ピンチはチャンス④

世の中にはいろんな暮らし方、職業があります。

公務員とか会社員とか店員さんとか、お給料もらって働く人。

農業、漁業、お店や食堂などの自営の人。工場などで働く専門のお仕事の人たち。

みなさんはどんなお仕事の人が、大災害の時に一番早く動き始めると思いますか?

頭がいいから先生とか、ITに精通したIT関連業務の人とか?

全然そんなことはありません。勿論職業だけで分けるわけにはいきませんが、でも経験でみたところでは

即刻復興に向けて動き始めるのは、日頃から手足で動いていた人たち、現場仕事の方たちだったと

思います。会社で偉い役目をしていたとかの人たちは、現場仕事は不慣れでやりづらいからか遅れがち

でした。

 

何が言いたいかというと、頭脳だけで働いていた人たちは、電気もガスも水も食糧もなくなるような大災害が

起こったら何もできないということです。311の大災害の時、この岩出山では電気も水もガソリンもなくなり

ましたが、農業の人たちは全く動じず、1年間でもそのまま暮らせる状況でした。でももし東京で大災害が

起こったら、日頃から会社で働く仕事が中心の人たちは、何をどう調達してよいのか解らず、2、3日もすれば

食べるにも事欠くようになるだろう、と心配しています。

今日東北まで来てくれて、南三陸で船に乗ったり災害のお話を聞いたり、貴重な体験をされた皆さんには

人が生まれながらにして備わった能力をなくさないでほしい。能力を育てて磨いてほしい。災害が起こっても

自分が生き残るだけではなく、人をも助けられる力のある大人になってほしいと思います。

 

そしてみっつめ。最後のお願いは想像力を養ってほしい、ということです。

人は自分の人生しか生きることはできません。人の人生は生きられないので、人の心は分かりません。

だから自分とは違う人の心や人生が描かれた本や漫画を読んだりドラマや映画を観て、自分以外の人の

心や生き方を知ろうとします。それをしなかったら、自分が生きるひとつの生き方を人の人生だ、と思い

こむような狭い考えに囚われてゆき、人や自分が接しない世界のことがわからなくなります。

 

例えば今ここにいるこれから皆さんに新聞バッグを教える上條さんは、福島の南相馬から原発事故の翌日に

バスに乗って鳴子温泉に避難してきて、今も鳴子温泉に住み、働いています。一緒に来た時には小学生

だった娘さんは高校生になり、高校生だったうえのお兄ちゃんは大学生になり、高校生だった下のお兄ちゃん

も今年大学に入りました。お父さんは今も福島でお仕事をされていて、それまで普通に暮してきた家族一緒の

暮らしや学校や部活や習いごとなどは、原発事故で一瞬に断ち切られてしまいましたが、今は新しい生活で

みんながんばって元気に生きています。

言われなければ知ることもない新聞やテレビで報道される原発や津波の被害者の方々は、もしかすると遠く

にいるのではなく、すぐ傍にいるのかもしれません。

ここ岩出山は福島から遠く、原発の影響を受けていないように見えますが、実は山の山菜やきのこや動物たちは

放射能で汚染されてまだ食べてよい、という許可がおりていません。

想像してもわからない、まして想像する力もなかったら、何が起こっているかもわからない今の自然界の状況です。

自分が住む以外の土地で暮す人々や、自分が知らない広い世界、そしてそこに住む人の暮らしや心を想像する

力を育ててください。

 

東北は農業や漁業が盛んで、広大な耕土に恵まれ、自分でモノを作り出す底力が強い土地柄です。無口で辛抱

強い東北の人たちは、困った人を受け入れる心の余裕がある人が多いように私には感じられます。

長年東京で仕事をし、ディズニーランドの近くで暮してきた私は、東京での何もかもお金で買う、経済に揺さぶられる

生活を知っていますし、15年住んで、自分の手でモノを作り出すのが普通のこの岩出山の暮らしも知っています。

その違いがわかります。

 

どちらも大事でどちらも必要です。どちらも知っておいたほうがいいです。

皆さん、今日の日を忘れずに、東京に戻っても東北を胸の中に置いてください。

そして1年に1度でも海で出会った山で出会った東北の人たちが、今どうしているだろうと想像してみてください。

私たち、私も同じですが都会の人間は家を売ったり引っ越したりどんどん生活を変えていきますが、ここ東北

の人たちはこれからも同じ土地で同じ仕事をしながら復興の道を歩んでいかれると思います。皆さんが大人になって

もその状況はあまり変わらないと思うので、どうか思い出したら会いに来てください。

 

長時間私のお話を聞いて頂いてありがとうございました。これでお話はおしまいです。

ありがとうございました。

 

 

