海山ネットのミーティング

      震災の後、4月初めの梅見の会から始まった海の手山の手ネットワーク。

      いろいろのことがあってずいぶん長い期間だったような気がするが、指を折って

      みるとまだ5か月しか経っていない。

      地震であっちこっち壊れて、いろいろな方からご支援の電話やお見舞いのお金

      いただいて、そのお金を壊れたところを直すのではなく、鳴子温泉に避難してきた

      方の雇用をしたり、一緒に物を作って販売したりして回転させることが、経済の

      復興に繋がるのではないか、という想いから始まったネットワークだった。

       皆さんが津波で打ち砕かれているこの時期に花見のお誘いなどしていいもの

      か、と迷いながら計画した梅農場の梅見の会。毎日の仕事を終えた後、避難者

      の方が宿泊している旅館を1軒、1軒訪ねては恐る恐る梅の花見をお誘いしたの

      は梅農場のSさんだった。最初の申し込みは5人。Sさんも私も嬉しくて、「車椅子

      を準備しよう」と大慌てしたものだった。少しづつ人数が増えるにつれ、よっちゃん

      農場よっちゃん夫妻とSさんと私は、車の送迎とか、おいしいご飯を用意しよけうと

      かお餅を搗こうとか計画を練った。当日になっての梅見の会の参加者は200人

      以上で計画も何もあったものではなかった。

      でも本当の楽しい決して忘れることのできない梅見の会だった。

      それから新聞バッグを作ってもらうようになり、全国の皆様から送っていただい

      た布で布の小物を作ってもらうようになり、今日のミーティングでこれまで作って

      もらった新聞バッグは3000枚以上にもなることがわかった。

      ずいぶんたくさん折ったねえ。と感心する。そして3000枚分の制作代金を支払う

      ことができたことに安堵する。梅農場では春も夏も今も多くの被災者の方々

      にお仕事をしていただくことができた。そして南三陸のたかちゃんは昨日、梅

      農場の近くの家に引っ越しを終えた。

      布や新聞を提供してくださった多くの方々、そしてこれを売って活動費にしてくだ

      さいと、布バッグや帽子を作り続けて提供してくださっている福岡の方々、海山

      ネットに応援の声をかけ続けてくださる多くの方々に心からの感謝を申し上げ

      たい。これからも拙い力ですが、活動を続けていきます。よろしくお願いします。

      

         

      

      

      

      

夏ハゼ

              余談だけれど、畑に4本ある夏ハゼの実が黒く熟してきた。夏ハゼの木というの

      は昔は山の中にたくさんあったらしいが、今は少なくなったとかで私たちが入れる

      くらいの森ではあまり見かけない。気難しい木で極端に成長が遅い。房になって

      垂れ下がる小さな黒い実は日本のブルーベリーと言われるようにジャムするとブ

      ル-ベリーに似ているがブルーベリーよりももっと味が濃い。東北では知られて

      いないけれど軽井沢辺りのジャム屋さんでは最高級に値段が高いジャムであ

      る。 その木が4本も畑にあって、冬の大雪で潰れたハウスのビニールに巻きつ

      かれた1本を除いてびっしり実をつけている。見ているだけで豊かな気持ちになり

      ます。

       さて、この実をジャムにして、素敵なラベルとポップをつけて、10月の第2、第

      3、第4のウイークエンドに行われる東北復興イベントで販売してもらおうと思うの

      だけれど、どんなふうに売ってもらったらいいのか悩ましい。

      海山ネットワークだから新聞バッグや布で作ったエプロンやティッシュ入れや

      キルトのバッグなどの布小物も販売する。「いいよ、いいよ。売るよ」と気軽に

      引き受けてくれたのは南三陸のSさん。男性。60代。海の男。

      「夏ハゼジャム」

      お客様に説明する前にSさんに美味しいと思ってもらうのも難問だなあ、と

      思いつつ、ジャムの鍋をかき混ぜている。

      

      

 

人口流出

     余談だけれど、今日のお昼頃家の近くの県道を車で走っていたら、突然

     左側の藪から大きなカモシカが転げ落ちるように飛び出てきてびっくり。あ

     やうく衝突するところだった。カモシカは奈良などにいる 可愛いバンビのような

     日本鹿ではなく、グレーの毛がふかふかした一見おじいさんのような風貌の

     仔牛のように大きい鹿だ。ぶつかったら多分私も無事では済まない。カモシカも

     びっくりしたらしくすぐに藪に飛び込んで行ったが、山奥にいるはずのカモシカが

     なぜこんな人里にいるんだろう。

      

