仕事

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足まで写っちゃったけれども、今朝由美さんが持ってきた近所のおばあさんが作った竹かご。
おばあさんは87歳。先日熊に叩かれた方のところのおばあさんです。息子さんはとても気丈で、怪我のところの血も自分で洗って、下着も着替えて、自分で救急車呼んで病院に行かれたと。一と月もしないのにもう
普通に暮らしておられると由美さんに聞いて、東北の農家の方の気丈さにびっくり、感心します。

そういうところのおばあさんだから、これから先もまだまだ元気で「籠作ると思うよー」と由美さんが言ってました。

この籠は細いシノ竹で編まれています。その竹も丁度良い季節に自分でとって、小さい鉈で裂いて作ります。

これだけの仕事なのに、お値段はさほど高くない。

凄いなあと見とれました。由美さんは昨年もそうだったけど、この竹ざるを新聞バッグに入れて、

親しい方へのプレゼントにしています。

このおばあさんだけではなくて、他にも竹で編むもの入れを作る人がこの集落にはいるそうです。

でもみな年をとって、後が続かないことは間違いがない。

 

それで思い出すことがあるのですが・・。

つい先日、新聞バッグの講習で、3,40代の男性10人以上に新聞バッグを作ってもらいました。

新聞紙を半分に折って折り山をカットする時に、カッターを上から下に使う人がいて驚きました。上から下に切るのはいくらなんでも難しいと思う。普通は下から上にカッターを折り山に挟むようにして滑らせてカットします。

30cmの取っ手を20センチくらいに切ってしまった人も何人もいました。こちらが何回も言うことを聞いていないのかなあ。この方たちを非難しているのではなく、新聞バッグを教えていると、今の大人の特に男性のほうがその傾向が強いのだけれど、手で物を作るということをほぼやっていないのではないかと、思えます。

カッターやはさみで新聞紙を切ったり、糊で貼ったりという以前に、新聞紙をまっすぐに折る、ということが
なかなかできない人が多いのです。最初にまっすぐ折れなかったら、着物の着付けと一緒で作れば作るほどグジャグジャになる。

どうしてこういうことになっているのかなあ。と不安になります。

こんな竹かごやしめ縄やいろんなものを手で作る年寄りがいなくなったら、どうなるんだろう。

そんなことを考えさせられる、素晴らしい出来栄えの竹かごでした。

 

 

 

 

 

山形へ

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那須の続きで、年寄り二人、山形県の鶴岡を旅してきました。

目玉は加茂水族館(くらげの水族館)のクラゲ!DSCF1947

前日はくらげ水族館がある湯野浜温泉までの道も渋滞でぎっしり。1万人くらい来ましたよ、との情報も聞いたけれど、何事もなくクラゲ街道を走り、何事もなく駐車場に車を停め、普通に館内に入って目いっぱいクラゲを見てきました。いっぱいいたわ!

お客さんによってくる愛嬌のあるアザラシも、だらんと寝転んだアシカもいました。

 

山形県鶴岡市は、私たちにとっては藤澤周平の小説の舞台になった町。ぜひとも藤澤周平記念館へと意気込んでいたのですが、鶴岡の町は水曜日休日が多いとのことで、休館日でした。

開いているところは。

黒いマリア像で有名な、鶴岡カソリック教会天主堂。

かわいらしい幼稚園が併設されています。

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鶴岡駅前のお蕎麦家で名物麦きりを食べました。麦きりとは、つるつるした細いうどんでした。

庄内の豪商、旧風間家住宅、丙申堂。
丁寧な説明、60帖の台所、珍しい石を乗せた屋根。藤澤周平の小説「蝉しぐれ」の映画の撮影があった座敷。

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鶴岡の中心部、鶴岡市役所から車で20分ほどの湯田川温泉、湯どの庵で宿泊。

