地震と水脈

海山のメンバー黒田さんが故郷熊本まで出向き、お母様と猫を連れて戻ってきました。

想像したこともない大地震、長年熊本に住まわれて経験したことがない避難場所での宿泊、始まってから毎日地面

が揺れ続ける1000回以上にも及ぶ異常な余震。

福岡育ちの私と同様、来たこともない東北の地に突然来られて、まだまだお疲れと戸惑いとご心配の最中だとは

思うけれど、ご挨拶かたがたお母様のお見舞いに伺いました。

新聞やテレビのニュースを見るたびに驚かされるのは、熊本、大分の地震後の異変。

震度6強や7で家が倒壊したり、お城の石垣が崩れ落ちるなどは、強い地震では驚かないけれど、普段湧水で満た

された水前寺公園の池の水が干上がって底が見えているのには驚きました。

もともと熊本は湧水の町。これまで何度か旅して、湧水が湧き出るところに行っては「いいな、いいな、こういうところ

住みたいな」と憧れてました。

 

それが干上がったり、出なくなったり、温泉も温度が上がったり下がったり出なくなったり。地下で何が起こっている

のかと末恐ろしくなりますが、お母様が言われるには「熊本の下には岩盤があり、その下に地下水が流れている。

その岩盤が割れて地面が水によって動かされているのでは、と熊本の人は言ってます」とのこと。

見えないってことはほんとに怖い。それに昼日中も夜ものべつまくなしに地面が揺れるなんて、おちおち家事も

仕事もできなくて、地震地域のみなさんはほんとにお疲れだろうとお気の毒でなりません。

 

大規模地すべりが起こった南阿蘇の産山村。

16,7年前、ここには私が岩出山に住む前に土地を求めて行きました。雄大な阿蘇外輪山の麓を巡る緑豊かな

丘陵のそこここに赤牛が草を食む実に美しい景観の土地でした。外部からの移住の人が入り始めた頃で、

垢抜けた土産物屋やレストランなどがぽつぽつと見られ、この先都会の観光客を惹き付ける観光スポットに

なるだろう、と予測される雰囲気がありました。

福岡在住の両親と一緒に住むための土地探しでしたが、残念ながら山の中の未開発の土地としては宮城の

地価と較べて倍から倍以上も高かった。地価が高いということは生活全般のお金も高い。それと冬はそれなり

に気温が下がって雪が降るらしいけれど、町までの道のりが遠すぎる、という理由で美しい産山村に惹かれつつ、

購入は止めました。

そのほか安心院や熊本市内も見ましたが、市内は盆地で暑すぎて寒すぎると、既に土地を持っていた見知らぬ

東北の地、岩出山に行くことを決めました。

 

あそこに住んでいたら、と思うと、なんと言ったらいいのか。住まなくてよかった、とは言いたくないけど、ご縁が

なかったのでしょう。山は崩れ、美しい丘はずたずたに壊れて痛々しい。

でも私は産山村には住まなかったけれど、岩出山でさんざん地震に揺さぶられています。 まだ壊滅状態にはなっ

ていないけど。

 

岩出山に住んで大きい地震には3度遭遇しました。

最初は福岡から来た父が腸閉塞になり、岩出山の病院に入院している時で、大きな揺れが来たかと思うと

病室を仕切っている扉がダンダーンと大きな音を立てて右に左にと勝手に開き、枕頭台が床を走り、テレビが台の

上から転がり落ちそうになりました。

屋上からは水が噴き出し、洗面所の顔を洗うコンクリートの流し台が全部崩れ落ちて壁に水道の蛇口だけが

並んでくっついているのをみて愕然。小学校の山が崩れて教室に土砂が雪崩れ込んだのもその地震の時で、

「えらいところに来たもんだ」と不安というより驚かされました。

 

その次は栗原の内陸地震でたしか震度6強。栗駒山の一部が崩落して無くなり、栗原や一迫の住宅は大きな

被害を受けました。

丁度山菜や山の竹の子を採るシーズンで、山に入っていた道の駅直売所の生産者も車を山に置いて歩いて下山

した、という人が幾人もいました。栗駒山を越えて秋田に向かう道路は山の崩落で全て閉鎖され、開通するまで

2、3年かかったように覚えています。山奥の温泉旅館が崩れた土砂に埋まって亡くなった方も出ましたが、難航

する捜索作業で泥だらけになった自衛隊の車輌や自衛隊員を車輌の集結場所である道の駅の駐車場で

「ご苦労さまです、ご苦労さまです」と思いながら毎朝見てました。

家屋は無事だった我が家の損害は井戸のポンプ。水を汲み上げられなくなってポンプ代うん十万円の大損害。

鳴子温泉のお湯の温度が高くなったり、花山の温泉が使えなくなったりしたにも関わらず、ポンプが壊れたことに

気をとられて水脈のことなど、考えなかった。

 

