紅葉の鳴子峡

今日は1日よい天気でした。
暖かいし風がない。おまけに道の駅にお餅の出荷に行ったら、走っている車も道の駅に駐車している車も
ちょっとだけ少ない感じがするので、急遽うちの4歳と娘を誘って紅葉の鳴子峡へ。

近くに住んでいるのですが、紅葉の盛りに鳴子峡に来たのは、この10年で1度くらい。                               紅葉シーズンは人も車も混むので、紅葉見物はだいたいちょっと手前の潟沼で済ませます。             沼の畔の茶店でラーメン食べて帰るというのが恒例でした。

でも4歳の孫に見せたいので行きました。喜ぶかどうかわからないけど。

鳴子峡は4年前の内陸部の地震で大きな崩落があってからは、峡谷沿いの遊歩道は閉鎖されていま(す。

そう言えば昨年の震度6強の大震災では、鳴子峡の先にある私が春と秋に楽しみにして行っていた
熱帯植物園(温泉熱源の大きなドームでサボテンがたくさんありました)が完全に潰れました。
沿岸部の被災が大きかったから内陸部の被害は目立たないけれど、けっこう被害は大きかったです。

さて、鳴子峡の今の紅葉。

けっこう人は混んでます。

うちの4歳は、揚げまんじゅうと焼き鳥と焼きだんごときのこ汁まで食べて満腹。

遊んでばかりいる訳ではないんですけど、近くにこういうところがあるものだから、お天気がよかったり
するとつい行きたくなっちゃうんですね。

「ええ? 今から、今日?」と
誘い出された当初は言っていた娘が、「楽しいわ。観光旅行に来ているみたい」と喜んでます。
近場での間に合わせの観光旅行のようなものですが、孫ともども楽しそうでよかったです。

帰ってからが大変。

7時にヤマトが閉まるまでに新聞バッグ130枚、チェックして梱包して送り出して本日は終了。

 

 

 

 

 

 

 

雨の南三陸へ

昨日は1日雨が降り続く中、南三陸に行ってきました。

菊の小野寺師匠に会うことと、べつの仮設住宅に住んでいたK子さんとSAOちゃん一家が
仮設のすぐ下にあるご親戚の家に移られたから、そのお祝い、そして頼んだ新聞バッグを取りに行きました。

正直、雨が降る日にはあんまり南三陸に行きたくないです。水がどうなのかなあ、と思うから。
でも大丈夫。北上川もやたらに水量が多くないし、南三陸も静かな雨でした。

先日行った時と変わったことは、礎石とか床コンクリートを剥がし始めたこと。潰れた車のガレキはまだたくさん   残っているけれど、それ以外に見渡す景色の中に、これもガレキというのでしょうか。壊したコンクリート塊の大きな山々々が横にも縦にも連なっています。

復興に向かっての次の段階、とポジティブに捉えなければいけないのでしょうが、やっぱり壊したコンクリートの大山が目の端々まで連なっているというのは、見たことない景色だし、なんとも言えない異様な風景。
そして津波を被って赤茶色に立ち枯れた杉などの立木がたくさん伐られて積み上げられてます。あっちの山でも    こっちの山でも、造成のための木の伐採が行われていて、建設的のような荒涼としているような。

 

ただ港のほうは近づきにくいので行ったことはありません。

小野寺師匠の仮設の入り口に飲み物の自販機が置かれているのに気が付きました。
自販機の向こうのテントはみなさんが外で集える憩いの場です。

ここの仮設住宅から移転ができるのはまだまだ先のようです。

小野寺師匠の仮設から奥さんのムッちゃんに先導してもらってK子さんの新しいお宅へ。
このお宅は昨年暫らくの間新聞バッグ制作のために倉庫を使わせてもらったことがあるので、中を見せて
もらったことがあるのですが、お部屋が10もあるような立派なお宅です。
おじいさんもおばあさんも広い居間の掘りごたつに並んで座っておられて、お話しすることができました。

避難の旅館から仮設住宅に移られた時にお会いして以来です。狭い狭い仮設住宅でご不自由だったと
思いますがお元気そうでした。

月並みな言い方で表現に困るのですが、おじいさんやおばあさん、K子さんにお父さん、そしてsaoちゃんや
いつも一緒の新聞バッグインストラクターのシンコさん。お会いする度になんていい方たちなんだろう、と
心から思います。

