2013年版福幸あっぱっぱ

朝、道の駅直売所からの帰り道、南三陸の菊の師匠、Oさんの奥さんから電話がきました。

「今からそっちに行くところ」
大急ぎで家に帰って間もなく、お二人がみえました。菊の仕事が一段落したということでしょう。

ついでに私がつい先日縫製をお願いしたあっぱっぱも持って来てくれました。

今年の分のあっぱっぱです。去年の分はおかげさまで完売致しました。

ダンゴウオのアッパッパです。
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ダンゴゴウオは成魚が体長1.5から1.8㎝ほどの大人の指の先ほどの小さいお魚。お腹の下に吸盤があって 海藻などにくっついているんだそうです。
東日本大震災の後、志津川の海にダイバーが生き残りのダンゴウオを探しに潜って、「いる、いる、生きてるよー」と
叫んでましたっけ。
南三陸のホテル観洋の売店などでダンゴウオの写真集など販売してますが、ミドリダンゴウオというのもいて
一度は見てみたい愛嬌のある魚ですね。

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もうひとつはダイナミックなとうがらし柄。

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3-4歳くらいの大きさのお子様にちょうどよいサイズ。本染め手拭い1枚で作りました。
手拭いなので汗かいたら洗って干してすぐ乾きます。
南三陸の縫製工場でお仕事をしていた方が縫ってくださるので、仕上がりはとてもきれいです。
手早いので、これから4-5歳用とか柄を選んで大人用とか作って頂きたいと考えています。

シルクスクリーンでの手染めの手拭い、本染め手拭い、新聞バッグセットなどとともに仙台のろっけんぱーく
にお願いして販売致します。海山ショップや直接海山ネットでもお送りできます。
1枚1600円。よろしくお願い致します。

 

数日前に行って、なかなか復興が進まない、というより山側のほうにはボツボツ建物など建っているけど、前に
町があったところはなーんにも変わらない南三陸町のことについて、ご夫婦とお話ししました。

「あれでなんか変わっているんですか。2年過ぎてもなんにも進まないようにみえるけど、遅すぎません?」と私。

奥さんのムッチャンはさばさばしていて「なんといっても自分の家を持たないと落ち着かないからねえ」と
まずは仮設住宅を出て、自宅を持つことが第一の希望。既に2年以上にもなる仮設の暮らしで、ストレスで
身体をこわしている方がとても多いそうです。
ご主人のO氏も勿論家を持つことは最も重要だけれども、どうしても以前の生活の残影を引きずってしまう。
と仰ってました。

「普通常識的に考えればあるはずの町の核が作れない。学校があって商店街があって住宅があってという町の  中心のようなところを作る場所がないんだよね」とも。

防潮堤の計画もあって高さが8.7mとか。その高さで並行して国道45号線が新設されるとか。
聞きかじりですが、ただ聞くだけでもウーームと考え込んでしまう復興計画です。
いつになったらそんな工事が始まるのか解からないし。せっかくとった1兆を超す予算も、現場が進まないために
繰り越しになってしまうということで。

海に面した眺望のよい場所にあったO夫妻のお宅を越えた波は17-8m。8mくらいの防潮堤では
津波を防ぐ役には立たないだろうし、海なんか見えなくなってしまう。だったら普通の防潮堤でいいんじゃないの? もう海の近くに人は住まないのだし。

「ねえ?!」
ウーム、ウーーム、と答えが出ない問答でした。

O氏が仰るように「だから逃げる練習したほうがいいの」
そうかもしれません。

これから、震災後に避難していたラドン温泉に入って帰る、と鳴子温泉に向かわれました。

 

 

 

 

 

産経カルチャーセンター新聞バッグ講座

珍しく今日は雨が降ってます。午前も午後も雨。

庭にある図抜けて背が高い朴の木が白い花をつけています。丈高く枝をいっぱいに広げた堂々たるミズキの木の
白い花がこの町の至る所で目立ちます。
しかし、手入れをしない自然の木というのは、どうしてこんなに大きくなるんだろうか。