次が311。これはいろいろと損害を蒙りました。

地面に亀裂が入って恐ろしかったし、またもやポンプが泥を噛んで動かなくなった。再度のポンプ代うん十万円

よりも今回は初めて水脈が大丈夫なのか、それが心配で2週間もかかって、九州から新しいポンプが運ばれて

きてポンプを動かしてみて泥色の水があがってきた時には、実にバンザーイというような気持ちになりました。

 

井戸を掘り直すなんて大変だもの。それも大震災後の沿岸部もどこもかしこもメチャメチャな時に、7、80メートル

もの深さの井戸を掘ってくれる職人さん探すだけでも絶望的でした。

その時から私は水脈に敏感になりました。

私が一番欲しいものは発電機と水がいっぱい蓄えられるタンク。そう公言して憚らなかったのだけれど、近頃は

順調に水が出るものだから気が緩んでいるのを、熊本の地震で気づかされました。

 

黒田さんのところにお邪魔して摘んできた花はこんなにきれい。

DSCF2128

地震が少し沈静化するまで、岩出山でゆっくり過ごして頂きたいと思います。

明後日は富良野からラベンダー300本がやってきます。由美さんとかよっちゃんとか集落のお母さんと一緒に

ラベンダーの作業などやっていただいたら楽しいかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春です!

お餅を出して道の駅から戻ってくるお昼頃、路上で珍しいものを発見。

赤茶色の小さい生きもののようなのが、道路の端でごろごろコロコロ、ころころゴロゴロ。

何やってるんだか生きものなんだかゴミみたいなものなんだかさっぱり判らないけれど、でももしかして、小さい赤茶

色の生きものが車に撥ねられてもだえてる?

急停車して窓を開けのぞいたら、なんと2匹のテンが壮絶に取っ組み合って喧嘩してました。

ふあふあの毛色が赤茶の夏色に変わってもの凄くきれい。このままじゃ団子になったまんま車に轢かれるだろう

から仲裁しょうと外に出たらパーーッと離れて田んぼの中に走っていっちゃった。。追いつ追われつ2匹になったら

立派なテンでした。

 

春なんだなあー!

猫も忙しそうだけれど、オスのテンも大変だ。

今年は孫の小学校での熊出没情報ももう3度目か4度目。まだ暖かくなって間もないのに。2、3日前は由美さん

ちのほうに出たそうです。

これから竹の子シーズン。熊は竹の子大好きなので、竹の子が出る間は離れないよ、その辺で寝てるよ、と隣家の

ご主人から聞きました。竹の子と一口に言っても、孟宗、カラタケ、破竹と3種類が終わったら、次にはかぼちゃだの

トウモロコシだの果物だのと畑の作物が実るので、熊は他所に行く理由がないんだね、きっと。

子供たちはランドセルに熊鈴をつけ、ふだんなら子供だけで行く学童通いも車だったり大人が付き添ったりで

通います。昨年はドングリの豊作で冬の間に産まれた仔熊が多いとか。お母さん熊は怖いから出会わないように

気をつけなくては。

 

孫のランドセルの熊鈴。

DSCF2108

あんまり効き目がありそうには見えないんだけど・・・・。

 

 

川渡温泉の菜の花フェスタに行くために菊作りの小野師匠が南三陸から出てきてくれました。

大震災の年の4月に梅農場で初めて会って以来小野寺夫妻とはもう5年のおつきあい。ご主人は元外国航路の

船員さんで今のお仕事は菊の花栽培。出会った時は小野寺さんのお宅も菊栽培をしていた畑も奥さんが仕事を

していた工場も全部津波で流されてしまった状況だったけれども、今は新しいおうちに住んで(まだ行ってない)、

菊の栽培も順調に回復して奥さんも再建された工場でお仕事をされています。当時は必死で一緒にお仕事を

して支え合った海山仲間だけれども、今ではこうして1年に2、3度海の恵みのお土産を持って、よっちゃん、梅農場

の宗一さん、そして私と1箇所、1箇所を訪ねてきてくれます。

会いに来てくれてとても嬉しいし、二人の元気なお顔を見るとほんとによかったな、と思えます。

 

夕方少し陽が翳ってから蓬を摘みに外に出てみると、まあー、ちょっと見ない間に庭は一面のワラビ&土筆が原。

DSCF2109

私は福岡産まれなので土筆は袴をとって卵とじにして食べます。この辺りの人は食べない。

勧めても絶対にというくらいに食べません。

蓬はお餅用。

1時間採ってこの収穫。

DSCF2111

都会もんなので、わらびの灰汁抜きとか漬物とか私はほんとにど下手くそ。全然上達しないのだけれど、見れば

採りたくなる山菜の不思議。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

支援について

今朝の便で黒田さんは福岡に向けて出発しました。

今頃はレンタカーで九州の大幹線道路の3号線を熊本に向けてひた走っていると思います。

災害派遣の車や支援品を運ぶ車で国道は混みあっていると思うけど、もう熊本に着いたかな。でも一昨日大分を

出て今日我が家に到着予定の荷物も未だきません。だから、そう簡単なもんじゃないのかもしれない。

 