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この湯どの庵。外から見るといかにも昔からある旅館の佇まいですが、中は全然違う。大変モダンは作りになっています。食事も旅館で普通に見る品数いっぱいのお膳料理ではなく、超シンプルな素材を楽しむコース料理。年寄りにとっては、見ただけでお腹いっぱいになりそうなお椀やお皿の料理よりも、時間を置いてひとつひとつ出てくる魚やスープの食事は食べるのに楽でした。珍しくほぼ完食。ブルーベリーの冷たいお饅頭を食べたけど、あれは美味しかった。

東京からきた友人はこの旅館を大変気に入って、秋にも是非また来たいそうです。私たちの地元である鳴子温泉も、こんなふうに「是非また来たい」とお客様に言われる旅館にならなくちゃ。

いつまた二人で来れるかな、と記念写真と撮りました。
人生の残り少ない私たちにとっては、会える1回1回の時が大事です。

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翌日もよく晴れて学問所である致道館、そして藤澤周平記念館、大寶館へ。近い順序で歩いただけですが・・・。

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ついでにと、羽黒山へ。

山門の前の茶店で、二人で草もちを食べて休憩。

高齢者二人。油断してもしなくても交互に忘れ物をして補い合っての旅でしたが、子育てを終え、両親の
看取りも終えての旅は気軽でのんびりとして、とても楽しかった。また行きます。

最後の日、「うーーむ、凄い!」と感嘆しつつ見た今の伊豆沼。我が家の近くには、三つもこんな蓮の沼があります。蓮船の船頭さんが「世界一」だと言っていたけど、ほんとうかもしれない。花にはまだちょっと早い。

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私が運転していたとはいえ、疲れただろうと疲労を案じていた友人は、帰京した翌日にはプールに行って
クロールで200メートル泳いできたよ、と言うのですから、たいした高齢者です。

 

 

 

 

 

 

那須トラピスト

那須の修道院にいる友人の体の具合があまりよくない、と聞いて、東京の友だちと二人、修道院を訪ねることにしました。

トラピストを訪ねるときは、普段友人を訪ねるときのように、「こんにちわー」という具合にはゆきません。
前以ってお手紙で訪ねたい日を指定してお願いし、院長様の許可がおりてから始めて訪問できます。

一緒に行くともだちとの待ち合わせは、東北新幹線、新白河駅。友だちは東京から、私は古川から。
新白河からはタクシーで行きます。

県道から一歩トラピスト修道院や聖ヨゼフ修道院がある森の中の道に入ると、そこは町とは別世界のような
深い深い緑の道が続きます。とても静かで修道院を囲む樹木はよく手入れされ、ブッシュには山ユリが咲き乱れていました。

ここは厳律シトー会那須の聖母修道院といい、「祈り働け」をモットーに神に自己を捧げた修道尼たちが
沈黙を護りながらシンプルな生活を送っておられます。

昨年にも一度訪ねたので、友人と会うのは1年ぶりくらい。
どんなふうに具合がよくないのかと、とても心配でしたが、にこやかに現われた友人、グリーリ栄子さんは
少し細くなられたけれど、治療が終わって想像していたよりうんと元気でした。よかったーーあ、ほんとによかった。安心した。

一度軽い脳梗塞にもなりかけたけれど、すぐに周りの修道尼さんが気がついて病院に運ばれ、治療をして
今はなんともないとのこと。今の病気もそう。栄子さん、運の強い人です。

早寝、早起き、修道院の農園で採れた食材を食べて、1日に何度も行われるミサで祈って、トラピストの特産のお菓子であるガレットを作るお仕事をして、私たちよりもうんと健康的な生活を送っておられるのだもの。来年もまた会えるよね、と喜び合いました。

「金色の翼にのって」の著者、マルセル・グリーリ夫人の栄子さんをご存知の方が多いと思います。
栄子さんはお元気でした。そして修道院におられるけれども、とてもお綺麗でした。しっかりした力のある目も、しっかりしたお話の仕方も健在でした。

また来年も会えることを祈って、ウグイスが囀る深い森の修道院をあとにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラベンダー

長雨が止んでぐったりと頭をたれていた山ユリが息を吹き返しました。

今、どこもかしこも山ユリ満開。ちなみに山ユリは町花です。

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2年前にご縁ができて、美里町の退職者の先生方が作られたラベンダーを植え、育て、増やしてポプリを作る会、「ラベタン」に、ラベンダーの苗を分けて頂く約束をしました。苗は美里町の農業高校の生徒たちが、
親株から差し穂を採って作るそうです。

約束してから2年目の今年、いよいよ苗ができて、9月に頂けることになりました。その苗は道の駅出荷者に
分けて、みんなで育てて道の駅の庭や周辺をラベンダーで彩りたいと計画しています。

先日、ラベタンが派生して、べつ会社ができたということで、社長さんや関係者の方のお話をうかがいに
行ってきました。
その会社では私たちが育てたラベンダーの花や茎を利用して、製品化してくれるのだそうです。

何ができるのか。ポプリ? オイル?

「いや、違います。タオル」、と聞いてびっくり!

ラベンダーでタオルができるんですか?

タオルを作る会社の社長であり、今も現役職人で1日に数時間はタオルを織っているという、タオルが大好きな渡邊社長は、「草木染めではどんなものでも染められるんですよ」と。

道の駅や家周りを差し穂で増やしたラベンダーを植え、こぼれ種で増えたクリスマスローズなどを植え、四季ごとの花が咲くようにして、お客様に喜んでもらえたらいいね、というほどの計画に、ラベンダー色のラベンダーの香りがするタオルができるという新しい楽しみができました。

美里町のラベンダー栽培は、広大な敷地面積のコットンプロジェクトの綿栽培も同時進行なので、草取り、苗植えとパンパワーの確保も大変です。ラベンダー栽培も綿の栽培も東北の土地を利用して、東北の再生や仕事つくりのために進められようとしています。

そんな話の中で、宮城にラベンダーの島があると知りました。

島の名は忘れた。その島はラベンダー栽培をしていて、フェリーで行くそうです。今年の9月に苗を植えて
育てたら、来年の花の時期には是非みんなで行ってみようと、もうひとつ楽しみができました。

しかし、よく考えてみると、なぜみんなラベンダーが好きなんだろう。

格別花の形や色が素晴らしくきれい、と言う花でもないのに・・・。私も好きなんですが、不思議だね。

 

 

 

 

 

 

 

始まりはチョコだった。

古川からの帰り道、緑の田んぼがあまりにもきれいだったものだから、「私はなんと美しい町に住んでいるんだろう」と感動してパチリ。でもこれを近所の人に言ったら「フツー」と言われるんだろうなあ。

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きのうは海山始めた時の仲間3人でご飯を食べながら話をしました。

大震災の時から3年ちょっと経って、もう忘れてしまっていたけど、海山新聞バッグを始めるきっかけは、チョコだったんだよー。

と言ったら、「えーー? あーーあ、そうだったねえ、そうだった、そうだった」と二人。
一人はよっちゃん、もう一人は最初に沿岸部の人たちと梅の花見をした梅農場の3代目。開拓農家の3代目だから作っている枝豆の名前も「3代目」です。

12年ほど前にこの町に道の駅がオープンしましたが、その前年に私は千葉からこの町に移住し、時を同じくしてよっちゃんは東京からUターン。道の駅オープン時の最初の会合の時に3人は顔を合わせ、以後時はずれますが、3人とも出荷組合の役員を務めることになりました。

大震災後はガソリンない水ない電気ないの毎日で、家族全員すすけた顔をして余震に怯えながら、自分の家周りのことしか解らない日々。8日も過ぎてやっと電気が回復して、それからしばらく経ってからのこと。

うちの道の駅には北海道のロイズチョコレートのお店があります。そのロイズチョコレートが北海道から支援品として大量のチョコレートを運んできてくれました。そのチョコレートを沿岸部の避難所まで届けるためによっちゃんたち男性役員一行は初めて沿岸の津波被災地に入りました。

沿岸部はどんな状況なのか。電気がなくて大震災時の様子を断片的にしか知らない私は、固唾をのむような気持ちでよっちゃんたちの帰りを待ちました。でも帰ってきても全く連絡なし。電話をしても出ない。3日間もの無言。

