始まりはチョコだった。

古川からの帰り道、緑の田んぼがあまりにもきれいだったものだから、「私はなんと美しい町に住んでいるんだろう」と感動してパチリ。でもこれを近所の人に言ったら「フツー」と言われるんだろうなあ。

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きのうは海山始めた時の仲間3人でご飯を食べながら話をしました。

大震災の時から3年ちょっと経って、もう忘れてしまっていたけど、海山新聞バッグを始めるきっかけは、チョコだったんだよー。

と言ったら、「えーー? あーーあ、そうだったねえ、そうだった、そうだった」と二人。
一人はよっちゃん、もう一人は最初に沿岸部の人たちと梅の花見をした梅農場の3代目。開拓農家の3代目だから作っている枝豆の名前も「3代目」です。

12年ほど前にこの町に道の駅がオープンしましたが、その前年に私は千葉からこの町に移住し、時を同じくしてよっちゃんは東京からUターン。道の駅オープン時の最初の会合の時に3人は顔を合わせ、以後時はずれますが、3人とも出荷組合の役員を務めることになりました。

大震災後はガソリンない水ない電気ないの毎日で、家族全員すすけた顔をして余震に怯えながら、自分の家周りのことしか解らない日々。8日も過ぎてやっと電気が回復して、それからしばらく経ってからのこと。

うちの道の駅には北海道のロイズチョコレートのお店があります。そのロイズチョコレートが北海道から支援品として大量のチョコレートを運んできてくれました。そのチョコレートを沿岸部の避難所まで届けるためによっちゃんたち男性役員一行は初めて沿岸の津波被災地に入りました。

沿岸部はどんな状況なのか。電気がなくて大震災時の様子を断片的にしか知らない私は、固唾をのむような気持ちでよっちゃんたちの帰りを待ちました。でも帰ってきても全く連絡なし。電話をしても出ない。3日間もの無言。

それから暫くして「何かをしよう。でも自分たちが行って現場の手伝いをするということではないと思う」と
いろいろいろいろ相談しました。そうこうするうちに寒さも和らぎ、4月半ばになって梅の蕾が膨らみ始め
その頃から「梅の花見に来てもらいたい」と3代目が沿岸部の人たちの避難先の鳴子温泉の旅館に日参し始めたのでした。

そして4月21日、200人以上の避難者の方たちが、梅農場にきてくれました。
なつかしい写真。
ここには、みなさんにお餅をついて食べてもらう、と鉢巻をした夫の姿もあります。

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「で、あの時の話を聞いてないんだけど、実はどうだったの?チョコレートは配れたの?」

「いやあ、そんな状況じゃなかった。少しだけは配ったよ。後は配れなかった。」

で?

やっぱり最初に沿岸部入りした日の話は、スムーズには出てこない。もう聞くのはやめよう。

でもこの「梅見の会」から海の手ネットワークは始まりました。

その元々の始まりはチョコだったのです。

 

 

 

 

 

南三陸へ

朝から台風一過の(といっても雨はそこそこ降って、風は少し)晴天。超暑そう。

土曜日はお餅仕事が少々忙しくなるので、ゆっくり仕事をこなして午後から南三陸へ。畠山さんのおじいさんにお別れに行きます。

うちから瀬峰という小さな町を通って、佐沼という地震で目茶目茶にやられたちょっと大きい町を過ぎて、最後に大きな大きな河、北上河に行き当たります。北上川の堤防を走り大きな橋を渡って米谷という町に出ます。道に沿った路地入り口に立つ「原田甲斐宗輔の墓」と大書した立て看板が気になって仕方がないのだけれど、車が止めづらいので行ったことがない。ほんとに伊達騒動の原田甲斐のお墓なんだろうか。

米谷を過ぎると山道に入り、越えると南三陸に入ります。南三陸元(今も)志津川の町は赤い土の盛り土
(高さ10.?メートルと道から見えるように札に書いてある)だらけで、色合いがエジプトのよう。

午後3時を過ぎてからけいこさんちに到着。
何時行ってもわんわんわんわん食いつかんばかりに吠えっぱなしの黒犬マックは、今日も鎖を引きちぎらん
ばかりに吠え立てていて、普通の日と何も変わらないんだけど、おばあさんのお顔は一回り小さくなってました。

