「みず」25号発刊によせて

私がまだ40代の初めの頃、病気をした母を見舞うために福岡へ向かうその途上でのこと。

私と母はあまりうまくいっていませんでした。うまくいってないというよりも私の一人相撲で母を理解し切れなくて

遠ざかっていたのかもしれない。でも病気なんだもの。長い間帰らなかったのにどんな顔をして、なんといって

帰ろう。羽田空港で帰りたくない、けど帰らねば、というふたつの逡巡する心を抱えつつ、空港内にある本屋へ

入った時に、「五十歳、いざ」という本が目に止まりました。著者は高田宏という知らない作家でした。

福岡までの1時間半、その本を読みました。読み進むうちに、母へのわだかまる気持ちは、人の自然な感情と

捉えてよいというようなことが書かれていて私は気持ちが楽になり、ただ、素直に母に会いに帰ろうという気持

になりました。本の最後に高田宏氏が主宰するエッセー教室が渋谷東急プラザにあるBEカルチャーセンター

で開かれていることを知り、帰京した後に教室をたずねました。

 

講座の名はエッセー教室でも、「ぼくは文章の書き方は教えません。エッセーを書くことは生き方を考えることです」

と仰る先生は、教材にたくさんの様々な本を取り上げられ、その本についてのお話をされました。

私たちは高田教室でたくさんの本と出合い、先生の読み取り方をうかがいましたが、常にそこにあるのは、読む

にしても書くにしても自らを深く見つめ想像力を磨き上げることからしか文章表現はあり得ない。書くことは深く考え

生きることだ、と教わりました。

 

教室生になってしばらくしてからみなで同人誌を作ることになりました。1年に1回原稿を書き、先生が懇意になさっ

ている第一印刷に校正や印刷をお願いして発刊する。完成したら、東急プラザの「いらか」で打ち上げの会を開く。

そう決めて始めてから25年、25回の原稿を書きました。4半世紀、この25年間に亘る長い年月に起こった自分の

人生の紆余曲折。嬉しいことも胸が潰れるように悲しいことも、先生の「客観として見られる目を持ってから書きなさ

い」という言葉に頼って、書き紡ぎました。

そして時が経つにつれ、この高田教室と「みず」は私、いや私のみではなく教室生みなの生きる道標、軸足を置く

拠りどころとなりました。大きな出会いでした。

 

先生が書かれたご本は何冊あるのだろう。大仏次郎賞を受賞された「言葉の海」を始めとして100冊ほどか。

今は80歳を越えられ世田谷のお宅で静かな時間を過ごされている先生に、25回目の「みず」を読んで頂ける

ことが本当に嬉しく、また「いらか」でお目にかかれることも年に一度の大きな楽しみです。

 

「みず」同人の仲間たちもすっかり年をとり、25号が完成した今年は長年親しんだ東急プラザもなくなるとのこと。

ここからまた1号。それもまた嬉しいことではないか、とそんなことも思います。

しかしこの「みず」25号。これで最後とみな思ったか、一人一人の文章は胸を衝かれるように素晴らしい。

先生はきっと喜んでくださると思う。大きな大きな感動です。

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岩出山と石狩当別とロイズソフトの関係

朝一でお餅仕事。

道の駅で出荷した後、鳴子へ。鳴子温泉の喫茶玉子屋さんで、あやさんにアカリちゃんと次男君の高校、大学

入学祝いを渡します。入学祝はよっちゃん、みっちゃんが仙台へ行って買ってきました。よっちゃんいつも使って

いる今流行りのボールペンのような万年筆のようなペン。私もついでに買いました。

大震災から4年。福島から避難してきた時には小学生でいつもあやさんにへばりついていたアカリちゃんが

ぐーんと背が伸びて高校生です。家族バラバラではありますが、次男君も新潟の高校を卒業して春には東京で

大学1年生。合格祝いは海山からのプレゼント。母親のあやさんも福島に残ったお父さんもきっと大変だったと

思うけど、子供たちもよくがんばったね、と思います。目には見えない時の流れをこういう節目の時には改めて

感じてしまいますが、今4年。あと2年もすれば6年。狭い仮設住宅で入学から卒業までを暮らす小学生や

中学生のことを思うと、なんとかならねばいかんなあーと思います。その影響を後々まで響かせないようにるのも

また大人の仕事になるでしょう。

 

