再び南三陸へwithともだち

午前中、早めにお餅仕事を終わらせて海山元代表よっちゃん宅へ。

福岡から来たともだちも一緒です。
大震災以来、知っている限りの人に声をかけて被災地への支援品を集めて送ってくれたり、私たちが購入は
したものの売りあぐねている南三陸わかめを100袋も200袋も福岡で売ってくれたり、よっちゃんなんばんや
お餅など海山メンバー商品まで販売してくれたり、出来得る限りの被災地への応援をしてくれた彼女ですが、
よっちゃんとは初対面。

犬、猫大好きで何十年も捨てられた犬、猫や被災した動物などの世話を続けてきたともだちは、早速
よっちゃんちのワンちゃんチョビと猫ちゃんメルと仲良しになりました。

福岡では彼女の他にも津屋崎ブランチの山口代表に大変お世話になっています。
その他にも福岡で東北応援 をし続けてくださる方が多いこともあり、今年は秋には海山メンバーみんなで福岡
へ行こうではないかと話が発展しました。福岡から東北は遠く、文化や人の気質も異なることが多くて、
面白いことがいっぱいあるのではないか、と楽しみです。
午後からは南三陸へ。

ともだちにとっては初めて見る被災地。
「トイレに行きたい」と言う彼女に、コンビニはあるけど仮設だからトイレは外だ、と言うと沈黙。
仮設のセブンイレブンやファミリーマート。普通の町では見られないものがここではいろいろあります。

山の木は伐られ、材木は山積み、あちらこちらの山は木がなくなって赤土の造成地、遠く近くの瓦礫の山、家の礎石に伸びた雑草、車の残骸の塊の山、小舟ばかりの山。
来るたびに新しい建物がぽつぽつと増えているような気はするのだけれど、でも津波に洗われたところは建物が
建つわけではないので、復興しているようなしていないような一種独特の雑然とした町の佇まいです。

O夫妻は今はお盆菊と彼岸菊の植え付け、と刺し穂の最中でした。
ご主人のO氏は下の菊畑で手伝い仕事中。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ともだちは菊畑の上のハウスの中で、O夫人むっちゃんの彼岸菊の刺し穂のお手伝い。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

向こうにあるのは刺した彼岸用の菊。この小さい刺し穂が根を出し、1ケ月ほど経ったら畠に定植して
9月のお彼岸用の菊になります。

既に定植されたお盆用の菊。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

田んぼの稲もそうですが、菊の畠の菊もすくすく育ってくれることを祈ります。

今年は海山は「福岡へ行くよー。みんなで行こうねえ」と言ったら「いいねえ! 行きたいねえ!」とむっちゃん。
生業も新聞バッグも菊もしっかり仕事をして、11月の博多研修の備えにしたいものです。

 

新聞バッグをとりにY仮設があるけいこさん宅へ。
けいこさんは作業場で雲丹の仕事中とのこと。お会いする度に心がほのぼのするおばあさんとおじいさんと犬の
マック君が在宅中で、お部屋に上げて頂いて、けいこさんが戻るまでしばらくおばあさんとお話ししました。

被災地のことも海の仕事のことも農業の仕事のことも全くといっていいほど知識がない福岡の市街地育ちのともだちは、見るもの見るもの、びっくりすることばかりだったと思います。

やがて戻ったけいこさんから、驚くほどたくさんのわかめや茎わかめやお魚を頂いて、南三陸を後にしました。

初めて南三陸に行ったともだちに、感想を訊こうとは思いません。
簡単には言葉にできないでしょうから。
ただ、この東北大震災の被害も、今の町や人々の様子も、私の身の周りにある東北の中山間地の農業も、彼女に
とっては想像もしなかった情景のようで、わざわざ福岡から来て見聞を深めてくれてよかったな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

ともだち

今日も青空、陽光、最高のお天気!