お互い後家さんになりました。
お父さんやお兄ちゃんたちはいなくて、おばあさん、娘二人、孫娘の女ばかりで、おじいさんがいかに亡くなるまでちゃんと生きていたか、という話をしました。おじいさんはほんとに優しかった。と私が自分の感想を言うと、「孫や子供を叱ることがなかった。優しくて気働きがあって町の人から信頼されていた」
と全員が口を揃えました。

そんないい男と結婚したおばあさんは、いつ見るときもおじいさんとお雛様のように横並びに座っていて
いかにも、何時も何する時も一緒という感じでした。しばらくは「いない」という喪失感がおばあさんの胸を
いっぱいにするでしょう。
帰りに、これまでよそ者は近づいてはいけないように感じていた海の近くまで行ってみました。

回復途上の小さな港には船が浮かんでいました。

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そして来るときには必ず寄る防災庁舎へ。

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お地蔵様の前に飾られた小さな心尽くし。

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明日日曜日が納骨だそうです。

津波で流されたお寺は仮設のお寺だそう。檀家さんの生活が大変な今、お寺の再建は困難が多いだろう けれどそれでもあってよかった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわかれ

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私が大好きだった南三陸けいこさんちのおじいさんが亡くなられました。

けいこさんちまで出来上がった新聞バッグを回収に行ってから、まだ1ヶ月経っていない。

その時けいこさんは仙台に行ってお留守で、お留守番のおじいさんとおばあさんが二人で手伝ってくれました。

終わって、上がってお茶飲んでいけ、と誘って頂くままにお座敷に上がらせてもらって、3人でお茶っこのみをしました。

その時おじいさんは「足が病んで寝られないんだ」と言ってました。「シップ貼ってもよくならない時は、病院に遠慮しなくてもいいんだから痛み止め飲んでね。」と言って帰ってきましたが、病気が足に及んでいるのではないか、と心配でした。なんとなく、なんとなくですが、写真を撮ったほうがいいような気がして、じっとしてじっとして、とおばあさんに並んでもらって写真を撮りました。

 

おじいさんとおばあさんとは、大震災後鳴子温泉の菅原旅館に避難されている時に、新聞バッグを折るようになったけいこさんに会いに行くようになって知り合いました。

もともと海の仕事をされてたのだから優しいばかりではないのだと思うけれど、私たちがうかがう時はいつも
おばあさんと横並びに座っておられて一対のお雛様のよう。穏やかで優しい方でした。

鳴子温泉での避難の時期が終わって仮設住宅に移られる前夜には、よっちゃん、みっちゃん、私も伺って
旅館の広間で一緒にご飯を食べました。親切にして頂いた菅原旅館の大広間に積み上げた新聞や新聞バッグをみんなで片付けて車に積み込み、翌日南三陸に運びました。

狭い狭い仮設住宅での暮らしは、ずいぶんご不自由だったと思います。その後、ご親戚のお宅に移られてから、わかめの養殖仕事が始まり、よっちゃんは船に乗せてもらったり、私は海辺の作業小屋で、家族総出のわかめの作業を見せて頂いたりしました。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、みんな円になって並んでの仕事で、海の仕事はこうしてみんなで一緒にやるんだ、と感心しました。

 

おじいさんの体調が悪くなったのは、たぶん今年になってから、なのかなあ。

入院されていると聞いたので、孫を連れて会いに行きました。

たぶん抗がん剤の治療中だったのだ、と思いますが、意気はしっかりとして「せっかく拾った命だ。90歳まで
死ぬわけにはいかない。だからこうやってちゃんとご飯を食べて毎日リハビリしてるんだよ」と元気ぶりを見せてくれました。

ご親戚の方が病室に入って来られた時、私のことを「鳴子温泉に避難していた時からの知り合いで、お互い
世話になったり世話したりだー」と紹介してくれました。片側通行じゃなくて、私たちのこともお世話してくださっていたんだなあ、と思ってとても嬉しかった。

 

