4年目のはじまり

2011年の311から丸3年経って思うこと、いろいろあります。

4月の末頃に外国で使う新聞バッグ、できるかな、と問い合わせがきました。できれば地元の新聞で、と。

地元の新聞って、3年目の311に近いここ1ヶ月ほどの新聞の記事は、とてもじゃないけど嬉しい、楽しい

ような記事はほとんど書いてない。3年たって、被災した方たちが大人も子供も老人も、その仕事や生活

状況の中で、どのような困難の中にあるかということを書いた記事が一番多い。

それでいいんだろうか、と問うと、問い合わせてくれた人は暫し返事を口ごもりました。

 

3月11日になるまでの新聞記事や、特にテレビの番組は、沿岸部の方についても福島の方々についても、

その生活の困難さは推察はしていたけれども、やはりあまりにも気の毒なことが多くて、私は見る度に

涙しました。私だけかと思っていたら、みっちゃんも「私も泣けます」と言っていた。

 

いつも一緒に活動して、素晴らしい新聞バッグを作ってくれているあやさんは、原発事故の12日に福島

を離れてこちらに根を下ろしたから、決して楽ではないけどどうにか生活していけているのだと思います。
自分だけ離れてきた、という負い目から逃れられない、とはよくあやさんが言う言葉です。

 

でももしまとまった形で辺鄙な場所の仮設住宅などに入っていたら、動きづらくなっていたかもしれない。

どんな場所に仮住まいしたところで3年経てば、赤ちゃんは3歳になり、3歳は6歳になって、慣れ親しんだ

生活の形ができる。、特に子供だったら、生活環境は簡単には変えられなくなる。

 

福島から遠く離れた山形に妻子を置き、自分は単身福島で住み込み仕事で働くお父さんがしみじみと

言ってました。「生活再建がこんなに困難なこととは思わなかった。だったらもっと前に、もう自分が

住んでいたところには戻れないんだ、とはっきり言ってくれていたら、戻らない生活を始めることができた

と思う」と。

小さい子供さんが二人いて、二重生活の深間に入り込んでしまったら、ほんとに動きようがないだろうなあ、

と気の毒でなりませんでした。

 

最初の頃、よっちゃんや私がいつも言っていたように、1年毎に復興するのではなくて、1年毎に大変な

ことになっていく。そのとおりの3年目です。

 

福島から他所の土地に避難中のお母さんが目に涙をいっぱいためて言ってました。

「3年も経って支援品を頂くなんてとても心苦しいです。よくないことだと思います。でもどうしてもやって

いけなくて支援品を頂いています」

なんで、何にも悪いことをしていないこんな普通のお母さんが、こんな情ない悲しい恥ずかしい思いを

しなきゃならないのか。何にもできない私はお母さんと一緒に涙するのみです。

 

今日12日はNHKで石巻の大規模仮設住宅を3年間記録し続けてきたその変転を特集していました。

はっきりわかるのは生活がますます逼迫してきている、ということ。預金10万円以下の人が35パーセント

以上ということで、私は相変わらず、うーーーーむ、とうなるしかなかった。

でも仮設住宅で暮らす方々に思いを寄せながら真面目に取材をするアナウンサーの姿勢に共感を

覚えます。

 

そして片やほぼ同じ時間帯の民放では、「収入格差!お金バラエティピラミッド」と称して、芸能人だか

タレントだかタレントまがいの別職業の人物だかが、それぞれに自分の年収を披露するという番組を

やっていたけれど、どういう神経なんだかねえ、とほんとに分からない。番組を放送する民放局の姿勢

も含めて。

 

料理人のジローラモ氏の年収が1億だかで、買った買い物が2600万のフェラーリとか。わざわざ見た番組

ではないけれど、昨日、東北で、日本中で、世界の国を繋いで、311の犠牲者への追悼をしたばかり

なんだよ。

 

こういう人たちばかりではないことはよく解っています。南三陸に行った時、東京の演出家の誰それそれ

さんからお客様に配るティッシュ入れの注文を頂いた、と海山仲間から聞きました。「だれ、だれ?」と

聞いても「忘れた」とその時は誰方からの発注かわからなかったけれども、後で有名な演出家の方だと

知りました。

昨日書いたSMAPだけではなく、被災地の生活再建を応援し続けてくださる著名な方がいくらも

いらっしゃることは、よく知っています。

 

そして4年目の始まり。年月に区切りがあるわけではなく、なーんにも変わりはしないのですが、でも3年

経った今ある困難が新しい1年で少しでもよくなるように、努力していきたいなあ、と思っています。