おわかれ

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私が大好きだった南三陸けいこさんちのおじいさんが亡くなられました。

けいこさんちまで出来上がった新聞バッグを回収に行ってから、まだ1ヶ月経っていない。

その時けいこさんは仙台に行ってお留守で、お留守番のおじいさんとおばあさんが二人で手伝ってくれました。

終わって、上がってお茶飲んでいけ、と誘って頂くままにお座敷に上がらせてもらって、3人でお茶っこのみをしました。

その時おじいさんは「足が病んで寝られないんだ」と言ってました。「シップ貼ってもよくならない時は、病院に遠慮しなくてもいいんだから痛み止め飲んでね。」と言って帰ってきましたが、病気が足に及んでいるのではないか、と心配でした。なんとなく、なんとなくですが、写真を撮ったほうがいいような気がして、じっとしてじっとして、とおばあさんに並んでもらって写真を撮りました。

 

おじいさんとおばあさんとは、大震災後鳴子温泉の菅原旅館に避難されている時に、新聞バッグを折るようになったけいこさんに会いに行くようになって知り合いました。

もともと海の仕事をされてたのだから優しいばかりではないのだと思うけれど、私たちがうかがう時はいつも
おばあさんと横並びに座っておられて一対のお雛様のよう。穏やかで優しい方でした。

鳴子温泉での避難の時期が終わって仮設住宅に移られる前夜には、よっちゃん、みっちゃん、私も伺って
旅館の広間で一緒にご飯を食べました。親切にして頂いた菅原旅館の大広間に積み上げた新聞や新聞バッグをみんなで片付けて車に積み込み、翌日南三陸に運びました。

狭い狭い仮設住宅での暮らしは、ずいぶんご不自由だったと思います。その後、ご親戚のお宅に移られてから、わかめの養殖仕事が始まり、よっちゃんは船に乗せてもらったり、私は海辺の作業小屋で、家族総出のわかめの作業を見せて頂いたりしました。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、みんな円になって並んでの仕事で、海の仕事はこうしてみんなで一緒にやるんだ、と感心しました。

 

おじいさんの体調が悪くなったのは、たぶん今年になってから、なのかなあ。

入院されていると聞いたので、孫を連れて会いに行きました。

たぶん抗がん剤の治療中だったのだ、と思いますが、意気はしっかりとして「せっかく拾った命だ。90歳まで
死ぬわけにはいかない。だからこうやってちゃんとご飯を食べて毎日リハビリしてるんだよ」と元気ぶりを見せてくれました。

ご親戚の方が病室に入って来られた時、私のことを「鳴子温泉に避難していた時からの知り合いで、お互い
世話になったり世話したりだー」と紹介してくれました。片側通行じゃなくて、私たちのこともお世話してくださっていたんだなあ、と思ってとても嬉しかった。

 

南三陸に行く度におじいさんとおばあさんにお会いするのが楽しみでしたが、寂しくなりました。
大震災がなければ一生お会いすることはなかっただろう方々です。本当にお会いできてよかった。
けいこさんご一家とお知り合いになれて、海のことをたくさん知りました。海の産物をたくさん食べさせて頂きました。本当にお世話になりました。「おじいさん、もう足痛くないよねえー」と思うと少しホッとします。

 

お葬式には間に合わなかったので、明日は南三陸に行きます。
お線香をあげてお礼とお別れを言ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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