することができて、岩出山や古川やその他の
町の方々にも喜んで頂きました。
初めて沿岸部の津波の様子を知った時、もう「東北は終わりだ」と私たちは打ちのめされました。失ったものの
あまりの大きさにどう考えていいかもどうしたらいいのかもわからない。そんな時、今日は用事があって来て
いませんが、私たちのメンバーの高橋博之がいつも言ってました。
「ピンチはチャンス」だ。「ピンチはチャンスにしなければいけない」と。
その時には現実味のない言葉でしたが、今5年半経って、私たちは高橋が言っていたとおり、一歩一歩ピンチを
チャンスに変えることができてきたのだろう、と思います。
しかしながら、今日皆さんも南三陸でたくさんのことを見たり体験して来られたと思いますが、まだ復興は道半ば
です。半分もいっていないのかもしれません。10年も20年もかかる大仕事です。
ここから話は変わります。
こらから作る新聞バッグについて皆さんに知っていただきたいこと、そしてお願いがあります。