10年余り前引っ越し記念にと頂いたスモークツリーのでっかいこと!大きくなり過ぎ!
正直大きすぎて向こうの景色は見えないし、うちの中も暗くなるしで「伐りたいなあ」と思っているのだけれど、
なかなか実行に移せません。木は伐りにくい。なんだか悪いことしているような気がして。

 

呑気に木の話なんか書いてますが、実は胸の中はジリジリジリジリ。

今日は産経カルチャーセンターの講座の日で、風邪と今日の午後に古川保健所で食品衛生講習を受けねば
ならないために東京行きを見合わせた私は、あやさんのことが気になって頭から離れません。
車を運転しながら、カルチャーセンターのお教室で、目いっぱいテンション上げて一人で新聞バッグの作り方を   教えているるあやさんの姿を想像するとなんか泣けてきそう。

私が行けないため、四万十のインストラクターKさんに「誰か東京在住の助っ人をお願い」と頼んだのですが、
頼まれた方はまだインストラクターになり立てのようで、実力のほどがわかりません。

あやさんがいい加減の人ならさほど心配しないのですが、真面目のうえに良い人なので、短い時間の中で
自分が持つ技術の全部を惜しみなく教えようとするのです。ブレーキ役の私は今日はいません。
どうしているのかなあ、と気がかりで気がかりで・・・。

 

午後から古川に出て、食品衛生講座に出席。4時までの講座です。この講座を受けて食品取扱従事者証と
新しい営業許可証をもらいます。だからどうしても受けなきゃダメなのです。
身体は痛く頭も痛く、我慢し続けの3時間。

終わって買い物して帰宅。

寝たいところですがあやさんの電話を待つ間新聞バッグの制作に励みます。
夜8時半、電話がかかってきました。

「帰ってきたよーー。ものすごく大変だったよーー!」
「ええーーッ!!??」
やっぱりねえ。一人で10人教えるのは大変なんです。小を作りたい人もいれば中がいい、という人もいれば
大を作りたいんですが、という人もいる。その要求に全部応えようとする彼女ですから、大変に決まってる。

大体被災するまで彼女も私も新聞バッグなんか作ったことないんだから。
「大バッグ作るなんて思わなかったから、新聞が足りなかったよー」
大のバッグは新聞紙5枚で作ります。簡単ではないので初めて作ってもなかなか覚えられるものではないです。
でもこの際だから欲張ってあれもこれも作りたいという気持ちもわかるしなあ。

 

カルチャーセンターの方に日本の新聞紙までもらってどうにか役目を果たしたようで、無事終わってほんとよかった。

これで私も安心して休めます。

あやさん、ご苦労様でした。そして助っ人になってくれたTさん、寄ってくれた版画家の岡澤さん、
お世話になりました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

間に合わない1日

先日ともだちと一緒に南三陸に行った時は寒かった。
連日用事が多くて疲れているので、まずいなあ、風邪ひくんではないかと用心はしていたんですが、やっぱり、
きっちりと風邪をひいて、そしてその風邪の身体中が痛いこと!

熱より咳より身体中が痛いのに閉口しているところに、今日はこなさなければならない用事がふたつあり、
寝ているわけにはゆきません。

ひとつ、明日は東京は自由が丘の産経カルチャーセンターの新聞バッグ講座の2回目。受講生の方にお渡し
する道具やお土産を今日のうちに梱包してセンターに送らなければならないことと、講師を勤めるあやさんと
会って、切符を渡したり、詳細を詰めとかねばならない。

というわけで、朝のお餅仕事を終えた足で、あやさんのアルバイト先の鳴子温泉の名物喫茶店「玉子や」さんへ
向かいました。今日は店主のMさんもおられて、大震災後3年という今の時期の商売の難しさや、これから
どうすべきか、鳴子温泉にお客さんに足を運んでもらうにはどんな方法があるのか、などなど論議、雑談する
こと1時間半あまり。その間、なんというか、やっぱりお客さんが少ないんですよ。勿論「玉子や」さんも外を
歩く観光の人々も。

