祖父母参観日

台風はどうにか避けられそうなものの、終日雨。

今日は朝9時から孫の幼稚園の祖父母参観日。

9時から11時の間に行けばいいのかと思っていたら、9時に行って11時まで孫と付き合って遊ぶのだ
と朝知って、大慌て。

ユミさんに電話して道の駅までできたお餅を持って行ってもらうことにして、餅はついたけどあん餅
になってないお餅は、入れ物ごとユミさんにあげました。

あのつきたてお餅をどうしたかなあー、と気になって後で聞くと、由美さんの仕事場に持って行って、
みんなで食べたそうです。
「だって白い餅だよ。みんな困ったでしょう」
「ま、後で考えてみれば納豆でも持ってけばよかったかなあ」と言ってました。

ユミさんのおかげで安心して幼稚園に向かい、孫と一緒に幼稚園で「昔の遊び」というのをやりました。

かるた、おはじき、おてだま、けん玉、あやとり、こま回し。

そうだよなあ、おじいさん、おばあさんの参観日だものなあ。

で、かるた、おはじきと順番に遊んで回りましたが、紐を巻く駒まわし、だけは全然手がでなかった。
あれは男の子の遊びなんです。女の子でやる子はいなかった。

で、最初にかるたをやったらすごいね!
まだ3歳になったばかり?というくらいの小っちゃい女の子でも凄い闘志。勿論男の子もかるたの
上に乗っかるくらい首を身体も伸ばせるだけのばして、他の子が抑えたかるたでも上から上から
手を伸ばして、あわや喧嘩。

そうはならないように先生や祖父母が止めますが、毎回起こる揉みあいに、人というのはこんなに小さくても
競争心、闘争心があるんだなあ、厄介なもんだなあ、と感心しました。うちの孫はダメ!
私が1枚とってやったら、もう満足して「バーチャン、駒回しに行こう」

 

横に座っているのはフィリピン人のお母さん。幼稚園児のお兄ちゃんよりもまだほんとにちっちゃい妹が
歌にも踊りにものりにのって愛らしいこと。

公立の幼稚園なので制服も母の会みたいなのもなし。まったく子供と先生の幼稚園。初めて幼稚園の
中に入ってみたら、ぜーんぶお部屋が繋がったオープン教室でした。

そういえば、だいぶ前、ロバート・キャンベル先生の文学講座で、鳴子温泉の中学校に行ったことがありますが、あの学校も吹き抜け天井のような実に広くて開放的な、まるでアメリカの学校みたいな感じで、驚きました。田舎の学校のほうが新しいデザインになってるのかもしれません。

11時にどんぐりの首飾りももらって、みんなで掘ったさつまいもをおやつに頂いてお別れしました。

楽しい祖父母参観日でした。

東京ではトラックショー2日目。どうなっているかなあ。

 

 

 

 

 

 

手仕事

毎朝、お餅お餅をつきあげて、最初のあん餅のひと切れを手に取る時、これが熱いんですよ。

お餅をつき始めて初めの頃は、熱いのが怖くてドキドキしてましたが、今はドキドキはしないです。     それなりに用心しながら1個分を掴みとるけれど、その時毎日必ず思うのは、「いったん手を止めると熱くてもう握れなくなる」、ということ。

そんな時これも必ず思い出すのは、私が子供だった頃の母の手。

私の母は私が小学校に上がる前から中学3年くらいまで、散髪屋でした。

小学校を出てすぐに床屋に奉公に出されて一人で大きくなったものだから、床屋が大嫌いでした。
縁あって一緒になったのは教員の父。でも戦後で働ける学校は少なく、やっと先生の口を見つけても
血の気が多くてすぐに喧嘩して辞めたするので、母は3人の子供を育てるために床屋を開業しました。

 

さすがに昔とった杵柄で、母が柱にぶら下げた茶色の長い革で、日本ぞりや洋ぞりの剃刀を研ぐ手さばき
と音は今も忘れません。それと、男の人の髭剃りの後に、熱いタオル蒸し器から熱い、私だったら
絶対に触れないような熱いタオルを平気で持って、男のお客さんの顎にあててました。