頂いた1時間は長かった。

年寄りの話で分からないことも多かったと思うけれども、みんなの心の中にちょっとでもひっかっかっていてくれたら

いいな、と思って話しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス③

新聞バッグはモノも入れられるし、飾ることもできるし、新聞バッグの絵柄や作り方によってはメッセージ

を送ることもできます。会社などから注文をもらえば、作った人が報酬をもらえるお仕事になり、おしゃべりを

しながら新聞バッグを作る人たちの心を繋ぐツールにもなります。糊と古新聞で作った新聞バッグは、ただの

紙の袋ではなく、実はいろいろな役目を果たすことができる凄い袋なのです。

今日作る新聞バッグは誰のために作ろうかなあと考えてください。あげよう、と思う人の顔が浮かぶと、とたんに

力が入ります。そして作り終えた後はみんな「やったあー」と笑顔になります。

 

私からのお願いです。

新聞バッグを作った今日この日を忘れないでください。

東京にいると東北や熊本やその他の土地の災害に関連する言葉や文字に触れることはほとんどない、と思い

ますが、東北では思いがけない災害で大変なめに合い、そこから今も抜け出せない人たち、仮設住宅で小学校

から高校まで通わなければならない子供たち、補助事業の打ち切りでお仕事がなくなり不安な思いをしている

人たちなど、災害後の暮らしの立て直しを今も一生懸命に努力しておられる方たちがたくさんいます。東北の

他にも熊本にも茨城にもその他の地方にも同じように頑張っておられる方がいることをどうぞ忘れないでほしい

と思います。

 

月曜日の夕方にここで大きい地震がありました。

震度5くらいの揺れ方でけっこう長く揺れました。ここ宮城にはもう町が壊滅するような地震はこないだろうと

思っているのでそんな不安はないのですが、大きな地震が来ると「関東に来たのじゃないか」「その余波じゃ

ないか」とすぐに思ってしまいます。その時は福島でしたが、福島にも大きい地震が来ては困るのですが、首都圏

には子供も友だちも多く住んでいて、もしも東京に大地震が起こったら大変なことになると分かっているので、

その警戒感、危機感は東京に住んでいる人たちよりも「来たらどんなふうになるか知っている」私たちのほうが

もっと強いのかもしれません。

 

もしも東京に震度6強以上の大地震が来たら、勿論ハード面では建物も道路も首都高速道路も地下鉄も壊れ、

人口が多い分だけ水や食糧の確保も困難になりますが、人の心がどうなるかという別の問題も発生してきます。

よく町の復興、人の復興といいますが、町の復興は国にやってもらうにしても人の復興は自分たちの問題です。

長い間自分の家族や仕事を護って生活を築いてきた大人は、地震でその地盤を一瞬にして奪われると、その

壮絶な変化に耐えられなかったり、立ち直る気力を失くして立ち尽くす大人が多く出るかもしれません。

東北でもそうでした。その時に大活躍したのはみなさんのように大きい子供たちでした。

 

家や家族や仕事など、一家の安全と安定を担う大人は混乱して大変なのです。何をどうしていいのかわからず

呆然としていても、それでもそんな時でもお腹は空くし、寝る場所も作らなければならないし、人が生きるうえで

必要なことは普通に起こってくるのです。

そんな時子供は一家の家や仕事の心配をすることはできないけれど、災害を受けたもの同士が助け合うための

掃除係りだとか食糧係りだとか衛生係りだとか、心配の多い大人に代わってやれることはいくらもあります。

東北でもたくさんの仕事を子供たちがやってくれて、時間が経ってくると大学生が小さい子供に勉強を教える

ことなどもやっていました。

今世の中ではスマホひとつあれば顔を合わせなくても友達と話せる。計算もできる。地図なんかなくても約束

したところまでスマホ見ながら行ける。なんでもできてしまいます。でもスマホがなくなったらどうするのか。

 

ここで二つ目のお願いです。

スマホに詳しくなるのも必要なことだけれど、大災害が起こった時にスマホでできることはほんの一部です。

生き延びるためには自分の頭で考え手足で動く力がなんといっても重要なので、みなさんにはその自分で

動ける能力を失わず蓄えてほしいと思います。

スマホもパソコンも電話もナビも3月11日の2時46分に一瞬にしてなくなってしまった東北では、南三陸と

岩出山で連絡をとることもできず、用事がある時には車に乗って1時間半もかけて話をしに行ってました。

行っても電柱も建物も道路も標識も全部なくなって目印がない町はどこがどこだかわからず、到着するのに苦労

しました。満ち潮になると地盤が下がった道路に海水が流れこんでくるのが怖くて、そして灯りが全くない壊れた

町が怖くて行く時から帰りの心配ばかりして疲れていました。

 

