農作業コトはじめ

3月末、これまで2年間菊の栽培で大変お世話になった宮城県北部農業普及センターの
班長さん他2名の指導員、水戸さんと石川さんが揃って移動されることになり、泣く泣く
お別れ会をしました。

 

道の駅でお盆に売る花がないから自分たちで作ろうと始めた菊作りだったのですが、
水戸さんたちに一から教えて頂いて初めて、自分たちの頭の中でそれで「よし」と
していた自分流が、いかに力弱いものだったか知りました。

花を作る生産者の中でも日照時間に左右される菊は難しい、と栽培したがらない人
が多い(私もその一人)。でも教わったとおりに手を抜かず丁寧に作業を
すれば、ちゃんと立派な花が咲くんだということもわかりました。

今年は部会員の菊栽培者みんなで育てるだけではなく、これまで買っていた苗を自給
しようと決めた大事な年。
苗の自給のやり方も水戸さんのアドバイスを受けて、昨年の晩秋に昨年活躍した花株
の冬越し、赤ちゃん苗の作り方等々、しっかり教わりました。

そんな時の移動なのだから、これまで私たちの指導をしてくれた水戸さんも石川さんも
後ろ髪を引かれるようなお気持ちに違いありません。

なので、私たちも気をぬかず、教えられたとおりに作業して、昨年のお盆に販売した
よりもさらに数を増やした菊の花束をお客様に提供できるようにみんなで力を合わせます。

と約束してから1ヶ月。
菊の苗の元になる盆菊の穂挿しの時期になりました。教わったよりも10日も遅くなり、
気は急くけれど、暖かいかと思えば大雪が降ったり凍りついたりこの天候の不安定さ。
しかし待ってもいられず、昨日はついに自分のハウスで育てた穂と加代子さんにお願い
して採ってもらった穂を合わせて数百本の挿し穂作業を完了させました。

 

みんなでやってるもので人の圃場のことまで、やったかなあ、できたかなあ、と気に
なります。うちには師匠の栗ちゃんが折々に点検に来るので油断ができないのですが。

そして1日置いて今日は彼岸の菊の摘芯作業。
1月経つ頃には、彼岸菊の穂挿しの作業とお盆菊の畑への定植作業が重ることを思うと
できるのか、と今から不安。
お餅をつくのも大変だけど、畑の仕事はうんと大変です。

農業初心者の野田さんも広い畑を借りることになり、もうじきトラクターが入ります。
その前に肥料も堆肥も撒かねばならず、ついに冬が終わって農業コト始めの時期。

数年間離れていた花作りに今年は私も戻って、ここに越してきた当時に夢みていた
ガーデン作りをボツボツと始めようかと、、、。
ガーデン二ング素材の花々のタネを採って撒いて育てて、大きくなった花苗を我が家
の近くのお店で販売しようかと、、、。

そんなことを考えているので、みなさん、寄ってみてください。

 

 

 

ー別れー1日中新聞バッグ

4月も半ば近くになってからの時ならぬ大雪。

大震災の時以来、いつもどんな時も一緒に新聞バッグ作りをやってきたアヤコさんが南相馬
に戻ることになったので、今日は1日新聞バッグの作り方のおさらいをやるつもりでいたら
この大雪。

夏タイヤに替えたアヤコさんは動けなくなり、急遽冬タイヤのままの私が引っ越し準備中の
アヤコさんちで、まだ作ったことがないワインバッグを作ることになりました。

アヤコさんちに到着したのが午前10時半。

あと2日もすれば行ってしまうアヤコさんに習えるのは今日1日のみ。
何がなんでも今日は覚えてしまわなければ、という気迫十分、アヤコさんもその気、で
始まった最後の新聞バッグ講習。

思えば大震災後の7月、高知四万十ドラマの支援で初めて鳴子公民館で新聞バッグ作りを
教わって以来、真面目に新聞バッグ作りに取り組んだことが私はないのです。恥ずかしながら。

言うなら真剣勝負はあの日以来今日が2度目。

新聞紙を集めたり販売先と交渉したりは自分の仕事としてやってきたけど、新聞バッグ
作りとなると取っ手さえ十分にはできないという実力不足。
「最後まで全然やらないよねえ。いつも途中でほったらかす」とアヤコさんには叱られ
見逃してもらってきたけど、もう後がない。

はい、まずはワインバッグ。
ワインバッグはワインを入れても飾ってもサマになる、これから需要のある新聞バッグ
だと思うのですが、作り方はまったくわからない。
何度も作って、何度も分からなくなって、また作って分からなくなって写メに撮って、
ようやくできるようになって褒めてもらって気づけば午後3時。

はい、次は大バッグ。
まだはっきりと決まったわけではないけれど、近々、宮城県では著名なホテル、温泉
山荘で新聞バッグを取り扱ってくださるお話が進んでいます。
そのお話が進めば、これまで作ってきた「手仕事で復興」としての新聞バッグとはまた
違った方向性も考慮に入れ、質、デザインとも洗練されたものを作りたい。

アイデアに満ちデザイン力に優れたアヤコさんがこの地を離れ、福島で新聞バッグを
作るようになれば、その不在を埋めるべく、微力な私でも少しは役に立つかも、という
思いの今日の新聞バッグ講習なのですが、「できた、うまい、きれい」と褒めてもらって
気づけばなんと午後8時。

信じられない!
ほんとに朝10時半から午後8時までこの不真面目な私が本気になって必死に
新聞バッグを作りました。
1日たったら忘れそうだけど、根気よく長時間付き合ってくれたアヤコさんに感謝。

アヤコさんに初めて会ったのは、大震災後のある時期、ロバートキャンベル先生が
鳴子温泉の高橋亭で行っていた読書会「読もう」の会場。一緒来ていた娘のアカリちゃん
がまだ小学生でした。
東京や長野などでの新聞バッグや物産の販売の遠征にはアヤコさんもアカリちゃんも
みんな一緒に行きました。そのアカリちゃんも今は東京の大学生。

上のお兄ちゃんふたりも大学を出て就職して、子育ての役目を終えたアヤコさんとは
車を駆ってあっちに行ったりこっちに行ったり。いっぱい仕事もしたけどいっぱい
遊びにも行きました。

去年は西吾妻山に登り、日本一美しい村を謳った東成瀬村を歩き、ついこの間は盆踊りで
有名な西馬音内の町で名物蕎麦を食べ角館でまだ蕾が固い枝垂れ桜の下を散策し、ついで
に温泉に入って岩盤浴まで初体験して楽しんできました。

原発で大変な思いをし、原発事故以来の8年はこの地で私たちと一緒にほんとにたくさん
働いて、たくさん新聞バッグを作って、常に私たちと一体のようにそこにいたアヤコさんが
いなくなるのは実感が湧かないほど寂しいことだけれど、ご主人が待つ南相馬に帰れる
というのもまた嬉しい選択。

しかししんどい新聞バッグ作りだった。帰ったら寝込みました。

長い間ありがとう、アヤコさん。
今日はアヤコさんがこの先使うドイツの新聞紙とノリを届けます。
今発注中の新聞バッグ、でき上がったら高速にのって南相馬から届けてくれるそうです。

こうしてまたこれから新しい形での縁が続いていくのでしょう。