福岡から60年近い長ーい付き合いの友達がやってきました。

私がこの地に越してきてすぐに来て以来だから、12年ぶりになります。
福岡生まれの福岡育ちで、東北のことも宮城のことも農業のこともほぼ何にも知らない生粋の博多っ子。

昔、昔、彼女と私は高校卒業までテニスのパートナーでしたが、私はそこまででテニスをすることはなくなり、
彼女は自称71.5歳の今もテニスを教えています。
流石に60年近くコートを走り回っているだけあって、足腰の強いこと、感心します。

50代の頃は私の山歩きに参加し、ある時は一緒にスキーをしたり、ある時には会津駒ヶ岳の下りで尾根道を
間違え、雪の中で一夜ビバーグをしたこともあります。
20代のころはお互い誰かを好きになったりなられたりすると、デートにまでくっついて行ってましたっけ。

その彼女は東北大震災の時には、私の友人の福岡代表のように大活躍してくれました。
彼女の呼びかけで集まってくる衣類や靴など、福岡で仕分けし、1年がかりで送ってくれましたし、私たちの
商品を福岡で販売してくれたりもしました。

きのうは1日道の駅や鳴子のあやさんのお宅や古川のNPOなど、私の行くところ行くところに付いてきて
海山の仲間と交流を深め、新聞バッグ作りも経験しました。
今日はよっちゃん農場を訪れ、南三陸に行きます。
読んで見るだけではなく、東北のたくさんのことを知って福岡に戻ってほしいと思っています。

 

 

 

 

米つくりの話

田植えが終わった出来立てホヤホヤのうちの前の水田。

蛙の声がまばらに聞こえます。
なぜ蛙は夜になると轟くばかりの大合唱をするのでしょうか。不思議だ!

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

これから秋の稲刈りまで、田の稲がだんだん大きくなって稔るまで見るのが楽しみです。低温が続いたり、熱帯の
ように暑い日が続いたりすると、自分が作っているわけでもないのに、大丈夫かなあと稲の心配をします。

豊かな光景、と言いたいところだけれど、昨日は直売所の生産者仲間の方から「米を作るということ」がどういう
ことかを聞いて、日本の農業の貧しさを痛感させられました。農業が貧しいんじゃなくて、いくら労働しても
農業をやる人の暮らしが豊かになるようになっていない農政が貧しいのです。

この水田に水を入れるためには1反6000円のお金を払わなければならないのですって。全然知らなかった。
広い田んぼは手放して、自家用のお米のための2反歩くらいを作る人はよく見かけるけれど、大体1町歩とか
1.5町歩とかのお米を作っている農家も多いんだと思います。

で、1町歩だったら6万円払って固定資産税や電気代払って、肥料やトラクターや田植え機やコンンバインなんかの
機械代や油代払って車を何台も持って、そして1町歩から上がるお米が安かったらどうにもならんじゃないの、と
素人の私は考えます。サイドビジネスに野菜売っても、ホウレンソウ100円キャベツ100円だもの。

私たち都会でサラリーマンやってた人間の給料は、桁が違うくらい上がりましたよ。結婚した頃は何万円かの給料で一家で食べてたもの。それが今は都会で暮らすならウン十万円くらいの給料を貰わなければ暮らしてゆけない。で、その割合でいうなら、農産物というのはいくらくらいからいくらくらいに上がったんだろう。1円だったホウレンソウが100倍の100円になったということはないでしょうから、30円が3倍くらい?

 

そんなことを考えると、自分が、そして都会の人間がいかに自分が食べている米や野菜の背景について何にも
知らないか思い知らされます。

 

先日東京に行った時、渋谷のビルのエスカレーター脇にあるピザとスパゲッティの店に入りました。
ピザのお金が1枚1700円。東京の人間なら「そんくらいするわよ」という値段ですが、こっちでは仰天するほどの
高額です。どうして1700円なのかをもっと知る必要があるのかもしれないなあ、と思います。

ここに来た頃、、お米がなくなって農協にお米を買いに行きました。「10kください」とお願いしたら「ない」と
言われて大変びっくりしました。私は農協を何をするところだと思っていたのか。たぶん何も思っていなかったのだと思うけど、お米は買えるところだと思っていたのだと思います。