こんなことは書きたくないし、言葉にするのもためらわれるけれど、義捐金について思うことがあります。

東北に対してもたくさんの義捐金を頂いて本当に助かったし、心から感謝しています。

でも義捐金は、義捐金を出してくれた人に対して、ある程度行き先とか使い道とかを示せないものでしょうか。

言い方を変えると逆に義捐金を出した人は、ある程度お金の行く先とか遣い道とかを確かめられないもので

しょうか。

 

大震災からだいぶ時間が経った頃、たくさんの方々にお会いする機会が多い新聞バッグ作りチームの私たち

は、東北以外の土地で、「私たちが出した義捐金はどこに行ったの? たくさん払ったのよ」と質問されることが

多くありました。

時間が経って、保険金だの災害にまつわる保証金だのお金が支払われるようになると、「私たちは義捐金を

出したのに被災者はなんでパチンコなんかで遊んでるの?」などという批判も何度も受けました。

私たちがやっていることはたかだか新聞バッグ作りなので、たいそうな金額の義捐金の行方なんぞは知りません。

市の金庫か県の金庫に眠っているのかなあーと。市だの県だのが「公平」という安全を手にするまで。

 

新聞紙バッグを作るためにたくさんの企業や学校や個人の方から新聞紙を、送料負担とか送料は負担しないとか

で送って頂けるようになりましたが、それでも時には送ってくださった古新聞に対してのお礼が遅い。そんなに

いい加減な団体なのか、と強いお叱りを受けたこともあります。

 

新聞バッグづくりを専門にしている団体なら、担当者を置いて失礼のない対応ができるかもしれないけれども

自分たちも被災者で仕事をおろそかにできない立場での新聞バッグつくりでは、なかなか充分な対応に至らず、

古川のNPOに事務方をお願いした時期もありました。それもお金が続かずに止めて、以来失礼を承知で不義理

を重ねてきています。

 

義捐金を出してくださる方々にこちらの事情を理解して頂くのはとても難しい。

災害後、すぐにでも動いくださるお気持ちはとても尊いし、有難いのだけれども、せめてもお金がどこにいくのか、

それは知ってて頂きたい。もしくは行く先も遣い道も分からなくてよい、と思い定めていただくとか。

勝手な言い分だと思われるでしょうが、東北の時のあのお金はどこに行ったんだ?と不信感を持たれるのはとても

心苦しい。東北への義捐金の不透明さで熊本に迷惑をかける気がします。

 

せっかくのお気持ちが台無しにならないように、お金の行く先を示すか、確かめるか、時間が経ってからでも

いいので情報の開示を求めてほしい。

大震災から5年たっての反省として、そんなことを思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宿題

夜、外は雨。

熊本も降っているのかなあ。

明日、海山女子部の黒田さんは、お母さんと猫を迎えに熊本に向かいます。とりあえず、飛行機で福岡まで飛んで

それからレンタカーを借りて熊本まで。ご心配くださったみなさまへのご報告です。

とんでもない事態になりませんように。とにかくこのまま静まってほしい。

 

60歳でここ岩出山に来るまで、東京の企業で働くサラリーマンの妻業をしてました。そのため名刺など全く縁が

なかった。それが大震災後海山が始まってから、名刺を持つようになり、頂いた名刺は膨大な数。

震災が起こってから後、それだけ多くの方にお会いし、お世話になったということです。

 

新聞バッグ作りは、最初は「仕事がしたい」との沿岸の方々の声に応えようと、小さな仕事を作り出す手段として

始めたものですが、夫から「古新聞を加工してラーメン一杯食べられるなんて凄いことだぞ」と言われて、そうか、

そういうことかと納得しました。が、実際に作り始めてみると、ラーメン一杯の価値だけではなく、仮設暮らしの

生活のリズムができるとか、人と出会い話しをするきっかけになるとか、お金だけではない価値があることに

気づいてきました。

 