それから暫くして「何かをしよう。でも自分たちが行って現場の手伝いをするということではないと思う」と
いろいろいろいろ相談しました。そうこうするうちに寒さも和らぎ、4月半ばになって梅の蕾が膨らみ始め
その頃から「梅の花見に来てもらいたい」と3代目が沿岸部の人たちの避難先の鳴子温泉の旅館に日参し始めたのでした。

そして4月21日、200人以上の避難者の方たちが、梅農場にきてくれました。
なつかしい写真。
ここには、みなさんにお餅をついて食べてもらう、と鉢巻をした夫の姿もあります。

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「で、あの時の話を聞いてないんだけど、実はどうだったの?チョコレートは配れたの?」

「いやあ、そんな状況じゃなかった。少しだけは配ったよ。後は配れなかった。」

で?

やっぱり最初に沿岸部入りした日の話は、スムーズには出てこない。もう聞くのはやめよう。

でもこの「梅見の会」から海の手ネットワークは始まりました。

その元々の始まりはチョコだったのです。

 

 

 

 

 

南三陸へ

朝から台風一過の(といっても雨はそこそこ降って、風は少し)晴天。超暑そう。

土曜日はお餅仕事が少々忙しくなるので、ゆっくり仕事をこなして午後から南三陸へ。畠山さんのおじいさんにお別れに行きます。

うちから瀬峰という小さな町を通って、佐沼という地震で目茶目茶にやられたちょっと大きい町を過ぎて、最後に大きな大きな河、北上河に行き当たります。北上川の堤防を走り大きな橋を渡って米谷という町に出ます。道に沿った路地入り口に立つ「原田甲斐宗輔の墓」と大書した立て看板が気になって仕方がないのだけれど、車が止めづらいので行ったことがない。ほんとに伊達騒動の原田甲斐のお墓なんだろうか。

米谷を過ぎると山道に入り、越えると南三陸に入ります。南三陸元(今も)志津川の町は赤い土の盛り土
(高さ10.?メートルと道から見えるように札に書いてある)だらけで、色合いがエジプトのよう。

午後3時を過ぎてからけいこさんちに到着。
何時行ってもわんわんわんわん食いつかんばかりに吠えっぱなしの黒犬マックは、今日も鎖を引きちぎらん
ばかりに吠え立てていて、普通の日と何も変わらないんだけど、おばあさんのお顔は一回り小さくなってました。

お互い後家さんになりました。
お父さんやお兄ちゃんたちはいなくて、おばあさん、娘二人、孫娘の女ばかりで、おじいさんがいかに亡くなるまでちゃんと生きていたか、という話をしました。おじいさんはほんとに優しかった。と私が自分の感想を言うと、「孫や子供を叱ることがなかった。優しくて気働きがあって町の人から信頼されていた」
と全員が口を揃えました。

そんないい男と結婚したおばあさんは、いつ見るときもおじいさんとお雛様のように横並びに座っていて
いかにも、何時も何する時も一緒という感じでした。しばらくは「いない」という喪失感がおばあさんの胸を
いっぱいにするでしょう。
帰りに、これまでよそ者は近づいてはいけないように感じていた海の近くまで行ってみました。

回復途上の小さな港には船が浮かんでいました。

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そして来るときには必ず寄る防災庁舎へ。

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お地蔵様の前に飾られた小さな心尽くし。

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明日日曜日が納骨だそうです。

津波で流されたお寺は仮設のお寺だそう。檀家さんの生活が大変な今、お寺の再建は困難が多いだろう けれどそれでもあってよかった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわかれ

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私が大好きだった南三陸けいこさんちのおじいさんが亡くなられました。

