小さい学校

孫の卒業式が終わりました。

首都圏からこの地に来て20年。

夫の定年後に思い立った田舎暮らしに娘がついてきて、まさか
結婚するとは。

福岡の生まれ育ちで人生の大半を首都圏で暮らした私たち夫婦が、
見も知らない宮城県北部の小さな田舎の町で新しい暮らしをする
だけでも冒険なのに、まさかここで孫を持つことになろうとは、
想像だにしませんでした。

男の子の孫は家の中では言葉も暮らしぶりも都会風、外に出れば
集落の子供としてトラクターに乗せてもらったり蛙やトカゲを
捕まえたり雪で遊んだりですくすく育ちました。

幼稚園はうちから近いので隣町の市立幼稚園。
小学校入学に当たっては、新入生の数が少なすぎて存続が危うい
集落内の小学校に戻って入学しました。

なんと新1年生の数は9人。その上の2年生は7人、3年生は4人か
5人だったから9人は成績優秀です。
9人の内訳は女の子が7人。男の子が2人で、ああ、男の子がひとり
じゃなくてよかった、と胸を撫で下ろしました。

それから小学4年生で町内5個の小学校が合併されるまでの3年間は
孫の学校友達はT君ひとり。T君からしてもうちの孫ひとり。
ひとりがインフルエンザで長く休むと、置かれたもうひとりが
待ちわびて1日でも伸びると泣くという場面もありました。

保育園から持ち上がってきたこどもたちはそれぞれがそれぞれの
個性をよく弁えていて、泣いたら泣き止まない子も怒ったら乱暴な
子もそういうもんだと理解して受け入れているこどもらの関係性
は都会しか知らない私には珍しく面白く、TVドラマの学校を見る
ようでした。

たった9人の濃密で楽しい集落の小学校での日々が終わり、4年生で
恐怖の小学校合併。知りつくしている9人から突如として30数人の
クラスで学ぶことになる子供たちの不安はいかほどだったか、と
思います。

合併してからの1年は、少人数から大人数に増えた学校の設備や授業
に関わる諸々も、子供たちの通学や勉強やおともだち関係も不安定
でした。学校に行けてた子が行けなくなったり、情緒不安定になったり、
学校も先生も親もこどもたちも課題満載でした。

あれから3年。

子も親も先生もよくがんばって合併を乗り越え、今日、卒業の日を
迎えました。
卒業アルバムには卒業する岩出山小学校の卒業生全員の写真と
3年生まで学んだ5つの小学校での全員の写真が掲載されていました。

全員といっても孫の同級生は9人、
驚いたことに隣の集落の同級生は2人でした。
3年生までふたりだったのね。

大人になっても決して忘れ得ない同級生になるのでしょう。

これから中学に進むけれど、顔ぶれは変わりません。
たった2クラス。クラス替えとはいっても限られた人数が入れ替わる
だけだから、これからの3年間、同学年全員の顔も名前もわかるよ、
という環境なのではないかと想像します。

それにしても人数が少ないということは、卒業写真の数々の場面に
孫の顔の登場の多いこと。
すっかり背丈が伸びてお姉さんになった7人の女子、スーツ姿の
2人の男子のかわいいこと。

お互いを忘れずしっかり成長していってほしい。
みんな(9人全員の名前を私はばーちゃんだけど言えます)
卒業おめでとう!
よくがんばってりっぱでした!

10年

あの恐ろしかった日から涙が止まらなかった日から10年の月日
が流れました。

長かったけれど短い、短いけれど長かった時間に感じます。
大震災前には考えられないほどたくさんの方々と会い、名刺を
たくさん頂いて、覚えてられないほどたくさんの出来事を
乗り越えてきた日々だったような気がします。

今日の日と思い決めて送ってくださったのだと思いますが、
フリー刺繍家の天野寛子先生からフリー刺繍画集「繋ぐ」の
第3弾が届きました。

ほんとうに素晴らしい、素晴らしいという一言では私のこの
感動と賞賛と先生への尊敬の心を言い表せない、天野先生の
魂がこもった刺繍画集です。日本中の人に見てほしい。

東日本大震災以降、天野先生は大震災に関する報道の写真や
記事を、先生の心に浮かぶ風景として色鮮やかな細い糸と針で
刺繍の絵に表されました。
先生が東日本大震災を忘れないためのかたち、だと冒頭に
書かれています。

第2部は先生が2013年から陸前高田で続けてこられた陸前高田の
みなさんに刺繍の作品をつくってもらう活動「みんなのたからもの
ししゆう高田松原」の作品集です。

この立派な一冊には丁寧に報道写真や記事の日付や、活動の
内容が日本語と英語で詳しく説明されています。

右の刺繍画は陸前高田の一本松の赤ちゃんですが、刺繍も
さることながら、選び抜かれた言葉での説明、そして世界に向けた
英文解説。たくさんの方の力の結集でしょうが、今年81歳に
なられる先生のお仕事への熱意と力量に敬意の言葉が見つかりません。

それに比べて私はどうかというと、頭の不出来は当然ですが。
先生の足の強さにも歩くスピードにも遠く及ばず、この10年で
まとまった何かというとなんにもできていない。

大震災の年に二次避難で鳴子温泉にひととき逗留された沿岸部の
方たちとともに海の手山の手ネットワークを立ち上げ、助け合い
ながら延々新聞バッグを作り続けてきた。それのみです。