鳴子温泉はほんとにお湯がいい温泉地です。お湯の質が9種類だかあって、よりどりみどり。好きな温泉に
入れます。お休みには是非鳴子温泉に来てください。

 

仕事が終わったあやさんと自宅に戻って道具の梱包作業。3時半すぎて終わって、荷物をあやさんに託し
私は大急ぎでもう一つの用事の現場である道の駅へ。

今日は横綱白鵬さんとその他のお相撲さん、宮城野部屋のご一行様15人ほどが、道の駅に来る日なのです。
先日社長からその話があって、出荷組合の理事会で「お餅つき」をしようと決めたのですが、今日は4時から
お相撲さんたちにお餅をついて頂くことになってます。
役員は2時半集合だったけど、身体が痛いのと梱包作業でそれは無理なので見送りました。

でもまあ、後片づけくらいは、とこの際だから孫も連れ、大急ぎで道の駅に駆けつけましたが、なんとまあ4時    には終わってしまい、お相撲さんは帰りのバスに乗り込むところでした。見えたのは白鵬の笑顔だけ。
それにしても白鵬さん、優勝直後ではないですか。よく来てくれたなあ、と感心しつつ見送るだけでした。

男性役員全員出ているので、風邪っぴきの年寄りは、後片付けも失礼して帰宅。
4歳孫にお餅つきもお相撲さんも見せてやれず、こんな時に風邪をひいて身体中が痛いなんて、自分の間尺の
合わなさにうんざりした今日でした。治りたいので全部の仕事を止めて10時間くらい寝ます。

 

 

 

 

また会う日まで。

なんとかお天気がもちそうな土曜日の朝。
早朝から打ち上げる花火の音が響きます。この町では全部の学校(小学校、中学校は判らない)の運動会。

すぐ近くにある小学校も今の生徒数は全部で35人と聞いたので、学校に行く子供がいなくても地域の住民が
できるだけ多く行ったほうがいいんだろうなあ、と思うものの、今日は先日立ち上げた「ものづくりネットみやぎ」の
副代表になられた宮城イーストファームの赤坂社長が推進なさる「東北コットンプロジェクト」の綿の種蒔きの日。

両方行くのは無理なので、運動会は来年までお預けにして、ともだちも一緒に綿のタネまきに行くことにしました。

この話は記すことが多いので後まわしにします。

1日過ぎて今日日曜日は、4泊してくれたともだちが福岡へ帰る日。

昨日の夜は「お世話になったから」とたくさんのお肉と野菜を買い込んできて、うちの家族のために鉄板焼きの
大盤振る舞いをしてくれました。日頃食事の用意をする役目の娘が「おいしーッ」と何度言ったことか。
よほど美味しいんだな、と私も嬉しくなりましたが、当の私は風邪ぎみで喉が痛いのと片側の歯を抜いたのとで全然
意気があがりません。

夜中に薬を飲んで、朝はちゃんと5時半に起きられました。喉も痛くない。

いつもどおり彼女と一緒にお餅を作って、一緒に道の駅に行き、あと2軒二人で出荷先を回りました。
二人一緒に11月生まれなので、お互い71.5歳。いつまでこんなことやれるのか。

帰宅してお土産などの荷造りをして、仙台空港に向かいます。
飛行機は午後3時ちょっと前。私たちシニアというの?おばあさんというかおばあさん以前というか、その年齢の
私たち高齢者は、歳をとるごとに身体の我慢は効かず、物忘れはひどくなり、いいことは全然ないのですが、
ありがたいことに飛行機運賃が日本中どこへ行こうが1万円なのです。彼女は12000円になったと言います。

で、12000円でJALに乗って福岡に向かって飛び立ちました。

i家では面倒見ている3匹の猫。他所の駐車場を借りて50万円もかけて作った立派な犬小屋に、彼女に
運良く出会えた犬や猫たちが彼女の帰りを待っています。昨年ご主人を亡くした後に、乏しいお金を使ってなぜ犬小屋を建てたかというと、「どうして?」とは訊かないけれど、自分に何かが起こった時のためだと思います。
子供のいない彼女にとって彼女の生を支えてくれた犬たちやねこたちは彼女の人生の同伴者です。きっと保険も かけて、自分が居なくなった後を託す人も決めていることでしょう。