何故かそのことを毎朝思い出します。よくあんな熱いタオルを平気で持てたもんだと。

手で覚えたり体で覚えたりする仕事って、そういうもんなのですね。

花の仕事を長い間やっていたので、花を栽培して売るという状況は、外から見るときれいな仕事に見える
らしく、花屋になりたいので教えてくれませんか、と自宅に来た人が2、3人います。

でも花も同じで機械ではないので「こうこうよ」とは教えられない。
何年も何年もタネを蒔いて、芽が出たところから育っていくその葉の形態や様子を見覚えて、花が咲いて
散るまで、寒いのがいいのか暑いのがいいのか、乾いたほうがいいのか、湿ったほうがいいのか、と
見て触って覚えて行きます。

今朝やっと稲刈りが終わったユミさんが朝早く、稲刈りの間に摘んだという蓬餅をもってきてくれました。
稲刈りの間に蓬摘む人は滅多にいないと思うんだけど・・・。さすがユミさんです。

でユミさんが言うには「まー、天候不順で今年ほど機械が壊れたことはなかった。あーー、大変だった」と。
修理に持って行っても、そこで直すというんじゃなくて、部品待つんだよね。

ほんとに車でも機械でも、昔のように「直す」というんじゃなくて、「直す」というのは部品を変えるんだ、という
時代になっちゃいました。いいんだか悪いんだか。

ちなみに、私はあん餅だけではなくて切餅というのもやってます。

夜についたお餅を朝、包丁で切ります。機械かなんかで切っていると思っておられるお客さんも多くて、
こんな柔らかいお餅をどうやって切るの?と言われますが、包丁で切るので特に苦労してません。
でも最初の1、2年は手首が腱鞘炎みたいになってサポーターつけて包丁握ったりしてたけど、今は何枚
切っても応えないです。

よく働き過ぎじゃない?休んだほうがよくない?と言われることありますが、今やっているくらいの量
だったら、休んでも休まなくても同じくらいにしか感じない。
ガンで体が弱ったオトーサンに「やらなくてもいいんだよ。休んだっていいんだよ」って、何度言っても
「やってもやらなくったって同じようなもんだ」と亡くなる10日までまでお餅ついていましたが、オトーサンが
亡くなった今、自分でお餅ついてみて「なるほどねえ」と思ってます。

 

そう考えるとなんだか「手仕事」って面白い。
いつの間にか、普通だったらできないだろう、というようなことが出来るようになっている。

さて、今日のお餅つきも終わったので休みます。

 

 

 

 

新聞バッグ入り地元3種米セット販売atトラックショー

雨じゃんじゃんの日曜日にチョーほっかぶり市を完遂した海山の営業&雑用部長のよっちゃんは、熱を出してしまいました。
1日ゆっくり寝てほしい、とは思うものの、25日からの東京ビッグサイトでのトラックショーを控えていて、寝ててもらうわけにはいかないのです。

どうしてもお米の袋詰めをしてもらわなければ間に合いません。

東京でのこういう東北応援復興イベントがある時に、海山ネットに声をかけてくださるのは、東京渋谷の
スターリジャパン(株)の社長であり、東北応援チームワンネスの代表でもある大谷さんです。

大谷さんとそのお仲間は東北大震災以降、今も変わらず気仙沼や南三陸の赤ちゃんや子供の支援をして
くださってます。震災後3年近く経っても活動される姿勢は初めの頃と何も変わりません。
東京ではよく言われる「風化」という言葉など、大谷さんの辞書には載っていないみたいです。

このトラックショーについては夏頃に声をかけて頂きました。

何を売ったらいいのかなあ、と考えていて、新聞バッグの販売だけでは「人手の産業をとり戻そうよ」という
海山のコンセプトは伝わりにくいので、手で作るものを中に入れて販売したい。

とはずーっと思ってきたのですが、やっぱり私のおすすめはお米。                          東北のお米はおいしいです。
他のモノはイマイチね、と思うことはあってもお米だけは掛け値なしに美味しい。

 

