秋の風景

昨日は松山の子供祭り。以前から松山の友人KさんとAさんにお話を聞いていたので、朝の出荷仕事を終えた後、
うちの4歳と出かけました。

松山は若い人は知らないかもしれないけれど、往年の低音歌手、フランク永井の故郷。海山ネットがお世話に
なっている酒蔵一ノ蔵さんの本拠地で落ち着いた佇まいの小さくて静かな町です。

子供まつりは手作りのお祭り。カザグルマだの水風船だの折り紙だの楽しいことがいっぱいでした。
で、うちの4歳も折り紙に参戦。
もうすぐハローウィン。かぼちゃの小さいバッグを作ってお菓子を入れてもらいましたよ。

 

雨が降ったり風が吹いたり、稲刈りはなかなか進みません。おまけに台風まで来ています。
早めに刈り終った天日干しの稲。ひっくり返してひっくり返して干されています。

畑の千日紅。毎日一生懸命に切っているのですが、まだこんなあるんです!切った後、肥料を入れたから
またまた芽が伸びてきました。台風で全滅かな、と思って写真を撮っておきました。

今朝、道の駅で南三陸戸倉のNPO代表のumeyoさんと出会ってびっくり。
来月早々四万十からTOHOKUSHIBUNBAGプロジェクトのインストラクターがみえて、新聞バッグワークショプ
が開かれることになっています。そのことを相談して別れた後、今度は津山から前回の南三陸での
ワークショップで会ったyuさんから電話があり、お昼をご一緒することにしました。

ちょっとサプライズを演出して鳴子のライムで食事をすることに。
そしてyuさんが絶対に知らないと思うから黙って私の癒しスポット潟沼へ向かいました。

森の中の道をぬけて木の間隠れにエメラルド色の水の色が見えた瞬間、yuさんの「ハッ」と息をのむ音が。
「知らなかったでしょう。こんなきれいなところ」
「えーッ、知らない、こんなところ!」ワーッと喜んでます。

この道で沼を1周できます。もう少し秋が深まるとものすごい紅葉です。でも熊さんも出るかもよ。

きれいな水の色!なんだかずいぶん水が少なくなっている感じがします。

 

 

私の紅葉狩りは鳴子峡に行くのではなく、ここに来て、11月終わりまで開いている茶店でラーメンを食べて
終わりにするというのが恒例です。

後、栗駒山の紅葉最盛期には必ず一度は栗駒に行きます。

この辺りの風景、春も秋もほんとにきれいで、特に空がきれいで、「きれいだねえ、きれいだねえ!」と感動するのですが、この辺りの人にそう言っても誰も共感してくれません。
特にきれいだ、と言うほどもない当たり前の風景なのですね。贅沢だなあ。

 

 

 

 

 

 

ご用心、ご用心。 納得できない請求書

 

地震で傾いていた加工場の修理がやっと終わりました。

盛土に作ったので、震度6強の栗原の内陸地震の時に少々ずれて、昨年の東北大震災の時に、もういかん!
というくらいに動きました。入れないといのではなく床がふわふわする上に、床下の地面に大きな亀裂が入っている
ことがわかっているので、大雨が降る度に落ちるんじゃないか、とハラハラドキドキ。

ずーっと長い間馴染みの工務店さんにお願いしていたのですが全然来てもらえない。
工務店だけじゃなくて地盤の補強もしてもらわなければならないので、両方きてもらって水道もガスも下水も
というのは、絶望的なほど難しい。

 

大きな工事でどっさりお金が儲かるというのなら来てもらえるかもしれないけれど、小さくてたいしたお金にも
ならない工事だから、「今は忙しいんだよlッ」と言われると「だろうなあ」と納得して引っ込んでいました。

でも昨今の雨の降り方のひどいこと。
テレビであそこここの考えられないようなゲリラ雨で山崩れだの家が埋まっただののニュースを見る度、
「ああ、早くしないとうちもなるかも」と怯えてました。
たまたま海山ネットの事務をお願いしているchiiちゃんの縁で、近くの町のある工務店兼土木屋さんのような
会社を紹介していただき、やっと工事をしてもらえることになりました。