先日元楽天球団の松井稼頭央選手のご縁で、今年から楽天に入団
して活躍を期待される田中投手の記事の新聞バッグのオーダーを
いただきました。

こういう記念すべき新聞バッグは、最初から新聞バッグを作り
続けてくれている南三陸のけいこさんにお願いしなければ、と
ワカメ収穫で大繁忙中のけいこさんを浜辺の作業小屋に訪ねました。

日中はワカメの仕事、夜は新聞バッグ製作で仕上がった多量の
新聞バッグを、持ち帰って次には洋裁機織り仲間が袋に詰めて
田中投手新聞バッグが完成。

どんな形でつかわれるのでしょう。楽しみです。
そして楽天にも優勝してほしいと思います。
宮城の人たちがどんなに喜ぶかと。

あの日から10年といっても区切る何かがあるわけでもなく、
機会あるごとに目にする沿岸被災地の復興という名の変貌に
驚いたり戸惑ったりしながら、なおこつこつと歩を進めて
東北の本来の力を取り戻す覚悟を新たにする通過点の1日です。

3月11日を挟んでの数日、その当日には電気も水も絶たれて、
実際には自分で観ることがなかったTVでの津波の映像は見るのも
つらい。寸法の合わない他人の服を工夫を凝らして身につけていた
鳴子温泉住まいの方々を思い出して胸が熱くなります。

そしてこの間の強い地震には慌てました。
あれだけ大きいのがきたのだからもう来ないだろう、と多寡を
括った日頃ののんびりが吹き飛んで、玄関の扉を開けて外に
出ました。そして東日本大震災の地震の恐ろしさを全く忘れて
いない自分の心に気づきました。

ビリビリと地面が裂ける黒い亀裂に驚愕し、「地球が壊れる!」
と指の震えが止まらなかったあの日を恐怖を、記憶が遠ざかったり
忘れかけたりする東北の人はいないと思う。

たまたま病院での予約診察の日で、診察を終えお薬ももらった
帰りの車の中でその刻を迎え、車を停めて黙祷しました。

10年経って私もそして一緒に助け合ってきた南三陸のけいこ
さんたち仲間も10歳をとりました。
この10年で紡いできた山と海の繋がり、人と人の繋がりが
何ものにも代えがたい私の宝物です。




正座のお稽古

昨年の春頃からか、
正確にはわからないが、気がついたら膝から下が痛くてしゃがんだり
普通に立ち上がったりすることができなくなっていてびっくり。

立ってるぶんにはよいけれど、床を掃除したり畑や庭で花を植えたり
草を刈ったりするのは痛くてできない。しゃがんだら立つのも苦労する。

原因は、まったく不明。
加齢?ということもあるかもしれないが、それにしても部落の新年会
では畳に座布団で座ってたのにこの急激な変化には戸惑いました。

しゃがめなくなってほぼ1年。
40歳から20年間も登山をして1日中山を歩いていたせいか歩くのは普通に
1時間でも2時間でも歩けます。

ところが、今度は腰が痛くなってきた。
お餅の仕事や直売所の仕事で朝から夕方までほぼ1日中立ち続けて
平気だったのが、近頃は2、3時間も立つと椅子を探したくなってくる。

歳なんだから痛くなって当たり前。と周囲には言われそうだけど、いつも
混んでる整形外科には行きたくないし、どうしたもんだかと悩んでました。

先日町に出た時に、用事と用事の間にできた3時間ほどの空き時間。
時間潰しにふと行ってみようかと思いついたのが整骨院。
私にとっては未知の世界です。

ネットで調べて特に腰痛治療と宣伝された鍼灸整骨院を受診することに
しました。若いスタッフさんがいるなかで私の治療をしてくださった
のは年配の先生で、鍼灸師、柔道整体師さんであるらしい。

うつ伏せに寝て最初にマッサージ。たぶん触る程度に軽いマッサージ
なのだろうけれど、これが悲鳴が出そうに痛い。ついで人生初体験の鍼。
鍼を刺す、とかまえた割には痛くない。次いでゼリー状のものを塗り
ながらのマッサージを受け腰は終了し、次にはしゃがめない足のこと
も相談して治療をお願いしました。

帰り際先生から告げられた言葉が頭に残りました。
「痛い時はまた来てください。まだ固まっていないのでお風呂に
入った時に正座の練習をしてくださいね」

夜、不安だった突然のマッサージの後遺症の痛みが出ることもなく、
これなら1週間に2度ほど通えば腰も足も治るかもしれない、と
期待を抱いてその気になったところで、なぜか治療を受けたところ
一帯に発生してきたのが蕁麻疹。なんで蕁麻疹なんか出るんだろう。
訳がわからず、次の予約はキャンセルしました。

でも先生から聞いた「お風呂で正座の練習を」の言葉は頭に残り、
以来、1日2日置きに通う川渡温泉の温泉のお湯の中で毎回正座の
練習をしています。
腰痛はさほど治ったとは感じないけれど、正座のほうは効果がある
ようで、少しずつ痛いけどしゃがめるようになってきました。

しかし話は全然違うけど、週に3度通う温泉のお客さんの姿の少なさは
胸に痛く感じられます。お客さんの姿があって見慣れた近隣の方々の
顔も見えての温泉貸切りは、「やった! 今日はひとりだ、貸切だ!」
と得した気分にもなるけれど、ほぼ毎回源泉掛け流しの温泉のお湯の
なかでひとり「正座のお稽古」というのも寂しいものがあります。

早くコロナが収束して普段の生活が戻りますように。