鳴子から戻って今日はよっちゃんのおとうさんのケイイチさんからうちの庭の木を切ってもらう約束の日。

木の周りをちょっと片付けて待っていると、年季が入ったチェーンソーを持ったケイイチさんがやってきました。

そしてあっと言う間に、スモークツリー(けむりの木)、マグノリアと、ヒメクルミの枝を伐ってくれました。

やっぱりチェーンソーの威力は凄い!チェーンソーもかっこいいけど、鮮やかにチェーンソーを使うケイイチさんも

かっこいい!

農業には全く関係なく、都会の会社勤めで暮らしをたててきた私たちには、手も足も出ない作業です。

引越し祝いにもらった鉢植えのスモークツリー。何の考えもなく土に植えたらこの15年で伸びるは、伸びるは。

窓からの視界は遮られるし、自由奔放に伸びまくる樹精の強さについに降参してお別れを決意しました。

これで引越し祝いの鉢植えは、全部土におろして全部伐ってしまった。クリスマスツリー流れのコニファー。

ホールバード2本。スモークツリー。マグノリア。

残るのは山栗、山桜、朴の木、ねむの木、沢ぐるみ、その他その他の元からある山の木だけ。これでほんと

なんだよねえー。よそ者は去りました。

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終わって次は古川で、孫のピアノレッスン。コンサートが終わってまた次の一年が始まります。

お腹空いた、というので帰り道、モスバーガーでホットドッグを食して帰宅。

 

お餅用の米を洗って、次は工芸部ミーティングのため道の駅へ。

6時、ミーティング開始。

この度私たちが出荷する岩出山のあ・ら・伊達な道の駅が、全国で32(かな?)箇所選出される重点道の駅に

認定された(国土交通省)ことを受け、道の駅のハード、ソフト面が強化されることに伴って、各部会もそこに

合わせて道の駅を強化していくためにがんばりましょー!

といった意味合いのミーティングなのですが、今日はその応援講師として「編んだもんだら」という、アクリル毛糸で

海の生産物の形の束子を浜のお母さんたちに編んでもらう、という復興活動を震災直後から展開しているさざほざ

事業部の足立千佳子さんが見えてます。

安立さんは大震災の年、南三陸余力の仮設住宅で、あちら半分は束子編み、こっちは新聞バッグということで

集会所を2分して一緒に作業したことがあります。なつかしいし、立ち上がっては消えてゆくことが多い、震災復興

事業の中でこれだけ確実に裾野を広げていくエネルギーや手腕は素晴らしい、凄い、と感嘆します。

安立さんからは、これまでやってこられた活動のこと、そしてこれから道の駅出荷組合工芸部がどのようにして

お客様に喜ばれる商品作りをし、販売をのばしていくか、という第1回目のお話を伺いました。

工芸部会の部長はよっちゃん。今日は仙台の県庁での販売だったから、仙台からとんで帰っての部会開催。

仕事の合間に印刷物を作り配布しの大奮闘ぶりに敬意を表し、これからの展開に期待します。

 

散会後、ロイズ社のソフトクリームの話から、安立さんの卒論のテーマが「開拓村と母村に於ける集落内の相互

扶助の継承・相違の検証」。つまり岩出山藩士が北海道の石狩当別に開拓に入った事例の研究、検証のために

現地調査をしていた、と聞いてびっくり!!