今回熊本に大地震が起こってから、自分たちがどれほどの方々お世話になったのかを振り返っています。

最初に東京で新聞バッグの販売を(新聞バッグだけではなくて急遽作り出した竹盆栽だの、南三陸のわかめだの

売れるものは片端から売りました〉受け入れてくださったよっちゃんの盟友、自然食品のガイヤさん。

初めから現在まで新聞バッグとよっちゃんなんばんを注文し続けてくださっている東京、恵比寿のギャラリー

「まぁる」さん。大震災の翌々年、津波被災をした南三陸のおのでら菊作りの師匠が、ようやく作った数千本の菊

を市場をなくして売りあぐねている時に、全てを買ってくださった滋賀県の化粧品会社、ウルズの角川社長。

その後もご自分の会社や提携会社に紹介してくださって膨大な数の新聞バッグを作りました。今でも毎年クリスマス

用の新聞バッグを注文していただいています。

四万十ドラマも高知銀行さんもUFJ銀行の企業グループ緑会さんも私の母校、福岡の筑紫女学園の同窓生たちも

仙台銀行さんも・・・・。こんなふうにお名前をあげるときりがないほどたくさんの方にお世話になっています。

 

今私が考えるのは、ご恩返し、じゃないんだなあ。

「支援」言い換えると「一過性ではない応援」というのはこんなふうにするのですよ、と教えられ学ばせてもらったのだ

、と思うのです。

この5年間で私たちが見てきた東北の復興の姿は、そこに住むものが望んだかたちではなく、いろいろな意味での

外からの力で作用された姿のような気がして違和感を覚えることが多くあります。

 

鳴子温泉に住むあやさんから教えられて、今日は川渡温泉で開店した食事の店、キッチン菜の花でお昼を食べました。

キッチン菜の花は川渡温泉の共同浴場のすぐ近く、荒尾川の橋を渡ってすぐのところ。今荒尾川の堤防は桜

満開、河川敷の菜の花も満開でピンクと黄色に染まっています。週末には菜の花祭りが催されます。

キッチン菜の花で、あやさんと「私たちがしてもらったことを九州にも伝えよう」と話し合いました。

おかしいのはさすが海山。応援、支援となると頭に浮かぶのは新聞紙とか新聞紙で作るものだとか。経験から

照らし合わせて他のものが思い浮かびません。

あやさん曰「新聞紙を送ろうか?」

 

新聞紙はあらゆる面で役には立つと思うけれど、送られたほうも困惑するかもしれないので却下。

これから数ヶ月かけて、自分たちがしてもらったことをどのように九州に伝えていくのか考えます。

大きな宿題です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本、東北

昨年から北海道の㈱ロイズコンフェクトから新聞バッグ10000枚の注文を頂いた。

10000万枚という数量は短期間でできる数ではないので、月に500枚くらいの数にわけて、1年数ヶ月かけて

納品させて頂くようにお願いした。以来、毎月20日を過ぎると時間を調整して、月末には石巻や南三陸で作って

もらったロイズバッグを回収、検品して送るという作業を続けている。

ロイズバッグを作り始めたら、普通の新聞バッグを作る時間が足りなくなって、注文があったら大慌てで作るという

ことをこのところ繰り返している。道の駅で販売している新聞バッグも常に不足気味で、供給が間に合っていない。

 

その不足気味の新聞バッグを何日か前には、東京で結婚式を挙げられたお客様の引き出物用に相当数送り、

昨日、今日は福岡の津屋崎千軒で毎年4月に催される「よっちゃん祭」で販売して頂く新聞バッグの準備をしている。

これも数にすれば百数十枚というけっこうな数。

新聞バッグを袋に入れたり、チラシを入れたりしながら考える。

東北を助けるためにと、津屋崎千軒の山口さんから新聞バッグの注文を頂いて今年で6年目。注文して頂いた

数は有に1000枚は越える。けれども、来年もし注文を頂いたら、このまま東北でお受けしてもいいのだろうか。

 

最初に注文を頂いた時に「10年は続けます」と仰った山口さんの確かな口調に、凄い人がいるもんだ、と思った

記憶があります。その言葉どおり、今年はあまりの忙しさに身体を壊してしまった、と仰りながらもお約束どおり

注文をくださった。その他にもたくさんの東北を応援する活動を続けてくださっています。

今年は福島と宮城の子供たちを福岡によんでくださるとのこと。

でもこれからは、と考えると困惑する。これから熊本や大分にも支えたい子供たちが出てくるだろうし、今熊本や大

分に新聞バッグを作る人たちはいないのだけれど、でも地元福岡の近くの人を応援するほうが重要ではないかしら。

 

これまで地震に縁がなかったところに起こった連続する地震。自分の経験に照らし合わせても、何時くるか解らない

地面や家が揺れる地震に怯える恐怖は想像するにあまりあります。その苦難の中の疲労も悲しみも驚愕も。

 

今はまだなんにもできない。ただ待つだけ。耐えるだけ。

でも必ず必ず終わるときがくるので、それまで国は被災地の人たちの暮らしの安泰、安全を最優先にして対応して

ほしい。経済なんかいいから、後でいいから。原発は心の底から止めて欲しい。宮城にいてもまだ私たちは後遺症を

引きずっているし、この先何時終わるか解らないのだから。

 