社長にお会いしていろいろお話しをうかがうと、復興需要、復興需要ということで、住宅建築関係、土木でも
建設でも電気、水道でも仕事が多くて笑いが止まらないのかと思いきや、大きいとこには仕事が多く、小さい
とこには来ないとか、被災地での建設関係の受注もいろいろ裏話があってご苦労なさっているそうです。

「そうなのか。やっぱり聞いてみないとわからないもんですねえ。みーんな儲かっているのかと思ってた。
うちは小さい工事ですがよろしくお願いしますねえ」と工事が始まりました。

 

加工場は盛土から切り土へと建物ごと移動させるだけですが、地盤の工事は5日ほどかかって工事終了。
前よりぐんと見栄えも使い勝手もよくなって一安心。ふと思いついて、ついでにこれまでなかった軒庇も作って
もらい壊れた木の階段の補修もお願いしました。

で、請求書が来ました。

移動の工事と地盤の工事は見積書を見、知り合いにも相談してのことだったのですが、このついでの
庇と階段の壊れた板1枚の工事費の高額なこと!唖然としました。

今被災地は、こういう傾いたのを治すとか、壊れところを修理してもらうとか、半分リフォームするとか全体で
いうなら半端仕事がたくさんあると思うんですよ。
そういう時に、こういう「中味不明の請求書」みたいなものが来ることも多いんだろうなあ、と思ってここに
書いておきます。油断大敵!

 

私は明細書を請求し、仲立ちの知り合いに相談し、場合によっては消費者センターにも行きます。
まあ、家の建築とかリフォームのような大事ではなく庇と板の値段なんですが、小をおろそかにすると大に
影響することもありますからがんばります。ご用心、ご用心。

 

 

 

 

 

 

聞いでけさいん新聞バッグのはなし 第2章のはじまり

今日は雨です。
高気圧がなくなっちゃったので、さすがにあんまり雨が降らない東北にも雨が降り始めました。
稲刈りはまだ始まったばかり、重い頭を下げた稲が倒れ始めたので、お米を作っていない私がヤキモキします。

海山ネットを活動し始めてから1年半。新聞バッグと関わってから1年半。
振り返ってみると、昨年春からの1年間は、声をかけて頂くところ、声をかけて頂くところに、あれが足りない、
人が足りない、お金が足りないと言いながら、それでもどーしてもと眦決するような気持ちで新聞バッグや
布の小物の販売に行きました。

新聞バッグはただの紙の袋ではなく、人を繋いで、みんなで足元の暮らしを見つめなおそうよ、という
メッセージがこめられたバッグです。
わかりにくいんだけど、わかってくださる方がだんだん増えて、気が付くと繋げた人の輪は大きく大きく
なって、新聞バッグを置いてくださるところも応援してくださる方々もたくさんになってました。

で、海山のメンバーで話し合ったのですが、そろそろ応援して頂くという関係を卒業して、関わってくださった
みなさんと一緒に同じ立場に立って経済復興をやってゆこうよ、という形にしたいのです。

基本は新聞バッグ。新聞バッグが紡ぐ物語の第1章が終わり、第2章の始まりです。

これまでは支援して頂いて「ありがとう」でしたが、これからはその対価を払いたい。その対価を払うためには
海山の手仕事の価値を上げて販売したい。販売利益が上がったら、その利益は手仕事作りに使いたい。
つまりはお仕事を作る会社なんですよ!
そんな会社がひとつくらいあってもいいんじゃないか、と話し合いました。

 

それとこの頃では海山ネットの事務局KJの本来の仕事であるNPO法人大崎地域創造研究会の地域
作りが大きく忙しくなり、一緒の事務所に間借りさせて頂いている海山ネットがNPO法人と間違えられる
ことが多くなりました。

 

海山ネットワークはKJ以外は小さい個人営業者の集まりであり任意団体です。
これからは海山ネットも法人化してNPO法人と同じ位置に立ち、協力して活動を続けてゆきたいと思います。

 

代表よっちゃんによれば来月にはという構想。
どんなふうになるのかなあ、と私たち自身が楽しみです。
これまでどおり笑ってしゃべって楽しみながら新聞バッグの物語を紡いでゆきます。
よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

限界集落にて

畑にあるでっかーい丹波栗の木3本。                                              遠くから見上げると実がいっぱい成っているように見えて、「落ちたら売ってやろ」と一人ほくそ笑んでいたのですが、
今日あたりよく見ると枝で茶色になったのやら、もう落ちたのやら。

えーーっ、これは大変と皮手袋に藪狩りようの鎌を手に木の下まで行ってみたら、イガが木にくっついたまま
茶色になっている。明らかに不作です。いやだなあー!