私はまったくの街育ちでお米のことなんか何もわかりません。
ここに住むまでは、お米は値段が安いのはまずいのだろう、思ってた。それからお釜がいいのじゃなきゃ
美味しく炊けないのだろう、と思ってた。
無知も甚だしいですが、でも私のほとんどの友達も同様だったろう、と思います。

でもここに住んで解かったのは、お米が美味しかったら、4万円の高級お釜で炊いても、近所のホーム
センターの5000円のお釜で炊いても、同じように美味しいです。新米、新米というけど、古米だって新米
とさほど変わらずおいしく食べられます。

よっちゃんがほっかぶり市で仲間のお米も共に販売するために考えたのが、地元米3種セット。

よっちゃんちのお米はヒトメボレです。ササニシキとコシヒカリが混じったみたいに少し粘りがある。

嘉則さんちのお米はササニシキです。東京辺りでは寿司飯に使われるというけど、粘りが少なくてさっぱり
しています。私はササニシキ派で、時にヒトメを買います。

なおこちゃんちのお米はツヤ姫。その名のごとく炊き上がりがツヤツヤ。山形県生まれの新しい品種。

新聞バッグに3種類のお米が入っています。是非食べ比べてほしいです。

 

今は米離れが加速ぎみで、食材が豊富な首都圏にいれば、パンでもパスタでもお米以外の食材がいくらでも簡単に買えます。それも持って帰れば、今すぐにでも食べられますよー、という形になってます。

でも、これだけあちこちで重大な災害が起こる時には、やっぱりお米があれば心強いです。
そしてそんな時には美味しいお米を食べてほしい。

 

熱が下がらないまま、よっちゃんは100袋近いお米を送り出してくれました。虫よけに真っ赤な唐辛子の
梯子編みもぶら下げました。新聞バッグ作りのワークショップも行います。
24日、25日、26日。東京お台場のビッグサイトで開催のトラックショーに是非お出かけください。
被災地で活躍したトラックの展示もあると聞きましたが、そうだったらいいな。

 

今カメラがないので、新聞バッグ入り3種米の写真は、ブログよっちゃん農場ドタバタ日記でごらんください。

 

 

 

 

 

 

 

 

チョー ほっかぶり市&南三陸へ

10月19日

今日はチョーほっかぶり市。チョーというのは超なのか、メンバーではない私はわからんけれど、
今回で1周年。
時の過ぎるのの速さと、たった6人のメンバーでよく1年間も毎月1回続けてきたものだなあ、と感心して
感慨深いです。

6人とも皆日々早朝から夜まで畑や田んぼ仕事に加工から販売まで超忙しい日々を送っている生産者
であり、企画から準備まで大変だったろうと思います。理解者、応援者に恵まれて、朝、お餅仕事の後で
今日の会場である町の支所の駐車場に行ってみたら、隣の公民館の駐車場まで車で埋まってました。

お天気に恵まれて、みんな楽しそう。トマトの嘉則さんのところで揚げじゃがいもを買い(おいしかった!!)
パン工房の青い虹さんでライ麦パンだのさつまいもパンだの買い、会場を全部回っていったん家に
帰ってから、南三陸へ。

 

今日は歌津のけいこさんのところまで500個の新聞バッグをとりに行きます。ダンボールの箱で送って
もらったら運送料が大変な金額になりそうなので。

 

南三陸は夫を戸倉の津宮港に釣りに連れて行って以来です。来たら泣くかな、と思っていたけど、やっぱり。 運転しながら、せっかく軽いクーラー買ったのに、新しい釣竿買ったのに。1回しか使ってないじゃないか、と思ううち、泣けてきます。

さんさん商店街の駐車場が観光バスも停まれるように広くなり、ところどころで嵩上げされた台形の土地。
そして高台移住の土地を作るためにあちらこちらで切り取られた山。町が復興するための工事だと
解かってはいるのだけれど、南三陸の町が復興に向かって動きだしているようには見えません。

やっぱり全体をひと括りで見ると変わらないんだよねえ。

けいこさんのお宅では、相変わらずおじいさんとおばあさんが、お雛様のように炬燵に並んでました。
いつもそうなの。いつもお二人並んで座っておられるので、お顔までが似てらっしゃるみたいです。

