アウシュビッツ強制収容所の番組を見て

毎日暑いです!
眠たくても必ず5時に起きてすぐ畑に花を切りに行きますが、その時だけは涼しい、というか起きたばっかりだから
身体も楽、空気も爽やかで「やっぱ仕事は朝がいいね!」と思うのですが、だんだんトーンダウン。
また日が陰り始める4時から畑に行って菊やアスターを切り始めますが、昼間の暑さが残っていて、終わって帰ると
ヘロヘロです。あーーーー、雨、降って欲しい! 全然雨が降らない。

 

この頃戦後67年で、戦後とか戦時中とかのテレビ番組が多いですが、ドイツのアウシュビッツ強制収容所を
日本人のガイドが案内してくれるという番組を見ました。

奥の奥まで案内してくれて、すごいなあ、人間ここまでやれるのかと思う。私はまだ行ったことないけれど、これは
行った方がいいなあ、見るべきだなあ、と思う。私もうちの4歳も、大きくなったら。

 

髪の毛ばっかりの部屋。金髪が目立つ。あまりにもたくさんの髪の毛に衝撃を受けているところに髪の毛で作った
何層にも重なった絨毯が出て来て見るだけで言葉を失くす。次、子供のおもちゃの部屋。一人一人の子供が大切に
していただろうおもちゃやお人形の山。そして子供の靴の山。大きな大きな山。この靴の向こうには一人一人の子供がいるんだよなあ、と思ったとたん、ダメだ、涙する。

そこでふっとふたつのことが思い浮かんだというか考えたのです。

昨年、高知県の四万十ドラマから「新聞バッグコンクール」のお誘いがあった時、私たち海山ネットのメンバーは、
7月から新聞バッグを作り始めて10月ではさほどの自信はないのですが、置かれたシチュエイションがあまりにも
特異であることから、歴史的な新聞バッグを作って賞を貰うんだ、と張り切りました。

この機会に支援していただいた全国の皆様に感謝の心を表したいと、新聞バッグに詰めるメッセージは「感謝」として海の手メンバーの一人一人が自分で選んだ新聞を使って新聞バッグを作り、四万十に送りました。

 

そしてコンクールの日にはよっちゃん、奥さんのみっちゃん、そして私の3人で飛行機に乗って四万十に出向いたのです。コンクールは廃校になった美しい学校で行なわれていて、たくさんの新聞バッグが展示されてました。
震災関係の新聞バッグはひとつの部屋に集めて展示されていました。それができるまでの日々のことは、短いようでもいろいろな出来事を越えてのことだったので、ズラリと並んだ新聞バッグを見た時には「おう、やっとここまできましたね。みんながんばったねー」と思わず涙が出ました。

 

ところが、その後の懇親会で隣に座った人、後ろの人などから「あの教室に入れなかった」「見れなかった」「私たちを忘れないでと叫んでいるようだった」との声が。
びっくりしましたねえ。なんで? みんなで一生懸命作ったのだから見てくださいよ。教室に入ってくださいよ、と
思ったのですが、そこではたと被災地の中にいて、それが当たり前だと暮らしている私たちは被災地の悲惨が日常になってしまって麻痺しているんだ、と気づかされました。

アウシュビッツを見ていて、そうなんだ。悲惨の度合いは違うが同じようなことなんだなと思いました。

何かの技術者だったために、アウシュビッツで殺されずに生き残った人に「どんどん人が殺されていくことにどう思ったか」と尋ねたら、その答えは「慣れた」ということでした。

福島のこともそうです。自分たちに何の落ち度もないのに、、飯館村のように自分の家に帰るのに鉄条網で帰れないというような悲惨の中に取り残されて、それが生活だと慣れるしかなくて暮らしている人たちを、そうでない人達はどう理解するのか。逆に悲惨の中で暮らしている人たちも、悲惨がない暮らしがどんなものだったか想像が及ばなくなる。お互い自分の生活の範囲しか見えていないから。

東北に住む私たちが福島の向こうには国境線のように線がある、と感じてそんな話をよくしますが、そういうことなんだな。

 

それともうひとつ感じたこと。

いじめの問題は深刻だけど、日本の学校の修学旅行で韓国など連れて行かなくて、アウシュビッツとか原爆ドームとかに連れて行けばいい、と思いました。人が我を失くして行きすぎれば、こんなことまでやるんだ、と。
あの靴の山を見ればおもちゃの山を見れば、「人をいじめてはいけないよ」と百万言言うよりも、よほど感じるところが
あるでしょう。

平和はありがたいことだけど、長年の平和は、人を平和に慣れさせてしまう。
アウシュビッツの番組を見て、そんなことを考えた夜でした。