男は船で仕事をし、女は浜の共同作業で魚の加工や養殖の仕事をしていた沿岸部の人たちは、団体で動く

力が強く、避難先では船頭さんたちリーダーが若者を統率し、足りないものは自分たちで作りだしていました。

子供たちも大人を助けて一緒に働きました。そのような経験から被災地の子供たちは、被災地に残って被災地

のために仕事をしたい、という若者が多く出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス②

頭上の新幹線の外灯が折れ曲がり、水が噴出し、駐車場の車が左右に動き回り、ビルのエントランスのタイルが

バチバチと弾け飛んで裂け始め、もう地球が壊れるかと思うくらいの恐怖の6分間という長い時間を耐えて、

ようやく静まり、ブルブル震えながらメチャメチャに壊れた古川の町をどうにか家に辿り着きました。

東京でも震度3や4の地震は普通にあるので、地震が怖いなどは格別思ったことはなかったのでしたが、もう今は

私は地震は本心から怖いです。あんな恐ろしく悲しい思いは2度としたくないと思っています。トラウマになって、

その後は東京で地下鉄に乗っても、一瞬でもガタンと音がしたり、電気が消えたりすると立ち上がって逃げそうに

なっていました。

 

 

 

私が住む岩出山の真山地域はほぼ震度7の揺れがあったところで最も被害が大きかったのです。町に繋がる道路

はほとんど壊れて、電気も水も止まりました。家は壊れなかったけれど、家具は倒れ、食器類は90パーセントくらい

壊れてしまい、電気がない生活は8日間続きました。その頃海のほうでは津波で大変な被害が出ていたのですが、

ラジオで切れ切れに聞くだけで、その様子を知ることはできませんでした。

水もガソリンもない生活が続いて1ヶ月ほど経った時、隣町の鳴子温泉に沿岸部で津波の被害に合った方たちが

1000人くらい、仮設住宅ができるまでの期間を各旅館に分かれて滞在されることになりました。2時避難です。

市の広報誌に「避難して来られる沿岸部の方たちを家族のように迎えてください」という市長の言葉が載せられ

ました。

 

ここ岩出山には、東北一か自己所有では日本一くらいに大きい梅の農場があります。丁度梅の花が咲く時期で

その梅農場の専務の佐藤宗一さんが、被災者の方々を慰めるために農場で梅見の会を催したらどうだろう、と

提案しました。こんな時にお花見なんて・・と怒られるかもしれないと思いながらも、宗一さんは毎日仕事を

終えたあと鳴子温泉まで通って、旅館を一軒一軒廻り、「梅の花を見に来られませんか」とお誘いしました。

初めは全然反応がなかったのですが、4,5日後くらいから「行く」という方が出始め、最終的には200人以上の

大お花見会になりました。

その梅の花見で出会ったのが、今新聞バッグを作っている海の手山の手ネットワークのメンバーです。

 

その会で避難して来た方々に「今一番必要なことはなんですか」とうかがったら、「お仕事がしたい」ということ

でした。旅館での避難生活は3度のご飯がちゃんと出て、一日中温泉に入れるけれど、その他には何もやる

ことがありません。これまで船に乗ったり養殖で身体を使って働いていた方々が、全ての持ち物を失って何もなく、

電話やパソコンや本などがあるわけでもないので、こんな生活をしていては身体や頭がなまってしまう、と

考えられたのかもしれません。

梅農場ではその時から鳴子温泉の被災者の方にたくさんの梅農場のお仕事をしてもらうようになりました。

車がないので、ある車に満杯に人を乗せて鳴子温泉まで送ったり迎えたり、なかなか大変でした。

そしてそんなことができない私たちは、海の人と力を合わせてお仕事を作り出そう、と考えました。

 

でも仕事といっても材料が何もありません。

とにかくなんでも作れるものはなんでも作って売ろうということで、津波で流れ残ったワカメを売ったり、山の竹を

伐って植木鉢替わりにして花を植えて売ったり、残った布でエプロンを作って売ったりしましたが、最終的には

狭い旅館の部屋でも仮設住宅でも作業ができて、材料が新聞紙を糊だけで作れる新聞バッグを作ることになり、

高知県四万十町にある四万十新聞バッグに作り方を教えてもらうことにしました。四万十新聞バッグは通常は

四万十以外で教えるということはしていないのですが、事情を話して一生懸命にお願いしました。

その時に最初に電話に出て親切に対応してくれたのが、これから皆さんに新聞バッグの作り方を教える

インストラクターの黒田みゆきさんです。黒田さんはその後宮城まで新聞バッグを教えに来てくれ、またその後

お仕事の切り替わり時期に、東北を助けるために宮城に来てくれました。今ではこの岩出山に住んでいます。

 