       地震で亀裂が入った我が家までの進入路、傾いた作業小屋をなおしてもらう

     ことにした。地震から6か月というより、その前の地震の分も入っているから、なお

     してもまた地震が来るのではないかとなかなか決心がつかなかったのだった。

     前の地震というのは震度7で栗駒山の一部が崩れ落ちて無くなった岩手宮城

     内陸地震のことで、前のと今度の地震で我が家の陶器の食器類はほぼ9割方

     割れた。今も無いままだが買おうという気持ちにならない。何にも買いたくないが

     発電機だけは欲しい。

       私がこの地に住んで10年。その間に震度6、7クラスの地震が4回起こって

     る。震度4とか5というのは数しれない。本当に地震が多いところだなあと感心す

     るが、家は今のところ壊れず保っている。

     家があるから、地震が何度来ても住み続けているが、家が壊れたらどうするんだ

     ろう。また建てても借りて住んでもまた壊れるのはつらいから、どこかへ移るかも

     しれない。家が壊れた人がみんな出て行ったらこの町はなくなる。

     「復興は人口流出との闘いだ」

     新聞で読んだ言葉でそんなことを考えた。

     

     

   

         

新しい展開の時

      お彼岸が終わった。菊、菊、菊で忙殺されたが、とりあえずは終わり、後にはたく

      さんの菊が残った。これをどうしよう。ということで、菊と千日紅と野ケイトウなど

      混ぜてブーケを作って、たくさんある新聞バッグ用英字新聞にくるんで道の駅で

      販売してます。

      先週帰ってからまた1週間で、仮設住宅への支援金や同業者への仕事道具等

      を持って福岡から来てくれたD社長は、3日の滞在の予定を終え、福岡へ帰られ

      た。D社長は今回は気仙沼に宿をとったことから、気仙沼を隅々見て、陸前高田

      を視察して、その都度私に電話をくれ、「みんなどこに行ったんだろう」「復興って

      できるのかしら」などと見たことの報告の間に呟かれるので、聞いている私は

      だんだん落ち込んだ。

      D社長と話していて明確に見えてきたこと。

      それはこれからは被災者の方々も私も一緒に(私も内陸被災者)新しい展開

      を始めなくてはならないということです。

      詳しくはおいおい説明してゆきます。福岡のみんな。応援してね。

      

菊と格闘の日々

       今日はお彼岸の中日です。

       南三陸の小野寺さんに作り方を教えていただいた小菊、輪菊が咲き始めまし

       た。お盆は開花がずれて、遅れましたが、お彼岸はピッタリでした。

       彼岸の入りの数日前から、蕾が綻びかけたものから切って花束にして販売して

       います。

       最初は少しずつでしたが、咲きそろうにつれて大変な重労働になってきました。

       宮城県は全国でも1、2位を争う切り花の需要の多い土地であるというのは、

       宮城に住み始めてから私の花栽培の師匠から聞いたことですが、道の駅でも

       近所のスーパーマーケットの花売り場でも、女性も男性も5束も6束も腕一杯に

       花束を買う姿を見て最初は驚いたものです。

       年配だろうが高齢だろうが男の人がこんなにたくさん花を買うというところは

       他にはないのではないでしょうか。

       お盆やお彼岸だけではなく、普段の時も仏壇やお墓に備えるお花の需要は

       途切れることはありません。仏壇やお墓やご先祖様を大切にするという風習

       がこの土地では今も生き続けているのでしょう。

       毎日たくさんの花が必要なので彼岸の入りから今日まで、花の切り続けです。

       日中は花は切れないので夕方から切り始め、夜は遅くまで花束作り。

       菊を作ってみてわかったのですが、菊は花も葉も勢いのある生命力を感じさ

       せる魅力的な花です。

       でも、とても茎がしっかりしていて背丈は大人の男性よりも高く、切って束ねる

       と重い。切っては運び切っては運びしているうちにヘトヘトになってきました。

       菊栽培は肉体労働であると骨身に沁みて感じさせられる日々です。

       あと10日ほどは続きます。がんばります!

       

    

       

       

       

仮設住宅支援決定

              ひどい雨ですねえ。

       川が氾濫して溢れた名古屋や宮崎、大分などの町の様子を、テレビの映像で

       見ています。わあ、大変だ、ほんとに大変だと思いながら、見るのを止められ

       なくて見続けていますが、311の津波の時もきっとこんな風に被災地以外の

       方は呆然としながら見ていられないと思いながらやっぱり見るのをやめられなく

       なっていたのでしょうね。

       被害に合われた方にお見舞い申し上げます。

      福岡のD社長から連絡がきました。会社の取締役会で仮設住宅への支援が決定

      され、ふたつの仮設住宅約80世帯に快適に暮らすための雨樋や必要な木材

      などの支援がされることになりました。それと津波で道具を流された同業者の

      方にも道具を送るそうです。

  