東北大震災の年の4月末。

よっちゃん農場のよっちゃんが、梅農場で梅見の会を催した際に、鳴子避難中の沿岸部の方たちに訊きました。

「何がしてほしいですか」と。

返ってきた答えは、「仕事がしたい」でした。

それから私たちは一緒に仕事づくりを始めました。

 

いつか必ず壊れた瓦礫を片付けて、被害を受けた方が立ち上がるときが来ると思う。それまで時間をかけて

私たちに何ができるのか、どんな応援をすればいいのか考えたいと思います。

急ぐと応援しようとする側のペースになってしまうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本の地震

熊本の地震。

最初の震度7を知って、局地的でよかったなあ、(よくはないけど、東北みたいに広範囲よりはいいし、3月よりも

暖かいから)と思っていたのだけれど、相次ぐ余震であちらもこちらも潰れたり、壊れたり、生き埋めになったり、

無残な様相が現れるにつれて、これはえらいことになってきた、というのが今の心境。

 

思い返せば大震災より5年、何もかも無くなってしまった被災地での、とりあえずの出来得る仕事として新聞バッグ

を作り続けてきたけれど、そのやってきたことから振り返れば、新たに起こった大災害の何を見ても聞いても即断が

出来ないというか、すぐの判断ができずに考え込んでしまう。

知らなかったら決められた。この5年で復興にまつわるいろんなことを知ってしまったら、逆に即断ができなくなった。

 

海山を始めた頃は、前に進むためには様々なことを考えざるを得ず、一歩進んでは「私たちは震災で賢くなった。

次にどこかで災害が起こったら役に立とう。前例になろう」なんて話し合ったりしていたけれど、こうして起こってみれ

ば、「また起こるだろう」とは頭のどこかには残っていても、本当には起こる覚悟はできていなかったんだなあ、と今

思う。

 

考える何の用意もできてない。5年前に同じ経験をして5年間這い上がる努力をしてきているのに・・。

義捐金、募金。否。

お金を集めてただ贈る、というのは、「ちょっと待て」という気持ちがある。理由はある。

体験に即してある。今はとにかく目いっぱい国にやってもらいたい。

 

救援物資。送らなければいけない。今暮らすことに絶対に必要になものを充分に、直ぐに。

赤ちゃん、病人、老人、子供、女性、みんなのが不自由しないように。気持ちが安心するために。

 

その他の物資。否、これも考えなければならない。

いつの間にか自分が救援物資の中継地になってしまっていた、あの苦しかった日々を振り返れば。

 

いろんなことを考えるのです。

報道もヘンだ。報道の仕方がヘン。テレビのコメンテーターの人たちは評論家みたい。仕方がないことだけれども。

実際に体験するということ、しないことの間には大きな距離があるんだ、と・・・。

 

今物凄く考え込んでいます。5年間、復興への活動をやってきました。

私たちは新しい大災害のためにで出来ることがあるはずなのです。やってきたのだから。たくさんの人と知り合って

きたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よっちゃん祭」&結婚式&誕生日の新聞バッグ

我が家の春。

プラムの花が咲きました。もうちゃんと実もなるのだけれど、色付くと鳥が食べるので、まだ1個も食べたことなし。

今年は1個くらいは味見してみたい、と思うけど自信なし。鳥のほうが賢い。下に咲くのは水仙。

DSCF2104

 

大震災以降「10年は続けます」と言って、春の催事「よっちゃん祭」の度にたくさんの新聞バッグを注文してくださる

福岡の山口さんからの連絡が今年はありませんでした。今年は「よっちゃん祭」ないのかな。新聞バッグの販売を

やめられたのかな」

もう4月も半ば近く。連絡がないということは今年はもうないんだ、と思い決めていたら、昨日、余りにも繁忙で身体

を壊していました。が、今年も「よっちゃん祭」をやります。時間がぎりぎりになってしまったけれども、今年も新聞

バッグを是非販売したいので、出きる分だけでもいいので送ってください。とメールがきました。

山口さんが新聞バッグを注文してくださるのはもう6度目。

新聞バッグを注文してくださることよりも、忘れないでいてくださることが、とても嬉しいです。必死で間に合わせます。

 

ひと月ほど前、仙台の田舎群東北村を通じて、大、中、小バッグ合わせて100枚以上になる注文を東京の方から

頂きました。

折りしも「屋根」公演が間近に迫っていることと、ロイズ新聞バッグの検品、発送、おまけに毎月一度はオーダーが

くる恵比寿のギャラリー「まある」さんの小バッグが重なって、なかなかシビアな時間配分になってしまい、一部のみ

を先に発送。残りを折り手さんに作ってもらって、ようやく期限ぎりぎりで昨日発送することができました。

 

昨日の朝になって急に変更になった送り先は、最初にお聞きした個人ではなく東京代官山のブライダールホール。

不安な予感が・・。えー、もしかして結婚式用の新聞バッグだった?