四万十新聞バッグの教えを受け、販売してもよいという許可をもらって、新聞バッグを作るチームの名前を

「海の手山の手ネットワーク」とし、南三陸、石巻、南相馬、岩出山の人たちが一緒にになって新聞バッグ作りを

スタートさせました。

最初の2年間はお金がなくてほんとうに大変でしたが、周りの方たちの応援で1年1年どうにか切り抜け、それ

から5年半という月日が経ちました。そしてふと気づくと、私たちは最初には想像もしなかったような様々な分野

で活躍されるたくさんの方々とお知り合いになっていました。

今ここにおられるJTBの方もそうですが、いろいろな学校の先生や生徒、大小の銀行や企業、キズナプロジェクトで

日本に来られた外国の人々など、九州から北海道まで、本当に震災がなかったら決してお会いすることはなかった

だろう方々との出会いがありました。

全ては新聞バッグが運んでくれた出会いです。私は毎日お餅を作って道の駅でお餅を売っているお餅屋ですが、

お餅屋だけだったらこんなにたくさんの方々とお知り合いになるなんで、決してあり得ません。

今日みなさんとお会いできるのも、そして今10000枚の注文を頂いて1年半近くかかって毎月北海道のロイズと

いうチョコレートの会社にロイズ新聞バッグを送り続けているのもロイズの社長と新聞バッグの出会いがあったからです。

北海道の富良野に住まわれている脚本家の倉本聰さんにも同じように新聞バッグを知って頂いて、そのご縁で

今年の春はこの岩出山の小さな文化会館で「屋根」という舞台を上演することができて、岩出山や古川やその他の

町の方々にも喜んで頂きました。

 

初めて沿岸部の津波の様子を知った時、もう「東北は終わりだ」と私たちは打ちのめされました。失ったものの

あまりの大きさにどう考えていいかもどうしたらいいのかもわからない。そんな時、今日は用事があって来て

いませんが、私たちのメンバーの高橋博之がいつも言ってました。

「ピンチはチャンス」だ。「ピンチはチャンスにしなければいけない」と。

その時には現実味のない言葉でしたが、今5年半経って、私たちは高橋が言っていたとおり、一歩一歩ピンチを

チャンスに変えることができてきたのだろう、と思います。

しかしながら、今日皆さんも南三陸でたくさんのことを見たり体験して来られたと思いますが、まだ復興は道半ば

です。半分もいっていないのかもしれません。10年も20年もかかる大仕事です。

 

ここから話は変わります。

こらから作る新聞バッグについて皆さんに知っていただきたいこと、そしてお願いがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンチはチャンス①

大震災後、3回目になる明治大学付属中学校高等学校東北研修での新聞バッグ体験。

来てくれている生徒たちは同じではないと思うのですが、中にはリピーターになって2回目という子供たち

もいるのだそうです。

教えるのはいつも同じ海山メンバー、メインインストラクターに黒田さん、サブに上條さん。

いつもなら必ず同席する生徒たちの先輩、明治大学で学んだよっちゃんは今日は仙台の市でなんばんを売って

いるので欠席。私はお話係りとお手伝いという役割になってます。

 

今回体験講座の前に1時間という時間を頂いて、災害のことや海の手山の手ネットワークの始まりや歩みなど

お話することになっていますが、私にとっては一人で中学校、高校生の前で1時間もお話するのは初体験。

生徒たちから見ると私は先生よりも年長のおばあちゃん、私から見ると中学生や高校生は普段から最も

接する機会がない年頃の孫に話しかけるようなもので、実に戸惑います。

 

でも、こうなった以上は、自分の言葉で孫に思うことを伝えるようなつもりで、この2、3日ノートとペンを持って

うろうろしながら考えた「ピンチはチャンス」というお話を聞いてもらうことにしました。

眠いだろうけれど、居眠りしてても話し通します。

 

[ピンチはチャンス」

まずはご挨拶。

ここから始まります。

今日は何かお話を、ということなので、311の大震災以来起こった様々なことを皆さんにお伝えしたいと思います。

私は東北の生まれ育ちではなく、15年前に田舎で暮したくて千葉県からこの宮城県岩出山に移り住みました。

生まれて初めて田舎に住んだので、田舎のことはなんにも分からなくて、この岩出山の方々からたくさんのことを

教えてもらいました。

 

引っ越してきて3年くらいして大きな地震がありました。地面には広い範囲に亀裂が入り、近くの山が崩れて下に

あった小学校の教室に土砂が流れこみました。その時私は岩出山の町の中の病院にいたのですが、屋上の貯水

タンクから水が噴出し、地震が終った後、病院の洗面所のコンクリートの洗面台が全部崩れ落ちて壁に水道の

蛇口だけがくっついて残っているのを見て、凄いところに来たもんだと驚愕しました。

それまで東京で震度3だの4だのの地震しか経験していなかったので、この時、こんな大きな地震が起こったら

その町にはその後数ヶ月、道の駅のお客さんや温泉の観光客は来なくなるのだと知りました。

 

そして次は2008年の6月の朝、今度は宮城内陸地震がありました。震度は6強で岩出山の隣町、栗原で大きな

被害が出ました。標高2000メーター近い栗駒山が大規模に崩落し、温泉が埋まり、亡くなった方もたくさんの負傷

者も出ました。今窓の外に見える広い駐車場が土砂崩れ現場の捜索を続ける自衛隊の交代場所で、私たち

道の駅の生産者は、毎日泥だらけのトラックや重機類、泥に汚れた自衛隊員の方たちを見て過ごしました。

岩出山で最も栗原に近い場所にある私のうちでも井戸のポンプが壊れたり、地面に亀裂が入るなどの大きな被害を

受けました。

この地震で私は初めて、大きな地震が起こったら、ものの1時間もしないうちにスーパーやコンビニからは水も食べ

ものもなくなって、空には自衛隊や報道のヘリコプターが飛びまわり、国道は自衛隊の災害トラックやその他の

車輌、サイレンを鳴らしながら走る救急車やドクターカーなどでいっぱいになって、テレビドラマでしか見たことが

ない戦場のような状況になるのだ、と知りました。

 

