イスラエルに住んでいるノアさんが日本に来ることになって、この2、3日イスラエルと日本でメールを
やったりとったりやったりとったり。
2月末から3月10日くらいまでの間にノアさんが日本で会おうとしているのは、数々のオリンピック関係者
に混じって、東京在住の元昭和女子大学教授でありフリー刺繍家でもある天野寛子先生と私。
なんでこんな組み合わせになるのかというと、なんだか解らないけれど偶然が偶然を呼んでこうなったという
ような物語があり、今回ノアさんはイスラエルのオリンピック関係者として、日本のオリンピック関係者との
会議その他で来るらしいのです。
そこのところは今度会う時に聞いてみなければ定かではありません。
分かっているのは、ノアさんが今回東京オリンピックと新聞バッグを結びつけようとしていること。
その話を初めて聞いた時には、海山一同、話が大きすぎて、(まあ、2020年東京オリンピックは復興オリンピック
と言われているけれど、どこがどう復興なのかよく解らないもので)、オリンピックの中で新聞バッグをどう位置
付けたらいいものか、雲を掴むような話でまとまらず。 今もそうなのですが・・。
ノアさんは今はイスラエルの人だけれどれっきとした日本人女性。
ご主人が亡くなられた後、イスラエルでの栄養指導の仕事を志し、日本に戻って栄養士の資格をとるべく入学
した食糧学院の夏季農業研修インターンでよっちゃん農場に来た時に、ノアさんの宿泊をうちで受けました。
若い学生さんかと思っていたら、イスラエルに娘さんがいらっしゃる50代の女性でびっくり。
栄養学という難しい学問を、普段使わない日本語で、日本の若い学生に混じって学校でも家でも長時間
勉強し、その合間には毎日走って体を鍛える、という普通の日本人女性には見られないその意思的且つ
ストイックな姿勢に私は驚嘆したものです。
ノアさんたち女子学生3人が来たちょうどその時、海山では明大付属中野中、高等学校の新聞バッグワークショップ
を開催することになっていて、ノアさんたちにも一緒に参加して新聞バッグを作ってもらうことにしました。
それがノアさんと新聞バッグの出会いです。
新聞紙で作るバッグということでノアさんは様々な意味で、新聞バッグに魅了されたらしく、その後は学院で
新聞バッグワークショップを開催したり、自分でデザインした新聞バッグを作ったりしていましたが、折りあるごとに
イスラエルで新聞バッグを教えたい。パレスティナの人にも作ってほしい、と言ってました。
2年の時を経て、ノアさんは目出度く食糧学院を卒業。その前にイスラエルに戻って、イスラエルオリンピック選手団
関係の仕事をするようになり、ジュネーブその他関連各国を廻ってきた、とは後で聞きました。後、残るひとつの
目標は新聞バッグインストラクターの資格をとること、だったのですが、私との時間の調整がつかず、昨年春は
断念。その後リオオリンピックを経て・・・。
今回来日するのはやはりオリンピック関連のイスラエル側としての仕事、なのだと思いますが、時間が経っても
ノアさんの心の中にしっかりとあるのは、始まりの時と同じように、新聞バッグは日本の折り紙文化と資源の再生
との融合という信念。
もしかしたら、もしかすると、たくさん考えるうちのひとつくらいは、ノアさんが信じる価値としてオリンピックを通じて
世界のどこかのなにかにひっかかるのかもしれない。そうならなくても、夢は見られる。
そう思ってノアさんの空を駆けるような夢を実現に向かって応援したい。
と気持ちは壮大なのですが、ノアさんがイスラエルで検索して探してくれた飯田橋近くの食べどころに、日本にいる
私、ましてや東京にいる天野先生も行き着く自信がない、という情けない現実。
「何に乗って行ったらいいのですか」「これから調べます」
なんてメールをイスラエルと東京と宮城でやったりとったり、やったりとったり。
なんと便利な世の中になったものか、と有難いようなそら恐ろしいような気持ちになります。