それって、私が大好きなテーマなんですよ。思いもよらない繋がり方で、私はほんと嬉しい。

でも部会のテーマは違うので、部会員としての努めもちゃんと果たそうと思っていますが、岩出山と石狩当別と

ロイズソフトの関係のお話はおいおい明らかにしたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富良野グループ「屋根」&商品作りミーティング

昨日は3月終わりの雪の中、富良野から来年3月に上演予定の倉本聰氏の舞台「屋根」の件で富良野グループの

スタッフ、新堂さんと石川さんがみえ、この先の動きについての打ち合わせをしました。

昨秋に新聞バッグの講習で富良野を訪問した際に、富良野グループの来年のお芝居「屋根」がいかに素晴らしいか

を食事の時に聞きました。                                                                                                                         えー、そんな素晴らしいお芝居「どうやったら来てもらえるんですか?私たちのような小さな町にも来てもらえるんで

すか?」と聞いたら、思いがけず「行きますよ」というお返事。

えーっ、そうなんだ!どうやって?

そんなところから始まった岩出山上演のお話。その後富良野グループの方々、市、道の駅などのご協力を得て、

来年の3月に岩出山スコーレハウスで「屋根」上演の話が決まりました。ここまでは他力本願で話が進んできま

したが、これからがチケット販売などの勝負どころ。がんばって切符を売らなければなりません。

 

「屋根」は倉本聰氏脚本のドラマ「北の国から」の前、ドラマの元になった規模が大きい、とても素晴らしい

作品だということです。みなさん、是非是非見てくださいね。

 

昨日いろいろ話した頭もさめやらぬまま、今日は朝から我が家で海山ミーティングをするということで

朝から餅作って片付けをして大忙し。

道の駅から戻ってどうにかセーフで10時半ミーティング開始。

今日のミーティングのテーマは、先日来富良野グループよりお預かりしている品物を入れて販売する

新聞バッグをデザイン、売り方などを考える、ということ。

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こういう話になると面白くなってアイデアがどんどん出てきます。出て来すぎて止まらず脱線も度々。大笑いも度々。

そんなこんなしながら、デザインの基本路線が定まりました。一緒に入れる付属物も。

これを新聞バッグに入れて、長い冬を抜けた富良野の町でたくさんの観光客が「おッ、これは面白い!」と

買い物してくれたならとても嬉しい。

富良野も岩出山も小さな町なので、こんなことをきっかけに仲良くなっていけたらいいなあ、と思います。

北の国からと新聞バッグ、ラベンダーと新聞バッグ、似合ってません?

 

東京恵比寿のギャラリーまあるさんから新聞バッグのご注文を頂きました。

もうまる4年、私たちが海の手山の手ネットワークを始めてすぐからずーっと無くなったら注文するというかたちで

販売し続けてくださってます。私たちがやっていることを理解してくださっている方、ご縁をなくすことがないように

一人一人大切にしていきたいと思っています。

今から発送に行ってきます。

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第15回一関男子ピアノコンサートに行ってきました

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第15回一関男子ピアノコンサートに行ってきました。

孫が4歳の時に習い始めたピアノ。

もう6歳になって、昨年初参加だった年に一度の一関男子ピアノコンサートの時期になりました。本人の意思

ではなく母親の意思でもなく、バーチャン(私)の個人的な好奇心と思いでもって通わせ始めたピアノだったから、

嫌がるかなあ、不安に思うときもありましたが、至って平気で続いて今年第2回目のコンサートで弾く曲目は

ベートーベンとのこと。もちろん短いヤツで「よろこびのうた」です。

今回は古川で新聞バッグ講習を終えた黒田さんにも一緒に来てもらいました。

 

一関男子ピアノクラブコンサートは、2001年3月に発足し、以来15年続いている実行委員、出演者は男子のみ、

ステージ、楽屋は女子立ち入り禁止というコンサートで、その開催のきっかけは、東京六大学ピアノ連盟の学生たち

が定期演奏会や卒業演奏会を開いているのに刺激を受けた一関の学生たちが発足させたということです。

出演者は今回は1歳から社会人まで。

最初の演奏は1歳と3歳とお父さん。お父さんに抱っこされて三人一緒の演奏でした。

それから4歳、5歳、小、中、高校生と続き、大学生から社会人まで。幼稚園から会社員や作曲家まで全員男子が

ピアノの演奏をするというこのコンクールは、あったかくて家庭的で、それでいながら将来は音楽家?というくらいの

セミプロクラスもいて見応え聞き応えがあります。ピアノだけではなくて、小学生で弾き歌いをする子もいれば、昨年

はトランペットの演奏もありました。

心あたたまるコンサートです。なによりOBや学生たちが主体になって実行委員を努め、15周年を迎えるということが

素晴らしく、是非続けてほしいなあ、と思います。

 