南三陸に行く度におじいさんとおばあさんにお会いするのが楽しみでしたが、寂しくなりました。
大震災がなければ一生お会いすることはなかっただろう方々です。本当にお会いできてよかった。
けいこさんご一家とお知り合いになれて、海のことをたくさん知りました。海の産物をたくさん食べさせて頂きました。本当にお世話になりました。「おじいさん、もう足痛くないよねえー」と思うと少しホッとします。

 

お葬式には間に合わなかったので、明日は南三陸に行きます。
お線香をあげてお礼とお別れを言ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩画集 「風立ちぬ」 

今日は、古川で旅行会社の方々への新聞バッグ講座。

うかがってみると、酒田からいらしたそうです。人員構成は全員一箇所からみえたのではなくて、東京とか

各地から仙台に集合して、酒田へ。そして新聞バッグ講座が夕方終わると松島へ行かれるそうで、旅行

会社の社員さんがたが、東北一円を回っておられる途上だということが解りました。

松島はきれいなtころだけれど、台風の影響でざあざあ降りの雨がねー・・・・・。台風は直撃ということは

まずないだろうとは思いますが、でもせっかく見えているのだから良いお天気になることを祈ります。

 

時間があまりないということで、小さいバッグ作りということになりました。

講師はあやさん。よっちゃんは発熱でダウンしているので、アシスタントは私一人でがんばっていきます。

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JTBさんの研修のときも思ったけれど、圧倒的に男性が多い。なんでなんだろう。

旅行の企画立案って女性にも向く仕事だと思うんですけどねえ。

そして私は今回も思います。やっぱり全般的に大人でも不器用!男性はなおさら。

小さい頃からカッターとかナイフとか危ないから使わないのでしょうが、でも私はちょっとこれは

問題じゃないか、という気がします。入社試験で頭の良し悪しばかり問わないで、手で何か作るという

試験を考えたらいいんじゃないのかなあ。だったら必然的に練習するでしょ?携帯のボタン押すことに

速くったって、手捌き指捌きの実用にはならないものね。ちなみに私は携帯のボタンを動かすのは

もの凄く、人に見られたくないくらい遅いです。

 

終わって、今作らなければならないアウトドア用炭入れ新聞バッグの相談にBBQインストラクターの

アツシさんが経営している喫茶ウラバタケに向かいます。「行く、行く、私も行く」とあやさんと娘のakariちゃん

も一緒。コーヒーとレモンケーキだのを頂きながらアツシさんのお話を聞きました。

七輪で火を熾すなら経験あるけど、BBQで炭を入れる新聞バッグなんぞはさっぱり、という私もお話聞くうち

に徐々にイメージが膨らんできて、次の日曜日のBBQ大会に試作新聞バッグを持って行って頂けること

になりました。

 

そして帰宅したらこんな素敵なものが・・・・・・!

お友達といったらおこがましいけど、震災後にお友達になった、版画家の岡澤加代子さんの手による詩画集

「風立ちぬ」が送られて来てました。堀 辰雄の詩集「風立ちぬ」をもとに加代子さんが彫った木口版画に

挿絵のように詩が彩られた詩画集。始める、と聞いてからだいぶ時間が経っているように思います。

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風たちぬ

いざ生きめやも

若い時分に読んだ詩集が、こんなかたちで目の前に現われるなんて、ほんとに生きていれば驚かされる

ことばかりなんだなあ、としみじみ思います・

大事にします。お友達が作った私の自慢だ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとだけ夫の思い出(コンピューターの歴史のこと)

今海山でお世話になっている㈱みどり会さんについて、PCでその成り立ちを見ていたら、旧三和銀行からUFJ銀行になってその後今の三菱東京UFJになってと進んでいく歴史の中に、懐かしい名前を発見しました。

大昔の会社の同僚。同僚といってもこちらは女の事務職で、あちらは男性の営業マン。その頃はコンピューターのプログラミングをするシステムエンジニアだったかもしれないです。

管理職付きの私の机の前に、新入社員3名の机が並んでいました。その中の一人。

若かった時代はその仕事ぶりは見ていたけれど、転勤、転勤でみな散りじりになってから、こんな仕事を
していたんだ、とその無事を喜ぶと共にとても懐かしい気持ちになります。

 