都会で暮らす給料を貰って暮らす生活と、普通にいう田舎、そこで行われる農業という暮らしとの距離があまりにも
遠すぎる。農についての情報の断片でも聞き齧られるような暮らしではないので、都会にいては米作りの苦労も
野菜作りの苦労も想像もつきません。テレビで見る最先端の農業を見て、「そうか、農業はあんなふうに進んでいるのか」と思うだけです。

一緒に1700円のピザを食べながら「これから野菜なんかも工場で作れるようになるんだね」と友人が素晴らしい  進化であるかのように言うのを聞いて愕然としました。                                    良いことだ、と思っていたそうです。そう思っていない人もいるけれど、そんな風に思っている友人もたくさんいます。
「工場で大規模に野菜作るようになったら日本の中山間地は潰れるよ」

戸惑った表情を浮かべる友人に、何からどう説明したらいいものか。
たかだか10年ちょっととはいえ、過疎と労働力、人不足に苦しむ中山間地に住む者として、少しでも農業の実情を
伝えられたらとは思うのですが。

直売所でお話しした生産者の方は、その名前だけで品物が完売できる品質の良い野菜やキノコや果物を周年、途切れないように生産されていました。でもこの10年の加齢と重労働でお疲れの様子がはっきりと見て取れます。
「今の農業は子供に継がせたくない職業。自分で終わりだ」
吐き捨てるように言われる言葉に、何にも言えません。そうだろうなあ、と思うだけ。

 

世界で一番の農業大国といわれるオランダでは、都市部に住む者や子供たちに国の基幹産業である農業が
どのように理解されているんだろう。知ってみたいな、そんなことをこの頃思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の日

ガン闘病中の夫の今日は抗がん剤投与日。

薬を投与してから数日は体はきついし、白血球などの数値の低下で風邪などひかぬように要注意。
などということもあるので、それなりに気を遣うのですが、当の本人は至って普通です。

朝は通常より少し早めに起きてお餅仕事を済ませ、それから病院に出かけます。

夫と私は二人でお餅を作って道の駅の農産物直売所で販売していますが、お餅を作るということで
女の私が作っている、と思っている方が多いです。さにあらず、お米を洗うのも、お餅に入れる青豆や黒豆を
餅に入れ具合が丁度良いくらいに煮るのも夫です。

私が煮ると柔らかすぎて、お餅の中で砕け散ったり、逆に硬かったりでなかなかなかなか。
毎日小豆を洗って煮て餡子に仕上げるのも夫です。

餡の甘さが過不足なく丁度良い、とはよくお客様に言っていただく言葉ですが、その餡子の甘さも夫が
ああでもない、こーでもない、と研究を重ねた結果の味です。

じゃあ私は何をしているのか、というと柔らかいお餅を包丁で切る、とか夫が煮た餡を夫が搗いた熱いお餅でくるむとか、味とか豆を煮るとかの基本以外の仕事ばかり。で、たまに夫がいなかったりすると、お餅つき現場は水が
飛び散ったり、お餅を落としたり、戦場のようになります。

でもせめて投与日後の2、3日は私も何か手伝おう、と毎回そのつもりでいるのですが、今日も病院から
戻ると普通にお餅をついて餡子を仕上げて、「ちょっときついな」と言いながら「ではお先にー」と寝みに
2階に上がっていきました。

泣き言も愚痴も言わず、淡々と日常をこなす夫を「凄いなあ、私には出来ん」と思ってみています。
「お母さんは抗がん剤だって無理よ」と娘には言われてますが。
東京でのサラリーマン歴40年近く。退職後のお餅屋歴8年。
給料を貰って暮らす生活だけではなく、モノを生産して暮らす生活ができることを夫は「楽しい」と言います。

 

もうすぐ父の日。

手作りパンのお店をやっていらっしゃるお客様から父の日プレゼント用の新聞バッグのご注文を受けました。
こんなふうに作ってみました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