そして次が3年後の3月11日です。

その日私は古川のイオンモールの駐車場に車を駐めて、隣りのビル1階のパソコン教室にいました。

地震馴れしているので、揺れ始めてすぐ誰よりも早く真っ先に外に逃げ、飛び跳ねるような揺れのなかを、道路まで

這って街路樹にたどり着いてしがみついていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台風一過

昨日から台風7号接近中。

関東辺りで元気いっぱいの台風は大体東北に来るころには勢いが弱まって、直接大被害を受けることは

あまりない、というのが定石となっていたのですが、昨年秋の大雨被害を受けてから、台風に伴う

大雨がやたらに気にかかるようになってしまいました。

去年のような土砂崩れが起こったら、と思うだけで恐ろしい。上から流れてきた土砂で車が埋まるなんて

2度とごめん。

 

今朝は窓から降り続ける雨を眺めながら、昨夜搗いたお餅を道の駅に持って行く気にもならなくて、

心ならずもお休みに。

後でレジの人に聞いたら「普通にお客さんきたよー。土砂崩れが怖かったんでしょう~」

そうなんです。

でも雨が降る時間は短くて、大過なく台風は去り、午後には晴れて庭いっぱいに蝉しぐれ。

台風一過、白い薄い雲がたなびく夕焼けの空の美しいこと!心に残ります。

 

明日は明大付属中野中学、高等学校の生徒諸君が東北研修に来る日。新聞バッグを作ります。

その前に1時間のお話をすることになっているので、何を話そう、何を伝えよう、とノートとペンを持って

沈思黙考。うろうろうろうろ。一生懸命に考えたんだけれど自信ない。

ばーさんの説教くさい繰言のようにならないように、楽しく自分の言葉で話そうと思います。

 

夜、携帯の着信に1年ぶりに見る大阪のMさんの名前があるのに気づき、驚いてかけ直しました。

 

昨年は所属しているゴルフクラブの大会で、賞品として新聞バッグを使いたいとのお申し出で、

2百数十枚の新聞バッグのご注文を頂きましたが、なんと今年も去年と同様、賞品に新聞バッグをお使い

くださるとのご連絡でした。

そんなふうに覚えていてくださること自体がほんとうに有難いことで、心からの感謝をしつつお受けする

ことにしました。

11月にはある東京の中学校の3年生に300枚の新聞バッグを、暮れには会社の社員全員の誕生日の

プレゼント用にというご注文も受けています。

賞品に、誕生日のプレゼント用に、結婚式の引き出物用に、というご注文も時々ありますが、こんなふうに

糊と新聞紙だけで作った新聞バッグがさまざまな舞台で利用され、喜ばれるということが信じられない

ような気持ちになります。

私たちが何かをどうしたということではなく、新聞バッグ自体が一人立ちして愛嬌よく歩いているような。

 

昨年も忙しかったけれど、今年はさらに去年を上回るような忙しさの中で、何をどう動かそうかと廻らぬ

頭をめぐらせています。

8月の鳴子の森の中の喫茶、ライム。

ノートとペンを持って2時間ほど籠もらせてもらいました。

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「ちゃんと栄養とって」と出してもらったランチ。

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野菜いっぱいのひやし中華というのもありましたよ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真山の花火

今日はお盆の15日。第2次世界大戦が終った日。

 

朝のあ・ら・伊達な道の駅は、裏の駐車場まで車満杯。

店内もお客様がいっぱい。

どのお客様も家族連れでいかにもお盆、夏休みを楽しんでいる、という印象。

朝ついたお餅を籠に入れながら、そうだった。昔は私も生産者ではなくて、夏休みには山に登ったり、遠くの町

の道の駅嘆探訪などしていたなあ、と思い起こすと感慨深い。

今はそんな時間は全然なくて、お餅をついて道の駅に行って、お餅をついて道の駅に行ってを繰り返し、

今日辺りはへとへとで頭も痛く、さっきお薬のみました。

でも今日はお客様から

「お餅を作っている方ですか? 私はこのお餅が好きでどこで売っているのかと思ってました。

お餅を作られている限り私はお餅を買いに来ますので、お元気でお仕事続けてくださいね」

と言って頂いた。感謝です。

 

 

昨日の日曜日は近所の直売所当番で、1日花のおじさんを手伝って切花の花束作りをし、夕方は庭の木々に

絡まる蔓を鎌で刈りまくる作業をしたのが余分だった。

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今日もとりあえずはお盆なので、直売所は開けて店番しながら、18日木曜日の明大付属中野中学、高校の

新聞バッグ講習の準備をするつもり。

 