そんなことからズルズルと「私のコンピューター開発史」と題された文章にたどり着きました。
日本のコンピューターの始まり、1963年くらいからが大型コンピューター開発の時代です。
そこを経て小型コンピューターが世に出て、今のようになった、その始まりの時代。

「日本のコンピューター産業の歴史はアメリカのコンピューターメーカーIBMと国産メーカーとの熾烈な闘いの歴史である」
という文章が目に止まったとたん、なんだかしらんけれども涙が止まらなくなった。

彼も私の夫も、その熾烈な闘いを闘いぬいたアメリカ側の企業戦士でした。企業戦士という」言葉がその頃
流行りましたが、まさ夜昼なく働き続ける企業の戦士だったのだと思います。戦ってるんだから。
こちらはその頃エレファント(巨像)と呼ばれた単体で、相手はモスキート(蚊)と呼ばれた日本のコンピューターメーカー数社の複合体。

夫はアメリカ側で日本と闘ってましたが、その心の中心は「コンピューターが進化することは日本のためになる」と言ってました。

その頃会社にいたどの顔を思い浮かべても、日々起こった様々な出来事を思い起こしても、すべては日本のメーカーとの闘いの場。3年ほどの期間であの都市この都市と移り住む私たち家族もまた、時代の先端を
進む日本のコンピュータ産業の歴史とともに歩んだ年月だったと思います。

今振り返ると懐かしい思い出だけれど、実に大変だった。子供たちにも大変迷惑をかけました。
「お父さん、ほんと大変だったよね。」と生きていれば言いたい。笑いながら。

50歳の始めから退職するまでは子会社の経営者側にいました。                           その後は田舎に住んで「お米の加工をする」と言い、お餅の生産者になりました。集落の人の仲間に入って集落の仕事もし、亡くなる10日前までお餅をついていました。

個人よりも社会人であることを重要視し、夫が常々私に言っていたことは、「年金を当てにするよりも先に、高齢者でも働けるものは働かなければならない。これまでの経済優先社会では国は豊かにはならない。
人手による産業、職場を取り戻さなければならない。今の状況では腕前も腕利きも日本の言葉からなくなる」等々、亡くなる直前まで、ベッドで車の中でよく話してくれました。それもこれもきっと日本の高度成長期のど真ん中を生きた夫の歴史から、見えた言葉だったのでしょう。

亡くなる前には「会社での仕事は楽しかったなあ」と述懐していたところをみると、夫なりの充実した人生だったのだと思います。

 

㈱みどり会さんからこんなことを思い出すとは思わなかった。
興味に駆られて、他の名前も検索してみると、闘いを通り抜けて今も無事、という名前をいくつか見つけました。病気をした人も会社を辞めた人も家族崩壊した人もたくさんいたから素直に嬉しい。

コンピューター化はこんなこともできるのですから、やっぱりいい人生を歩んだんだよ。お父さんは・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盛岡へ

フリー刺繍家天野寛子先生の個展を見るために岩手県の盛岡へ行ってきました。

東北自動車道で1時間40分。孫連れで黒田さんと私の二人運転です。

黒田さんは初めて。私は数度目の盛岡訪問ですが、盛岡はジャジャメンとか盛岡冷麺とかの名物の

食べ物も多いけれど、町全体が花と文学と歴史に彩られた美しい町です。

今は身体がしんどくなってお休み中ですが、花の栽培を仕事にしていた私にとって、町の中心部に

置かれ吊り下げられ花壇を埋め尽くす花々の管理がどのようになされているのか、実に興味深くて

町の人に「どうしたらこんなことができるのですか」と聞きたい気持ちになります。

中心部の花々。

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天野先生の展示は萬久ギャラリーで行われていました。今年3月に陸前高田の奥まった仮設住宅の

集会所で見せて頂いてからまだ3ヶ月。この3ヶ月の間に福島の第一発電所全体を俯瞰した刺繍画が

また一枚できあがっていました。

東関東大震災の報道写真を針と糸で刺繍に縫い取ってしまう。それだけでもこういう仕事をなさるのは

日本中で天野先生ただ一人ではないか、と思えるほどの稀有な刺繍画なのに、その絵柄を見て先生の心

に浮かんだ先生の言葉までが針と糸で文字に縫い取られています。そしてその色の鮮やかなこと。

あの悲惨な報道写真が先生の頭の中に入ると、どうしてこんなに鮮やかな色に変わるのか、と

驚かされます。

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昨日土曜日は100人ほどもお客様が見えたそうです。先生の展示は毎回毎回身に来る人の数を増やして