明後日は体が少し不自由な方々にテニスのコーチをする日だそうです。
そして自分自身も闘病をしながらテニスのコーチを続けておられる師の生徒でもあります。
1日でも長く彼女が健康でテニスを続けられるように、そして大好きな犬たちや猫たちとともに過ごす時間が
続きますようにと祈ります。

 

 

家に帰ってからが大変。
今日はうちの4歳孫が風邪で発熱。私も怪しいので家の中で二人でマスクをし、娘も一緒に注文の新聞バッグの
製作です。
6時までに間に合うか。必死で作って間に合わせ、ついでに毎月多量にご注文を頂く横浜の新聞博物館へ
送る新聞バッグを、㈱レンゴーさんのご支援で作って頂いたダンボール箱に詰めました。

手が短い私の両手では抱えきれないほどの大きなダンボール箱。外には「海の手山の手」と「東北新聞バッグ   プロジェクト」と印字されていて、新聞から新聞バッグになりますよーという絵もデザインされています。

あっちこっちのスーパーマーケットを貰い歩くダンボール箱ではなく、私たちだけの感動的ダンボール箱。

送り終わったら、発熱で外に出られない4歳孫のアニメのDVDを返して借りに古川へ。
今日は1本50円だって。ドラエモンやウルトラマン、何個も借りてあげました。最高!!

 

 

 

 

 

 

再び南三陸へwithともだち

午前中、早めにお餅仕事を終わらせて海山元代表よっちゃん宅へ。

福岡から来たともだちも一緒です。
大震災以来、知っている限りの人に声をかけて被災地への支援品を集めて送ってくれたり、私たちが購入は
したものの売りあぐねている南三陸わかめを100袋も200袋も福岡で売ってくれたり、よっちゃんなんばんや
お餅など海山メンバー商品まで販売してくれたり、出来得る限りの被災地への応援をしてくれた彼女ですが、
よっちゃんとは初対面。

犬、猫大好きで何十年も捨てられた犬、猫や被災した動物などの世話を続けてきたともだちは、早速
よっちゃんちのワンちゃんチョビと猫ちゃんメルと仲良しになりました。

福岡では彼女の他にも津屋崎ブランチの山口代表に大変お世話になっています。
その他にも福岡で東北応援 をし続けてくださる方が多いこともあり、今年は秋には海山メンバーみんなで福岡
へ行こうではないかと話が発展しました。福岡から東北は遠く、文化や人の気質も異なることが多くて、
面白いことがいっぱいあるのではないか、と楽しみです。
午後からは南三陸へ。

ともだちにとっては初めて見る被災地。
「トイレに行きたい」と言う彼女に、コンビニはあるけど仮設だからトイレは外だ、と言うと沈黙。
仮設のセブンイレブンやファミリーマート。普通の町では見られないものがここではいろいろあります。

山の木は伐られ、材木は山積み、あちらこちらの山は木がなくなって赤土の造成地、遠く近くの瓦礫の山、家の礎石に伸びた雑草、車の残骸の塊の山、小舟ばかりの山。
来るたびに新しい建物がぽつぽつと増えているような気はするのだけれど、でも津波に洗われたところは建物が
建つわけではないので、復興しているようなしていないような一種独特の雑然とした町の佇まいです。

O夫妻は今はお盆菊と彼岸菊の植え付け、と刺し穂の最中でした。
ご主人のO氏は下の菊畑で手伝い仕事中。

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ともだちは菊畑の上のハウスの中で、O夫人むっちゃんの彼岸菊の刺し穂のお手伝い。

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向こうにあるのは刺した彼岸用の菊。この小さい刺し穂が根を出し、1ケ月ほど経ったら畠に定植して
9月のお彼岸用の菊になります。

既に定植されたお盆用の菊。

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田んぼの稲もそうですが、菊の畠の菊もすくすく育ってくれることを祈ります。