けいこさんちまで出来上がった新聞バッグを回収に行ってから、まだ1ヶ月経っていない。

その時けいこさんは仙台に行ってお留守で、お留守番のおじいさんとおばあさんが二人で手伝ってくれました。

終わって、上がってお茶飲んでいけ、と誘って頂くままにお座敷に上がらせてもらって、3人でお茶っこのみをしました。

その時おじいさんは「足が病んで寝られないんだ」と言ってました。「シップ貼ってもよくならない時は、病院に遠慮しなくてもいいんだから痛み止め飲んでね。」と言って帰ってきましたが、病気が足に及んでいるのではないか、と心配でした。なんとなく、なんとなくですが、写真を撮ったほうがいいような気がして、じっとしてじっとして、とおばあさんに並んでもらって写真を撮りました。

 

おじいさんとおばあさんとは、大震災後鳴子温泉の菅原旅館に避難されている時に、新聞バッグを折るようになったけいこさんに会いに行くようになって知り合いました。

もともと海の仕事をされてたのだから優しいばかりではないのだと思うけれど、私たちがうかがう時はいつも
おばあさんと横並びに座っておられて一対のお雛様のよう。穏やかで優しい方でした。

鳴子温泉での避難の時期が終わって仮設住宅に移られる前夜には、よっちゃん、みっちゃん、私も伺って
旅館の広間で一緒にご飯を食べました。親切にして頂いた菅原旅館の大広間に積み上げた新聞や新聞バッグをみんなで片付けて車に積み込み、翌日南三陸に運びました。

狭い狭い仮設住宅での暮らしは、ずいぶんご不自由だったと思います。その後、ご親戚のお宅に移られてから、わかめの養殖仕事が始まり、よっちゃんは船に乗せてもらったり、私は海辺の作業小屋で、家族総出のわかめの作業を見せて頂いたりしました。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、みんな円になって並んでの仕事で、海の仕事はこうしてみんなで一緒にやるんだ、と感心しました。

 

おじいさんの体調が悪くなったのは、たぶん今年になってから、なのかなあ。

入院されていると聞いたので、孫を連れて会いに行きました。

たぶん抗がん剤の治療中だったのだ、と思いますが、意気はしっかりとして「せっかく拾った命だ。90歳まで
死ぬわけにはいかない。だからこうやってちゃんとご飯を食べて毎日リハビリしてるんだよ」と元気ぶりを見せてくれました。

ご親戚の方が病室に入って来られた時、私のことを「鳴子温泉に避難していた時からの知り合いで、お互い
世話になったり世話したりだー」と紹介してくれました。片側通行じゃなくて、私たちのこともお世話してくださっていたんだなあ、と思ってとても嬉しかった。

 

南三陸に行く度におじいさんとおばあさんにお会いするのが楽しみでしたが、寂しくなりました。
大震災がなければ一生お会いすることはなかっただろう方々です。本当にお会いできてよかった。
けいこさんご一家とお知り合いになれて、海のことをたくさん知りました。海の産物をたくさん食べさせて頂きました。本当にお世話になりました。「おじいさん、もう足痛くないよねえー」と思うと少しホッとします。

 

お葬式には間に合わなかったので、明日は南三陸に行きます。
お線香をあげてお礼とお別れを言ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩画集 「風立ちぬ」 

今日は、古川で旅行会社の方々への新聞バッグ講座。

うかがってみると、酒田からいらしたそうです。人員構成は全員一箇所からみえたのではなくて、東京とか

各地から仙台に集合して、酒田へ。そして新聞バッグ講座が夕方終わると松島へ行かれるそうで、旅行

会社の社員さんがたが、東北一円を回っておられる途上だということが解りました。

松島はきれいなtころだけれど、台風の影響でざあざあ降りの雨がねー・・・・・。台風は直撃ということは

まずないだろうとは思いますが、でもせっかく見えているのだから良いお天気になることを祈ります。

 

時間があまりないということで、小さいバッグ作りということになりました。

講師はあやさん。よっちゃんは発熱でダウンしているので、アシスタントは私一人でがんばっていきます。

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JTBさんの研修のときも思ったけれど、圧倒的に男性が多い。なんでなんだろう。

