ミシンのこと

   よっちゃん農場のよっちゃんから、元オレンジページ編集長の山本洋子さんから

   応援のメールをいただいた、ととっても喜んで連絡があった。ちょっと見せてもらった

   らみんなで作った青竹盆栽が「希望の花」と書いて下さっていたので嬉しい!

    それと南三陸Oさんの手芸品を誉めてくださったのも嬉しかった。

    津波被災からまだあまり日も経たない4月の終わり頃、梅農場で催した梅見の会

   で菊の栽培をなさる方として初めてお会いしたのがOさんのご主人だった。梅見の会

   のお誘いで梅農場のSさんが鳴子温泉の各旅館を廻った際、この町にも花を作る人

   がいますよと、私を紹介したのだそうだ。そのご縁で私はこれまで手がけたことのな

   い菊の栽培を始めることになり、避難先のR温泉をお訪ねして奥様にもお会いする

   ことができた。明るくにこやかな奥様が「旅館の奥さんがくれた布でこんなものを

   作っているのよ」と見せてくれたのが手縫いのエプロン。そのデザインも旅館に

   いる7人の女性がみんなで一緒に手縫いでエプロンを作っているという事実にも

   いたく感動した私は、翌日からミシン探しに奔走した。奥様は縫製工場に勤めて

   いたので見よう見真似で縫製ができるのだそうだ。その腕で経済復興を始めて

   もらわなければならない。うちにも古ミシンがあった筈だが壊れていた。山の手

   Tも山の手Sも奥さんのミシンを持ち出してきたが両方壊れていた。そこで、

   「私、直せるよ」と言い出したのが山の手K。NPOが専門分野でいながら、ミシン

   修理ができるとはびっくりで、古川市内の穂波クリニックの夜の談話室で、仲間内

   の会話が弾む中、沈黙して3台のミシンに遅くまで向き合っていた彼女の姿は今

   も忘れられない。その後九州の友人からも送られてきたミシンも合わせて4台、

   避難所に届けた。

   0さんの奥様やそのお友達の方々が作った布製品やレース編みなど、ガイヤで

   お客様に買っていただき、そして山本洋子さんにも誉めていただいたことは

   とても嬉しく、もっとたくさんの小物、大物を作ってほしいと私も願うのだけれど、

   残念なことに布地がないのです。家も家財も流された南三陸に布地がないのは

   当然なのだけれど、避難所の近くで布地を買えるお店は見当たらない。

   不用の布地をお持ちの方、わけていただけませんか。端切れでもバラバラにして

   いい木綿のお洋服でもかまいません。ご連絡をお待ちします。

   r-sogi@ic-net.or.jp

   

   。

   

距離が遠い! 

   311の震災後、初めて東京に行ってきました。山の手メンバー3人、よっちゃん夫人

   海の手代表のミス南三陸Tさん、でガイヤ食品雑貨見本市に於いて、海の手

   山の手ネットの生産物を販売させていただきました。本来はよっちゃんなんばん

   出店予定に混ぜていただいてありがたく感謝しています。

   よっちゃんなんばんの南蛮だれ、梅農場の梅干し、山の手S(私)の玄米餅と蓬餅、

   地元新聞「河北新報」で作った手提げ袋(避難者の方々の製作。河北新報さんから

   はあまり悲惨ではない希望が見えるような記事を選びました、とたくさんの新聞をご

   提供いただいた)、そして南三陸のみんなで作った竹盆栽。南三陸で生き残った

   わかめ、R温泉の避難者のみなさんが作ってくれた布の小物、南三陸から送られ    

   てきたレース編みや腕カバー。残った布地だから色は選べない。以上が販売した

   品々です。

   この見本市出店でいろいろなことが見えました。被災していない人たちに被災の

   現実を伝えることは本当に難しいということ。「買ってけらいん!食ってけらいん!」

   と気合の入った宮城弁で開店から閉店まで声を張り上げ、品物を売ってくれた

   Tさんは、津波で家を失くし、仕事を失くし、今は鳴子温泉の一室でおじいさん、

   おばあさんを含めて6人で暮らしているという現実があるのですが、それすら

   東京に出てくると非現実的で伝えにくい。

   改めてこの災害のとてつもない大きさ、傷の深さに想いを馳せながら、私たちが

   今やっていることの説明に終始した販売会でした。

   とても疲れたけれど、みんなの感想は、面白かった!!