ハラハラドキドキだったけど、孫は間違えずに「よろこびのうた」を弾き終えました。

佐々木先生が、忙しい時間の合間を縫って、プレゼントを用意してくれたり孫が好きなシールを楽譜に貼って励まし

たり、あの手この手で指導してくださったおかげです。

帰省して参加の今は北海道で大学生になった、昨年孫と連弾してくれたコーキ君の演奏は相変わらす凄かった。

 

また来年参加できるように、バーチャンは孫の「続ける」応援係りを続けます。

コトを成すって、「続ける」ってことなんだ、と70歳を過ぎた今マジに思います。ちょっと遅すぎの感もありますが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

磨かれる日々

このところ遠路からのお客さんと、会議が交互に続いてます。

お餅の仕事や雑用もあるので、ちょっと疲れ気味だけれど、面白い。

 

16日はさいたまから吉田さん。最初に倉本聰先生のからの新聞バッグのお話を持ち込んでくれた女性です。昨年

秋に富良野でお世話になって以来の再会。

倉本先生の信頼厚い方ですが、市民活動センターハンズオンさいたまの副代表理事であり、ファンドレイジングの

講師に広告の仕事までなさる大変お忙しい日々の中、今回世界防災会議で仙台に来られたついでに岩出山に

寄ってくれました。

会ってっていろいろお話したかったのだけれど、私は所用で昼間は会えず。で、よっちゃん夫妻と南三陸の新聞バッ

グインストラクターけいこさん宅を訪問。わかめ養殖屋さんのけいこさんちにはおばあさんもいるので、きっと楽しかっ

たに違いない、と私勝手に思ってます。

夜、東鳴子の鳴子味庵で合流。黒田さん、よっちゃん夫妻の甥っ子、たつちゃんも加わって、食べ、飲み白熱

した論を交わす楽しい時間になりました。 こういう時間は実になる、というかいろんな発見があって楽しい!

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1日おいて18日。今度は富良野から倉本先生の40年来のお友達であるという林原さんが来訪。

林原さんは富良野自然塾の塾長さん。本来は自然塾のお仕事をなさっているのですが、倉本先生のお芝居の

ほうのお手伝いも近頃では手伝っているということで、来年春に倉本先生の舞台を上演予定の岩出山を下見に

見えました。自然塾のお話が面白い。どんなことやるのかな、とワクワクします。今年から同じく自然塾七夕

村をやりたいよっちゃんにとっては興味深い話だと思う。今年の夏に富良野に行ったら、是非自然塾も体験したい。

 

夜は道の駅でミーティング。

ちょっと売り上げに苦戦しているいち部門の売り上げを、どんなふうに工夫して持ち上げていくか、という会議。

昨日、今日吉田さんや林原さんに聞いた話も取り込んで、先行きを考えます。

 

19日は頭休め骨休めに中学からの同級生のお宅訪問。

ふたりとも福岡出身なんだけれども、今はここ岩出山の森の中の別荘地(川を挟んで彼女は仙台より、私は一関

より)に住んでいます。やっぱ、中学から高校卒業するまで一緒だったから、時折顔を見るとほっとするというか

気楽でいられる。時々お茶っこしに行きます。

玄関でお客さんを迎えるご主人が作った小人さん。

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お部屋の中にも小人さん。私、この小人さん大好きだったんだけど、もう作ってないよ、とご主人。

ご主人はほんと木が好きなんだね。

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薪ストーブが赤々と燃える部屋で、木の道具に囲まれてしばし休息。