いる気がします。

しっとりと落ち着い佇まいのギャラリーでした。

用意されたお菓子をもくもく食べることに専念している孫。

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せっかく来たのだから北上川沿いの材木町にある光源社へ。

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注文の多い料理店出版の地と刻んであります。

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まだまだ見たい、歩きたい、感じたい、ところが盛岡の町にはたくさん。

もうちょっと寒くなかったら住みたいなあと思う町なんですが、盛岡は寒い!!

だから春や夏がこんなにきれいなんでしょうね。

天野先生の展示は11月に高知で行われるそうです。新聞バッグinニューヨークプロジェクトの団長梅原真

先生ゆかりの県立美術館において。

Oh! ご縁を感じます。

天野先生、大変なご活躍なので、お体を大事にして臨んで頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

手紙

先日東京へ行った時にお知り合いになった校長先生からお手紙をいただきました。

校長先生が事務局長をなさっている「南三陸スマイルアゲインプロジェクト」のご案内を頂きました。

「南三陸を笑顔にする活動を10年続けよう」を目的に、南三陸町の保育園・幼稚園、志津川高等学校、

登米市南方や南三陸町の仮設住宅などで笑顔になってもらおう活動を続けておられます。

私は先生がたててくださるお抹茶と、どこかひょうひょうとなさった先生の楽しいお話を伺うことも

目的に入れて、時間のある時の参加をさせて頂きます。

 

しばらくして今度は小包とお手紙。

小包にはまとまった数のスポーツ新聞が入ってました。このスポーツ新聞紙で数パターン、資料を入れる

新聞バッグを作ってくれないだろうかと・・・。嬉しいお手紙が入ってました。

先日の「みどり会」の演奏会で東京でそのようなお話を聞いていたのですが、さっそく送ってくださったので

す。役立つかどうかはデザインし、実際に折ってみる私たちの気持ちにかかっています。

この新聞バッグが、いろいろな形で使われる場面を想定しながら、今日からあーでもない、こーでもない、と考えます。

 

そして夜になって今度は遠いヨーロッパのマルタからメールでの便りがきました。

送ってくれたのはmichikoちゃん。娘の義妹です。

春に里帰りして来た時にだんなさまのトーマス君ともども新聞バッグ講習をして3ヶ月。マルタ在住の

日本人の方にも教えてねえ、と頼んでおいたのですが。

なんと、テレビでやっている「世界の日本人妻は見た!」というバラエティ番組の通訳をしたそうで、放送日

のお知らせと、バラエティ番組だからマルタがヘンなふうに撮られてないか心配だ、と書かれていました。

私はmichikoちゃんと話していると、日本にいるよりもよほど地道な地に足が着いた暮らしぶりを感じます。

海外で暮らすということは、短い時間で人を成長させるのかな、とも思います。のほほんとしていられないよね。

 

そうだ、自分で撮った写真も送ってくれました。青いブーゲンビリア。人手の工作をせずに咲いた天然

自然の薄青色のブーゲンビリアなのだったら、やはり石灰質の地中海の島の土質によるものなのか。

不思議な色です。

それからローズマリー。これも自然のものでしょう。それから海。マルタの海の色はものすごく深い青。

やっぱ行きたいなあ。と自分の飛行機嫌いを忘れて憧れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

温泉と新聞バッグ

毎日毎日たくさんのコトが起こって過ぎてゆきます。そのスピードの速いこと。

普通の生活だったらそうではないのだろうけど、ここは被災地という特殊性が故に、やらなければならない

ことも多く、考えなければならないことも多く、ほんとどんどん記録しないと忘れそう。

 

被災地といったって、内陸にいる私たちは家は壊れたけれど無くなっていないし、仕事をする場所もなくして

ません。でも影響がないかというと、たくさんの影響を受けている。

 