   次にどこかで販売がやれるなら、今度はもっと工夫を重ねて被災地と非被災地の

   距離を縮められたら、と思います。

   お客様、ガイヤの皆様、そして応援してくださる皆様、ありがとうございました。

   

南三陸商品

    今日は、今週土曜日に東京でのガイアイベントに出品する南三陸商品を作る日。

  商品は4つあって、梅干しと「よっちゃんなんばん」という南蛮だれとおもちと南三陸の

  人たちが作った南三陸商品です。メンバー各自の商品と南三陸の人たちが作った

  商品を組み合わせるというのが主眼なので、N山荘からSさん、Sさんの奥さん、Nさん

  に来てもらう。この近辺にあるもので作りたい、ということで今日作るのは盆栽風植え

  込み。きのうのうちによっちゃん農場で青竹を切り出し、Sさんともう一人のSさんが

  きれいに洗い、節を底にして10cmほどの高さに鋸で切り、面取りをし、黴止めに柿渋

  を塗り、底に穴を空けるというけっこう面倒な作業で、目標の100個が間に合うのかし

  ら、と心配だったが、よっちゃんがんばってくれて、今朝は目標よりうんと多い数の

  青竹容器ができていた。

   ハウスの遮光した日陰に台を置いて4人で作業開始。

   材料は竹の容器に入るなるべく小さい植物たち。小さいツボサンゴ、アッツ桜、

   ヒメツルニチニチソウ、イブキジャコウソウ、タイム、ヤツシロソウ、ベンケイソウ、

   庭セキショウ、アルメリア、カッコウセンノウ、その他。植え込んだら土に苔を被せ

   て終了。見るからにかわいらしく、3人とも1個つくるごとに、かわいい、めんこい、

   我が子のようだと、自分の作品を誉めている。

   相変わらず海の人たちの流れ作業は的確で午後2時には130個の青竹盆栽

   が出来上がった。

   「東京へ行ってがんばってこい!」

   3人から何回もそう聞かされていた青竹盆栽が、東京で誰かの手に渡って、

   台所の出窓などに飾られたらうれしいなあ。

   仕事が終わって中山平温泉まで3人を送り、ついでに菊の先生であるO先生の

   避難先R温泉にうかがったら、お部屋にあげてくださった。南三陸にお住まいの

   時には、居間から海が見える絶景の場所にお宅があったのだが、R温泉では

   窓の真正面に鳴子の山々を臨み、眼下には鳴子峡の渓谷が見えるという絶景

   のお部屋。つくづく0さんは絶景のお住まいに縁がある方らしい。縫製が得意な

   奥様に何か商品をとお願いしたら、自分で縫ったエプロンを出してくださった。

   避難に来てすぐに作ったというエプロンはとても素敵で、南三陸商品というよりも

   自分が欲しくなったのだが、手縫い、と知って値段が付けられず帰ってきた。

                                 山の手S記

   

   

   

   

 

 

  

  