今日は土曜日なので、saoriちゃんもしんこさんもいました。
けいこさんのご家族は今親戚のおうちに住まわれていますが、玄関隣の新聞バッグ作り専用のように
なっているお部屋から、車いっぱいのダンボール箱を積み込みました。

500個の新聞バッグです。
100個は24日木曜日からの東京お台場で行われるトラックフェアで使います。
この100個の新聞バッグに宮城のお米を3種類詰めて販売します。
海山元代表よっちゃんちで作った「ひとめぼれ」、トマトを作っている嘉則さんちの「ササニシキ」、
パブリカを作りドレッシングを作り今は茄子をたくさん直売所に運んでくる直子ちゃんちの「つや姫」

この3種類のお米と梯子の形に編み込んだ真っ赤の唐辛子(米の虫よけになります)をつけて、けいこさん
が作った新聞バッグに入れて、英字新聞1個つけて販売します。

 

トラックフェアでは新聞バッグワークショップも行います。
お米を食べてみようかなー、と思う方、新聞バッグを作ってみようかなーと思う方、是非木曜、金曜、土曜日
にはビッグサイトにお出でください。台風が来なければいいんだけどね。

 

4時半南三陸を出発。
眠気覚ましに珈琲を飲みながらスルメを噛みながら、へとへとになって7時家に帰着。
疲れました。もうトシです!

 

 

 

 

 

 

大福屋のおばさん

明日、明後日ほっかぶり始って1周年の超ほっかぶり市が、岩出山の支所駐車場で行われます。
寒い時も暑い時も、継続こそ大事だとがんばってきたほっかぶりJAPANのメンバーは、その準備で
気持ちも身体も大忙しのようです。

ほっかぶりJAPANのメンバーではない海の手山の手ネットワークは参加費を払って、新聞バッグ
ワークショップを行います。新聞バッグの作り方を知りたいなあ、と思う方は是非、手拭いでも
タオルでもほっかぶってご参加ください。
私も行きたいところですが、明日は南三陸に行く予定があるので、朝、ちょっと寄ってご挨拶くらい
しかできなさそうです。

ほっかぶり市も忙しそうですが、なぜか海の手山の手ネットワークもここのところ、超忙しくなってきました。
注文をたくさん頂いて、大変ありがたいことです。

午後、できあがったドイツ新聞バッグと、もうすぐ締め切り予定の新聞バッグコンクール用新聞バッグ
を持ってきた、あやさんとアカリちゃん。それに他にも多量に製作をお願いしていたTさん。
その3人に手伝ってもらって、これから送る新聞バッグの箱詰めなどやっている時のこと。

その時に限っていくつもかかってくる電話の中に混じって、1本の電話がありました。

見知らぬ男の方の声で
「大福屋のおばさん? 大福屋のおばさん?」
というふうに聞こえるのだけれど、宮城の言葉の鉛があるので正確には聞き取れません。
その上、孫がかけているアニメテレビの声が騒々しい。

もう一回「大福屋のおばさん? この頃おはぎ作ってないの?」

と言われて、そうだ、私はおもち屋のおばさんだったのだと思い当たりました。
おはぎのこと言われて、初めて私を大福屋のおばさん、と呼んでくださっているのだと解かりました。    以前にはおはぎを作っていたこともあるので。

「この頃、おもちでせいいっぱいでおはぎ作ってないんですよ」
そう答えたら、がっかりしたような声で
「そうなのか。梅農場あるでしょ? あそこんとこ真っ直ぐ行ったら、あんまり甘くないあんこでおはぎ
作っていたとこあったのよ、前に。あそこのあんこと同じなんだ、同じなの」

そうなんだ。なつかしい味のあんこのお餅やおはぎがあったので、道の駅の生産者の名前を見て
電話をくださったみたいです。

 

今、夫がいなくなって、毎朝お餅を作りながら、一人でどのくらいできるんだろう、と自分に問いかける
日々を送っています。止めれば日々のリズムが壊れて、自分にとってよくないことは解かるんですが、
オーバーワークはよろしくないので。