15年前、この別荘地に住み始めたときは彼女もご主人も私もまだ今より若く元気だったけど、近頃では寄る年波で

話題といえば「これからどうするー?」

全然答えは出ない。でもね、1日でも長くこうやって暮らせるようがんばりましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

卒園式

今日は孫が二年間お世話になった栗原市立一迫幼稚園の卒園式。

お彼岸の始まりでもある今日は最高のお天気。卒業式日和。式に参列するのは孫の両親で、私は遅れて

写真担当で園庭で待機。

幼稚園と小学校とふたつで一緒とはいえ、まあ、広い運動場でした。土地面積の広い東北ならでは、と

うことでしょう。

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一番奥にある幼稚園の建物まで歩いていくのが遠い!

運動場でドッジボールをしているのは小学校の4、5年生かな。子供らの声が割れ鐘のように大きいので驚く!

風で飛ぶからでしょう。1学年全部だと思うけど、数が少ないので数えられちやう。30人か29人でした。

 

この幼稚園で2年間、孫はほんとに楽しく通いました。遊ぶのが楽しくて、お友達のこと大好きだったから今日は

きっと子供心に寂しいと思っているに違いない。でも後で聞いたら泣くほどではない。小学校でお友達できるから、だと。

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まなみ先生、お世話になりました。運動会の時の必死の応援、決死の勇姿忘れません。「練習の時には負けてば

かりいたのに本番で勝った、勝った」と綱引きで涙ぐんでた先生。この先生たちに導かれて、雪遊び、橇遊び、

あやめ園へのお散歩、お隣の老人ホーム訪問、そして毎朝の紹介コーナーで、みんなに見せてびっくりさせるため

に、蛙やトカゲ、葉っぱに花、枯れ枝でも虫でも鳥の卵でも木の実でもありとあらゆるものを、身辺でみつけては持っ

て行きました。おかげで親もバーチャンも、珍しいもの見つけたり拾ったり採ったりの二年間でした。

そんな日々も終わり。最初不安で仕方がなかったた氷や雪道での送迎も無事に終わらせることができました。

そして私は、3人の子供を育てていながら、この幼稚園で初めて幼児教育の重要さ、奥深さを知りました。

おめでとう。すみれ組、ばら組のみなさん。

そして、園長先生はじめ、ほんとうに優しかった先生がた、ありがとうございました。

一迫小学校には入学しないけれど、また少し大きくなって、真山小学校の一年生になってから会いに行きます。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の3月11日。思い出す日

今日2015年3月11日は昨日から雪。朝目覚めて外を見ると20センチくらいの積雪。寒い朝。

4年前のこの日、雪が降っていたのか忘れてしまったけれど、テレビの映像のどの場面にも降りしきる雪が

映っているので、こんなに寒い日だったのかとぞっとする。

 

あの時古川で、揺れが始まってすぐ飛び出したビルから道路を這って街路樹にたどり着き、木にしがみついて右に

左にバウンドするように揺られ、揺れが少し間遠になってから震える手を抑えつけて車に乗りました。隆起し陥没し

パックリと口をあけた道路をどうにかこうにか家まで帰って、すぐさまこれから来るだろう水なし電気なしの生活に

備えて動きまわりました。

 

灯油200リッタータンクに満杯で2個。私の車のガソリンは満タン。プロパンガスが娘の家と私の家とお餅工房のと

で合わせて6本。あと、畑の家から持ち出した古い反射式ストーブが3台。ハウス用の七輪2個と使い残しの練炭

豆炭。それがうちにあったものの全部。最後に近所の雑貨屋さんに行って、ありったけの食料を買い込んで家に

戻ったところで時間切れ。

 

昔何かでもらった精度の悪いラジオをしがみつくように頼りにして、電気、水なしの日々を過ごし、8日目の夜

遅く、遠くに見える田んぼ脇の外灯に灯りが灯ってるのを見つけて、「電気がきたんだ」と気づきました。まず最初に

当たり前のようにテレビをつけ、そこで初めて見た沿岸部の映像に驚愕!