現状

   久しぶりに古川へ行った。住まいから最も近い市街地古川には地震の前には頻繁

   に行っていたのだけれど、3月11日に古川で地震に合ってから行きたくなくなってし

   まった。地震で傷だらけになった古川の町並みを見るのがつらいのだ。

   駅前にあるメインストリートの商店街は危険の赤紙が貼られたり、割れたり歪んだり

   している建物が多い。これまで住まわれていた方はどこに行かれたのだろう。

   そんな家がいくらもある。数を数えるなら危険の建物は何軒とか簡単に言えるが、

   その建物ひとつひとつに人の人生があったのだと思うと、言葉もない。

   津波も同じだ。今日の新聞では死者、行方不明者は2万4029人、避難者約11

   万人、と報道されている。数でいえばそうだが、一人一人の大切な人生がその

   瞬間まであったのだ、、と思うと胸が潰れそうになる。震災から2ヶ月経って、お店

   が開いていたり、壊れた建物に修理の手が入っていたりすると、一見元に戻り

   始めているかのように見えるのだが、実際に車を降りて歩いてみると、このビル

   もあのビルも舗道も、簡単には修復などできないくらい痛々しく壊れている。

   食品スーパーに入っても天井が無かったり、2階がなかったり、早々と閉まっていた

   りで、買い物をする意欲がなくなってくる。

    道の駅に来るお客様。イカリソウがないかと仰っていた。たくさん持っていたのだ

   けれど、海水を被って全滅したそうだ。そこにあった紅色のイカリソウを欲しい、と

   言われたが、もう水は入ってきませんかと伺うと、毎日2度家の中に海の水が

   入ってくるとのこと。それでは育てるのは難しいかもしれませんね、と諦めていただ

   いた。

   前からよくみえていたお客様。家がなくなって知り合いの小屋を借りて住んでいるが

   気が滅入るので、たくさん花を買って植えて気晴らししたいとのこと。20も30も

   植えたいと望まれたが、お水はあるのですか、とうかがうと、出ないと仰るので、

   20も30も枯れたらもっと気が滅入りませんか、と諦めていただいた。

   ご高齢の婦人がお孫さんと一緒に沿岸部の避難所から気晴らしに来られた。

   お孫さんのご両親は亡くなられて二人だけ助かったとのこと。避難所で寝るのは

   大変なので、この子はずっと車で寝ている、と仰るお顔はずいぶんお疲れの様子

   だった。鳴子に来ない?と訊いたら、転校はいやだと女の子は首を振った。

   市街地のこの先どうしたらいいかわからないような被災の姿、地盤沈下したうえ           

   に防波堤がないから道路から家の中まで海水に浸る現状、電化製品つきの仮設

   住宅ができても、買い物ひとつするのに、店がある町まで40分も1時間もかかる

   うえに、水が出ないという今の状況。

   考えていると思わず気が滅入ってくるのだが、イカリソウでも30でも40でもの季節

   の花を諦めていただかなくてもいい日が、そして女の子が車の中で寝ないでも

   よくなる日が一日でも早く来るように祈りたい。

   

   