不作=熊の餌がない=熊出没、というように私の頭の中は直結します。だから嫌なんだあ!

まあ、山の中に餌がないから里に来るというより、里に餌があるから来る、ということかもしれませんが。
豊作の年に木の実を採って保存して不作の年には山の中にばらまいて来ようかしら、と言ったら
「今年は栗だけではないよ。カキもなってないよ」と言った近所のOさんが、「山ん中にいるんじゃないよ。その辺に
巣があるのよ」と教えてくれました。

 

私は全くの都会生まれの都会育ちで、今田舎に住んでますが田舎のこと、山のこと、農業のことには無知です。
10年住んでいるので、田舎のこと、山のこと、農業のことの初歩くらいはわかるようになったかもしれないです。

来た年の秋に私の家から仙台方向の空の中にいつも見える舟形山に行きました。舟形山は近づくまでに
林道を1時間ほど走らなければなりません。その道は紅葉真っ盛りのブナの林の中を貫いていて、車を降りて
林を歩くと絨毯のようにブナの実が散り敷いていました。ブナの豊作は7年に1度だそうです。

私の家の庭にも(庭といっても山です。)山栗の木が多数あります。この家に住んでから数年は今くらいの時期、
シーンとした静けさの中に、ポッタン、と栗が落ちる音がすると、落ち着かなくて、「採りに行かなきゃ」という気持ち
になって仕事になりませんでした。片端から拾ってバケツにためこんで、ためこんだバケツが何個も並んで
一生懸命皮むき器で皮をむくのですが、家族で腱鞘炎になったのでやめました。

もう1箇所の別荘地に住んでいるもっと山栗の木が多いの私の旧友のうちでは敷地全体に栗が玉砂利のように
敷き詰められていて、それでもポッタンを聞くと「採りたくなる」ので「早く全部落ちてくれないかしら」などと
言っていたこともあります。

ところが今では、私のうちでも友人のうちでもめっきり実なりがなくなりました。
なんでなんだろう。 さっぱりわかりません。
周囲をぐるりと雑木林に囲まれた動物にとってはかっこうの運動場のようなうちの畑は、とうもろこしはもう
植えないけれど、枝豆もトマトもスイカもカボチャも食われる食われる!動物のエサ作りやってるみたい。

「この集落ではもうお年寄りばかりで畑を作る人がいなくなっているんだよ。だからここに来るのよ。おいしいものがあるんだもの」
今日畑に来たOさんに言われたけれどそうなのか。限界集落なんだそうです。
集落事情に疎い私はそんなに一人暮らしのお歳寄りばかりになってるなんて知りませんでした。普通に静かに日々は過ぎていき、孤独死とか熊に襲われたとか、そんな事件は聞いたことないので。

これでも15分で町に出られるんですよ。TSUTAYAだってマックだってジャスコだってホカベンだって車さえ運転
できれば不自由なく行けます。
それでも限界集落なんだ。

 

なんでもかんでも食われちゃったけれど、夏ハゼだけは元気でなにごともなくびっしりと実をつけています。
もう少し黒く熟したら採ってジャムにしたりソースにしたりしてみたいもんだと思ってます。

 

 

 

 

 

 

なんだかねえー。

「聞いでけさいん新聞バッグのはなし」
という文章を書いたのは昨年の秋。四万十へ行ってからのことでした。

毎年行われている新聞バッグコンクールに海山ネットメンバーも誘っていただき、その審査当日よっちゃん、
みっちゃん、私の3人は初めて四国の四万十にお邪魔しました。ほんとに本当にご親切に歓待していただき、嬉しく
有難かったのですが、随所随所で感じる地震も津波被害も受けていない土地での生活感覚から生じる違和感がどうにもこうにも払拭できなくて、帰って1週間くらいで書き上げました。