今年は海山は「福岡へ行くよー。みんなで行こうねえ」と言ったら「いいねえ! 行きたいねえ!」とむっちゃん。
生業も新聞バッグも菊もしっかり仕事をして、11月の博多研修の備えにしたいものです。

 

新聞バッグをとりにY仮設があるけいこさん宅へ。
けいこさんは作業場で雲丹の仕事中とのこと。お会いする度に心がほのぼのするおばあさんとおじいさんと犬の
マック君が在宅中で、お部屋に上げて頂いて、けいこさんが戻るまでしばらくおばあさんとお話ししました。

被災地のことも海の仕事のことも農業の仕事のことも全くといっていいほど知識がない福岡の市街地育ちのともだちは、見るもの見るもの、びっくりすることばかりだったと思います。

やがて戻ったけいこさんから、驚くほどたくさんのわかめや茎わかめやお魚を頂いて、南三陸を後にしました。

初めて南三陸に行ったともだちに、感想を訊こうとは思いません。
簡単には言葉にできないでしょうから。
ただ、この東北大震災の被害も、今の町や人々の様子も、私の身の周りにある東北の中山間地の農業も、彼女に
とっては想像もしなかった情景のようで、わざわざ福岡から来て見聞を深めてくれてよかったな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

ともだち

今日も青空、陽光、最高のお天気!

福岡から60年近い長ーい付き合いの友達がやってきました。

私がこの地に越してきてすぐに来て以来だから、12年ぶりになります。
福岡生まれの福岡育ちで、東北のことも宮城のことも農業のこともほぼ何にも知らない生粋の博多っ子。

昔、昔、彼女と私は高校卒業までテニスのパートナーでしたが、私はそこまででテニスをすることはなくなり、
彼女は自称71.5歳の今もテニスを教えています。
流石に60年近くコートを走り回っているだけあって、足腰の強いこと、感心します。

50代の頃は私の山歩きに参加し、ある時は一緒にスキーをしたり、ある時には会津駒ヶ岳の下りで尾根道を
間違え、雪の中で一夜ビバーグをしたこともあります。
20代のころはお互い誰かを好きになったりなられたりすると、デートにまでくっついて行ってましたっけ。

その彼女は東北大震災の時には、私の友人の福岡代表のように大活躍してくれました。
彼女の呼びかけで集まってくる衣類や靴など、福岡で仕分けし、1年がかりで送ってくれましたし、私たちの
商品を福岡で販売してくれたりもしました。

きのうは1日道の駅や鳴子のあやさんのお宅や古川のNPOなど、私の行くところ行くところに付いてきて
海山の仲間と交流を深め、新聞バッグ作りも経験しました。
今日はよっちゃん農場を訪れ、南三陸に行きます。
読んで見るだけではなく、東北のたくさんのことを知って福岡に戻ってほしいと思っています。

 

 

 

 

米つくりの話

田植えが終わった出来立てホヤホヤのうちの前の水田。

蛙の声がまばらに聞こえます。
なぜ蛙は夜になると轟くばかりの大合唱をするのでしょうか。不思議だ!

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これから秋の稲刈りまで、田の稲がだんだん大きくなって稔るまで見るのが楽しみです。低温が続いたり、熱帯の
ように暑い日が続いたりすると、自分が作っているわけでもないのに、大丈夫かなあと稲の心配をします。

豊かな光景、と言いたいところだけれど、昨日は直売所の生産者仲間の方から「米を作るということ」がどういう
ことかを聞いて、日本の農業の貧しさを痛感させられました。農業が貧しいんじゃなくて、いくら労働しても
農業をやる人の暮らしが豊かになるようになっていない農政が貧しいのです。

この水田に水を入れるためには1反6000円のお金を払わなければならないのですって。全然知らなかった。
広い田んぼは手放して、自家用のお米のための2反歩くらいを作る人はよく見かけるけれど、大体1町歩とか
1.5町歩とかのお米を作っている農家も多いんだと思います。

で、1町歩だったら6万円払って固定資産税や電気代払って、肥料やトラクターや田植え機やコンンバインなんかの
機械代や油代払って車を何台も持って、そして1町歩から上がるお米が安かったらどうにもならんじゃないの、と
素人の私は考えます。サイドビジネスに野菜売っても、ホウレンソウ100円キャベツ100円だもの。