東北支援隊がやってきた

  東北の被災地をいろいろなできる形で支援をしたい、と岩手、宮城と沿岸部を廻って

  来られた「たねの森」の方々が、海山ネットのメンバー山の手Tを訪ねてくださった。

  他のメンバー山の手SS、K,Sも参加して一緒に話をさせていただく。場所は梅農場の

  新緑濃い梅の大木の下。みんなで輪になって、山の手S(私)が摘んで一日陰干しして

  作った蓬のお茶を試飲したりしながら一人一人の想いを話す。

  海山ネットメンバー共通の想いはまず第1に、沿岸部の被災した方々に経済的な

  活動を始めてもらうことだが、家もお仕事もなくしてしまわれた方々が自分達だけで

  復興はできない。ならば内陸部の被災はあるが寝る場所も食べるものもある私達が

  手助けする。が、私達も被災しているので、できる形で東北以外の地の方々に

  助けていただく。そうしながら援助していただく部分を減らさなくてはならない。という

  ふうに考えているのだが、たねの森の方々はその私達の考えを解ってくださったよう

  だった。滞在可能な時間ぎりぎりまで、真剣に楽しくお話したその帰り際、もし今

  商品があるのなら予定しているイベントで販売しましょう、と言っていただいた。

   という事情で、梅干し、よっちゃんなんばん、切り餅を生産販売しているメンバー

  3人は急遽品物を用意して「たねの森」さんへ送ることになったのだが、梅干しや

  よっちゃんなんばんは全国ネットでの販売実績があり、また有名デパートなどでも

  販売している。ところが私は全くのど素人。切り餅の販売は6、7年続けてきている

  があくまで自分の目で見て手で触って安心して販売できる場所に於いてのことで、

  注文品を遠隔地に届けたことはあっても品物を卸した経験がない。

   行きがかり上、「はい」と返事はしたものの、ほんとに緊張した。日頃使ったことの

  ない真っ白の日本手拭いで頭を縛り、何もかもに熱湯をかけ、皮がむけるほど手を

  洗い、日頃なら1時間かそこらで仕上がるはずが、緊張のあまり間違えてばかりで

  5時間もかけて荷造りしたが、それでも不安だった。納品書や請求書の書き方も

  我流では自信がなく梅農場のSSさんに助けを求め、モデルをFAXしてもらって

  その通りに書いた。

  花の生産の仕事は20年もしているが、どこに何を頼まれても送ってもこれほどには

  緊張しない。食べ物を自分の目で見えないところで販売するというのは、これほど

  にも責任を感じることなのか、と初めて知った。素人商売はたくさん経験して勉強

  しなければプロにはなれないと、思い知らされた初体験だった。

  「たねの森」さま。ご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願い致します。

  遠いところをお越しいただいてありがとうございました。

  南三陸の方々、ホテルK屋の安部君、S旅館の女性5人組、「車もらったよー」と

  びっくりするようなことを大声で報告しながら、南三陸で仕入れた津波から生き残った

  わかめを持って来てくれたN山荘のSさん。みんなとても元気で梅農場でお仕事

  をしたり立ち寄ったりしている光景が梅農場にあったのもうれしいことでした。

  またいらしてください。      山の手S記

  

  

  

  

  

再びブラブラ作戦

   先日書いたブラブラ作戦。会議での提案はあえなく沈没。「私は出られないので

   提案してください」と山の手SSに頼んだのだが、男ばかりの会議の場ではブラブラの

   ブも「言えませんでした」と後で聞いた。

   その後のバックヤードでの男対女の対話。

   女1「男にとって切実じゃないから言えないんだよねえ。女にとってはね、絶対要る

      ものなのよ。どうしてかわかる?」

   男1「わからない。あれってサイズがいっぱいいるんでしょ。シャツのような感じで

      同じサイズで作ったらいいんじゃないの」

   女1「サイズ違ってたら役に立たないよ。昔はサラシ巻いて抑えてたんだから。

      胸大きい人は走れないよ。それにこれから夏になったらTシャツなんか着る

      んでしょ」

   男1「そうか、それで要るのか」

   女2「そんな問題じゃないの。ブラジャーしなかったらスースーして寒いの。

      ブラジャーだけでシャツ1、2枚分くらい暖かいの」

   男1「エーッ、そうなの!」

   女2「男の人がパンツはかなかったら寒いでしょ。スースーして。それと同じ。

      たったあれだけの布地で暖かいなんて知らなかったでしょ」

   女1「それに痛いよ。ブラジャーしなかったらシャツで擦れて。男の人は痛くないの」

   男1「痛いよ」

   女1「でしょ。だからブラジャーは絶対要るの。サイズ違いがたくさん必要なんだ

      から、組織で支援するのが一番いいと思うんだよねえ」

   アハアハと笑いながらの会話だけれど、今日のタイムズ支え合いコ-ナーの

   ブラジャーの必要数は80枚に近かった。

   それだけの下着をどこで買うんだろう、と思う。地震の前ならいくつかのイオン

   スーパーなどの大型ショッピングセンターで買えただろうけれど、震災後は

   半分の規模になっている店舗がいくつもある。80枚も揃わないだろう。

   ブラジャーにしろパンツにしろ、女性の下着は買うにも、各避難所で洗濯して

   干すにも女性たちは苦労されているに違いない。

   下着は衣食住の衣の生活の基本部分。どなたか支援される方がいないもの

   だろうか。

  

   

   

   

      

   

   

   

      

   

   

   

   

   

   

忘れないように。  3月11日からのこと(その1)