旅行の企画立案って女性にも向く仕事だと思うんですけどねえ。

そして私は今回も思います。やっぱり全般的に大人でも不器用!男性はなおさら。

小さい頃からカッターとかナイフとか危ないから使わないのでしょうが、でも私はちょっとこれは

問題じゃないか、という気がします。入社試験で頭の良し悪しばかり問わないで、手で何か作るという

試験を考えたらいいんじゃないのかなあ。だったら必然的に練習するでしょ?携帯のボタン押すことに

速くったって、手捌き指捌きの実用にはならないものね。ちなみに私は携帯のボタンを動かすのは

もの凄く、人に見られたくないくらい遅いです。

 

終わって、今作らなければならないアウトドア用炭入れ新聞バッグの相談にBBQインストラクターの

アツシさんが経営している喫茶ウラバタケに向かいます。「行く、行く、私も行く」とあやさんと娘のakariちゃん

も一緒。コーヒーとレモンケーキだのを頂きながらアツシさんのお話を聞きました。

七輪で火を熾すなら経験あるけど、BBQで炭を入れる新聞バッグなんぞはさっぱり、という私もお話聞くうち

に徐々にイメージが膨らんできて、次の日曜日のBBQ大会に試作新聞バッグを持って行って頂けること

になりました。

 

そして帰宅したらこんな素敵なものが・・・・・・!

お友達といったらおこがましいけど、震災後にお友達になった、版画家の岡澤加代子さんの手による詩画集

「風立ちぬ」が送られて来てました。堀 辰雄の詩集「風立ちぬ」をもとに加代子さんが彫った木口版画に

挿絵のように詩が彩られた詩画集。始める、と聞いてからだいぶ時間が経っているように思います。

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風たちぬ

いざ生きめやも

若い時分に読んだ詩集が、こんなかたちで目の前に現われるなんて、ほんとに生きていれば驚かされる

ことばかりなんだなあ、としみじみ思います・

大事にします。お友達が作った私の自慢だ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとだけ夫の思い出(コンピューターの歴史のこと)

今海山でお世話になっている㈱みどり会さんについて、PCでその成り立ちを見ていたら、旧三和銀行からUFJ銀行になってその後今の三菱東京UFJになってと進んでいく歴史の中に、懐かしい名前を発見しました。

大昔の会社の同僚。同僚といってもこちらは女の事務職で、あちらは男性の営業マン。その頃はコンピューターのプログラミングをするシステムエンジニアだったかもしれないです。

管理職付きの私の机の前に、新入社員3名の机が並んでいました。その中の一人。

若かった時代はその仕事ぶりは見ていたけれど、転勤、転勤でみな散りじりになってから、こんな仕事を
していたんだ、とその無事を喜ぶと共にとても懐かしい気持ちになります。

 

そんなことからズルズルと「私のコンピューター開発史」と題された文章にたどり着きました。
日本のコンピューターの始まり、1963年くらいからが大型コンピューター開発の時代です。
そこを経て小型コンピューターが世に出て、今のようになった、その始まりの時代。

「日本のコンピューター産業の歴史はアメリカのコンピューターメーカーIBMと国産メーカーとの熾烈な闘いの歴史である」
という文章が目に止まったとたん、なんだかしらんけれども涙が止まらなくなった。

彼も私の夫も、その熾烈な闘いを闘いぬいたアメリカ側の企業戦士でした。企業戦士という」言葉がその頃
流行りましたが、まさ夜昼なく働き続ける企業の戦士だったのだと思います。戦ってるんだから。
こちらはその頃エレファント(巨像)と呼ばれた単体で、相手はモスキート(蚊)と呼ばれた日本のコンピューターメーカー数社の複合体。

夫はアメリカ側で日本と闘ってましたが、その心の中心は「コンピューターが進化することは日本のためになる」と言ってました。

その頃会社にいたどの顔を思い浮かべても、日々起こった様々な出来事を思い起こしても、すべては日本のメーカーとの闘いの場。3年ほどの期間であの都市この都市と移り住む私たち家族もまた、時代の先端を
進む日本のコンピュータ産業の歴史とともに歩んだ年月だったと思います。

