天空を歩くふたり

二階を片付けていたら、久しぶりにお母さんの木彫の作品を見ました。2階に置いてはあるんだけれど、

普段はあまり見ない。というより全然見ない。部屋に飾ろうという気持ちにはならない。

んですが、やはり改めて母の作品と向き合うと、そのダイナミックさと力強さに我が母ながら「やっぱり凄いね、この

人は」と思わざるを得ません。50歳から亡くなる少し前まで執念のように木と植物を向き合っていた。

 

母が好きで特によく描いていた「あじさい」DSCF1656

何歳の時のだろう。彫りの深い「あやめ」

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学歴は尋常小学校卒業。

小学校を出るとすぐに福岡県の筑豊から大阪に女中奉公に出され、奉公先の娘さんに「お嬢様」と言うのが

嫌で逃げ帰って次には床屋奉公に出されてそのまま大人になったという経歴の持ち主。その生い立ちのせいか

床屋が大嫌いでした。

決して床屋だけにはなるものか、という決心とは裏腹に、長崎県対馬から出奔して福岡にやってきた小学校

教員の父と駆け落ち同然で一緒になってから、戦後の貧乏暮らしの中で3人の子を育てる窮乏生活からの

脱却のためについに九大の学生相手の床屋を開業。先生のくせに喧嘩っぱやくて学校を辞めたりする父と

母の鋏と剃刀の仕事のお陰で子供3人は大きくなりました。

 

母が絵を描き木を彫るようになったのは50歳をだいぶ過ぎてからのこと。絵はカルチャーセンターで学びました。

柄じゃないと行き渋る母を、「行け、行け」と背中を押したのは私だそうで、後年母に「あんたのおかげで」と

言われたけれど、私は全然覚えていない。

 

絵を描くようになってからの母は絵を描くことにのめりこみました。花の絵を描く時は花をばらばらに解体して

描いてました。常にスケッチブックと鉛筆を持ち歩き、寝るときも枕元に置いて寝てました。

私が母と別れたのは25歳のとき。それから40年の時を経て再び私は故郷福岡ではなく宮城で86歳になった

父と母と一緒に暮らすことになりました。

 

いつどんな時でも一緒にいる夫婦で、全然そんな夫婦ではない私は「いつも一緒のこんな夫婦の片方が先に

死んだら残る片方はどうなるんだろう」と想像もできないでいましたが、なんとまあ二人は時間は違うけれど

同じ日に同じ病院の隣り合った病室で亡くなりました。

 

肺気腫と膀胱がんを患って2年もの闘病生活を送りに入院していたのは父。骨折はするけど内科的には病院

に罹ることもなかった母は、父が最終段階に入ったところで突然ガンを発症し、2週間寝て父より先に他界。

数時間後に父が後を追うように天界へ。

 

85歳くらいまでバドミントンは現役。90歳になっても翻訳ものの推理小説を読んでました。

よくは知らないけれど、父親が(つまりは私の祖父のこと)欄間職人で仏像を彫ってた、と言っていたから

母は父親の血を受け継いだのでしょう。彫った作品はお盆や手鏡などの小品から箪笥やテーブルなどの大きな

ものまで2、300点はあると思う。

 

たまたま宮城のこの土地に住んだおかげで、二人の旅立ちは巡礼の白装束でした。頭陀袋に小さなお結びと

三途の川を渡るための小銭も入れての旅立ちで、私は別れの悲しみとともに、これからも二人一緒という

安堵感で胸がいっぱいだったことを今も覚えています。

 

この遺された木彫のレリーフを見る度に、「今頃どこを二人で歩いているのかなあ。やっぱり喧嘩してるよなあ」

と天空を歩く二人の姿を想像します。

いつも二人でいるからと言って、いつも仲が良いということではないのです。不思議なことに・・・。