明大付属中野中、高等学校が夏に東北研修に来てくれるのは3度目です。

年々参加する生徒さんが減っていくなか、震災後5年半も経った東北の地に毎年継続して研修に来てくれる明大

付属中高校の校長先生、担当の先生、そしてJTBの担当営業のAさんに深い感謝を覚えます。

毎年来てくれる生徒さんは同じではないけれど、今年は大バッグに挑戦してもらうことにし、たくさんの英字

新聞の中からできるだけ素敵な柄の新聞紙を選び出しました。 男の子だから男の子に好まれる柄にしたいの

だけれど、なにせもらった新聞紙なのでなかなかそう都合よくいかないのがつらいところ・・・。

道具の準備が終ったら、講習の前にみなさんに伝えたい話の内容を考えます。

 

今夜は私が住む真山集落の夏まつり。

資金不足で花火をやめていく町が多いなかで、なんと真山集落では史上初めて打ち上げ花火をやる企画を立てた

のだそうです。岩出山町でも一番小さな集落なのに、たいしたもんだと私は思う。ほんとに立派。

打ち上げるのは大曲の花火大会で実績のある隣町高清水在住の花火師さんだそうで、是非見にいかなくちゃ。

 

ああ、それなのに、夕方直売所を閉る頃から無情の雨が・・・。

始めポツポツ、後ザアザア降りで、花火を見る、久しぶりにお友達に会えると、夏まつりを楽しみにしていた

孫も私もガックリ。でも小雨決行ということで、孫は父親と出かけて行きました。

と、ざあざあ雨音が響く午後8時過ぎ、ドーーン! バリバリバチバチバチ! 空を揺るがす花火の音が。

小さい予算なので僅か5分で聞こえなくなりました。

でも立派な音だった。行って見ればよかったー。

なんだか、どこの花火を見逃したよりもとても残念。ああ、行けばよかったなあ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成28年お盆/夏休み

昨年のお盆の直売所の花売り場を反省して、お盆前に花農家20数軒を廻った結果はいかに?

花はあるけど予約でいっぱいとか、農協まつりに出すとか、お盆に開花が間に合わないとか、

畑に花はあっても諸事情で道の駅には出せない場合もあると知って、10日から12日のいくら花があっても

足りない盆花販売のピーク時をどう切り抜けるか。

もう10年以上道の駅直売所の花卉部長を務めている身としては、正直なところ心配でした。

 

でもふたを開けてみれば、この状況!

反対側にもこれくらいあります!

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お客様にはまったく不自由のないくらいたくさんの菊やアスター、トルコキキョウなどのお盆の花が納品

されて大盛況!

ほんとによかった。やってよかった。 会社の部長や課長や従業員のみなさんも出荷組合に協力してくれて、

こんな売り場を作れたことはほんとに嬉しい。

大バケツの水を替えるのは大変だけど、今年道の駅直売所で花を買ってくださったお客様には是非、秋の

お彼岸にも来年のお盆にも来て頂けるようにさらに花の種類や量を充実させていきたいと思います。

直売所の外のお祭り広場では連日ペルーのオカルナ奏者の演奏が・・・。

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それにしてもお客様の花の買い方の凄いこと。最低3,4束、5束も普通。10束くらい抱えている人も多く、

つられて私も4束も購入。

夫が眠るお寺へ行って、きれいにお掃除を済ませてふんだんにお花を飾りました。

お寺から見下ろす夕方の陽射しを浴びた緑一面の田の稲の美しいこと。心に残ります。

 

8月も中盤に入り、トマト観察とか読書感想文とか宿題で忙しくなってきたうちの孫。

以前、よっちゃんちに行った時、喜んで跳びつく番犬チョビの爪が当たったので犬が怖くなった

と情けないことをいう孫に、犬の優しさ、素晴らしさを知らしめるため、地鶏の会の7匹の赤ちゃん

犬を訪ねることにしました。

「いいよ、いいよ」と遠慮する孫に、「犬も触れない男なんてかっこ悪い」と喝!

 

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10歳の高齢で7匹の子犬を産み疲れ果てたお母さん犬に代わって、ユウジ君(地鶏の会代表)に丹精こめて

育てられた生後1ヶ月のワンちゃんたちはお腹満腹で夕食後のお休みタイム。

あっちでごろごろこっちでごろごろ。

孫はへっぴり腰ながら抱っこさせてもらいました。

 

次いで1歳のお兄ちゃん犬「ハジメ」君にもご挨拶。

煮干を手に持って、ハジメ君の頭を撫でたり、背を撫でたり、お手、お替わりまで教えてもらいました。

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孫は犬が怖くなくなって、この次には赤ちゃん犬には犬ボーロ、ハジメ君にはビーフジャーキーのお土産を

持って再度ワンちゃんたちを訪ねるそうです。

 

夕方涼しくなって草刈り。

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これが最後ならいいんだけどなあ。

 