これは書かなければいけない。書かなければせっかく被災地を心配してたくさんの心遣いをしてくれる非被災地の方と、その心遣いに有難いけど違和感を感じてしまう被災地の人の心にずれが生じる、と思って。

買いてよかったと思うし、たくさんの方に読んでいただいて有難かったです。

それから1年近くが経ってまた新聞バッグコンクールの季節になりました。
この1年でどんなふうに変わり、どんなふうによくなったか。

海の手山の手ネットワークが「手仕事で経済復興」を目標にして活動を続けているのは、新聞バッグだけではありません。「聞いでけさいん新聞バッグのはなし」に書いたように、小野寺師匠の菊や師匠に指導して頂きながらの私やよっちゃんのお父さんの菊栽培。そして師匠の奥様mucchanを中心をする布小物作りも手仕事で経済復興活動の一端です。

 

きのう師匠と話していて、来年の菊の苗が手に入らないかもしれないことを知りました。
最初の年、去年の4月ですが、小野寺師匠と初めて梅見の会でお会いした時、「私たちの農地でご一緒に菊を
作られませんか」と恐る恐るお誘いしたのですが、断られました。鳴子温泉に避難して来られてまだ間がなかったから、そんなお気持ちになれなかったのだと思います。でも指導はしてくださることになりました。

 

その時期でも既に菊苗の入手は遅すぎて難しかったのですが、宮城県の農業普及センターが動いてくださって
普及センターの方も一緒にみんなで加美町の菊農家の方の菊苗を穂刺して4000本の苗を作り、よっちゃんのお父さんと私とで分けて栽培を始めたのでした。去年の春から秋まで、師匠は私たちへ熱心に指導をしてくださいました。そして昨年秋からは南三陸の高台に畑を借りて、この春からご自分の菊の栽培を再開されました。

 

これで仕事に関してはスムーズに行くかと思ったら、なかなかなかなか・・・・。
栽培の周辺事情が整わないので、ご苦労なさってます。
海山ネット、よっちゃんが村長を務める東北村、混合で時々お手伝いには行ったりしていますが、お盆の菊、彼岸の菊が終わった今、菊の畑を片付けてきれいにしたら、後は来年の菊苗の注文、といきたいところですが、その苗が手に入らないかもしれないというのはちょっと難問です。

 

何故入手しにくくなったか。私の想像ですが、

先日新聞で復興予算の何億円かが、菊の栽培施設に入るという記事を読んで、「よかったなあ」と思ったのですが、
その余波が力が弱い栽培者のところに来るだろうことは予測できませんでした。
大金がつぎ込まれた立派な栽培施設ができればそこが菊流通の中心になり、高値で買い付けられれば苗もそこに集中します。
家も畑も流失してまだ1年半。やっと1回目の菊を販売しただけですから(それも機械も道具もなくて)高値の苗なんて
師匠は買いたくないでしょうけど、師匠から苗を分けてもらっていた私も買えません。

親苗を冬越しさせて新苗を穂刺しして作ろうにも師匠の畑にはその場所がなく今あるハウスを使うのも難しい。
人手が足りなさ過ぎます。さて、どうするか。今うーん、と考え込んでいます。
必ず何か方策を見出すとは思うけど、なんだかねえー、難儀です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日大中学、高校学園祭「櫻墨祭」2日目

2日目の日曜日はザーザー降りの雨。

朝食は外でのつもりだったのですが、歩きたい雨ではないので急遽変更。ホテルでの朝食となりました。
菊の師匠はあんまり洋食は好まれないみたい。というより料理上手な奥様ムッチャン手作りご飯以外は
苦手の様子。

8時過ぎに集合して、コンビニ傘を手に吹き降りの中会場へと向かいます。
日頃から車ばかり乗って吹き降りにも電車にも縁がない生活を送っているので雨ビシャビシャはけっこうつらい
ものがあります。

今日の販売会場は昨日とは様子が変わって、雨で外販売ができなくなった大崎物産販売チームと連結ブース
となりました。お隣りは餅べえさん。大崎市民ならだれでも知っている餅べえさんのお隣りで、私のような
小さな手作りあられは売りにくいです。間に新聞バッグを並べて小さく販売開始。