でもまだ自分のできる限度が見極められないでいます。いちおう作る数は決めてますが、無理している
のだか丁度いいのだかさっぱり解からない。
そんな時にこういう電話を頂くと、うれしい気持ちになります。

「大福屋のおばさん」
花屋さんとはよく呼ばれるけれど、大福屋のおばさんと呼ばれるのは初めて。
少なくてもあんまり甘くない美味しいって思ってもらえる大福をこれからも作りましょう。

 

 

 

 

天野寛子フリー刺繍画集

台風一過。

いつものことですが、宮城県、県北の山の中のここはたいしたことなく、台風は行ってしまいました。
全部の学校が休校になるというので、そんなにひどいのだったら、お餅を作っても仕方がない、と
思って、お餅仕事はやめました。

ひょっこりできた手持無沙汰な一日。

片付けものをしたり、おでんを煮たり、急に思いついて美容院に行ったり。もともとくせ毛なのに数年
ぶりにパーマをかけてみたり。

そんな1日でしたが、大変嬉しいことがありました。

筑波の農村生活研究会でお会いし、帰りの電車で東京までご一緒した昭和女子大学、名誉教授の    天野寛子先生から、先生が「送ります」と仰ったとおりに、『繋ぐ』という、先生がご自身で縫われた      東日本大震災を起こったことを刺繍で描いた、フリー刺繍の画集を送ってくださったのです。

なんと言い表したらいいのか、鮮やかではないのだけれど、抑えた美しい色で縫われた大津波の
刺繍、爆発し建屋が壊れた福島第1原発の刺繍。役所の風景。石巻の空で泳ぐこいのぼり。
どのページにも天野先生の言葉が、日本語と英語で併記されています。世界に通用する刺繍の画集
です。

見たことがある人は少ないでしょう。写真で見ていただきたいけど、私はカメラを筑波に忘れてきて
しまいました。お見せできないのがとても残念です。

 

実に美しいこの刺繍画集は、その美しさも暖かい優しさも、先生ご自身から紡ぎ出された言葉で彩ら
れています。こういう方がいらっしゃるとは、そしてたまたまの偶然で出会えるとは、筑波に出かけた
ことが神様からの贈りもののように思えます。

最初に画集を開いた時に、常にこらえている涙が止まりませんでした。
毎日毎日、新聞にでもテレビにでも手を合わせ、「助けてください、助けてください」と涙していた日々が
昨日のことのように甦りました。

東北大震災は、東北に住まう私にとっては風化どころではなく、今も現実の日々そのままです。
この刺繍画集は、そのことを報道の写真ではなく、柔らかく美しい刺繍で「ゆっくり、ゆっくり進めばよい」
と教えてくれます。

天野先生。素晴らしい刺繍画集をお送りくださって、ありがとうございました。
たくさんの人に見てほしい、と思うので、図書館勤めの嫁さんにも伝えようと思います。

 

私たちの町は台風の被害には合いませんでしたが、伊豆大島ではたくさんの方々に被害が出ている
ようです。行方が分らない方々のご無事をお祈り致します。

 

 

 

 

 

農村移住について

3連休が終わりました。

まだ紅葉はハシリ、山全体の縁どりくらいがチラっと色付いたくらいなのですが、道路の混雑が凄かった。
道路だけではなくて道の駅の混雑も凄かった。

今乗っている車の走行距離が195000キロを超えたので(こんなに乗るのは初めて。20万超えに挑戦
したい気持ちはありますが)、3回目の車検前に、「乗り換えようかなあ」と古川の車屋に向かう途中、
高速道を跨ぐ高架橋にかかったところで、5歳孫が、「バーチャン、車がいっぱい!。動いてない!!」

見ると、ほんとだ。普段は車が少ない東北自動車道のこんなところで、ぎっしりと渋滞した車が、渋滞
ではなく停滞してしまってました。どこまで帰られるのか、この状況はほんとに大変。              でもこうしてたくさんの人に来て頂くのは有難いことです。

この3日間は、直売所の生産者は大忙しでした。お餅屋で花屋の私も同様で、連休にお餅屋の籠が空っぽ
では困るので、農村学会で筑波に行く時には、4時に起きてお餅を作り、出荷だけ人に頼んで新幹線に
乗りました。