      ほんのちょっとしたきっかけでこんなことが起こるなんてとても不思議です。

      D社長は私と同じ学校の先輩後輩だけれど、知り合いではなかった。もう一人

      同級生だった友達が会社の社長をしていてD社長と女性経営者会での知り合い

      だった。「毎年女性経営者会で寄付をしているのだけれど今年はあなたの

      活動グループに寄付をするわ」と寄付してくれたお金を新聞バッグのインスト

      ラクター養成講座に必要なお金に充てた。そしたら次にD社長が日赤に義捐金

      送ったのだけれどどこに行ったのかわからないから個人のあなたを通して

      被災地に支援をしたい、と連絡をくれ、それが今回の仮設住宅支援に繋がった

      のです。3人とも女性で60代でお母さんです。

      こんな形での小さな繋がりで仮設の方々が喜んでくださるとうれしいです。

      D社長は南三陸町が好きになったみたいで、先週末に帰ったのに今週末には

      また来るそうです。全く足を踏み入れたことのない東北の地に単身で来て、

      レンタカーを借りて南三陸や解りにくい石巻の被災地を一人で運転して見て

      まわり、最後に仙台駅で車を返して新幹線で東京に向い、東京からスカイマー

      クで福岡へ帰るのですから、その行動力につくづく感服します。

      

      

      

      

          

      

       

       

      

仕事

       今朝のテレビで75歳でロッククライミングに挑戦している女性を見た。60歳から

       始めた山登り。そして岩に挑戦し始めてから6年だとか7年だとか。

       40歳代後半から山に登り始め50代の終わりで「山はもう終わり」と断念した私

       から見ると、彼女の挑戦がどれほど凄いことか、どれほど肉体の老化に逆らう

       ことかよくわかる。肉体もきついが、どこかで落ちたり迷ったりして家族や世間の

       方々にご迷惑をかけてはいけないと、近所の低い山には今でも登りたいと思う

       が、かつて歩いた山々の稜線の雪やお花畑の花々を思い出すと、涙が出るほ

       どなつかしい。

       

       D社長が帰られてから、毎日毎日みんなで事業をするとはどんなことなのだろう

       と考えている。いずれ海に帰る人と山に住む私とが一緒になって。

       もう歳だ歳だとある意味投げやりになっていた私にD社長は、年齢に何の

       関係がある。今やるべきことをやりなさい、とカツを入れてくれた。少なくとも

       前より必死で考えようとしているだけでもマシになっています。

   

       これからの仕事は、特に被災地の仕事は、若い人はどこへでも行けるけど

       どこにも行けない高齢者の仕事は、ハローワークに行って雇われる仕事を

       探すだけでは済まない気がする。

       作って売り、採って売り、拾って売り、各々が自分で自分の仕事を作り出す、

       そういうこともアリではないのと、ぼんやりとですが考えています。

       

       、

大崎のお米

              バタバタしている間に稲田が黄金色になってきました。

       この辺りではまだ天日干しをする農家が多いので、刈り取った稲を架ける杭が

       所々に立ち始めました。雨が続く日々もありましたが、被害が出るほどの大雨も

       なく晴天が続き、気温も高かったので、素人目の私から見ても今年のお米は

       豊作なのではないかと思います。

       3月12日に福島の原発で爆発があった時、私たちは津波があったことも爆発が

       あったことも知らず、ライフラインが断たれた家の中で動かずに時が過ぎるのを

       待っていました。1週間経って電気がついてテレビを見て初めて世の中で何が

       起きているのか初めて知ったわけですが、その時期の田んぼはまだ雪を被って

       いました。雪の下には秋に刈り取った稲わらが置かれているところもたくさんあ

       りました。

       稲わらからセシウムが。稲わらを食べた牛の肉からセシウムが。その頃から

       それまでさほど気に留めていなかった放射能の農作物への影響が気になり

       始めました。私が花やお餅を出荷する道の駅でも放射能の勉強会がありまし

       た。種まきの時期からすると大丈夫のような気がするのですが、もしお米から

       セシウムが検出されたら、農作物は全てダメということになります。

        千葉県市川市のニッケコルトンプラザに東北復興市に行った時、コルトンプ

       ザにあるダイエー、とピーコックの食品売り場を一回りしてみて、東北の野菜や

       果物が全く置かれていないことに気付いてがっかりしました。

        あれからまださほどの時間は経っていません。でも道の駅のお客様は沢山

       の野菜を買ってくださっています。全て検査の結果が安全なものを販売してい

       ますが、なんといっても宮城県は米どころでお米が美味しい。安全でありますよ

       にと祈るような思いでしたが、今日大崎のお米は検査の結果セシウムは検出

       されなかったという発表がありました。

       これで安心して農家のみなさんはお米を出荷できますし、私たちも安心して食

       ることができます。本当によかった。稲田の黄金色が特別に鮮やかに見えま

       す。福島のお米にも一日も早くそんな日が訪れることを祈っています。

       