  3月11日、午後2時45分、私は古川のジャスコ駐車場に隣接する5階建てのビル

  1階のパソコン教室にいた。講座が終了して外へ出ようとした時にグラグラッと来た。

  忘れてはならないのはその3、4日前に同じ古川の知り合いの家にいた時に震度

  5の地震が起こったことだ。けっこう長い時間で家から外に出て様子を見たのだが、

  まさかこんな大きな地震が起こる前兆だとは、想像もしなかった。

  千葉県から移り住んで10年の間に大きな地震を4、5回経験した。音に慣れると

  いうか、揺れ方でわかるというのか、その揺れ方に尋常ではなさを感じたその瞬間、

  外に飛び出たが、その時にはもう歩けなかった。

  地面全体が横に大きく揺れる。世界が揺れる、身体から内臓まで振り回されるように

  揺れる。路面を這いながらできるだけ道路上に、ビルから離れたところまで進んだ。

  歩道と道路の境にある植え込みの木にしがみついて、後ろを振り返ると、ビル入り口

  階段のタイルにパリパリと亀裂が入り始め、ビルの土台と建物の間に横に亀裂が

  入ったかと思うと黒く口を開け始めたのが目に入った。

  ビルが崩れる、ビルが崩れる! 右へ左へと振り回されるような揺れは一向終わらず

  上を見上げると、3階、4階の人たちが通路に出て見下ろしていた。

  財布を中に置いてきたが、取りに入れない。どうにか入ってバッグとジャンパーを

  摑んで外に出、揺れが収まらない中をどうにか駐車場まで戻った。

  ピンポン玉のように弾む車に乗るのも一苦労だが、全身が震えて運転するどころ

  ではない。

  その頃になると広い駐車場の中に、近隣の住民が荷物を持って集まり始め、

  駐車している車も隣の車とできるだけ空間を空けて、ぶつからないように留め

  直した。家が気になる。電話をするが、固定電話も携帯電話も一瞬にして繋がら

  なくなった。

  歯の根が合わず、身体の震えが止まらない。生まれてこの方、こんなに震える

  ことは初めてだ。家に帰ろうと車を出したが、信号は止まり、車はぎっしり詰って

  身動きならない。信号がなくても危険が少ないであろう帰り道を必死で考える。

  広い道は信号なしで曲がれそうにないので、できるだけ狭い道を帰ることにする。

  余震での衝突を避けるため、できるだけ前後の車と車間をとりたいが、ゆっくり

  進むと、ガラスが割れたり、傾いたりしている家々が倒れかかりそうで怖い。

  それにしても家々の壊れ方がはんぱではない。

  ふと思いついてラジオをつけると、仙台の被災の様子が伝えられていた。そこで

  私は初めて、この地震がこれまでのように限定された狭い地域の地震ではない

  と気付かされたのだった。

 

  

  

  