 

農村生活研究学会に呼んで頂いて思ったことを少し書きたいと思います。

第1部は農村に移住した栃木県茂木町の有機農法で野菜を作っておられる松井さんと、農村には移住した
けれど、花を作る部分は農業、お餅を作る部分はお米を利用した加工という仕事をしている私が、聴衆
である農村生活の研究者でいらっしゃる大学の先生や、若い方々の前で、日々の生活を発表する。

第2部は聴衆の方々が二手に分かれて大テーブルを囲んで懇談する、という構成になってました。

農村学会というところが普段からどういう研究を為されているところか、勉強不足でよく解からないのですが、私の前に発表された、どこかの中山間地の農村活性の事例を聞いていると、研究のテーマは、農村 以外のところから人を呼ぶ農村移住を奨励して農村の生活を活性化させる、ということではないかと解釈しました。

そしてその農村移住の中心になっているのは「新規就農」なのだろう、と思います。
就農、というからには、米作ったり、野菜作ったりの農業者になるということです。

私が農村に移住して12年。
お餅のほうは集落の誰もやってないことなので、ほぼ問題なく続けてきましたが、もし有機農法で野菜を
作る農業だったらどうだったろうか、と思うと難しかったと思う。
花しか作っていなくても難しいことは多々ありました。

中山間地での農業は、これでお金を稼げる。上向きの成長産業だ、なんて思っている人はここには
一人もいないと思います。男の人も女の人も田んぼに出て、畠に出て本当によく働きます。その他にも
牛を飼ったり、アルバイトに出たり、都会で夫の給料で食べていたかつての私の暮らしから考えると、
別世界のひとのようにみんな体を使って働くけれど、農業が活性化しているかというとしていないのが
現実です。

それなのに、なぜ土地の人でも継続が難しい農業への新規就農を奨励するのか。
そのへんがちょっとずれているんじゃないかなあ、と思いました。

中山間地の活性化のためによその土地から人が入る、ということはとても重要です。でもそれは何も
農業に参入するのではなくて、私のように定年後の農村移住なら、土地の人の生産物を使って何かを
作るとか、売るとか。何を作るにも売るにもお金はかかるのだから、そういう人たちに少しでも助成をして
農村移住をすすめ、疲弊する中山間地の活性化を計る。
そういう考え方があってもいいんじゃないかなあ、と思うのですが。

都会の人間にできるできない、があるように(例えば力仕事とか、食品の保存とか)、農村の人にも
その暮らし方の文化の中で、得意なこと、苦手なことがあります。
例えば組織的な理屈を言う、とか営業して品物を売り込むとか。その苦手な部分を、よそから来た
者が、請け負えばいいのではないかと。

 

この町にも移住してきて、町の重要な部分で役割を担っている方たちがいます。
別荘地に住んでいても、地域に馴染んで、それぞれに仕事をしています。町に古くからある直売所第1号の
会長さんは東京の方だし、蕎麦屋さんも宅配屋さんも手作り家具も山野草を作っている人もいます。新規の農業に就かなくても、みんなこの町の重要な構成員です。

海山ネットとして、新聞バッグにこの町の生産物を詰めて、外部に発信して販売努力をしようとする私に
対して、「内部に対する発信のほうが大事なのでは?」という質問がきましたが、今は外に対して
モノを売らなきゃならない時期なのです。人も呼ばなきゃいけない。交流人口を増やさなければならない。
たくさんの人にこの町のことを知ってもらい、生産物を買ってもらい、温泉に来て欲しい。

 

12年住むうちに私はこの町がとても大切になりました。潰れてほしくはないのです。
農村移住とは、そういう人間を一人でも増やすことが重要なのではないかと思います。

 

 

 

 

日本農村生活研究大会in筑波

久しぶりの筑波です。

筑波といえば筑波山。もちろん登ったことはありますが、最も馴染んだ筑波体験は、一昨年まで
1年に1度、東京の仲卸で仕入れた花の苗を宮城まで運んでいました。その途中に、宮城に来る前に4年間
学んだ益子の陶芸の先生宅に寄るために、筑波学園都市を貫通する道を通っていたのです。

