8日間電気はつきませんでした。

早朝、誰か起きてくるのを待って、勝手口の外から中を見て「ご飯チョーダイ」と喚くシロ。
子猫の時も顔が怖かったけど今も怖い。このお茶碗の猫エサをカラスが食べます。
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話は前に戻りますが、先日、修学旅行での新聞バッグ体験について、関東圏の某高校の校長先生と学年主任の 先生にお会いした時のこと。

同行のJTBさんとは前にお話ししたことがあって、その時は宮城の私たちにわかる範囲での今の状況をお知らせ  するという形でしたが、今回は校長先生のほうからご質問がありました。

いろいろなご質問がありましたが、その冒頭で「311の大震災の時はどうしていたか」と訊かれ、「津波のことは
8日間、何も知りませんでした」とお答えしたら、大変びっくりされた。それは学年主任の先生も同じだったらしく、
真から驚いた表情で、「それはどうしてですか?」と訊かれて、その驚きぶりにこっちが驚きました。

どうして?って、電気も電話もなかったから。
電気がなくて、電話は通じず、ガソリンもなく水もなく、ただ近所の由美ちゃんが来て「これは長期戦になるよ。
灯油とガスを使うな」と言ったから、灯油もガスも使わないようにして、電気がない8日間、水を探すことと、
家にある食べ物を食べる以外は、何もせず、余震が続く中、いつでも逃げられるようにしてました。

「8日間も電気が来なかったんですか?」
たぶん8日間電気が来ない、というのが先生方にとっては、とても意外だったのではないかと思います。
日本中で息をのんで見ていた津波や地震の映像は、被災地で現場にいた当事者は、隣の町のことでも
知りようがなく、歩いていける範囲のことしか分らなかったです。

 

あの先生方の驚き。あれは何だったのか、と考えてみると、
私たちの今の生活は、ライフラインが断たれても、長くても3、4日我慢すれば電気くらいはつくだろうという
安心感の上に成り立っているのではないかと。そんなことを思いました。

電気がないのは少々長くても我慢ができないことではなく、灯は蝋燭を灯し、ご飯はストーブやハウス用の練炭  七輪でお鍋で炊きました。寒いのもなんとでもなる。

水のほうが電気よりよほど大変でした。湧水があるところの貰い水をまず最初に考えましたが、普段はきれいな  湧水が茶色に濁っているところが多かった。うちはボーリング井戸なので、発電機さえどこかから借りられれば水が出せる、と思ったのですが、隣町から発電機を持って水をもらいに来た人が試しても出ませんでした。
原因は水を上げるポンプが泥をかんで動かなくなっていたのです。そのポンプを被災地じゃないところから送って
もらうのもガソリンがないので、ああしたりこうしたりほんとに苦労でした。

 

これから先の大災害に対しての防災ということを考えると、実際に被害があった土地を訪れて見て聞いて検証して、防災訓練などにいかされたらいいのかもしれません。
そういえば、大震災の日、どうにかこうにか車を運転して帰ってきた私は、家の近くまで来て道路の損壊で
行き詰りました。どうやって帰ろうかしらと思いました。車を置きっ放すわけにもいかないし、進むも戻るもできない。 国体の時に作った道路はほとんどが使い物にならないほどに壊れて、根っこからの修復に2年近く要しました。

 

東京、大阪、福岡など大都市の町の構造を考えると、まず道路の確保にどれだけ時間がかかるんだろう、と思って
しまいます。
都会に住む子供たちには、とにかく逃げる。そして家族が集まる約束の場所を決めておくこと。どれだけ時間がかかってもたどり着くから、そこにいて、という場所を決めておいてほしいと言っています。

南三陸の菊の師匠のO氏はご主人と奥様が別の場所で被災して、やっと会えたのが1週間後だったそうです。

 

夕方、集落の花壇植栽担当のSTさんが花をとりにきました。

「こりゃあ、咲き過ぎ!」
花壇に植える花ではなくて、道沿いにある山栗の花
STさんが言ったけど、私もそう思います。

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天候異変、というか。花異変というか。
こんなに咲いても実にならないかもしれないですねえ。
実がついても緑色のイガのままポトポト落ちるとか。近頃めっきり純粋豊作というのがなくなりました。
残念ながら。