ブラブラ作戦

 私が出荷している道の駅では、出荷組合の全員が売上から少しお金を出し合って、

沿岸部から近隣の町に避難してきている方たちに支援をすることになった。

支援の形はいろいろある。お花見をして楽しんでもらったり、一緒にお仕事をしたり、

アルバイトをしていただいたり。明日、どういう支援をするか、という会議がある。

 今私が考えているのは、地元の新聞「大崎タイムズ」の支え合いというコーナーにある

支援物資のことだ。初めのうちは紙面の半分以下くらいだったのが、今はほぼ紙面一面

分くらい今避難所で必要とされているものが書かれている。避難している方々が生活を

始められたのだ、とその必要品目から読みとれる。

 その中でたくさんのブラジャーが欲しいと書かれているのが目にとまった。

 多数だから支援物資に書くことができたけど、個人では言いにくかっただろう、と思う。

 男の人には解らないだろうが、ブラジャーというのは女の人にとって無いでは済まされ  

ないものだ。婦人用の下着売り場などで見るブラジャーは、お洒落な洋服の一部の

ように見えるが、実際には生理学的にみれば、ブラジャーで胸を固定しなかったら       

安定が悪い、動きづらい、歩きづらい、 肩がこる。それにこれからの季節、着るものが

薄物になれば、堂々と歩きづらくなるだろう。女の人にとってこんな大事なものが

大量に不足しているなんて気の毒だ。こういうものこそ組織で支援するのが一番よい

のではないかしら。何故ならブラジャーは一個人一サイズだから。そしてどんなに

支援したくても自分の下着は、あげにくい。

 私が時折りボランティアに行く介護支援センター「ひとあかり」では、気仙沼の大島の

女の人たちに、水がやっと出るようになったからお風呂と洗面台をプレゼントしたいと

策を練っている。題して「きれいきれいプロジェクト」。

 ならば私も題して「ブラブラ作戦」。明日私は会議に出られないけれど、私の提案

「ブラブラ作戦」が会議決定することを祈りたい。    山の手S記

 

梅農場の「お茶っこのみ舎」

朝、土壌検査の土を持って農業改良普及センターへ。

土壌検査というもの、受けたことがないのだけれど、今回菊栽培のご指導を受ける

O氏が津波被災を受けた南三陸志津川で菊栽培をなさっていた方なので、第一歩から

まじめにきちんと学ぶために土壌検査を受けることにしたのだった。

センターのIさんが、ついでにお願いしておいた蓬の加工についての資料をいろいろ

調べて用意してくださっていた。またそのついでに試行錯誤する我ら海の手山の手

ネットワークの活動のお話をすると、時間をかけて丁寧に聞いてくださり、適切な

アドバイスもいただいて、ここでも暖かいご支援の心を感じた。有難く感謝です。

今朝梅農場のSさんから電話。

「おれ、思いついたんですけど、梅農場に避難者の人がいつでもきてお茶っこ飲む

場所作ります。普段から近所のおばちゃんたちが押し車押してくるんですよ。だから

一緒にお茶っこのんで話していたら、中からなんか作ってみようかなあ、と思う人出て

くるかもしれないし、できたら売ってみたいという人が出てくるかもしれないじゃない

ですか。このままここに住んでもいいという人が出てきたら最高ですよね。

難しくないよ。簡単なんだ。すぐできっから」

そう言ってたとIさんに話したら「それはいいことだ。まず話すことが復興の第一歩。

話したことの中から次何をするのかが見えてくる」と確信的にうなずいた。

広大な梅林が続く梅農場。緑濃い一角にある「お茶っこのみ舎」が出来上がったら

誰よりも先に入り浸っている私の姿が目に見えるようです。  山の手S記

梅農場で植樹会

 地震騒ぎで右往左往している間に新緑の季節になった。

 鳴子温泉の避難者の方々2百名と一緒に梅見の会を楽しんだ梅農場の6、7千本の梅の古木は満開の花を散らし、今は小さな実を育てている。社長のS氏が、いつの日にかと今は亡き奥様と計画をなさっていた花桃の桃源郷の植樹会を開いてくださった。今日は5月11日、鳴子の避難所では合同慰霊祭が催されるというので、来られる方は少ないだろうと予測していたら、
かなりの人数の方が参加されていた。未来の桃源郷は、広大な梅林の一角にある。600本の苗木は前もって植えられていたので今日植える苗木は少なかったが、植樹の後の山菜採りや輪になっての顔合わせや自己紹介など、みなさん楽しまれているようだった。

 突然、南三陸たいむずを発行されているOさんが「運の悪いことに仮設住宅に当たりました」と発言。うれしいことなのに、なんだかガッカリしてしまう一瞬だった。南三陸たいむずは発行されて第3号で廃刊になるのはあまりにも寂しい。こちらの記録も大事だが、歌津に戻っての仮設住宅での新聞発行も大事に思えるので、なんとか両方続くように一緒に考えたい。

 それにしてもみなさん、とても素直に心を広げてお話されているようだ。社長も専務である山の手メンバーのSSさんも、この梅の農場をとても大切に想われているが、その想いのこもった梅農場は避難者の方々の心の復興に大きな役割を果たしていると思える今日の植樹の会だった。 

「10年後、復興してみんなで花見をしよう」社長の言葉が心に沁みた。   山の手S記