学園祭の昨日の主役は生徒たちでしたが、今日のお客様は保護者や地域の方たちです。
大崎物産販売チームは外で大崎米を炊飯し、さくらポークを焼いて焼肉弁当を作り、ホールに持ち込んで
販売、という2段構え。大きなホールに隙間なく並んだ休憩用の白いテーブルにはアイスや焼肉弁当屋
ヤキトリなど食べる生徒やお客様たちでいっぱいになりました。

先日のJTB社員研修で若い社員を率いてこられたKさんも奥様とお子さんたちご一緒に来てくださいました。
お顔を見てゆっくりお話しすることができました。

午後、大崎市長到着。伊藤市長は上着を脱いでにこやかに学校関係者に挨拶に回られ、私たちの販売
ブースにも足を運ばれてねぎらって頂きました。これから大崎市は日大中学、高校との親交を深めていきます、
という決意が感じられました。

 

その後、海山の東京出店の際には必ず助っ人にやってくる私の古い友人Tが現れると同時に、思いがけない
お客様が。
滋賀県のTさんです。今年から志津川菊の栽培を再開して孤軍奮闘中の小野寺氏の菊をお盆、彼岸の2度に渡って大量に買ってくださった方です。ブログを見て、菊栽培の本人と海山ネットのメンバーに会えるのは今日しか
ないと思い、東京出張の日時を調整して会いに来ました、とのことでした。

Tさんには以前にお手紙をいただきましたが、小野寺氏の菊をTさんの会社の方々が日々暑い中、水を替え水を替えして大切にしてくださっている様子がうかがえて感動しました。

そして今日はわざわざ比叡山に行って願掛けしてきたお守りを小野寺さんにも私にも。
私は思わず涙。横で小野寺氏も涙。
ほんとに有難いです。一緒にがんばりましょうねえ。と言ってくださっているのですから。
Tさんとお話ししている間に時間が経ち、背後から大きな呼ばわり声が聞こえ始めました。

生徒たちの最後の売り込みです。

大声で叫んで売り込んで、大崎物産、海山ネットもほぼ完売となりました。

大崎物産と海山ネットの長い連結販売ブースの内側で品物を売っているのは、ど真ん中にJTBのTさん。
昨日から休みなく売り子を勤めている、やる気いっぱいの素敵な若者です。その横になぜかakariちゃん。
akariちゃんは海山ネットの販売で鍛えられて、気働きがすごいです。まだ中1ですが、Tさんが動けば直後に
袋が出て来るという具合に優秀なアシスタントです。
そして大崎の販売チーム。シンフォニーのおばちゃん3人組。間間には日大高校の生徒たちが大崎市の
緑の法被を着て元気よく販売してくれました。そしてakariちゃんのお母さんのあやさん。新聞バッグインストラクター。「新聞バッグを教えてください」と前に座る子供たち、3人くらいまとめて手ほどきしています。
品物が売れるとサッと釣りを出してくれるのが小野寺師匠。

 

被災地の人も非被災地の人もみんな一緒に目標を達成するべく協力してがんばっている光景だなー、
いいもんだなあ、素晴らしいなー、と思いながら見てました。
4時に販売完了。

統率する先生からご挨拶がありました。
「この学園祭でこうして大崎市や被災地の方とお会いできて、お手伝いできたことは少ししかお役に立て
なかったかもしれないけれど、生徒たちにも良い経験になったと思います」

私たちのほうこそ大変お世話になりました。

日大中学、高等学校の校長先生はじめ先生方、そして生徒諸君、たくさん手伝っていただいて
ありがとうございました。楽しかったです。
そしてJTBのTさん、Kさん、お世話になりました。
大崎市の観光課の課長はじめ職員の方々にはこういう機会をいただいて、感謝しております。

 