いい夏休みです。

昼間は暑いけれど、朝晩は窓を開けてると寒いほど。秋の訪れを感じます。

今年は忙しくて世界谷地のニッコウキスゲも伊豆沼の蓮も見に行けなかった。

残念!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

能古島

月曜日、たまたま用事があって立ち寄った古川のNPOの事務所で、丁度折りよくというかたまたま時間が

一緒になってお出でになった映画監督にお会いしました。

まだお若くて30代半ば。新進気鋭の映画監督でいらっしゃるらしく、今度新しく作られた映画が「グランプリ」

を獲得なさったとのこと。

映画の名前は「なつやすみの巨匠」

映画の舞台は福岡県福岡市の博多湾に浮かぶ小島、能古島(のこのしまと呼ぶ)。

福岡の西部育ちで子供の頃から常に眼前にノコ(そう呼び慣わしていた)を見つつ、百道の浜や姪浜の浜で

泳いで遊んで育った私は、能古島が舞台の映画と聞いて訝しい。「なんであんな島で?」

 

博多湾に浮かぶもうひとつの島、志賀島と較べれば地味で小さくて、子供の頃渡船で渡った時は、船から

誰かの背におんぶされて浜に下ろされた記憶があります。。今は立派なフェリーで10分くらいらしいけれど、

私が渡ったのはそれほど昔昔のこと。

あと能古島で知られているのは、「火宅の人」の作家、壇一雄が亡くなるまで住んだ島。

壇太郎や女優の壇ふみさんのお父さんで、私は「リツ子、その愛、その死」から読んで好きな作家でした。

 

そんなに小さな島なのに、監督さんは能古も福岡も大変気に入ったと、能古まで通うために西新に家を借りられた

とのこと。西新も私が育ったテリトリー。それから60年も経って、こんなに遠い宮城県で私が育った土地を舞台に

映画を作られた監督さんにたまたま出会うこの時間というかご縁を不思議なもんだなあと思います。

 

これから4回に渡って、高校生と一緒に映像ワークショップを行い、大崎の魅力あふれるコマーシャル映像を

作られるのかどうか。その辺りよく理解できていないけれど、見たことがない映像ワークショップに興味を惹かれて

翌日開かれる第一回目ワークショップを見せていただくことにしました。

 

 

翌火曜日。

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監督さんと俳優さんでもある助手の方と男女の高校生10人ほどがテーブルを囲み、監督さんがスクリーン

に映し出した映像を見ながら、高校生たちが心に浮かぶ大崎の場所、食べ物、人、を思い浮かべ、紙に書く。

書いたものを貼り出して全員で見られるようにする。

 

その紙の中身を読んで、その意外さに私はうーーーむと言葉を失ってしまう。

そうかと、納得できるようなモノ、コトはあるにせよ、私が魅力的だと思うような場所は、地元大崎の高校生

たちの目にはそんなふうに写っていないのだとわかりました。

これは結構ショック。よそ者の私から見れば、ここは魅力的だと思えるモノ、コトが、実は大崎内部の人に

とっては普通。逆に私から見ると特別魅力的と思えないモノ、コトが大崎の高校生にとっては自慢できる

モノ、コトだと感じているということだから。

 

ワークショップ後は岩出山にご案内しました。地震倒壊の修復が終った有備館、若き日の伊達政宗が住んだ

岩出山城のお城跡、あ・ら・伊達な道の駅、緑深い真山を廻って凛菜上の家。

上の家に来るのは、営業最終日、「屋根」の役者さんたちのお昼ご飯以来です。

別れ際、監督さんから「なつやすみの巨匠」のDVDを頂戴しました。

全編博多弁の映画、観るのが楽しみです。

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夕日を浴びて立つくつろぎ姿の伊達正宗公像。

しーんと静かな凛菜上の家。

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福岡の人に福岡の魅力を聞いたら、いろいろ並べ立てても、まず、能古島なんて答えは返ってこないだろうから、

監督が能古島に惹かれたのと、私が大崎の誰も自慢しないようなところに惹かれるのも同じようなことなの

かもしれない。

この映像のワークショップを4回続けた後、どんな大崎のコマーシャルが出来あがるのか楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

串揚げ/懇親会/直売当番/道の駅掃除

6日、土曜日は道の駅夏祭りで出荷組合で出店。3時くらいから盆踊りが始まる夕方まで。

他の出店もある中で、何を売るかと相談して、生産者の採れたて野菜を串揚げにして売る、ということで決定

しました。

出荷組合理事及び助っ人一同、昼12時にはには道の駅裏手の地区公民館台所に集合して調理開始。

持ち寄った野菜を切ったり、小麦粉、パン粉をまぶしたり男性群女性群入れ混じって串揚げ準備で大奮闘。

 

嬉しかったのは、先日の農業女子体験ツアーに参加された仙台のUさんが、お手伝いに来てくれたこと。

お会いしたのはこの間が最初だったのに、エプロン持参で準備が終るまでバッチリ手伝ってくれました。

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午後3時、串揚げ販売が始まってから、終ったら電話をくれるという約束で、借りた自転車で岩出山町の散策に。