つくばエキスプレスという新しくできた電車に乗るのは初めてです。
東京から電車で筑波に行くのは実にに不便だったのに、このつくばエキスプレスに乗れば、40分
ちょっとで筑波到着。速いです。便利になった。

賑やかな町ではなかった途中の町々も、新しい駅ができて賑やかな町になっただろうなあ、と想像しながら
筑波駅に着いて、駅から外に出て見てびっくり。近未来都市みたいになってました。。SEIBUもHOTELも積木の箱のよう。

 

で、今日の用事は何かと言うと、日本農村生活学会主催による日本農村生活研究大会に招かれました。

前から資料などは送って頂いていたのですが、正直なところ、それを読んでも今日自分が何をするのか
理解できていませんでした。余りにも不慣れということなんでしょうが、もう一人話題提供者として栃木県
の茂木から来られた、有機農業を実践されている新規就農者である松井さんも来られていて、そこで
初めて自分が農村移住についての発表をするのだと知りました。

きっとそのようにご連絡頂いていたのだと思うけど、ピンと来ていなかった、ということです。
準備万端整えられた松井さんと比べて、準備も何もなく、お土産にと持参してきた新聞バッグと海山の
チラシだけ持って、丸裸同然のぶっつけ本番で、首都圏から宮城に移住してきたこと、翌年道の駅が
できたこと、お餅と花を販売する生産者になったこと、農村には外部からの人の移住が重要であること、
資金が必要な農業に従事しなくても定年退職後の移住には、土地の産物を加工して販売していく道
もある、ことなどをお話ししました。

後半は新聞バッグと海の手山の手ネットワークのことをお話しました。

聞いていらっしゃる方々が、大半は大学の先生方のようで、余りの場違いに緊張して、普段のように
楽しくなんて全然しゃべれませんでした。

この次もし同じような機会があったら、準備します。写真とかいろいろ。四季折々に色や姿を変える
里山の連なりの中でイグネに囲まれた家が点在する岩出山の美しさや、道の駅や、南三陸の仮設の
集会所でみんな揃ってのの新聞バッグ作りなど、映像で見て頂きたかったなあ。

この大会の参加者に女性の大学の先生が多いのには驚きました。同時に女性の農村生活研究者が
これほど多数いらっしゃるということに、心強い思いをもちました。
たぶん新聞バッグが繋いでくれて、この先もまたご縁があると思います。

素晴らしい体験をさせていただいてありがとうございました。

帰ってくると、楽しいメールが来てました。
いつもドイツの新聞を送ってくださる横浜のSさんが、ドイツに行ってらっしゃったそうです。
新聞バッグを作って持って行ったら、ドイツのお友達の方々が喜んで、作り方を知りたいという方も出て
来て、一緒に取っ手を作る棒を買いに行った、とのことでした。シーボルトが生まれた町に住むSさんの
お友達の方々は、311の時から東北の支援を熱心にして下さって今も続いているそうです。

 

支援の先は一関の藤の園というところで、私もそのうち藤の園にお邪魔してみようと思います。
新聞バッグを作り始めた時には、仕事を作る、そのことしか考えていなかったのに、時が経ってこうして
国境を越えて人と人とが繋がるきっかけになっていることを思うと、不思議で嬉しいです。

 

 

 

 

スマートホン

携帯電話をスマホというのに変えることにしました。

アイホンというのもあって、スマホとアイホンは「どこが違うのですか」と訊いたら、アイホンは
アイパッドとほとんど同じだというので、スマホにしました。アイパッドはあるので・・・。
夫が使ってました。

がんになってから、大震災以後、世の中を見つめて書きたいことがいっぱい出てきたらしく、時間を
見つけてはパソコンの前に座っているので、ベッドでも書けるように、長い時間がかかる抗がん剤
投与の時でも書けるようにとIーPadを買いました。
今は5歳の孫がゲームをやってます。

スマホを買っても、使い方はなーんにも解からないんですけどね。
ただパソコンは簡単なことならできるので、パソコンとこれまでの携帯電話の使い方を組み合わせれば
なんとかなるのではないか、と携帯の電話屋さんに行ったのだけれど、時間のかかること、かかること
ほんと、まいりました。