結婚式の引き出物用だとかお誕生日にプレゼント用だとか前もって聞いていれば、そこに相応しい絵柄を選んで

新聞バッグを作るのですが、今回は聞いてないのでそこまでの気遣いはしなかった。

 

今朝、東北村から注文した方からのメールを知らせてきました。

今日はその方の結婚式であること。その方は震災後東北に来られていたこと。東北で見た新聞バッグを結婚式

の引き出物用に使えば少しは東北のお役に立てるかもしれないと考えられたこと。

やっぱり。ああ、早く気づくんだった、と後悔しても返らず、ほんの気持ちだけですがお祝いに卵バッグをお送り

することにしました。

どうでしょう。これ、ちゃんと可愛らしいリボンをかけ、おめでとうメッセージも付けました。DSCF2106

 

そして、先日には突然関西から社員全員の誕生日プレゼントに新聞バッグを贈りたい、とのオーダーを頂きました。

社員の誕生日にプレゼントを贈る、というのも滅多に聞かない素敵なお話ですが、そのプレゼントに新聞バッグを

選んでくださるお気持ちがとても嬉しい。

 

新聞バッグ、何時まで続くのかな、といつも心のどこかでは思っているのですが、こうして日本中の知っている方、

未知の方からのお気持ちを頂いて新聞バッグは続いています。

 

こうしてブログを書いている途中で熊本での大きな地震のニュース。

いろいろ壊れてこれから大変なことがいっぱいあって、良くはないんですが、4月で暖かくてよかった。震度7が

局地的でよかった。などなど思います。

こっちがまだまだ地震の恐怖が無くなった訳ではないので、どうもなんとも言葉が出ません。

余震が続く中、お疲れが出ないようにご不自由が少ないように、被災された方に気を配って頂きたいと願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラエルの刺繍

新しい新聞バッグです。

卵入れバッグ。中も外もふあふあ! たまご屋さんとパン屋さんにサンプル送ります。

気に入っていただければいいのですが・・・。

DSCF2088

 

東京に行って来ました。

強烈に濃い2日間でした。

1日目宿泊は叔母の家。私にとってはたった一人残った叔母で92歳。母の妹で92歳の叔父と二人、千葉県

我孫子で暮しています。

お餅仕事を終えて家を出る時には大雨。新幹線に乗って首都圏に近づくに連れて雨は小ぶりに。

普段だったら上野まで行って常磐線で我孫子というルートで行くのだけれど、今叔母のうちにはアメリカから

帰省中の従妹がいるので気が大きくなって、以前から気になっていた大宮経由で東武電車に乗るというルート

をとってみました。

使えるか、大宮。もし使えたらこれからは東京まで出ないで大宮経由で東京まで行こう、と張り切って大宮駅

に降りたのでしたが、東武電車は長かった。乗るまでも距離があるし、乗ってから1時間以上は長すぎた。

柏で降りてJRに乗り換えたら、上野経由よりも時間オーバー。これからは時間がある時のみ大宮で下ります。

すっかり耳が遠くなってにこにこ笑顔の叔母と一方通行の四方山話に興じて1日目は終了。

 

2日目は、「是非どうぞ。お昼を一緒に」と誘ってくださった渋谷区恵比寿のギャラリーまぁるのオーナー、木川

さんのお言葉に甘えてまぁるへ。本当は誘って頂くような立場ではなく、大震災以来5年間、月に一度は新聞

バッグとよっちゃんなんばんを注文し続けてくださる稀有なお客様なのです。

「まぁる」、フランス語で「Malle」は「めぐる」という意味があるんですよ、と今回初めて伺いました。

「まぁる」さんでは年間お休みがあるの?というくらいにスケジュールをいっぱいにして、多彩な絵画や原画や

工芸品を展示されている画廊で、年に2度は東北支援のチャリテイーを開催して、震災遺児のためのあしなが

基金に協力してくださっています。

今はアフガニスタンや近辺の国で出土する古代石で作られたアクセサリーが展示されています。

 

お昼過ぎ、「屋根」大崎公演にやってきて公演を手伝ってくれた吉田さんが来てくれて合流。

「屋根」を巡る反省やこれからの話をみっちり2時間。新聞バッグに関してのたくさんの提案ももらいました。

 