これでプレゼントをもらったお父さん、喜ばれるだろうか。
丁度水回りの修理でみえていた電気工事屋のSさんに「中味入りでこれプレゼントにもらったらうれしいですか?」と訊ねてみたら、「オーーーオ」と驚いていたから、サプライズにはなるかもしれない。

 

朝は病院、午後は工事、夕方病院、そして夜は道の駅の会議とめまぐるしい1日でした。

外は緑一色。新緑の林の中に木の花が咲いています。白い花ばかり。
明日は白い花を全部写真に撮ってみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔ばなし

暖かかったり寒かったりしている間も季節は進んで、周囲の田はほとんど水が入り、田植えも最盛期です。

昨夜の蛙の大合唱は凄かった。それまでは蛙の声なんて全然しないのに、田に水が入った途端に辺り一面に
轟き渡るような大合唱が始まるのだから不思議だなあ、と思います。

このところ誰か彼か次々に我が家に人が訪れて賑やかです。
1週間前は次男一家、そして次に叔母、明後日からは60年近い付き合いの福岡の友達。

南三陸に行く長い道中で、叔母に若い時代の話を聞きました。
若い時、アメリカ軍の基地で働いていた叔母は、将校クラブでパーティなどがある時、身体に少し障害がある
(手術で治ったので今はない)幼い私を連れて行ってくれてました。

それは覚えているけど、叔母が何の仕事をしていたのだろう。
「おばさん、基地で何の仕事していたの?」
「進駐軍の将校クラブで給仕の仕事していたの。アハハハ」

アメリカ軍のことを「進駐軍」という叔母の答えを聞いてびっくり。給仕というのだからウエイトレスだったんだね。
私は事務職かと思ってました。

「で、おじさんは?」
「おじさんは掃除夫だったの」

「えーーッ」もっとびっくり。
叔父はよく翻訳などしていたので通訳でもしているのかと思ってた。
「特攻隊で宮崎の部隊に行ったんだけれど、3機前で飛行機が無くなってしまって、特攻する前に終戦になっちゃったのよ。戻ってきても仕事がないので、進駐軍に入って掃除夫をしていたの」

いやー、私は知りませんでした。そうだったのか。

「私をいつもクラブのパーティなんかに連れて行ってくれてたよね」
「将校クラブのパーティがある時、一人で行くのが嫌であんたを連れて行ってたのよ」

えー、えー、えーー?
私は叔母に可愛がられているから連れて行ってもらってた、と思ってた。なんたる誤解。

その後叔父は東京に出て通産省の役人になり、今91歳で家で留守番しています。

宮城に来る時には、私が迎えに行って一緒に来ましたが、帰りは上野駅まで一人です。
予約した東北新幹線の車両の一番端っこの座席に座って手を振って帰ってゆきました。
「今度の旅はほんとうにたくさんの収穫があった」そうです。

自分の家の庭に植えたい花の苗を選ぶ叔母。
私など、何をくれると言われても「もう歳だから、何にも要らない。何にも欲しくない」といい続けているというのに
91歳でもなんたる精神状態。見習います。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

私が好きな木の花が咲きました。木の花は白い花が多いです。
しかし、この花は何の花? 全然解からない。とても素敵な花です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

こうやって、トゲトゲのタラの木があっちからもこっちからもニョキニョキ生えてきます。トゲだらけなので、
迷惑なんだよねえ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

 

 

 

 

南三陸へ

今日は快晴。風もなく暖かく良い日です。

ところが、うちでは朝から井戸のポンプが動かなくなるという大ピンチ。おかげでおもちは半分作ったところで
中止。その半分を道の駅直売所に持って行って出荷し、叔母を迎えに東鳴子温泉へ。

それにしてもアベノミクスだか公共事業だか知らないけれど、工事の多いこと。国道も県道もトラクターが行き来する農道も長ーい広範囲の工事でどんどんどんどんきれいになってゆきます。そんなお金があるんだったら、以前の様にETCでも工夫して高速料金を安くして、東北に人が来るようにしてほしいです。