こういう機会を重ねながら被災地も元気になってゆくことを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

日本大学第一中学、高等学校学園祭『櫻墨祭』に参加してきました

お彼岸の土曜、日曜日の2日間、東京は両国、国技館のすぐ近くにある伝統ある日大中学、高校の学園祭に
参加せていただきました。

私たち海山ネットのメンバーを参加団体として加えてくださったのは、これから日大中学、高校と深い親交を築くべく、その取組み進展中の大崎市観光関係の方々、その関連業の方々、そして仲立ちをしてくださるJTB。
大崎市の中心部の町、古川で産直をされているシンフォニー、そして大崎市では名が通っているお餅屋さん、
もちべえさんもご一緒でした。

土曜日の朝は6時59分発のはやてで東京へ。9時に到着して10時には学校に入り売り場設営という
慌ただしさ。新聞バッグの実演はいつもどおりインストラクターの南相馬のあやさん。中1のakariちゃんも一緒です。
今回は彼岸菊の出荷が終わったばかりの菊の師匠小野寺氏も参加してくださいました。

 

長く東京近辺に住んでいたとはいえ、日大の中学、高校に行くのは初めてです。そして学園祭というのも初めて。
学校側のご配慮で高校の生徒たちが私たちのお手伝い係りに配置され、自分の子供たちが巣立って以来     ずいぶん久しぶりに高校生たちとともに作業をすることになりました。嬉しいです!体は大きいけれど、高校生は
かわいいです!

みんなで一緒に新聞バッグを並べてよっちゃんなんばん、らー油、佐藤農場の梅干し、あ屋のあられ、そして
手拭いや布の小物を少し並べて、私たちの準備は完了。

海山ネットは生徒たちが談笑したりお茶を飲んだりするらしいホールでの販売ですが、大崎物産販売チームは外。
大釜2つを並べて大崎米でご飯を炊き、桜ポーク乗せご飯販売。生徒の焼き鳥屋さん、その他、その他で大盛況。
舞台上では次々に腕を競う生徒バンドの演奏で耳をつんざくばかり。

静かな環境で販売&新聞バッグワークショップを始めた海山ネットです。

土曜日は生徒の日。「生徒は思いっきり楽しみなさい」という日だそう。
ダンス部とか演劇部とかあって今日の学園祭は晴れ舞台なのでしょう。女の子たちはきらきらとした
衣装で歩いてます。見たいけど無理だわね。

保護者の方が興味を持って新聞バッグ制作に取り組んでくださってます。

今年100周年を迎える日本大学最初の付属中学校、高等学校の学校長は熊谷一弘先生。
まだお若くて物柔らかな校長先生です。教頭先生とご一緒に「いかがですか?」と何度もお出でくださいました。

今日もお客様がみえる度にakariちゃんが大活躍です。昨年避難してきた時にはお母さんの傍にくっついていた
小学生が、ぐんと背が伸びてお母さんと同じくらいの背丈になり、海山ネットの仕事に手馴れて、何も言わなくても
販売に新聞バッグワークショップのアシスタントに大活躍。ほんとに有難いし、感動します。

販売に不慣れな菊の師匠小野寺氏もお客様がみえる度に販売してくれました。

4時撤収。

池袋のホテルにいったん入り、後交流会会場へ。
料理を食べてお酒を飲んで、ふだんお話ししたことのない行政の方々や道の駅以外の生産者の方々と楽しく
情報交換や、未来に向けてのお話しを楽しみました。

ホテルへ戻ってお部屋がある11階に戻る際にふと思いついて、23階のラウンジへ。
目的は夜景とスカイツリー。

スカイツリーがオープンした頃、あやさんが素朴に質問したことがあります。
「スカイツリーってなんのために作ったの?」
「うーーん・・・・・・・・・わからん!」
「だって、電気ムダじゃない?あんなの作って」
「だねー。なんのためかわからないよねー。」

今夜は、南相馬にいつ帰れるかわからないあやさんも、1年に1回もこんなところには来ないだろう南三陸仮設
住まいの小野寺師匠も観光課長のYさんも私も、生演奏のピアノを聴き、きれいな色のカクテルを飲みながら
23階からの池袋の夜景を眺めていました。

 

 

 

秋が来た

待望の雨が降ったら、急に涼しくなりました。夜は寒いくらい。
急に気温が下がったからか、夜はひどい霧。うちの近所のアップダウンが多い道路は50メートル先も見えないくらい。明日は晴れる、ということですか。