シンコとおじいさんが呼び捨てにされるので、「シンコさんはご親戚ですか」と訊ねたら、おじいさんは
「違う。親戚じゃないけど家族と一緒だから。仮設の9世帯みんな家族みたいなもんだ」と笑われました。
これから先のお仕事はワカメ準備だそうです。

 

そしてひとつ私がとてもびっくりしたことがあります。

大震災から1年半。東京などから友人や知人が宮城を訪ねてくる度に、被災地に案内するのは毎回の
ことですが、行く先はサンサン商店街で買い物するくらいで他に行くところがない。

 

どこか行けるところはないの? 海辺とか? と、最近思ってました。

そう思って先日4歳の孫を連れて海に出かけたのですが、浜辺に降りられるところがない。
あるんじゃないのかなあ。細浦とかなんとか浦とか道路の標示はあるので、見に行こうかなあとは思うものの
自信がなくて行ったことはありません。

で、今日はよい機会なので「どこか行けるとこ、浜とかないんですか。人を呼びたいけど行くところがなくて」
そう訊ねたら「海は水がいっぱいで砂浜とかはなくなってしまった」「いつも高潮だ。水が引かない」
と答えが返ってきました。

 

引かないんじゃなくて、潮の満ち引きがわからないくらい地盤沈下で町の外は海そのものになちゃったんですね。
驚きました。これだけ南三陸に来ているのに、あちこちの浸水地を見て、川の水と道路の境がすれすれになって
恐ろしいなと思っているのに、わかっていませんでした。

ほんとうに大変なことなんだな、と改めて思いました。
人を南三陸に呼びたいけれど、行くところ、見るところ何にもない。
私の場合は仮設住宅にお邪魔して、喋り始めたら時間も忘れますが、知り合いがいない観光だったら、材料が
少なすぎて後が続かない。
難問ですねえ。

 

 

 

 

 

 

インストラクターさまざま

東京国立のギャラリーさんから新聞バッグ100枚の注文をいただきました。

折しも、イベントなどで新聞バッグのご注文を多くいただいていて、在庫が薄い。
ということで、ベテラン、新人取り混ぜての新聞バッグ制作になりました。

ベテランは勿論南相馬のあやさん。新聞が足りなくなったー。なんか取っ手がぶっとくなったよー。
あれ?サイズが合わない、などなど、新人の質問があやさんに集中します。

その都度、「取っ手の新聞紙の切り方が違ってる」「新聞が違うんじゃないのォ」「わかった。大バッグの補強を
小バッグにつけたんだ」と指摘しつつ、足りない新聞は運んでくれたりして、あやさん、大活躍。

新聞バッグ作りを初めて1年半。
新聞紙1枚を自在に扱うあやさんの手業に、凄いなあ、と改めて感心します。

今回から参戦したのんちゃんの作る新聞バッグはおしゃれです。のんちゃんはアート的性格が勝っているようで、
一番に新聞の絵柄が気になるみたい。今日最初に作ってもらった新聞バッグはブルーの水平線が真ん中に
あるような図柄で素敵でした。使っているのはフランス新聞。のんちゃんによく似合います。のんちゃんは
フランス新聞紙で作りたいみたい。

 

娘の新聞バッグもギャラリーを意識した絵柄が選んでありますが、まず目だつのはサイズに狂いがなく、カッチリ
仕上がってます。サイズがずれたりするのは苦手のようで、ジャパンタイムズオンリーで作るつもりのようです。

海山の事務をお願いしているチエちゃん。頼んでみたら、新聞ないからデイリー読売で作るからと。
各インストラクターから送られてくる新聞バッグを厳しい目で検品する日常を送っているので、彼女が作る
新聞バッグも完成度が高い。

 

そしてあやさんは、日経新聞が好みなんですよ。
今、日経新聞はご縁がなくて、手元にありません。不要な日経新聞ありますよー、という方がいらっしゃったら
ご連絡ください。

 

それぞれを見ているとみんな違っていて面白い。                                       去年の夏頃、まだ鳴子の避難所にいた南三陸インストラクター部隊が、新聞がなくて、旅館街を買い物しながら 新聞を貰い歩いていた頃とは雲泥の差です。それだけみなさんに援けていただいたということでもあります。

 

「みんな凄く違っていて面白いなあ」とあやさんに言ったら、 「金子みすずみたい?」だって。

金子みすずの詩。-みんなちがってみんないいー

みんな違う特徴があって役割があって、お互い大切で結びついて感謝! ということだね。

私がのんちゃんの家に行ったり、のんちゃんとのんちゃんのお母さんと孫の赤ちゃんがうちに来たり、あやさんの
勤め先に新聞紙とりに行ったり、バタバタと忙しかったけど、それなりにみんなの違いが見られて、おしゃべりしながら作る様子も楽しそうで、面白かったです。

出来上がりが楽しみ!

