東関東大震災が起こるまで一度も行ったことがない南三陸町に、初めて行った
のは一月ほど前だった。南三陸町で一番大きい街である志津川は、津波で流さ
れて何もなかった。流れ残った鉄筋の建物だけが、ところどころで痛ましい姿で
立っていた。屋上に車が乗ったままのところもある。信号も標識も目印にする建
物もないのですぐに迷子になった。その日の目的である気仙沼に近い小野寺
氏が住む仮設住宅に向かう途中、歌津を通った。自分が走っている道路左手
の高い場所に駅舎が見える。当然列車は走っていない。駅の下は広場で簡易
トイレが2個置かれている。駅を背にして海の方向を見ると、海に面して大きな
橋梁がが何本も立ち、橋は流されたのか何もない。手前に青いウタチャン橋。
暫く橋に居ついたアザラシの名前らしい。駅から海までは広い空間で、津波の
あとの荒れた部分はたくさんあるが、草も生えて静かだった。一度も歌津へ
行ったことのない私は、それが歌津の風景だと思った。
そして2度目。今度は一人ではなかった。海山ネットメンバーと一緒だった。
歌津の駅舎の写真を撮りに行った。線路はないそうである。海の手前の橋梁
を「あれはなあに」と聞くと、「45号線」と意外な返事が返ってきた。ええっ、じゃ
今私がいる道路は?あれが海沿い幹線道路45号線だとすると、駅から海まで
の空間は? 動転している私にメンバーが言った。「駅の下には駅舎があって、
駅舎で切符を買って階段を登って駅に行ったのよ。駅の前は七十七銀行とか
お店とか向こうが見えないくらいのたくさんの建物が海まで続いている街だった
よ」
驚愕した。ほんとに驚いた。前の街を知らない人間にとっては今の歌津は、
以前からある風景のように見える。この風景が元の街に戻ることが
可能なことなのか、まったくわからない。
今日歌津の人に会った。鳴子の温泉にいる頃より屈託のあるお顔に見えた。
現実の生活に向き合うことはとても厳しいことだけれど、人と人との軋轢に
心を痛めないでください。そんなところに捕らわれたら復興も復活もできなく
なってしまいます、とお伝えしたい気持ちになった。