夕方、フリー刺繍家の天野寛子先生と待ち合わせて、3人でFA2画廊へ。

ここではイスラエルからみえた刺繍家Batiaさんの刺繍の展示とオープニングセレモニーに参加の予定です。

何故私と天野先生がここへ来ているのかは謎。

2年前の宮城来訪時、海山で新聞バッグを習い覚えたノアさんが、イスラエルに帰国する前にイスラエル

大使館の文化担当と会った結果の成り行きで今日のこの日この時間がある、としか説明のしようがないのだ

けれど、初めて見るBatiaさんの刺繍は衝撃的でした。

天野先生の刺繍画を初めて見た時も、こんな刺繍画があるのかと、その美しい強烈さに言葉をなくしましたが、

額の装丁もなく布のまま壁に貼られたBatiaさんの刺繍画もまた強烈に胸をうちます。

 

Batiaさんのご両親はホロコーストを生き延びられた方で、自分はホロコースト2世だ、と仰ったけれども

ホロコースト2世という言葉を私は初めて知りました。

刺繍はホロコースト2世そのもの。

お仕事は刺繍家でありファミリーセラピスト。

イスラエルでは女性も義務付けられている兵役を8年間務めたトラウマを、針と糸を持つことで治していった

等々のお話を聴かせて頂きましたが、やはりBatiaさん本人から聞くお話は、本で読むのとも映画で見るのとも

違う感じがしました。

 

「人生は驚きの連続である」とは何かの本で読んだことがある言葉だけれど、正に然り。

私の人生も驚きの連続には違いなく、頭の中がしっかり疲れた2日間でした。

帰ってその報告をメールでイスラエルに送ったら、間なしにノアさんから「5月」に日本に戻って会いに行きます、

と返事がきました。イスラエルだよ。やっぱり驚きます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅農場で野点

今日は暖かい。と書いたところで、タイヤを替えていないことを今思い出した。

バタバタバタバタしている間に、暖かかったり寒かったりを繰り返して、気づけばすっかり春。

昨年の秋には葉っぱがわさわさしていたタイリントキソウが愛らしいピンクの花を咲かせました。

DSCF2082

2月の初め頃からフリースクールの若者たちに手伝ってもらって分けたポット入りの球根にも花がつきました。

分けて分けてものすごくたくさんになってしまったこの球根、今年はなんとか捌くのが課題。

 

佐藤梅農場で鳴子の女将さんたちの野点が行われるというので出かけてみました。

今梅の林は紅梅も白梅も開花真っ盛り。

DSCF2087

なだらかな丘陵いっぱいに広がるこの梅林は、よく手入れをされた梅の巨木の開花時の見事さ、梅の木の数では

たぶん個人所有では日本一だと思うのですが、宣伝がされていないので知らない人も多いのです。

これほど美しい梅林は滅多にあるものではないので、是非梅の開花の間に見に来てほしいと思います。

実がなる頃もそれはそれで美しいのですが、梅もぎ作業が忙しいので今のようにのんびりと目の保養という具合に

いかなくなります。

 

先日から倉本先生の宿泊でお世話になった鳴子観光ホテルの女将さんにお会いすることができました。

公演に付き添って旅をされる先生のお疲れが気になって、女将さんには細かいお願いなどしてお世話

をかけましたが、暖かくご対応くださってありがたいことでした。

梅の花の下で、鳴子温泉を代表する旅館、ホテルの女将さんたちがお茶を立てて、振舞ってくださいます。

私も緋毛氈に座って花の香りとともに一服頂戴しました。

DSCF2084

 

春休みで暇? を心配してくれたのか、由美さんがあと2日で2年生になる孫を連れ出しに来てくれました。

どこに行ったのか。たぶんゲーム? &由美さんの買い物?

帰ってきて夕方、今度は古川までスイミング。

帰りに孫の母親から頼まれた重要物品を買いに食品スーパーへ。その重要物品がなかなかなくてスーパーを巡ること

4店舗。ママのためなら一人でレジまで「ありませんか?」と聞きに行くこの春2年生になる孫の成長が感慨深い。

明日はピアノ。こんな田舎にいても子供の日常はなかなか忙しいのですが、世界は広い。音楽は世界共通語。

続けろ、止めるな。継続は力なり。才能も金もないばーちゃんが言ってやれるのはこの言葉くらい。

目標は5年生でトルコ行進曲。無理か!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「屋根」こぼれ話”会場作り”

3月18日の「屋根」大崎公演の前に、富良野、仙台、福岡の3箇所で、「屋根」の舞台を観ました。

びっくりしたのは、観る度にお芝居が変化していっていること。

芝居というのは、よく解らないけれども台本があって、その台本どおりに何日続く公演でも同じ言葉、同じ動き

で俳優さんたちがお芝居をする、というふうに勝手に思い込んでいたのですが、実際には違った。

たぶん日々違っていっているのだと思います。だから富良野から何公演か後の仙台で観た時には、「あれ?」

「えっ?あんなセリフ聞いたっけ?」という具合で狐につままれたようでした。

芝居は生き物なんだなあ、と納得すると同時に、その進化か変化に魅かれて、ひとつ観るとまた次を観たくなる、

という心境になりました。

 