 

 

 

 

 

 

 

こけし三昧

さっき地震がありました。

けっこう強い。震度5はいくなあ、これは、と家の中で踏んばったままテレビをつけたら、やっぱり宮城中部で
震度5弱だった。

大丈夫か?とまず思うのは福島、そして津波。
でもどちらも影響ないみたいでよかったです。
5ならいいんです。弱でも強でもいい。

でも6はほんと、もう嫌だ。壊れるから。なんでもかんでも壊れて治すのに時間も心もかかるから。
6だったら私、弱音吐きます。

うちの壊れたところはやっと治ったけれど、前の道路はまだ来年まで大きな工事中。
未だにあっちもこっちも工事中。そしてやってないところもまだたくさんある。
ここで大きいのが起こったら元の木阿弥ですものねえ。踏ん張っている気持ちも萎えます。

 

このところ、川渡温泉、東鳴子温泉、鳴子温泉の間を行ったり来たり。
鳴子温泉に新聞バッグを折るあやさんの家があり、あやさんがアルバイトやっている職場が川渡温泉にあり、
新聞バッグのお客様が東鳴子温泉にあり、という具合でこの2、3日温泉ではなくて温泉街に入りびたりです。

昨日は新聞バッグをとりに鳴子温泉へ。
今日は代金を持って再度鳴子温泉に。

そして気づきました。至る所にこけしがあるってことを。
やっぱり鳴子温泉はこけしの町なんですよ。

鳴子の町に向かう橋の欄干のこけし。

鳴子の役場です。この建物は古いです。先日の江東区役所の9階建てにもびっくりしたけど、この建物の古さにも
最初見た時びっくりした。正直、人が住んでいないのかと思いました。

ガードレールにもこけし。鳴子の駅。

あやさんが働くたまごやさんという駅前の喫茶店にもこけしがいくつもありますが、ちょっと違う写真を撮りました。

下の方にあるのはあやさんが作った紙面を斜めに使った小型の新聞バッグです。取っ手はなし。
特殊な折り方なので、底がしっかり台にくっついてます。カッコいいなあ。こけし展の案内はがきが入ってます。
これだとなんにでも使えますよね。

後ろに見えているのが、文学講座「読もう」で毎回ロバート・キャンベル先生に御馳走になっていたシュークリーム。
このシュークリーム、おいしいです。

やっぱり鳴子温泉は伝統あるこけし人形の町なのですね。

そして私の目的は、あやさんが作った新聞バッグを受け取ること。

赤い車と緑のお茶。私は素敵だと思います!

鳴子温泉には9種類の温泉が湧くそうです。小さい旅館も大きい旅館もありますが、温泉かけ流しばかり
なので、湧かし湯というのはここでは入ったことがありません。

これだけ温泉にばかり行っているのだから、たまにはお風呂に入って帰ろうと入浴用品一揃いを
持って出かけました。が、はッと気づくと、お風呂に入り忘れて家まで帰って来てしまいましたとさ。

何やってるんでしょうねえ。戻る気力もなくガックリ!

 

 

 

 

 

せつないなあ。

朝の道の駅のバッグヤードで。

毎朝、だいたいおんなじ時間帯で顔を合わせる生産者はだいたい同じ顔ぶれです。
私は毎朝9時過ぎ。農家のお母さんやお父さんがたはもっと早いです。

今日は農家のマイコちゃんが嘆いてました。
「気持ちのいい秋になったとは思わない。まずはらずもねどこ嫁さきた」
ええっ?聞きなれない言葉に思わず値札を作る手を止めて振り向きました。

「なんてったの?今。秋が気持ちよくない、と言ったの?」
いつも元気なマイコちゃん。お歳は60未満くらいだけど、今日はなにやら精彩がないです。

「らずもね、らちもないとこに嫁に来たもんだと言ったの」
10年住んでも宮城の言葉に慣れない私に、笑いながら説明してくれました。

「なんで?どうしたの?」

「機械が壊れて修理代かかるの。1年かかって米作って収穫しても機械の修理代が80万円。
80万だけじゃない。共済かそんな金払ったら100万円は越す」

言葉もありません。                                                        農家の奥さんの仕事はお米作るだけじゃない。野菜を作って山菜とって塩漬けして、
草刈ってと朝早くから日々働いて、田んぼに肥料入れて水管理してやっときた収穫の秋に1年分の
働き代がぜーんぶ持ってかれるような事態が起こったら、そりゃあやってられないわ。