     

       

       

    

       

           

HPが出来上がりました

        海の手山の手ネットワークのHPができました。どうぞ皆さん、ご覧になってくだ

        さい。メンバーの商品が載っている中で私のお餅の写真の不味そうなこと。も

        っと美味しそうなお餅ともうすぐ咲きそろう彼岸用菊やその他の花が咲きそろ

        った花畑の写真を渡せばよかったー、と後悔してます。

        これで、これまでお世話になった方々にお礼が言えるようになったことが嬉し

        いです。

        怒涛のように被災地視察に来て、見て、話して、結果を残してD社長は昨日

        の午後帰福されました。1週間近くもいて南三陸に居座って、初めて見る

        東北の地だというのにどこに行くこともなく、終始何ができるか、それだけを

        模索し続けられているように見えました。来られた翌日、東北は美しい土地

        であることを見せたくて、栗駒山の須川温泉に案内しました。

        空港でお別れする前に「雇用を生まなければならない。あなた会社を作っ

        て」とびっくりするようなことをサラリと言われて、今日は頭が混乱しておりま

        す。会社を作るということは何をどうすることなのか、と回らぬ頭で考えて

        いたら来ました。メールが。

        「資金援助のためにNPOを立ち上げる準備を始めました」

        速いよ! D社長。ほんとに何でも速い。まだ1日しか経っていない。いや

        一日も経っていない。そして何時も真剣で本気。正直私はこういう方を好きで

        尊敬しますが、しかし社長の動きにはびっくりさせられています。

        午後から明日から必要な英字版新聞バッグを300個数えて、畑に行って

        明日の販売用の菊と千日紅を山ほど切って、花束を作って本日の作業

        は終了しました。

        

 

        

        

        

        

D社長被災地視察来訪4日目  その2

       話に来たのはAさん、Bさん Sさんの奥さん

       預けてきた荷物を入れる倉庫がない。

       洗濯物を干せる軒、雨樋がない。プレハブ住宅が直に地面に置いてあるので

       湿気がひどく、地震の振動が凄い。換気扇を24時間回し続けるように言われて

       いるが電気代が心配。聞いているだけで何ができるわけでもないのだけれど、

       聞くだけでもと、熱心に聞く。

       「津波で家が流されていくら貰えたの」私の唐突な聞きにくい質問に対して「50

       万円と100万円、合わせて150万円」と返ってきた。150万円から車を買い、生

       活必要な品々を揃えると、あとは残りを数えながらという暮らしぶりになるだろう

       ことは想像に難くない。仕事があればいいけど、家も店も会社もないのだもの。

       それにしてもこんな辺鄙な所に仮設住宅を建てるのだったら、日赤の義捐金

       は電気製品6点セットではなくて、必要な家庭には車代とかのほうがよかった

       のではないの。32インチのテレビは2Kの仮設住宅には大きすぎるし、自分の

       足しか移動手段のない場所で狭い仮設住宅に籠っていたら、「いざ、復興に

       向ってがんばろう!」と思っていた気持ちはだんだん萎えていくのではないか。

       「鳴子では楽しかったねえ。避難所を出る時には、さあ、これからがんばるぞ!

       と張り切ってここに来たのだけれど、ここで2年住めるかどうか自信がなくなっ

       てきた。不安で夜寝られない」鳴子でピカ一元気だったS奥さんの話を

       終始黙って聞くだけだったD社長が「戻りますか」と突然言った。そして、

       石巻に行くのを取りやめて3人と仮設住宅に行ってしまった。

       一人で石巻に行き、迷子に迷子を重ねてようやく帰路についたその帰り道、

       Sさんに電話をしてみると、D社長は一人暮らしのご老人の家まで訪ねて必要

       なものを送ります、と言ってくださったととても喜んでいた。人数、年齢を把握

       して、これから冬に向うために必要な品物もお手伝いしますとのこと。

       「日赤に寄付をしたのだけれどどこに行ったかわからない。だから個人のつて

       で何か出来ることはないか」と突然私に電話をしてきたD社長。あッという間に

       重役3人とカメラマンを寄越して、次には自分がやってきて、こちらで手配した

       鳴子の旅館を2日いただけでさっさとキャンセルし、レンタカーを運転して役所

       仮設住宅、同業者4人を訪問した後、今日もとっても気に入ったホテル観洋に

       宿泊するそうです。