ついでに、これまで夫が使っていた携帯電話の解約をお願いしようと、手続きをお願いしてみたら
「死亡診断書」が必要を言われてびっくり。私の本籍は千葉県市川市なのですが、戸籍謄本も必要と
言われて、いったん家に戻ってまたこの間夫が亡くなった時に、息子から送ってもらった謄本持って
行きました。

いやー、持ってなかったら、更に面倒だったと思います。
簡単に考えていたけど、携帯電話の名義変更とか機種変更とか、いや、ほんとに大変な手間で、
何も今やらなくてもいいんだから「止めようか」という誘惑に何度もかられながら、最後は意地のように
なって、ついにスマホをゲット。3日がかりで今日は夕方までかかった。

待ちの時間が長すぎる!

それに窓口の女性が実によどみなく説明をしてくれるのですが、まー、中味が難しい。
「年金みたいだね」と思わず言っちゃいましたよ。

実は、私は明日、筑波大学の農村学会にうかがうことになっているんです。
こんなにわけが解からないもの持って、携帯の用を足せるのか実に不安です。

 

昨日は東北村からの取材でした。

うちまで来てくださったのは初めてお会いするライターさんです。

仙台から長時間かけて車で来てくださったのに、古川から47号線に入って追突されてショックを
受けられてました。
時間がずれて遅く来られたので、思わず話し込んでしまって、遅くまで付き合って頂きました。

筑波から戻ったら、そのライターさんに、夫が書き残した文章を整理、編集して頂こうと思います。

明日の農村学会では、農村移住について、そして海の手山の手ネットワークの活動について
お話しさせて頂きたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東北新聞バッグプロジェクト第2弾の2日目

明けて2日目                                                                                                                                                                                                    今日はお餅はお休みしました。夫亡き後にお餅作りを開始してから初めてお休みです。

たまにこうして6時頃まで寝ると、「ゆっくり休んだなあー」という満足感があります。

さて昨日の会議で、東北新聞バッグコンクールは、もしかするとニューヨークで開こうということに
なったけど、どうやってこの目標を完遂させるのか。

今日は、今回第2弾を共にやることになった陸前高田からは、本当は東京の方、今は陸前高田に
居続けて陸前高田の人みたいになっているH女史。気仙沼からは唐桑半島のミチタさん、が
出席してくれています。

これから先の道筋を話していかれる畦地社長。
出席者の一人一人が意見を出すように導き、出て来た意見を余すことなく、文字や絵柄にして
書きとっていくファシリテーターの智子さん。
論議が重なり話が煮詰まってくると、要所要所で、両手でも抱えきれないほどの広さと深さを内包する
話を見事に整理してしまわれる梅原先生。                                        文章を作り、書き、新聞バッグの検品を一手に引き受けておられる道の駅十和の森岡駅長。

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今日ほど、四万十チームの一人一人の凄さ、チームとしての凄さを感じたことはありません。

一見荒唐無稽のような、東北新聞バッグコンクールinニューヨークも、四万十チームの方々と同じところに
立って、一人一人の役割を真剣に果たせば可能になるのではないか、と初めて思えました。

振り返れば大震災直後、被災地を見に行って衝撃を受け、「東北の経済復興なくして日本の再生はない」と
本気で思っていた日々がありました。そんなこと全然なかったんだ、と今は解かりますが、でも
川を保全するために作り始めた四万十新聞バッグと、仕事つくりのために残った手を活かして作り始めた
東北新聞バッグが、手を繋いで、東北や四万十を越えて普遍的な意味での手で作る仕事として新聞
バッグを作り続けてきてよかったな、と今は素直に思えます。

 

今日も横浜の方Sさんから、少しづつ溜めて頂いたドイツ新聞が送られてきました。
私たちがこうして活動を」続けられるのは新聞紙を送ってくださる皆様のおかげです。
ありがとうございます。

南三陸のムッちゃんから、「秋刀魚もらったから、送るね」と電話がありました。
ありがとうございます。明日は秋刀魚だ!!