私たち都会でサラリーマンやってた人間の給料は、桁が違うくらい上がりましたよ。結婚した頃は何万円かの給料で一家で食べてたもの。それが今は都会で暮らすならウン十万円くらいの給料を貰わなければ暮らしてゆけない。で、その割合でいうなら、農産物というのはいくらくらいからいくらくらいに上がったんだろう。1円だったホウレンソウが100倍の100円になったということはないでしょうから、30円が3倍くらい?

 

そんなことを考えると、自分が、そして都会の人間がいかに自分が食べている米や野菜の背景について何にも
知らないか思い知らされます。

 

先日東京に行った時、渋谷のビルのエスカレーター脇にあるピザとスパゲッティの店に入りました。
ピザのお金が1枚1700円。東京の人間なら「そんくらいするわよ」という値段ですが、こっちでは仰天するほどの
高額です。どうして1700円なのかをもっと知る必要があるのかもしれないなあ、と思います。

ここに来た頃、、お米がなくなって農協にお米を買いに行きました。「10kください」とお願いしたら「ない」と
言われて大変びっくりしました。私は農協を何をするところだと思っていたのか。たぶん何も思っていなかったのだと思うけど、お米は買えるところだと思っていたのだと思います。

都会で暮らす給料を貰って暮らす生活と、普通にいう田舎、そこで行われる農業という暮らしとの距離があまりにも
遠すぎる。農についての情報の断片でも聞き齧られるような暮らしではないので、都会にいては米作りの苦労も
野菜作りの苦労も想像もつきません。テレビで見る最先端の農業を見て、「そうか、農業はあんなふうに進んでいるのか」と思うだけです。

一緒に1700円のピザを食べながら「これから野菜なんかも工場で作れるようになるんだね」と友人が素晴らしい  進化であるかのように言うのを聞いて愕然としました。                                    良いことだ、と思っていたそうです。そう思っていない人もいるけれど、そんな風に思っている友人もたくさんいます。
「工場で大規模に野菜作るようになったら日本の中山間地は潰れるよ」

戸惑った表情を浮かべる友人に、何からどう説明したらいいものか。
たかだか10年ちょっととはいえ、過疎と労働力、人不足に苦しむ中山間地に住む者として、少しでも農業の実情を
伝えられたらとは思うのですが。

直売所でお話しした生産者の方は、その名前だけで品物が完売できる品質の良い野菜やキノコや果物を周年、途切れないように生産されていました。でもこの10年の加齢と重労働でお疲れの様子がはっきりと見て取れます。
「今の農業は子供に継がせたくない職業。自分で終わりだ」
吐き捨てるように言われる言葉に、何にも言えません。そうだろうなあ、と思うだけ。

 

世界で一番の農業大国といわれるオランダでは、都市部に住む者や子供たちに国の基幹産業である農業が
どのように理解されているんだろう。知ってみたいな、そんなことをこの頃思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の日

ガン闘病中の夫の今日は抗がん剤投与日。

薬を投与してから数日は体はきついし、白血球などの数値の低下で風邪などひかぬように要注意。
などということもあるので、それなりに気を遣うのですが、当の本人は至って普通です。

朝は通常より少し早めに起きてお餅仕事を済ませ、それから病院に出かけます。

夫と私は二人でお餅を作って道の駅の農産物直売所で販売していますが、お餅を作るということで
女の私が作っている、と思っている方が多いです。さにあらず、お米を洗うのも、お餅に入れる青豆や黒豆を
餅に入れ具合が丁度良いくらいに煮るのも夫です。