10年ほど前、地域共有の畑に植えたブルーベリーが実り始めました。今日千葉の子供に送ったサクランボ

(近所のIさんが10年がかりで作った赤い宝石のようにきれいな甘いサクランボです)も、これから秋にかけ

て熟していく夏ハゼも、食べごろになり始めたブルーベリーも全て実なりのものは、放射能検査を受けなけ

ればなりません。ワラビやコゴミなどの特定の山菜の天然のものは、この先何十年待ったら食べられるのか

わからない。

今この近辺の里山は採らないワラビやコゴミ、タラノメなどの山菜が山ほど育っていると思いますよ。

山を宅地化した我が家の敷地は元々がワラビ山だったようで、住んで10年経ったらワラビだらけ、土筆だら

け、たらの木だらけの山返りの途上のようで、バラも芝生もあきらめました。

でもいくらあったって食べるわけにも売るわけにもいかないのです。放射能検査を通過しなければ。

 

というようなことを言うと、野菜もそうか、と誤解されたら困るんだけど、野菜はそうではありません。

検査をした結果大丈夫なんです。不思議だね。

福島のだってそうですよ。しっかり検査されているから大丈夫なの。

 

この夏から温泉で新聞バッグという企画があり、仙台の奥座敷、秋保温泉の旅館岩沼屋さんに打ち合わせ

のために伺いました。鳴子温泉の近くに住んでいるので、秋保温泉は他の用事で行くだけで旅館に

泊まったことはないのですが、岩沼屋さんは落ち着いたクラシックな雰囲気の素敵な旅館でした。

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広いロビー、大きな書棚、窓近くに置かれたグランドピアノ、アップライトピアノ、そしてハープ。

ここではどういうことが行われているのかなあ、と想像が膨らみます。もしかして音楽のコンサート?

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ここで新聞バッグ作りと、温泉と美味しい食事と、香り高いコーヒーと、お庭の散策と、お土産とが楽しめる

1日コースの企画を立てる打ち合わせをしたのですが、とても楽しかった。お客様がどんなふうに喜んで

くださるかと想像しながら、ああでもないこうでもないとアイデアを出す作業がこんなに楽しいものだとは

知りませんでした。

 

この旅館には「おかみの畑」という畑があり、この日の収穫野菜を知らせる看板がロビーにありました。

取り立て新鮮なおかみの畑の野菜を使ったお料理が出されるのでしょうね。

そしてこれから大きくなって花を咲かせるだろうハーブ畑の散策も楽しそう。

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おかみの畑の写真を撮るよっちゃん。広くて楽しみの多いお庭です。奥にはおいしくて人気抜群のピザ屋

さんもありましたよ。

 

戻って周りのおばさん友人たちに「行ってきたよ」と伝えたら、口々に「行く、行く、行くー!」

 

東京の友人たちは旅行に、今の暮らしの友人たちは、畑や田んぼやご飯作りなどの日常の生活から

離れた時間を楽しむために、「行く、行く、行くー!」なのだと思います。

遠く離れたふるさと福岡や長く暮らした首都圏から友人たちが来るたびに、まず被災が大きかった

沿岸部へ案内して、南三陸さんさん商店街で食事と買い物をしてもらうと、後行くところがなくて

どこに行こう、と思ったものでしたが、これでまた楽しんでもらうところができました。

 

温泉×新聞バッグ。ちょっと珍しい組み合わせ。温泉がその企画を受けてくれる柔軟さがまた

面白いなあ、と思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

S君のこと、熊のこと

毎週日曜日の朝は、近所に住む新聞バッグインストラクターの黒田さんがお餅仕事の手伝いをしに来て

くれます。海山の仕事以外に自分の本業がある黒田さんと私は、この時間が大事な情報交換の場。

何があっただとか、今度講習をやるだとか、そんな話をするのですが、その中で、

先日の海老名の中学校の修学旅行で新聞バッグの講習をやったS君から、ブログにコメントがきたよ、

その後メールでやりとりして、「楽しかった。またいつか行きます」と言ってくれてたよ、と報告したら、

「そうですってねえ!そういうの、ほんと嬉しいですよねえ!たった一人でもそういうこと言ってくれたら、

やった甲斐ありますよねえ!」と私と同じことを言って喜びました。

 