水が出ないのと工事で約束の時間を大幅に遅れて宿に到着。91歳の叔母を助手席に乗せて南三陸町に
向かいました。

防災庁舎で手を合わせる叔母。91歳でよくまあ、南三陸まで出てきたものだと感心します。東京でテレビで見ていた被災地の姿とは全く違っていたようで、「これは見なければわからない」とショックを受けて涙をこぼしています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

庁舎の背後に横たわるコンクリートガレキの山。
「ガレキってまだあんなにあるの!?」
叔母の家に行く度に「だいぶ復興した?」と私に訊ねていた叔母の言葉です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

いるかどうかわからないけれど、せっかく来たのでM仮設住宅の菊の師匠の元へ。

運良くO夫妻はいてくれました。
「狭いところですけど」と奥さんのMちゃんにお部屋に案内された叔母は、4畳半2間だけの仮設住宅に初めて
入って、「大変な災難に合われましたね。もとは立派なお宅にお住まいでしたでしょうに」と言いながら
涙をポロポロ流していました。

0さんご夫妻のお仕事は菊作りと工場の経理。この地を離れては生計が成り立ちません。
「家は?」と訊ねると、やっと土地の確保には目途がつきそうだとのこと。2年後くらいには「家が出来るのかなあ。
それでも2年と思えば嬉しい気持ちになる」とMちゃん。2年以上にわたる仮設住宅の暮らしは、身体の具合
が悪くなる人がとても多いそうです。

M仮設を出て、次には新聞バッグを受け取りにY仮設住宅へ。今日は新聞バッグインストラクターのKさんは
お出かけで、留守居のおばあさんが新聞バッグを渡してくれました。
今はわかめの収穫が終わってちょっとひと休み。次はほたての仕事が始まるそうです。

往復4時間ほどもかかって東鳴子温泉の宿に戻りました。

食事を終え、温泉に浸かり、福島は国見からきた方と石巻の北上町からみえたお客様とご一緒しました。
知らなかったけれど、国見の方によれば、福島県内陸の国見は地震の被害が最もひどく300戸の家が壊れた。 自分の家も壊れたけれど、1階が残ったので修理してお父さんと二人で暮らしている。みんなバラバラ。

 

大川小学校が目の前の北上町のお二人は、目の前に迫った津波から山に駆け上って助かった。家は流れて
今は仮設住宅にいるけど、初めて「温泉に来たよ」と明るく話してくれました。
家は3年後くらいにできるのかな。「いや、わからないね」と二人で笑っています。

 

「来てよかった。見てよかった」と何度もくり返す91歳の叔母との南三陸行きでした。
もうこんな機会は来ないのかもしれないけれど、ほんとうに来てくれてよかった。
私自身は91歳まで生きたいとは全く思わないけれども、もし生きねばならないのなら、こんなふうに生きられれば
いいなあ、と思いました。

 

 

 

 

 

 

80歳万歳!90歳万歳!!

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

1年に1回の春の恒例、高田宏教室生の同人誌『みず』の23号発刊打ち上げの会に行ってきました。

1年に1度の『みず』を発刊し始めてから23年。この同人誌は参加している高田先生の教室生の人生そのものです。
一時期、消えかけた線香花火のようにもうダメかなあ、と思った時期もあったけど、この23号で、全然、全然、
そんなことなくて、持ち直して来たなあ、と感じ入りました。

そして今まで気がつかなかったけど、先生を始めとして、この23年間ずーっと校正、編集をやってくださっている
S氏、仲間の4、5人が80歳なんだってことを知りました。私たち海山ネットが東京で物販やる時には何度も
神奈川県の大磯からステッキついてリュック背負って通ってきてくれたSさんは85歳になってたんだ!