ラジオでその断片を聞いたような気はしてました。アナウンサーが泣いていた。ひと晩中しゃべり続けて、滑舌が

悪くとても疲れているらしいこともわかった。でもこの状況はかけらも想像しなかった。荒浜の200の遺体とは何

だろう。収容できないとはなんのことだ?私と同じように、訳がわからんと思っていた人は大勢いたのではないか

と思います。

 

それからは毎日毎日テレビを見ては新聞を読んでは泣いてた。泣きながら祈り、「みんなを救けて、救けて」

と手を合わせ、水を探し歩き、何もしないときは寒さしのぎに布団に入って懸命に小さなラジオにしがみついてた。

古川で災害用の放送が始まった時は嬉しかった。私たちのように山合いで散らばって住んでいる者にとっては、

情報がどれほど人の心を安心させるかを知った。

災害の中で人は、やっぱり情報を断ち切られて孤独でいるのは怖いのです。

 

あの時のことを思い出すとやっぱり泣けてきます。外側の何が変わろうと心の中は変わっていない。

海から離れたところにいる私でさえそうだもの。海辺に住んであの日傷ついた人々の心は、今日この日1日、あの時

に戻って日頃胸底に抑えていた涙があふれるでしょう。

今日311はそんな日。忘れかけている記憶を辿ってその日1日のことを思い出す日。

 

倉本先生が、原発事故の悲劇を風化させないために一生懸命に書かれたという舞台「ノクターン~夜想曲」を見て

思いました。劇を見れば、私の心もその日に戻ります。周りですすり泣いている方たちも、同じだと思う。

風化をさせないって、そういうことなんだ、と思いました。

 

縁あって、鳴子温泉に2次避難で来られた沿岸部の方々と知り合いになったことから、「あるもので、残っているもの

で仕事を作りましょうよ」と一緒に行動を始め紆余曲折を経て新聞バッグを作るようになりました。

それから4年近く。作った新聞バッグは5万枚にも6万枚にもなって、たくさんの心ある方々とお知り合いになりました。

4回目の311を迎えて、お電話やメールを頂き、嬉しく感謝しています。

今新しく知り合う方から、海山さんは「どんなお仕事をしているの?」「どんなことをやってきたの?」

と質問を受けてももう簡単には答えられません。なぜかというと、海山の新聞バッグ作りは、広く深い人と人との

関わりから生まれた仕事なので、事情が込み入り錯綜し過ぎてどう話したらいいのかわからないのです。

 

幸せな仕事だと思います。よっちゃんが日々唱える「手仕事で復興」を原点にして揺らがず、、またこれから一年、

出会った方とのご縁を大切に育んで新聞バッグを作り、新聞バッグマルシェにつなげましょう。

 

今日で3日間雪が降り続いています。まだ止まない。

そしてこの3日、私はストーブの傍でオトーサンのところへ旅立とうとするチビを見まもっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事だったから。

今4年経って思う正直な感想は、「なーんにも終わっちゃいない!」

海山の中だけでもなーんにも終わってません。大震災に関連して、毎日のように新しい何かが起こり、新しい誰かと

出会う。

倉本聰作「ノクターン~夜想曲~」演劇観賞in福島

以前から楽しみにしていた倉本聰さんの舞台「ノクターン~夜想曲~」を観に福島へ行ってきました。

会場は福島文化センター。客席1700のチケットは完売とのこと。福島では南相馬、会津、郡山など5会場

で上演され、ここ福島文化センターが最後ということで、ここを外したらもうこのお芝居は観られない。

それにしても凄いお客さんの数!