今振り返ると懐かしい思い出だけれど、実に大変だった。子供たちにも大変迷惑をかけました。
「お父さん、ほんと大変だったよね。」と生きていれば言いたい。笑いながら。

50歳の始めから退職するまでは子会社の経営者側にいました。                           その後は田舎に住んで「お米の加工をする」と言い、お餅の生産者になりました。集落の人の仲間に入って集落の仕事もし、亡くなる10日前までお餅をついていました。

個人よりも社会人であることを重要視し、夫が常々私に言っていたことは、「年金を当てにするよりも先に、高齢者でも働けるものは働かなければならない。これまでの経済優先社会では国は豊かにはならない。
人手による産業、職場を取り戻さなければならない。今の状況では腕前も腕利きも日本の言葉からなくなる」等々、亡くなる直前まで、ベッドで車の中でよく話してくれました。それもこれもきっと日本の高度成長期のど真ん中を生きた夫の歴史から、見えた言葉だったのでしょう。

亡くなる前には「会社での仕事は楽しかったなあ」と述懐していたところをみると、夫なりの充実した人生だったのだと思います。

 

㈱みどり会さんからこんなことを思い出すとは思わなかった。
興味に駆られて、他の名前も検索してみると、闘いを通り抜けて今も無事、という名前をいくつか見つけました。病気をした人も会社を辞めた人も家族崩壊した人もたくさんいたから素直に嬉しい。

コンピューター化はこんなこともできるのですから、やっぱりいい人生を歩んだんだよ。お父さんは・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盛岡へ

フリー刺繍家天野寛子先生の個展を見るために岩手県の盛岡へ行ってきました。

東北自動車道で1時間40分。孫連れで黒田さんと私の二人運転です。

黒田さんは初めて。私は数度目の盛岡訪問ですが、盛岡はジャジャメンとか盛岡冷麺とかの名物の

食べ物も多いけれど、町全体が花と文学と歴史に彩られた美しい町です。

今は身体がしんどくなってお休み中ですが、花の栽培を仕事にしていた私にとって、町の中心部に

置かれ吊り下げられ花壇を埋め尽くす花々の管理がどのようになされているのか、実に興味深くて

町の人に「どうしたらこんなことができるのですか」と聞きたい気持ちになります。

中心部の花々。

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天野先生の展示は萬久ギャラリーで行われていました。今年3月に陸前高田の奥まった仮設住宅の

集会所で見せて頂いてからまだ3ヶ月。この3ヶ月の間に福島の第一発電所全体を俯瞰した刺繍画が

また一枚できあがっていました。

東関東大震災の報道写真を針と糸で刺繍に縫い取ってしまう。それだけでもこういう仕事をなさるのは

日本中で天野先生ただ一人ではないか、と思えるほどの稀有な刺繍画なのに、その絵柄を見て先生の心

に浮かんだ先生の言葉までが針と糸で文字に縫い取られています。そしてその色の鮮やかなこと。

あの悲惨な報道写真が先生の頭の中に入ると、どうしてこんなに鮮やかな色に変わるのか、と

驚かされます。

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昨日土曜日は100人ほどもお客様が見えたそうです。先生の展示は毎回毎回身に来る人の数を増やして

いる気がします。

しっとりと落ち着い佇まいのギャラリーでした。

用意されたお菓子をもくもく食べることに専念している孫。

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せっかく来たのだから北上川沿いの材木町にある光源社へ。

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注文の多い料理店出版の地と刻んであります。

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まだまだ見たい、歩きたい、感じたい、ところが盛岡の町にはたくさん。

もうちょっと寒くなかったら住みたいなあと思う町なんですが、盛岡は寒い!!

だから春や夏がこんなにきれいなんでしょうね。

天野先生の展示は11月に高知で行われるそうです。新聞バッグinニューヨークプロジェクトの団長梅原真

先生ゆかりの県立美術館において。

Oh! ご縁を感じます。

天野先生、大変なご活躍なので、お体を大事にして臨んで頂きたいと思います。