 

そうかあ。秋がきれいだなんて気持ちにはならないよねえ。
しかし、お米を作る。米余りだとか減反だとかお米を巡る問題はいろいろありますが、でも日本人の基本の
命を守る食料であるお米を作る仕事は、もっと大切にされなければならないと思うのですが・・・。

昨年の東北大震災の時、我が家には玄米と餅米がありました。お餅屋なので餅米はたくさんあります。
停電はほぼ8日間。じーっとしていてもお腹は減るので、まあとってあったラーメン類や冷蔵庫の中身など
ほぼ食べつくしました。

味噌は毎年作るし、米もあるから大丈夫だと思っていたら長い停電で精米したお米が底をついてきた。
困りました。さて、ビンで搗くか、とも考えた。

でもこれだけこの地に住んでいるのです。誰かに頼めば精米をわけてくれるかもしれないと聞いてみたら
誰一人として、あるよ、との答えはなかった。

そこで考えたのです。みんな最後の命綱である米をよほど余裕がある場合を除いてはわけてもらうことは
できないと。今は米を売らない人が作るのは自家用飯米くらい。そんなに余分なお米をたくさん作っている
時代ではありません。私の母のように着物を持って闇米を求めた戦後のひと時期とは全く違う。

 

これは大変なことなんだと思い知りました。

4歳の孫がいるので放射能の心配がないお米を2袋60㎏。
自分たちの飯米を2袋60㎏。常備するようになりました。

先日の車座ミーティングでご一緒した東京からみえたリーダーの先生。
私はいつも60㎏常備している、と仰ったけど東京の人で珍しいなあ、と思いました。

「農家なんて継ぐものじゃねえ。長男には帰ってこいとは言わない」
マイコちゃんの嘆きは続きます。聞きながら「せつないなあ」と思います。

さんざん都会で消費生活をして、その後農業地に住んで生産をする暮らしを知りましたが、生産は人の暮らしの中で
最も基本に大切な仕事ではないかと今は思うようになりました。

マイコちゃんがお米の収穫が終わって、「ああ、やっと終わった。気持ちのいい秋だー!」と言える日が早く来ることを願います。

 

 

 

 

 

 

もうすぐ新聞バッグコンクール

昨年の秋、初めて参加して、被災地と非被災地の生活感覚のあまりの違いにガックリとした新聞バッグコンクール。
その3回目の開催日が間近に迫ってきました。行われるのは新聞バッグが生まれた土地、高知県四万十川の
中流域にある町。

昨年はまだ新聞バッグの制作を始めて間もない頃で、「コンクールに参加しませんか」と問い合わせがあった時
には、「私たちは日本一の新聞バッグを作れるんだ」と張り切りました。

作り方というのはまだそれほど自信があるわけではないので、地震、津波という1000年に1度の災害が
起こっている土地での新聞で作るんだぞ、という、まあ、たぶんその話題性に軸足置いての気持ちの高揚だった
と思います。

 

まず新聞選びから始めました。

3月12日の震災翌日の新聞は1枚です。地元紙は被災して新聞を作れなくて、新潟まで送って印刷されたという
貴重な1枚の新聞紙。これは使うわけにはいかない。ほんとにほんとに悲しい記事ばかりで、新聞バッグ向きの
紙面なんて見つからない。それでもその中からちょっとでも希望の灯がみえるようなものをみんなで探して
作ったんだよねえ。

今鳴子で避難生活を送っている南相馬のあやさんは、その頃炎天下の梅農場の枝豆畑で、枝豆採りの車に
くっついて歩いて枝豆を採る仕事をしてました。
津波で流された南三陸新報社の記者であるOKさんが持っておられた新品の新聞紙を頂いて、そのダンボール箱を
持って、「あやさーん、新聞もらってきたよーッ」と枝豆畑を走ったことを思い出します。

でも残念ながら1等賞をもらうつもりで作った新聞バッグは、ようやっと主催者である四万十ドラマの畦地社長の
お気持ちで、あやさんの「前へ」という題の新聞バッグだけがなんとか入賞になりました。
副賞をもらって、みんなに持って帰れる、と嬉しかったです。

 

そんな思い出がある新聞バッグコンクールですが、さて今年は?