 

昨年の秋に、この「ノクターン~夜想曲~」の富良野での初演会場で新聞バッグを使用されるというご相談を

受け、富良野の倉本先生のアトリエにうかがって元富良野塾生の皆さんや町の方々と一緒に新聞バッグを

作ったという経緯があり、是非その「ノクターン」という舞台を観たいと思ってました。

 

お芝居で描き出されているのは。

津波で娘たちを亡くした元原発作業員の悲しみや後悔や怒りや絶望。津波で姉を亡くし、精神を病んだた妹が弾く

ショパンのノクターン。そして後半部分の一転して・・・・・・・。

 

感想は?というアンケート用紙を頂きましたが、書けなかった。 よくこんな物語が書けるものだ、と思った。

胸の奥までズシンと響いて、言葉では言い表せない感動でした。

感想は、とにかく観ること。観て感じること。

 

最初に頂いたこの舞台についての資料に「一生懸命に書きました」という倉本先生の一文があって、その言葉が

強く心に残りましたが、本当に先生は僅か4年の時の経過で人の言葉にも上らなくなる福島の悲劇を、懇親の力を

こめて描き出そうとされたのだと思います。忘れるなよ。まだ4年だぞって。

 

この舞台を観た感想を言葉で書くのは難しい。なぜかというとどの場面をひとつ切り取ってみても、あまりにも

多くのことに思いを馳せ、考えるから。東北の土地での津波や地震で引き起こされたできごとの数々、原発事故の

うえに津波まで重なって人や動物たちが苦難の道に追い込まれてしまった福島のできごとの数々。

舞台の上の人を見ていても、言葉を聞いていても、起こったできごとの悲しさに、後戻りできないどうすることも

できない切なさに、涙が出ます。

泣いてる人が多かった。当たり前のことだけど。

 

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ことになりました。とてもとても楽しみ。町の人たちにも是非観て楽しんでほしい。

思いもかけず、富良野でお会いした吉田さんにも先生の奥様にもお目にかかることができました。倉本先生には

ご挨拶をし、サインも頂きました。

 

福島では有名らしい大変おいしい円盤ぎょうざを食べ、土産にも買って本日の舞台鑑賞は終了しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯塚見聞

母の故郷は福岡県飯塚市。昔炭鉱で栄えた遠賀川沿いの町です。

町中から見えるボタ山は木が生えて三角型の山になってました。

既に亡くなった私の母の兄妹で一人だけ存命している叔母を訪ねて、飯塚に行ってきました。

叔母は93歳、二人で暮らす軽度の認知症の叔父は92歳。昨年の秋まで住んだ千葉県の自宅、

次いで入居した川崎市の介護付き有料老人ホーム、そして新しく入居した故郷、飯塚の有料老人

ホームと高齢にも関わらず、自分に合った住まいを模索する叔母夫婦の二人だけの暮らしをつぶさに

見て感じるもの多々でしたが、その他にも飯塚は面白かった。

 

大変に食文化が豊か。それは以前に今も飯塚に暮らす従妹を訪ねた時、ご馳走になった料理屋の食事

を見て感じたことでしたが、今回は改めてその思いを強くしました。

最初の日に従妹が4人で食べようと持ってきてくれたお弁当。 白い山茶花と濃いピンクの桃の花が・・・・・。

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蓋を開けたらまず季節の花が・・・。なんと粋ではないですか。

そして次の日のお昼に「あんたに食べさせたいから」と持参してきてくれたのがこのお寿司。

なに? この寿司ネタ! 大きいぃー!

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大きすぎて噛み切れないことを予測して包丁が入っている。

なんでこんなに贅沢かというと、従妹によれば炭鉱夫の力仕事を支えるために食の文化が発達

したのだそうで、海が遠いこの土地では寿司屋も料理屋も「生け簀を持つとるとばい」。

 

さすがにもう暫くはお寿司はいい、というくらいに堪能しました。

じゃあ、飯塚は豊かな町かというとそうは感じられない。一口では語れない、炭鉱という特殊な歴史

を思わせる町という印象です。

 

私が泊まったホテルの1階にある焼きたてパン屋さんで、二日間に亘って朝お会いした89歳の先生。

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焼きたてパン屋さんは朝7時から夜7時までの12時間営業。 パンを買った人はカップを1個もらって