このことについて少し書いておこうと思います。

修学旅行で新聞バッグという話をJTBの方から伺ったのは、大震災の翌年の夏でした。

よっちゃんと二人でお話を聞きました。

JTB教育事業部、つまり修学旅行担当の方からのお話だったのだけれど、その頃お金が得られる仕事

として新聞バッグを作っていた私たちには今ひとつ意図が読み取れなかった。その後もJTBさんのお話を

何度か聞くことがあり、その年東北で行われたJTBさんの社員研修では私たちの新聞バッグ講習も体験し

ていただきました。その年は小バッグを作り、その翌年に行われた社員研修では、私たち海山も本気ムード

になって、どうせなら営業仕事に使ってほしいと、大バッグを作ってもらいました。

そして一昨年、修学旅行で新聞バッグをやってみようか、と企画を立てられている先生とお会いする機会

を得ました。その時には新聞バッグ作りの説明をし、その翌年、夏休みを利用して東北視察の途中で

寄ってくださった先生方数人にはドイツ語新聞紙で大きいバッグ作りに挑戦して頂きました。

修学旅行で子供たちに体験させるのだったら、まず自分たち大人も作ってみたらどうでしょう。それで

楽しかったらきっと子供たちも楽しいでしょうから。

 

そんなふうに思っての提案でしたが、先生方は全員とても素敵な大バッグを作られ、「楽しかった!」

と言っていただきました。

そして今年がやってきて、6月に修学旅行の本番講習でした。

「楽しかった」と言ってもらえるかどうかの勝負どころでした。

 

総勢200人という数に圧倒されて、道具のこと、講習のこと、気がかりなことが多く、決して満足の

行く出来ではありませんでした。それから暫くして、その中の一人S君から「ありがとう、楽しかった、いい思

い出になります」と言っもらえるなんて想像もしていなかったので、ほんとうに嬉しかった。

 

これまでたくさん講習をしてきた中で、ブログにコメントをくれたり、メールをくれたりする人はいません。

S君は200名の中のたった一人、もしかすると1000人に一人、2000人に一人なのかもしれません。

その自分の思いを発信しようとする行動力、文章から読み取れる考え方の正しさ、そして自分の思いを

きちんと伝えられる文章力、に感心しました。どの力も人との関係を現実に築く力だから。

いまどきの中学生はどんなふうなのかな、と思っていたけど、とても心強かった。

 

S君はいつか大人になったらまた会いに来てくれるそうです。その頃までには東北がもっともっと元気に

なっていたらいいのですが・・・。

 

そして別の話。

きのうのよっちゃんのブログにもあったけど、熊、クマ、仔熊。

ついにうちの前にも熊出没の立て札が・・・。

ここに越してきた時、駐在のセーノさんが「ここは熊出るけど、ここの熊はいいクマだ。悪さはしない」と

言ったけど、やっぱり小熊がいるとそうはいかないからねえ。

熊のコッコ(子供)が多いみたいで今年の夏は用注意です。

 

 

 

 

 

 

 

鳴子温泉食楽市

6月22日

前日東京から帰ってその後お餅仕事。翌日曜日はちょっと多目のお餅仕事。

さすがに疲労気味なんですが、よっちゃん夫妻も新聞バッグ大量発送の後は、休む間もなく鳴子峡で開催

される食楽市に参加している、というので孫連れで黒田さんに運転してもらって鳴子峡へ。

紅葉の名所、鳴子峡は今は緑が美しい季節です。

場所が広いので並んだテントが小さく見える。

 

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だいぶ顔見知りが増えてきたお店の中に「オリガミ」の看板を見つけました。

オリガミだって。何作るんだろう。仕事を終えてやってきたあやさん、黒田さん、私の新聞バッグ組は

好奇心に駆られてオリガミテントへ。

かわいらしい箸袋でした。

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紙を折る、という作業をみると、なんとなく手を出したくなります。

DSCF1840着物の襟のように紙を2枚重ねにして箸袋を折ってしまったあやさんの手技に、お店の人が「あらあ、

気がつかなかった! 素敵ねえ」と感心しています。

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のんびりした午後。

バルーンで刀を作ってチャンバラしながら帰りました。

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