どれどれ、と鳴子のあやさんの住宅にコンクール用の新聞バッグを見に行ってきました。
写真で出したいけど、コンクール用なので出すわけにはゆきません。

でもとてもユニークだった!

彼女は中学1年生の娘のakariちゃんと暮らしています。鳴子の外れの温泉街が全部見える見晴らしがいいというか、変わったところに住んでますが、その家の広いことに驚きました。
あやさんは鳴子がよくて住んだわけではなくて、原発爆発当日一緒に避難したお友達が鳴子にきたからここに
住むことになったのだけれど、今はお友達は南相馬に戻り彼女たちは残ってます。

ここはもしかすると雪が多くて寒いだろうなあ、とは思うのですが、いったん出ると自立とみなされるので、移転
するわけにはいかんのだなあ。しかし広くて昔の家なので寒いです。彼女は元気よく立ち働き、私に夕食まで
御馳走してくれたのですが、私は炬燵に潜って動けない図。

 

よっちゃんから、コンクールにあやさんや、akariちゃん、よっちゃんちで仕事をしているのんちゃんを新聞バッグ
コンクールに連れて行く旨のメールがきました。

3人とも四万十新聞バッグの作り方の講習を受け認定されたインストラクターです。
「あやさん,のんちゃん、共に故郷を失った被災者として目の前に『新聞バッグを作る仕事があるんだ』と伝えたい」
それを現地から少しづつ興していく魂を伝えてほしい、
とありました。私も3人に四万十に行って日本一の清流といわれる四万十川の保全に貢献している新聞バッグ
のルーツを感じてきてほしいと思います。

南相馬に暮らしていた人と南三陸の海辺で育った人間が、四万十川の中流域まで行って新聞バッグのルーツ
を辿るなんて、面白くてすごい話だなあ、と私は一人で喜んでます。

 

 

 

 

 

蕪栗沼

ミーティング終了後は、蕪栗沼へ行きました。

蕪栗沼は大崎市田尻町にあるラムサール条約指定地になっている渡り鳥の越冬地です。

蕪栗沼へ行くまでもなく、毎年10月になると、遠いシベリアから白鳥、マガン、カモなどの渡り鳥がこの大崎に
降りたちます。

この地に越してきた年の秋、この辺りでは最も大きな町である古川のジャスコの駐車場でマクドナルドの
ハンバーガーを食べている時に、頭上をコウコウと鳴き交わしながら飛ぶ白鳥の群れを見て、自分の目が
信じられませんでした。「今の白鳥じゃなかった?」と家族で半信半疑で顔を見合わせたものです。

新潟県の瓢湖くらいしかしないのかと思っていた白鳥が、大崎でも山形でも川や田んぼや沼などにいるいるいる。
古川の江合川にある白鳥公園と名付けられた水辺では、人間の公園ではなくて渡り鳥の公園といっていいぐらい
たくさんのカモや白鳥が陸に上がっています。野生のはずなのに全然人間を怖がらずにエサチョーダイと寄ってきます。

蕪栗沼は越冬する何万羽ものマガンが早朝には餌場に飛び立ち、夕方にはねぐらに帰る姿が有名です。
田んぼに入って落穂を食べるマガンは何時でもどこでも目にしますが、蕪栗沼まで行って餌場から戻ってくる何万羽ものマガンを見るのは初めてです。

蕪栗沼は近づきにくいです。細い道をたどってやっと到着しても、帰れるかしらと心配になるような場所にあります。

まだ薄明るいのでマガンたちは帰ってきません。

寒くなってきましたが、せっかく来たので待ち続けます。

最初の何羽かが見えました。芥子粒みたい。その後ろにも続いてきます。

こんなに暗くなってからゾクゾクと帰ってきました。

稲刈りが終わった後の田んぼに水を入れて雁がはいれるようにするここでのやり方を「ふゆ、みず、たんぼ」と
呼ばれていますが、その活動を4年続けているという若い女の子、仮称K子さんとしましょう。
彼女の説明によれば、マガンは終生一夫一婦制。常に子供を真ん中にして守るそうです。
飛ぶ時もファミリーで飛ぶ。

白鳥も同じですね。お父さんとお母さんがいてグレーの子供がいます。アンデルセンの醜いアヒルの子。
グレーの子供は大人よりも警戒心が薄く好奇心が強いので、人にも寄ってきます。

白鳥もマガンもファミリーで飛ぶ時は鳴き交わしながら飛びます。

カモはマガンと違って薄情者だそうで、雛を孵すとお父さんカモはさっさといなくなり、そのうちお母さんカモも
いなくなり、子供たちは子供たちだけでかたまって育つのだそうです。