驚きました。なんて立派な80歳たちなんでしょう。

みんなが書いた23号のそれぞれのエッセイ。文章を書く集中力といい、歴史認識の深さといい、明晰な洞察力
といい、視点の広さといい、読みながらその力強さに圧倒されました。

100の著書をお持ちになる高田先生は今も石川県の九谷焼美術館と深田久弥山の博物館の館長であり、
美術館での朗読会などの催しを続けられています。朗読されるのは先生の著書「島焼け」やその他です。
次には大仏次郎賞を受賞なさった「言葉の海へ」も朗読されるとか。

23年間丁寧な校正でお世話になってきたS氏は早稲田のグリークラブ時代から80歳の現在に至るまで合唱
を続けておられます。ご病気の奥様のお世話をなさりながら。
「自分たちの今はやってもいいし、やらなくてもいいんだ」と仰った時、けだし名言だと思いました。
80歳ともなれば社会的責任は果たし、後はやってもいいし、やらなくてもいいんです。

 

世田谷住まいのSさんは、早逝された娘さんの遺児である四つ子ちゃんを立派に育て上げ、四つ子ちゃんたちは
みな大学を出て就職をし、一人は結婚されて夏には玄孫ちゃんが生まれるとか。その孫育ての過程は
大変なことでした。その道程はエッセイで読み写真で見て仲間はみな知っています。

 

ご主人を失くされた後、久しぶりでお会いするOさんは、ジャズコンサートのプロデュースをなさっている。
70歳と聞いてびっくり!見かけも動きも全然そんなふうに見えません。そんなふうに、というのはどんなふうに?
大体私、70歳というのをどんなふう、だと思っていたんだろう。

そして私の仲良しTさん。こっちも70歳だけど太極拳2段の検定を受けます。首都圏住まいで主婦業だった時は
本読むだけでなんにもしていなかったけれど、田舎に行ったら太極拳の先生になりつつあります。

80歳も70歳も実に精神充実して心強い。目からウロコです。

今回、前代表の要望で、海の手山の手の代表を引き受けましたが、内心「私のような年齢の代表じゃ周りの人がびっくりするんじゃないのー?」なんて思ってました。でも『みず』同人の80歳の女性たちと会って、「70歳なんてまだまだじゃないか」と思い知らされました。年齢関係なし。私なりにできる範囲で海山代表を務めます。

 

昨夜はおばの家に泊まって、今日は91歳の叔母を連れて宮城に戻りました。
どれほどヨロヨロしているのかと心配しましたが、しっかりしたものです。91歳でも同じ年齢の叔父を二人で暮らし、
病気の叔父を介護していますが、何をする時も「自分でやらなきゃね」と毎回言います。

ズボンを履く時、靴下を履く時、長い時間がかかっても「自分でやらなくっちゃね」と独り言。

80歳も90歳もほんとに立派だと感動したこの2日でした。

 

 

 

 

寒かったり暖かかったり、また寒かったり

最高に新緑が美しくなってきましたが、昨日の寒かったこと。寒すぎ!!

5月10日になって、ストーブにもう一回灯油入れて点けるなんて、これまでなかったんじゃないかなあ。
寒いとなーんにもしたくなくなって、やることたくさんあるんだけど、デレデレ時間が過ぎてゆきます。

ありがたいことに新聞バッグの注文は相次いでいるのですが、わかめの収穫シーズンが終わった南三陸
部隊が張り切って作ってくれています。私も作りかけてはいるんだけど、寒くてちっとも進まない。

今日は長嶋新聞バッグをお送りした仙台銀行さんからお電話を頂きました。
「感動しました」と言っていただいて嬉しいです。あやさんのところで出来上がりを見た時は私も感動しました。ただの長嶋監督が載った新聞なんだけど、あんなに長嶋選手を好きなK氏が喜んでくださるかもしれない、と思うと迫力が出ました。手作りの醍醐味というのはこういうところにあるのかもしれないです。

 

