支援について

今朝の便で黒田さんは福岡に向けて出発しました。

今頃はレンタカーで九州の大幹線道路の3号線を熊本に向けてひた走っていると思います。

災害派遣の車や支援品を運ぶ車で国道は混みあっていると思うけど、もう熊本に着いたかな。でも一昨日大分を

出て今日我が家に到着予定の荷物も未だきません。だから、そう簡単なもんじゃないのかもしれない。

 

こんなことは書きたくないし、言葉にするのもためらわれるけれど、義捐金について思うことがあります。

東北に対してもたくさんの義捐金を頂いて本当に助かったし、心から感謝しています。

でも義捐金は、義捐金を出してくれた人に対して、ある程度行き先とか使い道とかを示せないものでしょうか。

言い方を変えると逆に義捐金を出した人は、ある程度お金の行く先とか遣い道とかを確かめられないもので

しょうか。

 

大震災からだいぶ時間が経った頃、たくさんの方々にお会いする機会が多い新聞バッグ作りチームの私たち

は、東北以外の土地で、「私たちが出した義捐金はどこに行ったの? たくさん払ったのよ」と質問されることが

多くありました。

時間が経って、保険金だの災害にまつわる保証金だのお金が支払われるようになると、「私たちは義捐金を

出したのに被災者はなんでパチンコなんかで遊んでるの?」などという批判も何度も受けました。

私たちがやっていることはたかだか新聞バッグ作りなので、たいそうな金額の義捐金の行方なんぞは知りません。

市の金庫か県の金庫に眠っているのかなあーと。市だの県だのが「公平」という安全を手にするまで。

 

新聞紙バッグを作るためにたくさんの企業や学校や個人の方から新聞紙を、送料負担とか送料は負担しないとか

で送って頂けるようになりましたが、それでも時には送ってくださった古新聞に対してのお礼が遅い。そんなに

いい加減な団体なのか、と強いお叱りを受けたこともあります。

 

新聞バッグづくりを専門にしている団体なら、担当者を置いて失礼のない対応ができるかもしれないけれども

自分たちも被災者で仕事をおろそかにできない立場での新聞バッグつくりでは、なかなか充分な対応に至らず、

古川のNPOに事務方をお願いした時期もありました。それもお金が続かずに止めて、以来失礼を承知で不義理

を重ねてきています。

 

義捐金を出してくださる方々にこちらの事情を理解して頂くのはとても難しい。

災害後、すぐにでも動いくださるお気持ちはとても尊いし、有難いのだけれども、せめてもお金がどこにいくのか、

それは知ってて頂きたい。もしくは行く先も遣い道も分からなくてよい、と思い定めていただくとか。

勝手な言い分だと思われるでしょうが、東北の時のあのお金はどこに行ったんだ?と不信感を持たれるのはとても

心苦しい。東北への義捐金の不透明さで熊本に迷惑をかける気がします。

 

せっかくのお気持ちが台無しにならないように、お金の行く先を示すか、確かめるか、時間が経ってからでも

いいので情報の開示を求めてほしい。

大震災から5年たっての反省として、そんなことを思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宿題

夜、外は雨。

熊本も降っているのかなあ。

明日、海山女子部の黒田さんは、お母さんと猫を迎えに熊本に向かいます。とりあえず、飛行機で福岡まで飛んで

それからレンタカーを借りて熊本まで。ご心配くださったみなさまへのご報告です。

とんでもない事態になりませんように。とにかくこのまま静まってほしい。

 

60歳でここ岩出山に来るまで、東京の企業で働くサラリーマンの妻業をしてました。そのため名刺など全く縁が

なかった。それが大震災後海山が始まってから、名刺を持つようになり、頂いた名刺は膨大な数。

震災が起こってから後、それだけ多くの方にお会いし、お世話になったということです。

 

新聞バッグ作りは、最初は「仕事がしたい」との沿岸の方々の声に応えようと、小さな仕事を作り出す手段として

始めたものですが、夫から「古新聞を加工してラーメン一杯食べられるなんて凄いことだぞ」と言われて、そうか、

そういうことかと納得しました。が、実際に作り始めてみると、ラーメン一杯の価値だけではなく、仮設暮らしの

生活のリズムができるとか、人と出会い話しをするきっかけになるとか、お金だけではない価値があることに

気づいてきました。

 

今回熊本に大地震が起こってから、自分たちがどれほどの方々お世話になったのかを振り返っています。

最初に東京で新聞バッグの販売を(新聞バッグだけではなくて急遽作り出した竹盆栽だの、南三陸のわかめだの

売れるものは片端から売りました〉受け入れてくださったよっちゃんの盟友、自然食品のガイヤさん。

初めから現在まで新聞バッグとよっちゃんなんばんを注文し続けてくださっている東京、恵比寿のギャラリー

「まぁる」さん。大震災の翌々年、津波被災をした南三陸のおのでら菊作りの師匠が、ようやく作った数千本の菊

を市場をなくして売りあぐねている時に、全てを買ってくださった滋賀県の化粧品会社、ウルズの角川社長。

その後もご自分の会社や提携会社に紹介してくださって膨大な数の新聞バッグを作りました。今でも毎年クリスマス

用の新聞バッグを注文していただいています。

四万十ドラマも高知銀行さんもUFJ銀行の企業グループ緑会さんも私の母校、福岡の筑紫女学園の同窓生たちも

仙台銀行さんも・・・・。こんなふうにお名前をあげるときりがないほどたくさんの方にお世話になっています。

 

今私が考えるのは、ご恩返し、じゃないんだなあ。

「支援」言い換えると「一過性ではない応援」というのはこんなふうにするのですよ、と教えられ学ばせてもらったのだ

、と思うのです。

この5年間で私たちが見てきた東北の復興の姿は、そこに住むものが望んだかたちではなく、いろいろな意味での

外からの力で作用された姿のような気がして違和感を覚えることが多くあります。

 

鳴子温泉に住むあやさんから教えられて、今日は川渡温泉で開店した食事の店、キッチン菜の花でお昼を食べました。

キッチン菜の花は川渡温泉の共同浴場のすぐ近く、荒尾川の橋を渡ってすぐのところ。今荒尾川の堤防は桜

満開、河川敷の菜の花も満開でピンクと黄色に染まっています。週末には菜の花祭りが催されます。

キッチン菜の花で、あやさんと「私たちがしてもらったことを九州にも伝えよう」と話し合いました。

おかしいのはさすが海山。応援、支援となると頭に浮かぶのは新聞紙とか新聞紙で作るものだとか。経験から

照らし合わせて他のものが思い浮かびません。

あやさん曰「新聞紙を送ろうか?」

 

新聞紙はあらゆる面で役には立つと思うけれど、送られたほうも困惑するかもしれないので却下。

これから数ヶ月かけて、自分たちがしてもらったことをどのように九州に伝えていくのか考えます。

大きな宿題です。