私が煮ると柔らかすぎて、お餅の中で砕け散ったり、逆に硬かったりでなかなかなかなか。
毎日小豆を洗って煮て餡子に仕上げるのも夫です。

餡の甘さが過不足なく丁度良い、とはよくお客様に言っていただく言葉ですが、その餡子の甘さも夫が
ああでもない、こーでもない、と研究を重ねた結果の味です。

じゃあ私は何をしているのか、というと柔らかいお餅を包丁で切る、とか夫が煮た餡を夫が搗いた熱いお餅でくるむとか、味とか豆を煮るとかの基本以外の仕事ばかり。で、たまに夫がいなかったりすると、お餅つき現場は水が
飛び散ったり、お餅を落としたり、戦場のようになります。

でもせめて投与日後の2、3日は私も何か手伝おう、と毎回そのつもりでいるのですが、今日も病院から
戻ると普通にお餅をついて餡子を仕上げて、「ちょっときついな」と言いながら「ではお先にー」と寝みに
2階に上がっていきました。

泣き言も愚痴も言わず、淡々と日常をこなす夫を「凄いなあ、私には出来ん」と思ってみています。
「お母さんは抗がん剤だって無理よ」と娘には言われてますが。
東京でのサラリーマン歴40年近く。退職後のお餅屋歴8年。
給料を貰って暮らす生活だけではなく、モノを生産して暮らす生活ができることを夫は「楽しい」と言います。

 

もうすぐ父の日。

手作りパンのお店をやっていらっしゃるお客様から父の日プレゼント用の新聞バッグのご注文を受けました。
こんなふうに作ってみました。

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これでプレゼントをもらったお父さん、喜ばれるだろうか。
丁度水回りの修理でみえていた電気工事屋のSさんに「中味入りでこれプレゼントにもらったらうれしいですか?」と訊ねてみたら、「オーーーオ」と驚いていたから、サプライズにはなるかもしれない。

 

朝は病院、午後は工事、夕方病院、そして夜は道の駅の会議とめまぐるしい1日でした。

外は緑一色。新緑の林の中に木の花が咲いています。白い花ばかり。
明日は白い花を全部写真に撮ってみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔ばなし

暖かかったり寒かったりしている間も季節は進んで、周囲の田はほとんど水が入り、田植えも最盛期です。

昨夜の蛙の大合唱は凄かった。それまでは蛙の声なんて全然しないのに、田に水が入った途端に辺り一面に
轟き渡るような大合唱が始まるのだから不思議だなあ、と思います。

このところ誰か彼か次々に我が家に人が訪れて賑やかです。
1週間前は次男一家、そして次に叔母、明後日からは60年近い付き合いの福岡の友達。

南三陸に行く長い道中で、叔母に若い時代の話を聞きました。
若い時、アメリカ軍の基地で働いていた叔母は、将校クラブでパーティなどがある時、身体に少し障害がある
(手術で治ったので今はない)幼い私を連れて行ってくれてました。

それは覚えているけど、叔母が何の仕事をしていたのだろう。
「おばさん、基地で何の仕事していたの?」
「進駐軍の将校クラブで給仕の仕事していたの。アハハハ」

アメリカ軍のことを「進駐軍」という叔母の答えを聞いてびっくり。給仕というのだからウエイトレスだったんだね。
私は事務職かと思ってました。

「で、おじさんは?」
「おじさんは掃除夫だったの」

「えーーッ」もっとびっくり。
叔父はよく翻訳などしていたので通訳でもしているのかと思ってた。
「特攻隊で宮崎の部隊に行ったんだけれど、3機前で飛行機が無くなってしまって、特攻する前に終戦になっちゃったのよ。戻ってきても仕事がないので、進駐軍に入って掃除夫をしていたの」

いやー、私は知りませんでした。そうだったのか。

「私をいつもクラブのパーティなんかに連れて行ってくれてたよね」
「将校クラブのパーティがある時、一人で行くのが嫌であんたを連れて行ってたのよ」

えー、えー、えーー?
私は叔母に可愛がられているから連れて行ってもらってた、と思ってた。なんたる誤解。

その後叔父は東京に出て通産省の役人になり、今91歳で家で留守番しています。

宮城に来る時には、私が迎えに行って一緒に来ましたが、帰りは上野駅まで一人です。
予約した東北新幹線の車両の一番端っこの座席に座って手を振って帰ってゆきました。
「今度の旅はほんとうにたくさんの収穫があった」そうです。