 

朝、道の駅に行ったら、一昨日陸前高田に一緒に行った生産者仲間が「お早う、先日はお世話さま。楽しかったね」
と言いかけて、「いや、勉強になったね」と言い直しました。

陸前高田の町が丸ごと跡形もなくなった一望草千里のような姿を見て、旅そのものは楽しくないことはなかったのだけれど、楽しかった!!、と言えない気持ちがあります。

東松島、閖上の何にもなくなった広がりも、空しいというかなんとも言いようのない気持ちになりますが、一作日
のように気仙沼から陸前高田、本吉、南三陸と海べりをずーっと車で走って行ったら、どこもここも地面が
下がってしまって、水浸しになったんだなあ、と改めてまざまざと実感します。

 

港のようによほど大切な場所でない限り、あの浸水地域をもう一回人が住む、というか住まなくても何かの目的に
使うというのは、なんかもう徒労のような諦めたほうがいいんじゃないの、というような気がします。

福島から青森までのあの膨大な広さの沿岸部の被災地域、浸水地域を全て合わせたら、日本の国土は
ずいぶんたくさんなくなっちゃったんだね。竹島や尖閣より、東北に眼をむけたほうがいいんじゃないの、
と話したことでした。

さあ、秋になります。

これから野菜のタネをまきます。野菜が高騰する恐れがあるから大根、キャベツ、白菜、なんでもまきます。
でもとりあえずは、明日朝6時59分発の東北新幹線はやて号で東京へ。                        明日、明後日は東京両国の日大付属中学の学園祭で海山ブース出展。物販と新聞バッグの
インストラクションを終えたら日曜日の新幹線で戻ります。

 

 

 

とうもろこしと千日紅

うちの近所に地区館というのがあります。何をするところかというと、文字通り地区に関連する諸々の行事、催事を
する場所で活性化センターともいいます。

ここには市民農園というのがあって、借りる人が少ないので私も小さい畑を2枚借りています。家にも畑にも
畑はたくさんあるのですが、ここの畑なら見晴らしがいいので熊や狸が来ないのじゃないかなあ、と期待して。
ところがきのう「とうもろこしがハクビシンに食べられてますよー!」と電話がありました。
やっぱりねェ。
そのとうもろこしって今流行っている生でも食べられるような甘ーいとうもろこしじゃないんですよ。
細くて硬いのと丸っこくて赤いのです。それでも食べるのか、と思って行ってみたら、やられてました。

紅いとうもろこしの半分くらいがひき千切られてバラバラ。遠くのほうまで運んで行って食べちゃってました。
まだ実りは浅いけど、このまま置いても食べられちゃうので、採りました。

乾燥させてドライフラワーにするつもりのどうもろこしです。

初めて作ったので、どうしていいのかわかりません。このとうもろこしが畑にまだいっぱいある。
忙しいのに、何考えて植えたんだか、と収穫の時期には毎年思っているみたい。

そしてもうひとつ忙しいのが千日紅。

切り花を切っているのは私一人なので、がんばっても30束くらいまでしか作れません。

茄子もトマトもオクラもピーマンもパブリカもどんどん成って採る時間がない。インゲンは全く
採ってられないので、隠元豆で食べるのは止めて、豆にすることにしました。
竜胆はとうとうほったらかして採りませんでした。

日々忙しくて右往左往してますが、どこにいるのが一番落ち着くかというと、畑の花の中。
花畑に入って古茎を切って新芽を出したり、花束用の花を切ったりしていると、時間を忘れます。
時間だけではなくて何にも考えなくなり、ただ花のことに没頭してしまいます。

 

明日いっぱい花を切ってとうもろこしの始末をつけたら、土曜、日曜はいざ東京へ。

南相馬のあやさん、南三陸の小野寺氏も一緒です。

両国の日大中学、高校で新聞バッグやよっちゃんなんばんやあ屋のアラレの販売をいたします。
お近くの方、是非ご覧になっていただきたいです。

 

 

道の駅研修ー陸前高田、気仙沼ー

 