タダでコーヒーを飲めます。

店内の横1列に5列ほど並んだ長ーいテーブルには、たぶん毎朝ここで顔を合わせる常連客が

毎朝同じ席でパンを食べながらタダのコーヒーを何杯も飲んで、四方山話をする、というような

場所らしい。 ちょうどヨーロッパの街の茶店で、退職した時間のある老人たちが陽気に話しながら

時間を潰す、というような。

こちらの紳士は英語の経済紙を読んでおられました。戦後シベリアに抑留されていた英語の先生。

隣に座って先生に質問してはその返事を熱心に聞き、また質問するのは、退職された元自衛官。

前の席に座ってコーヒーを飲みながらお2人の話を聞くだけでも面白かった。ついにがまんできなくなって

私もお話の仲間入り。

 

先生によればこのパン屋さんには、毎朝決まってくる人が決まった席で新聞を読んだり、話をしたりしに

くるんだそうです。人生がたくさん集まった場所なんだ。

元自衛官氏はそんなに飲んでもいいの?と私が心配になるくらい何杯もおかわりしてましたが、私も

ずうずうしくも3杯飲みました。

また初夏の頃には飯塚に行きます。89歳の先生にまたパン屋さんでお目にかかりたいと思います。

お元気でいてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新聞バッグワークショップin仙台の日程

朝から強風。

今日はよっちゃん夫妻が仙台の西山小学校の社会学級で、新聞バッグワークショップをやる日です。

社会学級とは何ぞや? 新聞バッグを教えてほしい、とご連絡を頂いた時には、小学校の子供たちに

教えるのかと思ったのですが、大人の方々に向けてのワークショップだとのことで、今日の講習が終わった

らよっちゃん夫妻に訊いてみようと思います。

近頃仙台の方からの「新聞バッグを教えてほしい」というお問い合わせが多いです。

定期的にというのでは、折り手さんの養成のために黒田さんが毎月1度、古川で講習をしていますが、

仙台での講習は、要望がない限りはこれまでやってません。

 

が、お電話を頂くことが近頃とみに増えているので、仙台市内でどこか場所を探して、月1程度の新聞

バッグ講座を持つことを考え始めています。

 

3月14日から3月18日まで仙台で第3回国連防災世界会議が開催されます。

海の手山の手では3月15日 エルパーク仙台(5F)での手仕事マーケットに出店します。

時間は11時~17時まで。

その他、3月8日、3月11日 は東北電力グリーンプラザアクアホールでの手仕事ミュージアム。

ここでは午前、午後ワークショップを行います。

新聞バッグを作ってみたいな、と思われる方は是非この機会にお出かけください。

 

 

今日は嬉しいご連絡がふたつ。

ひとつは富良野から北海道新聞が届きました。一緒に乾いた白樺の皮、ガンビと黒板と五郎さんの

名前が記された軍手と軍足。「北の国から」の黒板五郎さんですが、この北海道新聞で新聞バッグ

をと考えているのですが、どんなのが出来るかこれから妄想します。

 

もうひとつは、あるNPOの方から静岡県での大きいイベントで、新聞バッグを取り扱ってみたい、との

問い合わせがありました。その話とは全然関係なく、現在ラベンダーを栽培する土地で活動中という

ことで、既に津波で流されて失くなったと思っていたある島(名前を忘れた)のラベンダー栽培が現在も

続けられていること知りました。よかった! その方とお話しなければ分からないことだった。

もう行けない、と思っていたその島に今年は、道の駅出荷組合のラベンダー栽培の仲間と研修バス

旅行に行く希望がわいてきました。

 

3月3日のひな祭りの日も昨日も雪だったけど、春はもう間近。

防雪柵を畳む工事が始まり、国道の赤白だんだら棒(積雪の量や路肩を示す棒)がいつの間にか

撤去されて見えなくなりました。

雪が溶けて茶色に変わった田で、まだ白鳥の団体が落穂を啄ばんでいます。すごくちっちゃい子供

の白鳥がいるんだけど、帰れるのかしら。来たんだから帰れるよね。うん。