鳴子温泉住まいのあやさんのところへ行った帰り道で撮った、秋の紅葉の名所「小黒ケ崎」の新緑。
「きれいだなあ!」と車を停めて眺めていたら、折よく陸羽東線の新庄行き電車が走ってきました。
湯けむり号とかいうのが3両かな。普通は2両です。真っ暗な中で見ると灯りが煌々としてトトロの電車みたいです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

近所で見つけた新しい散歩道。隣町の幼稚園に行く途中にあります。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

以前スペインでの紙の催しで海の手山の手の新聞バッグを販売して頂いた代金を、その時にお世話になった
ミゲル氏が来日され、持ってきてくださいました。スペイン語がわからない海山ネットのために間を繋いで
お世話くださっている恵比寿のギャラリーまあるのオーナーkさん、ありがとうございます。

 

それから福岡の麦プロジェクトさんにもお世話になっています。麦プロジェクト製作のソーメンを入れる袋に
新聞バッグを使っていただいています。今日緊急のご注文を頂いたので大急ぎで準備をします。

最初は新聞を折るだけで何のアイデアもなかったのに、今では、お酒を入れたり、ソーメンを入れたり、スリッパを入れたり、ノベルティーとしてお客様に差し上げたり、いろんな場面で新聞バッグを使って頂けることが感慨深いです。

 

明日は1年1回発刊のの同人誌「みず」の打ち上げのために東京に向かいます。
そして南三陸へ行ってみたいという91歳のおばを連れて戻ります。どうなることやら・・・。

 

 

 

 

巨人&長嶋新聞バッグ

東北新聞バッグプロジェクトが完了してから2か月。
このプロジェクトがご縁で、これまで知らなかったたくさんんと方々とお知り合いになり、お世話になりました。

2月には仙台銀行ビジネスクラブのSBC講演会でお客様方に新聞バッグをご紹介頂き、なんと晴れがましくも
講演会終了後のお客様との交流会にも参加させて頂きました。

日頃滅多に口にしないような御馳走を頂きながら、仙台銀行さんの役員の方々ともお話しをする機会を得ましたが、
その時に実に気さくに楽しいお話しをしてくださったのがK取締役。K取締役は何より巨人の長嶋監督がお好き   なのだそうです。

講演会の日は始まりから終わりまで、本当に過分に親切にして頂き、そして新聞バッグもたくさん買って頂き
ました。何かお礼をと思うものの全然思いつきません。

周りの方が仰るには、K取締役には長嶋選手の新聞バッグが一番いいと。
でも長嶋監督の選手時代の新聞紙を見つけ出すのは難しいです。
どこかにないかなあ、と思い続けていたところが・・・。

 

突然、先日の国民栄誉賞で巨人の終身名誉監督長嶋茂雄氏が新聞紙上に現れました。投手、松井氏とともに。

翌日コンビニに走って長嶋監督が載っている新聞全紙を買いました。そして、鳴子温泉に行き、海山の凄腕インストラクターあやさんに「作って」と頼みました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

この新聞バッグを見て凄いなあ、と感心したのは、長嶋監督にとって大切だと思われる言葉や写真が随所に活かされていること。
スポーツ新聞が全部ではくどくなるという配慮で、中は英字新聞が使ってあります。
下の写真の車に乗った長嶋さんと松井投手はポケットになっています。
新聞バッグを作って、こんなに自在に出したい文字を出したり、写真を配置したりするのは私には至難の業です。

あやさんがどれだけきちんと新聞紙全体を見て、この記事を出したいという意思を以って、新聞バッグを作ったかが見てとれます。そしてお世話になった K取締役に喜んで頂こうという思いを込めて作ったこともわかります。

 

明日、仙台銀行さんに送ります。
喜んで頂けたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災教育

今日は、ほんとに珍しく暖かーい初夏らしい1日でした。
強風は吹かず、曇ることもなく、鳴子や栗駒の山々は青空の下、くっきりと白い頂を見せ、吹き渡る柔らかい
風は爽やかで、布団干そうか、倉庫片付ける?、いや、庭の草取りだ、と欲張ってウロウロしました。