K子さんはほんとうに鳥が好きなようで、その説明を聞いているとマガンの家族のようなだと思いました。

蕪栗沼でこのワークショップは終了です。
寒かったけど面白かった。結結プロジェクトの皆さま、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

車座ワークショップに参加しました。

誘われて結結プロジェクト車座ミーティングに参加してきました。
直前に入れてもらったので、プロジェクトの成り立ちや目的はわかりません。

まずは場所。

隣町古川のそのまた隣にある田尻町の奥座敷のような加護坊山。一度しか行ったことがないのですが、
春は桜の名所です。今は草スキーができるような草っぱらの山。この加護坊山にあるレストランが会場です。

こんな草っぱらの山がいくつも。

朝お餅の仕事を終えた後、車で30分ほど走って来たのですが、ちょっと早過ぎました。
風に吹かれながら、ちょっと頂上まで、フラフラフラフラ。

うーむ! 見晴らしがいいです。蔵王連峰、舟形山、七つが岳、奥羽山脈など見えると案内板にはありますが、
どれがどれだかわからない。

小さな山のリンドウが咲いてました。
近頃山に登らないので、山の花々の名前を忘れてしましました。でも平地のリンドウではありません。

これも名前を忘れちゃったけれど、風に揺れて一面に咲いてます。

時間がきて会場へ。

このプロジェクトは首都圏からきたエキスパートの女性と被災地の女性が、東北大震災やその他の問題を
ワークショップ形式で問題提起をし、話し合うという場。なのだと思います。

今回が4回目ということで本来は南三陸で行なわれていて、みなさん昨日から南三陸を視察したり、宿泊するホテルでのミーティングなど終えられています。が、私は翌日の午後からの参加なのでどなたが首都圏のエキスパート
なのか、南三陸の方なのか区別がつかないです。

ワークショップは前半と後半に分けられていて、班ごとにテーマがあり、どこに座ってどのテーマに入っても自由という形式。でもどのテーマも新聞バッグとは離れているので、テーマが選べず、すぐそばに在った「現場からの発信、
メディアを使う」というような班に入りました。

「今現在東京の新聞に連載中の投稿記事について」の意見を。現場を見る機会がない首都圏の人々に伝えたい、
といういろんな意見が出ました。
中で私が驚いたのは、「宮城には検査機関が一か所しかありません。1検体19800円です」と言ったところが
班の意見を率いるリーダーの方が大変驚かれたこと。その驚き方に私のほうが驚いた。

「ええッ?! 福島には行政区ごとにたくさんありますよ」

ということですが、宮城は福島ではないので、検査は実に不便です。
私の木の実は(夏ハゼの実)、通常なら道の駅に出して、検査委託先の東北大学で検査をしてもらうのですが、
機械が不調ということで現在行き止まったままです。農協でもできるということですが、私は農協に野菜を出荷
していません。ということで、今週仙台で新しく始められたという民間検査機関にお願いするつもりです。

後半は「南三陸の未来を考える」というテーマ。

このテーマは実に不思議な感じがしました。

「8年先または10年先の南三陸がどんなふうになったいたらいいと思いますか?」という意見交換。
8年先?10年先?

30万人を超える仮設住宅入居の方たちの先の見通しが立たない現在、8年先、10年先の南三陸がどんな町になっていたらいいと思うか、と南三陸の住民ではない私たちに意見を求められても困る。
テーマ自体が私には理解できない。

未来というなら来年のことでも明るい展望が見えるなら、仮設にいる海の手さんたちは、うんと元気になると思う。
10年先よりも、今年、来年をどうしたら明るい気持ちで今の状況を乗り越えていくか、という意見の交換なら
少しはこの1年半で感じたことをお話しできると思うのですが。

このミーティングで大和総研の河口さんにお会いできたのが大きな収穫でした。
河口さんはもうだいぶん長い間、海の手山の手ネットワークにイギリスの高級経済紙フィナンシャルタイムズを送り
続けてくださっています。淡いオレンジ色の紙面にある写真や絵がとても素敵なので新聞バッグに仕立てると
とても人気があります。

河口さんからは新たなご提案もいただき、この先もフィナンシャルタイムズを送っていただけることになりました。
ここでお会いできるなんて思ってもいなかったので、嬉しいことでした。

この後はラムサール条約指定地、白鳥や雁の越冬地、蕪栗沼の視察です。

それはこの次にします。