大震災後、3回目になる明治大学付属中学校高等学校東北研修での新聞バッグ体験。
来てくれている生徒たちは同じではないと思うのですが、中にはリピーターになって2回目という子供たち
もいるのだそうです。
教えるのはいつも同じ海山メンバー、メインインストラクターに黒田さん、サブに上條さん。
いつもなら必ず同席する生徒たちの先輩、明治大学で学んだよっちゃんは今日は仙台の市でなんばんを売って
いるので欠席。私はお話係りとお手伝いという役割になってます。
今回体験講座の前に1時間という時間を頂いて、災害のことや海の手山の手ネットワークの始まりや歩みなど
お話することになっていますが、私にとっては一人で中学校、高校生の前で1時間もお話するのは初体験。
生徒たちから見ると私は先生よりも年長のおばあちゃん、私から見ると中学生や高校生は普段から最も
接する機会がない年頃の孫に話しかけるようなもので、実に戸惑います。
でも、こうなった以上は、自分の言葉で孫に思うことを伝えるようなつもりで、この2、3日ノートとペンを持って
うろうろしながら考えた「ピンチはチャンス」というお話を聞いてもらうことにしました。
眠いだろうけれど、居眠りしてても話し通します。
[ピンチはチャンス」
まずはご挨拶。
ここから始まります。
今日は何かお話を、ということなので、311の大震災以来起こった様々なことを皆さんにお伝えしたいと思います。
私は東北の生まれ育ちではなく、15年前に田舎で暮したくて千葉県からこの宮城県岩出山に移り住みました。
生まれて初めて田舎に住んだので、田舎のことはなんにも分からなくて、この岩出山の方々からたくさんのことを
教えてもらいました。
引っ越してきて3年くらいして大きな地震がありました。地面には広い範囲に亀裂が入り、近くの山が崩れて下に
あった小学校の教室に土砂が流れこみました。その時私は岩出山の町の中の病院にいたのですが、屋上の貯水
タンクから水が噴出し、地震が終った後、病院の洗面所のコンクリートの洗面台が全部崩れ落ちて壁に水道の
蛇口だけがくっついて残っているのを見て、凄いところに来たもんだと驚愕しました。
それまで東京で震度3だの4だのの地震しか経験していなかったので、この時、こんな大きな地震が起こったら
その町にはその後数ヶ月、道の駅のお客さんや温泉の観光客は来なくなるのだと知りました。
そして次は2008年の6月の朝、今度は宮城内陸地震がありました。震度は6強で岩出山の隣町、栗原で大きな
被害が出ました。標高2000メーター近い栗駒山が大規模に崩落し、温泉が埋まり、亡くなった方もたくさんの負傷
者も出ました。今窓の外に見える広い駐車場が土砂崩れ現場の捜索を続ける自衛隊の交代場所で、私たち
道の駅の生産者は、毎日泥だらけのトラックや重機類、泥に汚れた自衛隊員の方たちを見て過ごしました。
岩出山で最も栗原に近い場所にある私のうちでも井戸のポンプが壊れたり、地面に亀裂が入るなどの大きな被害を
受けました。
この地震で私は初めて、大きな地震が起こったら、ものの1時間もしないうちにスーパーやコンビニからは水も食べ
ものもなくなって、空には自衛隊や報道のヘリコプターが飛びまわり、国道は自衛隊の災害トラックやその他の
車輌、サイレンを鳴らしながら走る救急車やドクターカーなどでいっぱいになって、テレビドラマでしか見たことが
ない戦場のような状況になるのだ、と知りました。
そして次が3年後の3月11日です。
その日私は古川のイオンモールの駐車場に車を駐めて、隣りのビル1階のパソコン教室にいました。
地震馴れしているので、揺れ始めてすぐ誰よりも早く真っ先に外に逃げ、飛び跳ねるような揺れのなかを、道路まで
這って街路樹にたどり着いてしがみついていました。