自分の家の庭に植えたい花の苗を選ぶ叔母。
私など、何をくれると言われても「もう歳だから、何にも要らない。何にも欲しくない」といい続けているというのに
91歳でもなんたる精神状態。見習います。

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私が好きな木の花が咲きました。木の花は白い花が多いです。
しかし、この花は何の花? 全然解からない。とても素敵な花です。

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こうやって、トゲトゲのタラの木があっちからもこっちからもニョキニョキ生えてきます。トゲだらけなので、
迷惑なんだよねえ。

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南三陸へ

今日は快晴。風もなく暖かく良い日です。

ところが、うちでは朝から井戸のポンプが動かなくなるという大ピンチ。おかげでおもちは半分作ったところで
中止。その半分を道の駅直売所に持って行って出荷し、叔母を迎えに東鳴子温泉へ。

それにしてもアベノミクスだか公共事業だか知らないけれど、工事の多いこと。国道も県道もトラクターが行き来する農道も長ーい広範囲の工事でどんどんどんどんきれいになってゆきます。そんなお金があるんだったら、以前の様にETCでも工夫して高速料金を安くして、東北に人が来るようにしてほしいです。

水が出ないのと工事で約束の時間を大幅に遅れて宿に到着。91歳の叔母を助手席に乗せて南三陸町に
向かいました。

防災庁舎で手を合わせる叔母。91歳でよくまあ、南三陸まで出てきたものだと感心します。東京でテレビで見ていた被災地の姿とは全く違っていたようで、「これは見なければわからない」とショックを受けて涙をこぼしています。

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庁舎の背後に横たわるコンクリートガレキの山。
「ガレキってまだあんなにあるの!?」
叔母の家に行く度に「だいぶ復興した?」と私に訊ねていた叔母の言葉です。

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いるかどうかわからないけれど、せっかく来たのでM仮設住宅の菊の師匠の元へ。

運良くO夫妻はいてくれました。
「狭いところですけど」と奥さんのMちゃんにお部屋に案内された叔母は、4畳半2間だけの仮設住宅に初めて
入って、「大変な災難に合われましたね。もとは立派なお宅にお住まいでしたでしょうに」と言いながら
涙をポロポロ流していました。

0さんご夫妻のお仕事は菊作りと工場の経理。この地を離れては生計が成り立ちません。
「家は?」と訊ねると、やっと土地の確保には目途がつきそうだとのこと。2年後くらいには「家が出来るのかなあ。
それでも2年と思えば嬉しい気持ちになる」とMちゃん。2年以上にわたる仮設住宅の暮らしは、身体の具合
が悪くなる人がとても多いそうです。

M仮設を出て、次には新聞バッグを受け取りにY仮設住宅へ。今日は新聞バッグインストラクターのKさんは
お出かけで、留守居のおばあさんが新聞バッグを渡してくれました。
今はわかめの収穫が終わってちょっとひと休み。次はほたての仕事が始まるそうです。

往復4時間ほどもかかって東鳴子温泉の宿に戻りました。

食事を終え、温泉に浸かり、福島は国見からきた方と石巻の北上町からみえたお客様とご一緒しました。
知らなかったけれど、国見の方によれば、福島県内陸の国見は地震の被害が最もひどく300戸の家が壊れた。 自分の家も壊れたけれど、1階が残ったので修理してお父さんと二人で暮らしている。みんなバラバラ。

 

大川小学校が目の前の北上町のお二人は、目の前に迫った津波から山に駆け上って助かった。家は流れて
今は仮設住宅にいるけど、初めて「温泉に来たよ」と明るく話してくれました。
家は3年後くらいにできるのかな。「いや、わからないね」と二人で笑っています。

 

「来てよかった。見てよかった」と何度もくり返す91歳の叔母との南三陸行きでした。
もうこんな機会は来ないのかもしれないけれど、ほんとうに来てくれてよかった。
私自身は91歳まで生きたいとは全く思わないけれども、もし生きねばならないのなら、こんなふうに生きられれば
いいなあ、と思いました。