毎年恒例の道の駅出荷組合工芸、花卉部会の研修で、陸前高田、気仙沼に行ってきました。

海の手山の手ネットワークの復興プロジェクトで、仮設住宅で新聞バッグを作っている南三陸へは
度々行きますが、陸前高田、気仙沼へは震災後は一度も行っていません。

陸前高田は非常に広範囲にひどい、とは行った人たちから度々聞いていました。                    津波を生き抜いた一本松は息絶えて数日前にモニュメント化するために切られました。
そういうこともあって、切株でも一度は見ておこうと研修先に選びました。

陸前高田の1本松があったところです。

震災前7万本もの松があったという高田松原の松は跡形もなく消えていました。

津波は被災したユースホテルの向こうに見える水門の上を越えてきて松原の半分をなぎ倒し、5キロ川を
遡り、引き波で後の半分を流し去ったそうです。この近くにあった集落の700戸のうち、残ったのは5戸。
今はその家もなくなりました。

これは海ではありません。右手に見える俄か作りの防潮提の向こうが海で、ここは地盤沈下して浸水
した状況です。

ここも川でも海でもないのです。浸水区域です。                                        遠くに見える鉄骨作りのホテルの5階は水に浸からなかった。全てが流れ去った病院で、ベッドが3階以上にまで浮き上がってたった1人だけ生きた方がいるそうです。

この話は、この近くの高台に住んでいて、松原を散歩していて津波から逃げ、一部始終を見ていた方(お名前うかがうのを忘れました)からうかがいました。実際に現場を見たことがないガイドが話すよりも、全てを実際に見ていた者
が話すほうが真実を知ってもらうことで役立つと思った。と言っておられました。

陸前高田の町は町全体が津波に流されてそっくりなくなってしまった、という印象です。

数々の家の礎石が夏草で覆われて広い広い広い草千里のようでした。

町の中あった市役所や郵便局は内陸部に移され仮設の建物で業務を続けています。
市役所も同じような建物でした。
下は郵便局。

陸前高田で昼食をとり、仮設の建物でしっかり営業をしている直売所で買い物をして気仙沼へ。

 

地盤沈下のひどさが印象的でした。

復興、復旧に手をつけるよりも、その前段階として浸水区域の中に車が通る道路を嵩上げして作っている状態。
港付近の被災したコンクリート作りの建物の1階は浸水していたり、青ミドロの苔に覆われていたりで、見ているうちに胸苦しくなります。

お魚を買いに仮設の商店街に行きましたが、まだあまりお魚は売ってません。

帰りは本吉海岸、南三陸町の歌津、志津川を通って帰りました。

今日の研修の感想は、ひどく疲れました。いつもは南三陸まで自分で車を運転して行ったり来たりしているので
わからなかったけれど、南三陸までふくめてあまりにも浸水区域が多すぎる。広すぎる。

 

この大震災は私たち内陸部に住む者にとっても被害は甚大でした。
うちの斜面をずり落ちかけて床がふわふわだった加工場もやっと工事が終わりました。これで安心して作業が
できるようになったけれど、家が丸ごとなくなったわけではないので、助成は全くありません。

よっちゃんに「1円でもどこからか出ないの?」と聞いたら「出ません!」と言下に否定されました。
壁が全部ドッサリと落ちてしまったよっちゃん宅も大工事でしたから。

 

それでも今日の陸前高田や気仙沼や南三陸の現状を見れば、とにかく贅沢なんか言っていられない。
もっと踏ん張って何かできることをしなければ、という思いにさせられます。

福島から青森までの被災した沿岸部を車で走ったら。
その被害の膨大さや、地盤が下がって浸水する地域の広さ、大きさをとおして、見て体で感じたら、
この大震災の全貌がどんなものか見えてくるのでしょう。
今日一日の研修旅行だけでも、肩に重石がかかったように疲れました。復興など何十年かかるかわからない、
といのがみんなの共通した感想です。
非被災地でよく聞く「もう復興だいぶ進みました?」という質問。

答えを聞く前に、是非とも現地に出向いて自分の目で見て頂きたいです。
日本のこれほど広大な地域がこれほどの回復しようもないとてつもない被災の現状にいることを自分の目で
見ていただきたいと思います。

長い1日でした。