ちょっとだけ夫の思い出(コンピューターの歴史のこと)

今海山でお世話になっている㈱みどり会さんについて、PCでその成り立ちを見ていたら、旧三和銀行からUFJ銀行になってその後今の三菱東京UFJになってと進んでいく歴史の中に、懐かしい名前を発見しました。

大昔の会社の同僚。同僚といってもこちらは女の事務職で、あちらは男性の営業マン。その頃はコンピューターのプログラミングをするシステムエンジニアだったかもしれないです。

管理職付きの私の机の前に、新入社員3名の机が並んでいました。その中の一人。

若かった時代はその仕事ぶりは見ていたけれど、転勤、転勤でみな散りじりになってから、こんな仕事を
していたんだ、とその無事を喜ぶと共にとても懐かしい気持ちになります。

 

そんなことからズルズルと「私のコンピューター開発史」と題された文章にたどり着きました。
日本のコンピューターの始まり、1963年くらいからが大型コンピューター開発の時代です。
そこを経て小型コンピューターが世に出て、今のようになった、その始まりの時代。

「日本のコンピューター産業の歴史はアメリカのコンピューターメーカーIBMと国産メーカーとの熾烈な闘いの歴史である」
という文章が目に止まったとたん、なんだかしらんけれども涙が止まらなくなった。

彼も私の夫も、その熾烈な闘いを闘いぬいたアメリカ側の企業戦士でした。企業戦士という」言葉がその頃
流行りましたが、まさ夜昼なく働き続ける企業の戦士だったのだと思います。戦ってるんだから。
こちらはその頃エレファント(巨像)と呼ばれた単体で、相手はモスキート(蚊)と呼ばれた日本のコンピューターメーカー数社の複合体。

夫はアメリカ側で日本と闘ってましたが、その心の中心は「コンピューターが進化することは日本のためになる」と言ってました。

その頃会社にいたどの顔を思い浮かべても、日々起こった様々な出来事を思い起こしても、すべては日本のメーカーとの闘いの場。3年ほどの期間であの都市この都市と移り住む私たち家族もまた、時代の先端を
進む日本のコンピュータ産業の歴史とともに歩んだ年月だったと思います。

今振り返ると懐かしい思い出だけれど、実に大変だった。子供たちにも大変迷惑をかけました。
「お父さん、ほんと大変だったよね。」と生きていれば言いたい。笑いながら。

50歳の始めから退職するまでは子会社の経営者側にいました。                           その後は田舎に住んで「お米の加工をする」と言い、お餅の生産者になりました。集落の人の仲間に入って集落の仕事もし、亡くなる10日前までお餅をついていました。

個人よりも社会人であることを重要視し、夫が常々私に言っていたことは、「年金を当てにするよりも先に、高齢者でも働けるものは働かなければならない。これまでの経済優先社会では国は豊かにはならない。
人手による産業、職場を取り戻さなければならない。今の状況では腕前も腕利きも日本の言葉からなくなる」等々、亡くなる直前まで、ベッドで車の中でよく話してくれました。それもこれもきっと日本の高度成長期のど真ん中を生きた夫の歴史から、見えた言葉だったのでしょう。

亡くなる前には「会社での仕事は楽しかったなあ」と述懐していたところをみると、夫なりの充実した人生だったのだと思います。

 

㈱みどり会さんからこんなことを思い出すとは思わなかった。
興味に駆られて、他の名前も検索してみると、闘いを通り抜けて今も無事、という名前をいくつか見つけました。病気をした人も会社を辞めた人も家族崩壊した人もたくさんいたから素直に嬉しい。

コンピューター化はこんなこともできるのですから、やっぱりいい人生を歩んだんだよ。お父さんは・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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