ピンチはチャンス③

新聞バッグはモノも入れられるし、飾ることもできるし、新聞バッグの絵柄や作り方によってはメッセージ

を送ることもできます。会社などから注文をもらえば、作った人が報酬をもらえるお仕事になり、おしゃべりを

しながら新聞バッグを作る人たちの心を繋ぐツールにもなります。糊と古新聞で作った新聞バッグは、ただの

紙の袋ではなく、実はいろいろな役目を果たすことができる凄い袋なのです。

今日作る新聞バッグは誰のために作ろうかなあと考えてください。あげよう、と思う人の顔が浮かぶと、とたんに

力が入ります。そして作り終えた後はみんな「やったあー」と笑顔になります。

 

私からのお願いです。

新聞バッグを作った今日この日を忘れないでください。

東京にいると東北や熊本やその他の土地の災害に関連する言葉や文字に触れることはほとんどない、と思い

ますが、東北では思いがけない災害で大変なめに合い、そこから今も抜け出せない人たち、仮設住宅で小学校

から高校まで通わなければならない子供たち、補助事業の打ち切りでお仕事がなくなり不安な思いをしている

人たちなど、災害後の暮らしの立て直しを今も一生懸命に努力しておられる方たちがたくさんいます。東北の

他にも熊本にも茨城にもその他の地方にも同じように頑張っておられる方がいることをどうぞ忘れないでほしい

と思います。

 

月曜日の夕方にここで大きい地震がありました。

震度5くらいの揺れ方でけっこう長く揺れました。ここ宮城にはもう町が壊滅するような地震はこないだろうと

思っているのでそんな不安はないのですが、大きな地震が来ると「関東に来たのじゃないか」「その余波じゃ

ないか」とすぐに思ってしまいます。その時は福島でしたが、福島にも大きい地震が来ては困るのですが、首都圏

には子供も友だちも多く住んでいて、もしも東京に大地震が起こったら大変なことになると分かっているので、

その警戒感、危機感は東京に住んでいる人たちよりも「来たらどんなふうになるか知っている」私たちのほうが

もっと強いのかもしれません。

 

もしも東京に震度6強以上の大地震が来たら、勿論ハード面では建物も道路も首都高速道路も地下鉄も壊れ、

人口が多い分だけ水や食糧の確保も困難になりますが、人の心がどうなるかという別の問題も発生してきます。

よく町の復興、人の復興といいますが、町の復興は国にやってもらうにしても人の復興は自分たちの問題です。

長い間自分の家族や仕事を護って生活を築いてきた大人は、地震でその地盤を一瞬にして奪われると、その

壮絶な変化に耐えられなかったり、立ち直る気力を失くして立ち尽くす大人が多く出るかもしれません。

東北でもそうでした。その時に大活躍したのはみなさんのように大きい子供たちでした。

 

家や家族や仕事など、一家の安全と安定を担う大人は混乱して大変なのです。何をどうしていいのかわからず

呆然としていても、それでもそんな時でもお腹は空くし、寝る場所も作らなければならないし、人が生きるうえで

必要なことは普通に起こってくるのです。

そんな時子供は一家の家や仕事の心配をすることはできないけれど、災害を受けたもの同士が助け合うための

掃除係りだとか食糧係りだとか衛生係りだとか、心配の多い大人に代わってやれることはいくらもあります。

東北でもたくさんの仕事を子供たちがやってくれて、時間が経ってくると大学生が小さい子供に勉強を教える

ことなどもやっていました。

今世の中ではスマホひとつあれば顔を合わせなくても友達と話せる。計算もできる。地図なんかなくても約束

したところまでスマホ見ながら行ける。なんでもできてしまいます。でもスマホがなくなったらどうするのか。

 

ここで二つ目のお願いです。

スマホに詳しくなるのも必要なことだけれど、大災害が起こった時にスマホでできることはほんの一部です。

生き延びるためには自分の頭で考え手足で動く力がなんといっても重要なので、みなさんにはその自分で

動ける能力を失わず蓄えてほしいと思います。

スマホもパソコンも電話もナビも3月11日の2時46分に一瞬にしてなくなってしまった東北では、南三陸と

岩出山で連絡をとることもできず、用事がある時には車に乗って1時間半もかけて話をしに行ってました。

行っても電柱も建物も道路も標識も全部なくなって目印がない町はどこがどこだかわからず、到着するのに苦労

しました。満ち潮になると地盤が下がった道路に海水が流れこんでくるのが怖くて、そして灯りが全くない壊れた

町が怖くて行く時から帰りの心配ばかりして疲れていました。

 

男は船で仕事をし、女は浜の共同作業で魚の加工や養殖の仕事をしていた沿岸部の人たちは、団体で動く

力が強く、避難先では船頭さんたちリーダーが若者を統率し、足りないものは自分たちで作りだしていました。

子供たちも大人を助けて一緒に働きました。そのような経験から被災地の子供たちは、被災地に残って被災地

のために仕事をしたい、という若者が多く出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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