6時過ぎに迎えに言ったら、本当に楽しかったそうです。

 

たくさん作った串揚げの材料のわりには、あれ?というくらいに、土曜日の盆踊り会場としては少ないお客様。

どうしたんだろうねえ。仙台七夕に行っちゃったかな、と言いながらも、よっちゃん始め全員で[串揚げ、串揚げ」と

呼ばわり、串揚げ宣伝に励んだ結果、8割がた売り上げました。

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初めての夏祭り出店で初めての串揚げ。不慣れな舞台で上出来の仕事ぶりだったと思います。

みなさーん、ご苦労さま。

残った野菜をみんなで分けて、仙台から来てくれたUさんにも分けて喜んでもらってイベント終了。

 

 

明けて日曜日は、早朝から町中総出の草刈りデー。

都会もんで年寄りの体力不足で軟弱ものの私は早朝からの草刈りは免除して頂いてます。が、その後に続く

年に一度の部落懇親会には出席するべくビール持参で会場へうかがいました。。

炙られるような日差しの下、どんなに暑いかと恐れていたテントの中は風が吹き通って心地よく、意外にも

小さな子供が3人もいるのにびっくり。いやあ、減るばかりだと思っていた人口なのに、上は小学校3年生から

来年小1、そしてまだ未入園の幼い男の子まで懇親会で出会えるなんてなんと嬉しいことでしょう。

ならばうちの孫もといったん家に戻り、孫を連れて再び参上。

 

ビールやお酒を飲みながら、普段は顔を会わせることが稀な部落の方と普段話せないいろいろな出来事を

話せて、楽しい時間でした。

 

この後は日曜日なので、約束の直売所の店当番。

暑いので売れるのはアイスばかりで、アイスクリーム販売直売所と名を変えたいくらい。

そうだ、週末蕎麦屋のハガさんが頼んでいた販売台の上に置くテーブルを作り上げて持ってきてくれました。

さすが、家具職人。テーブルはつるつるのピカピカ。大工さんの仕事仕様ではなく出来上がりは家具仕様で

値段を聞くのが怖ーい。ついついの馴れで見積もりを貰わなかったことを今になって後悔。

新聞バッグ売ってワークショップやって取り返すしかないでしょう。

 

3時で終了。

でもこれで終わりではなく、この後、6時から道の駅の直売所の掃除があるの。

すっかり忘れているところに、直売担当課長からの電話で「忘れてるでしょ?」

忘れてました。

5時半、箒と雑巾を持って道の駅に。

これから盆花の販売になるので、入り口も花売り台も水で洗ってきれいさっぱりとして終了しました。

これでお盆を迎えられます。

 

みなさん、お疲れさまでした。私も大変くたびれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石巻へ

ついに本格的夏がやってきて毎日暑っつーい!

冷房を使わないので毎日家の中でうだるように暑いうえに、これ、なんなの?というくらいに怒涛のように

連日忙しい日々。早く終わってほしい。

金曜日は、友人が誘ってくれたので、思い立って娘、孫も一緒に、以前から名前だけは聞いていた石巻の

川の上、百俵館へ。途中、大河、北上川に沿った道を走ります。

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北上川はほんとうに大きい。湖がそのまま河になったような・・・。

これまでの転勤生活で、小倉の徳力川、神戸の夙川、大阪で淀川、名古屋で揖斐川、千葉で江戸川、荒川、

利根川と、何故か川が近くにあるところで暮したけれど、北上川はピカ一、傍近くで見るとその水量の多さに

背筋がぞくぞくするような、見たいけど見たくないような大きな川。

とは言いながら川沿いを走る時は、川の風景の美しさと怖いもの見たさのような感覚で目が離せなません。

 

久しぶりに道の駅「上品の郷」に寄って昼食。

ここは温泉がある道の駅なので車がいっぱい。

温泉好きな人というのは、こんなに暑くっても温泉に入りたいのかしら。

ここのレストランでご飯を食べるのは初めてですが、食事のシステムがあ・ら・伊達な道の駅と同じバイキング

スタイル。へえー、知らなんだわ。仕切りのついた白いお皿までも同じもの。

でメニューの数は、というと、うーーん、ここは多い。お寿司、梅ご飯とご飯の種類も充実。 飲み物は

単品オーダーではなくセットで頼めて便利いい。スイーツは充実していて楽しめる。

車が多い割りにはゆっくりできて、気が着けばしゃべって食べて1時間半。

 

川の上、百俵館は本来静かに本を読むべき図書館を「笑ってしゃべって楽しんでもいいよ」との趣旨で開かれた

蔵書3000冊の図書館。昔の家を利用した木造の建物の中の素敵な喫茶店でお茶を飲みながら話し、本も

読めるという新しい趣向の空間になってます。

 

明日は道の駅の盆踊り大会。

出荷組合ではテントを立てて生産者の採りたて野菜を串揚げにして販売する予定。

そのための串だのペーパーだのパン粉などを購入して帰宅。

暑い1日でした。