届かなかったSOS

「届かなかったSOS」という見出しが、多摩川河川敷で発見された上村君に関する記事で見られます。

「誰に?」と私は思う。誰にSOSを届けようとしてたんだろうか。

友だち?学校?親?その全部?

今、自分が危険な立場にあることを自覚した子供が、誰かに助けてよ、とSOSを出したい時、どこに

出せばいいんだろう。

大人の私が考え込んでしまう。

 

友だち?

友だちは、SOS出されればなんとかしてあげたいと思っても、後の自分に降りかかってくる災難を考えると

即誰かに伝えようとする子供はいないだろうし。

 

親?

親は親の生活。子供はスマホでLINEやFBやその他私が知らない方法で友だち付き合いをする生活。

いざ子供に何かが起こった場合、親は自分たちとは違う今の子供の言葉も思考も理解できないん

じゃない?自分たちを理解してない親に子供はSOSを発しないだろうし。

 

学校?

隠岐の島からの転校生の上村君に学校が安心できる居場所であったなら、上村君がこういうことに

ならなかったかもしれない。これはあくまで仮りの話。誰が悪いということではなく、小学校高学年や

中学校での転校には常にこういう危険がつきまとう、と私は思っています。

でもそれを感じるのは転校する子供、転校させる親のほうで、うちは大丈夫。またはじゃないかなあ?と

思っている学校はSOSに対してそうそう腰が軽いとは思えないし。

 

警察?

これはほんとに難しい。よほど確実な情報が具体的にある場合じゃなければ、警察は動かないでしょうし。

事件が起こった後で、実はあの時警察に相談に行ってたんだ、という話はいくらでもあるでしょう?

 

だったらSOSはどこに向かって出せばいいの?

出すとこないじゃん。上村君が誰かにSOSを発したところで受け止めた形になっていないのだから、出さ

なかったのと同じ。実に悔しい。

 

 

後から心痛めた大人の方が、「もっと思春期の子供の話を聞くべきだった」と仰るのを聞いたけど、私は

思うのです。今は大人と子供の言葉が通じなくなっている時代だと。

言葉がわからない。考えていることが解らないから、大人は子供を放置する。LINEだのなんだのこっちに

解らぬ言語や思考で2、3回も言い返されたら、親は大人は子供とどう話していったらいいのか解らなくなる

もの。そして子供たちとの接し方さえ見出せない大人を、子供は生きるうえでの先達とは見なさない。

 

とてもとても難しい時代です。私も3人の子の親なので、上村君のあの少年らしい写真を見るたびに

心底胸が痛みます。じゃなかったらこんなこと書かない。

 

昔私の子供が中学1年生の時、不良グループにお金を出せと脅されて出さず、捕まってボコボコに殴られ

たことがあります。その時は子供と話し合って警察に通報しました。その後は非常に恐ろしく解決するまで

緊迫の1ヶ月ほどでした。が、スマホなどない時代だったから、警察、学校、校長、担任、駐在所と、私は

顔をつき合わせて言葉でしゃべる日々が続いて疲れ果てました。私の髪は逆立ってたと思う。

 

まだ言葉が生きている時代だったのです。

 

大人と子供の距離がこれほど遠くなってしまった今、緊急に子供たちがSOSをどこに出せばいいか

だけでも考えてほしい。

親でもなく学校でもなく警察でもなく、なんでもいいからとにかくSOSに対応する専門のところ。

相談された友達の身にも危険が及ぶ心配がない、SOSを代理で通報してあげられる専門のところ。

自分の力が及ばないと知ったら親でも自分の子のSOSを通報することのできる専門のところ。

 

そんなところを作っていっぱい広報宣伝してほしい。予算じゃんじゃん使って誰でもわかるようにして

ほしい。そして大人はもっと子供との距離を縮める努力をしてほしい。

 

そんなことをテレビを見ながら考えている、雪の夕暮れ時です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テニス部同窓会