それともうひとつ3箇所の公演を観て感じたのは、その公演を華やがせるのも、地味にするのも公演を受ける側

のやり方にある、ということ。

主催が大きな興業主というところは決まった形での興業だろうけれど、、岩出山公演のように普段はよっちゃんな

んばん作ったり、餅を作ったりが仕事の俄か仕立ての実行委員が主催する場合には、私たちのやり方次第で、公演

が地味にも派手にもなるんだなあ、と納得。ならば観に来てくださるお客様にも、巡業を重ねて疲労が積み重

なっているだろう劇団員たちにも思いっきり楽しんでもらえるような会場作りをしたい。

 

先立つお金は少ないもので、今の岩出山では最高のおもてなしの梅の花。

玄関ロビーには大甕に生けた梅農場の紅梅白梅。

DSCF1999

例年ならもっと遅く咲くのですが、今年は公演に合わせたように咲いてくれました。

 

劇団員その他の食事を賄うニューフェイス食堂「岩出山ゴールデン食堂」の前にも小ぶりの梅。

ほんとうは食堂ではなくて公民館のただの和室です。

DSCF2013

 

玄関ロビーの台の上には籠いっぱいの南三陸から「劇団員のみなさんへ」と送られてきた新わかめ。

今ワカメの刈り獲り作業中で、舞台を観に来れないからとけいこさんが送ってくれました。

DSCF2023

倉本先生への大きな花束。、主役二人へ贈る南郷ハニーローズさんで作ってもらったバラの花束。

富良野塾の林のガンピ(白樺の皮)。舞台の中にも出てきますがお客様に観てもらうために。

そして、中央に飾ったのが、倉本先生にお願いした直筆の色紙。この色紙のミニサイズはお客様全員に

届くように用意した新聞バッグに入れます。

北海道のロイズ社から道の駅の15周年記念事業「屋根」へと贈って頂いた大きな盛花が華やかに

会場を盛り立ててくれます。

開場前には昨日ワークショップに参加してくれた高校生たちが今日は制服姿で出入り口に並びました。

チケットもぎり、座席案内、 お客様に新聞バッグをお渡しする役目などをやってくれます。

おかげで、私たち実行委員も舞台を観ることができました。

私はこれで観ること4回目。

DSCF2025

ここまでがホールの外の会場作り。

 

そして中の会場作りは。

開演2時間前くらいに、突然劇団から前の座席を外すようにとの指示が。恐れていたように傾斜が緩いので、前の

ほうのお客さまが舞台上の座った動きの手元が見えない、との理由から急遽座布団を敷くことになりました。

見えづらい心配はしていたけれど、座布団を敷くことになろうとは、まさかの展開。

近くの集会所や公民館からありったけの座布団を運んできましたが、まだ足りず、それまでゴールデン食堂で

俳優さんたちのご飯を作っていた由美さんが家に飛んで帰って座布団30枚を調達。時計を見ながらの大急ぎ、

なので、由美さんどっと疲れた、と思います。

でもそれでもまだ不十分とのことで、次には台。丁度いいくらいの台。誰かが「野菜の集荷籠」と言うのが聞こえて、

そうだ、梅農場の山芋籠だと思いつき、急遽梅農場から30個の山芋集荷籠をトラックで運んでもらうことに。

並べた山芋籠に座布団を乗せて、ホールの会場作りが完了しました。ホールの座席をご覧になった倉本先生の、

お客様全員が見え易いようにとの指示ですが、入ってきたお客様は舞台下の座布団席を見て驚かれたことで

しょう。私も驚いたけれど、思いがけない座布団席は、和らいだいい雰囲気に思えました。

 

会場は満席と満場の拍手で公演終了。

「感動しました」、というたくさんのアンケートを頂きました。

 

岩出山終了後は、秋田、北秋田、札幌を廻って、最後は元に戻って富良野演劇工場での凱旋公演。

お芝居がどんなに変化したんだろう、と思うと富良野へ行って観たい気持ちはやまやまですが、そうもならず、

当地で花束を渡せなかった、お芝居の中の一平兄ちゃん、鉄平兄ちゃん、そして制作スタッフにもお顔を思い

浮かべながら岩出山から花束を贈りました。

花屋さんから送られてきた写真には、演劇工場のロビーの台の上に、時間早めに贈ってもらった可愛らしい

花のブーケが5個並んでました。

公演前に見て、喜んでもらえたらという斉藤事務局の気持ちです。