動いた順序で写真を撮りました。

朝、うちの前の田んぼに水が入りましたよ。まだ全部じゃないけどね。
12年前、私が来た頃に較べると、ずいぶん田植えが遅くなりました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
いよいよ1年の始まりー、という気がします。

道の駅直売所の前のいつものつばめの巣。
つばめの父さん、母さん今は大変いそがしそうですが、今はご夫婦お留守です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

毎日直売所の外に出して販売する花の苗です。

あ・ら・伊達な道の駅直売所には産直には珍しく市場出荷をする花生産者が3人います。市場には出さない
花の生産者もいて、そろぞれに独自の花を作るので、花の種類が多い直売所と思います。

ちなみにこれはうちの花です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ニゲラ、アルメリア、アッツザクラ、セラスチウム、カリフォルニアポピー、パンジーは50円です。

店内にはマーガレット、多肉、サボテン、宿根サルビア、ナデシコなど、他には白いシラネアオイ、ニリンソウ、
カタクリ、エビネ、その他の山野草、野菜の苗も少し出てます。水仙はいろいろあります。
毎日出したり入れたりしているうちに、今何があるのか覚えてしまいました。

道の駅の帰りに通りかかったIさんの桃畑。真っ黄黄の菜の花と桃の花のコントラストが最高にきれいです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

で、べつの話。

ある学校関係のお客様からお電話を頂きました。関東圏在住の海山ネットのお客様です。

いろいろお話しをしていて、中で耳に止まったのが「震災教育」という言葉。今、東北地方以外の首都圏やその他の
学校で「震災教育」ということで、震災に関する何かを子供たちに伝えようという動きがあるらしいです。

それはとてもいいことだとは思うけど、「震災教育ねえ」
うーーむ、と唸ってしまいました。
何を以って震災教育とするか。

大震災があったことを教訓に何かを知る、学ぶということは山のようにあります。                     防災も地震や津波の時の逃げ方も人々の助け合いも、漁業や養殖などの海の仕事のことも、震災で一人ぼっちになった方々のことも、仕事がないことも、観光客が激減したことも、風評被害も、原発事故も、今でも避難中の方々が30万人以上もいることも。

そして、その状況を抱えながら希望を失わず未来を切り拓かなければならない、ということも。

 

うーん、難しいです。
海山ネットの活動や新聞バッグが関連しているので、真面目に向き合わざるを得ません。

 

東京に91歳になる叔母がいます。
若い人が少なくなった住宅地に90歳の叔父と二人で暮らしています。あまり元気ではない叔父の世話を
しながら独力で暮らす叔母の気力に、よくできるもんだなあ、と私は常々感心しています。

その叔母が、外国で暮らす従妹が実家に戻ってしばらく居るので、来週、一人でこちらに来たいと言ってきました。一人でなんてとんでもない。「迎えに行くから」と慌てて止めました。
温泉にでも連れて行こうか、と思っていたら、沿岸被災地を「この目で見たい」のだそうです。

南三陸にしても石巻にしても車で1時間半はかかります。足腰弱っているのに、とは思いますが本人のたっての
希望なので花束とお線香を用意して連れていこうと思ってます。

 

目で見てもこの「大震災がどういうことであるか」はまず伝わって来ないと思う。
私など初めて行った時、津波の前の町の姿を知らないので、最初から何にもない広場かと思ったりしました。

でもその何にもない草の生えた広場の背後に大切なことがいっぱいあるのだと、解かりました。

学校の子供たちにも91歳の叔母にも、難しいことは今は何も言えないけれども、ただ一つだけ
「自分以外の人とコミュニケーションをとる」ことはとても重要だということと、「助け合う」ことの大切さは伝えたい
と思います。

都会育ちで、「一人でだって生きられる」と思っていた私が、震災を経て「一人では本当になーんにも出来ないんだ」ということが骨身に沁みて解かりましたから。

 

おいおい答えを見つけてゆこうと思っています。