3月1日。天気が悪い。時々雪、外気温1度。 あんまり外に出たくない気象状況です。

で、家でブログをとパソコンの前に座り、この写真を見ると思わず笑いがこみあげます。

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50数年ぶりで会ったテニスの仲間です。

みな同じ年か1歳違い。同じ学校ではなく私とパートナーの京さんは中、高通じて仏教系女子学園の生徒。

男性三人組は電車で20分くらい離れたところの中、高キリスト教系男子高の生徒。

私と彼女は中学一年生で出会って一緒にテニスを始め、学校時代はいつも一緒。長じては就職、結婚

などで近づいたり離れたりしながらここまで歳を重ねてきましたが、男子高の彼らもやはりこの50年以上

3人で仲良く過ごしてきたのだと知って驚いたり、嬉しかったり。おなじだったんだねえ!

 

昔昔のこと、中学に入った私は自分がいかに運動神経が鈍いかを省みず、テニス部に入部しました。

その頃はまだ硬式テニス部がなく軟式テニス部。だったのですが、何時、どんな理由でか忘れてしまった

けれど硬式テニスに転向しました。時は皇太子殿下がご結婚前で軽井沢で美智子嬢とテニスを楽しまれて

いた頃のこと。

 

学校に硬式テニス部がないので、京さんと私は放課後電車に乗って福岡市の東にある東公園ローンテニス

クラブに毎日練習に通うことになりました。このローンテニスクラブには硬式テニスを楽しむ大人は社会人

から、私たちの学校の先輩、ほかの学校の生徒たちも練習に来てました。

彼らはその時の学年がほぼ同じで、放課後から日暮れまで同じ時間に練習し、同じ電車で行き来をし、

練習後にちゃんぽんや皿うどんを食べに行ったり、時にはみんなで外遊びに出かけたりして親しんだ仲間で

す。試合にも一緒に行きました。国体には彼らの学校の先生に引率されて行きました。

 

「国体にも一緒に行ったよねえ」

「中モズコートだった。すぐ負けた。」

私たちも1回戦はかろうじて勝ったような気がするけど、2回戦は確実に負けた。

「ものすごく夾竹桃の花が綺麗だったよねえ。強烈ピンクで」

花の話など受け手がないかと思ったら「きれいだった」うん、うん、と中の一人が頷くのにはびっくり。

あの頃多感な男子高校生だったんだよ。

 

その女子高校生と男子高校生が人生の紆余曲折を通り抜けて、今ここで50年余の時を経て顔を合わせて

みれば、それぞれの顔にはあの時のままの面影が残り、話せば話すほどあの時の彼らがそこにいます。

 

本当に楽しく、嬉しかった。

そして最もびっくりしたこと。男子生徒がドキドキワクワクしていたような事柄には、こちら女子陣は全く知ら

ず興味なく、全然違う視点で違うことを考えていたんだなあ、と今解りました。今だからこその爆笑に次ぐ

爆笑!それこそテレビドラマの「白線流し」のように、あの頃が私たちの青春であり大切な時間だったのだ

と、本当に懐かしく思えます。

 

お互い夫に先立たれて独身に戻った京さんと私は、折りに触れては連絡を取り合い、案じあっているけれ

ど、男性組3人の現在の姿も面白かった。

私以外はテニスの現役。テニス協会のお役目、病気を持ちながらのプレイ。ボランティアに近いコーチなど

テニスのやり方は銘々違いますが、でも私はみんながテニスの現役であるということがとても嬉し心強い。

 

中の一人は毎朝3時起きで池の周りを33周廻って歩く。どこへ行こうと3時に起きて13000曲のジャズが

入ったCDを聞きながら真っ暗な中を歩く、というのですが、変わってるね!

夾竹桃氏のテニスはネット際での仁王立ちでネットプレイで受けて立つ、というのですが変わってるね!

だいたい13000曲を聴けるってどうやったらできるんですか?

年6枚くらい息子が編集してくれたCDを来る日も来る日も聴いている私は羨ましい。

 

楽しい時間でした。企画してくれた京さんにも集まってくれた男性陣にも感謝。

福岡へ帰る楽しみが大きくなったよ!