登米へ

お盆も最終日。思ったよりもお餅の仕事が忙しくてちょっと疲れ気味なんだけど、海山女子部でそろって出かけられ

日も少ないので、今日は黒田さん、あやさんと3人で前から行きたかった登米市登米町に行きます。

登米市がとめしと読み、登米町がとよまちょう、というのが不思議です。

 

宮城の明治村と言われる登米町は、大きく蛇行して流れる大河北上川に沿うしっとり落ち着いた歴史の残る町。

明治21年に建てられた教育資料館や登米伊達家の武家屋敷跡、明治22年に建てられた警察資料館など、東北

育ちが一人もいない海山女子部にとっては以前から一度見たい、行ってみたいところでした。

 

家から1時間ほど車で走ってまず到着するのは観光物産センター「遠山之里」

ここで登米町の地場産品やお土産を買ったり食事をしたりすることができます。親切な係りの人に町の案内をして

もらえます。うちからたいして距離も離れていないのに売ってるものは矢張り登米独特の産物が多くて新鮮。

塩アイスというのを食べたかったけど売り切れ。あやさん、私は瓦せんべい。黒田さん、はちみつを購入。

 

そのまま歩いて隣りの教育資料館へ。

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明治21年に建てられた登米小学校。木造建築の温かさと西洋建築の堅牢さが融合した和洋折衷のデザインの

建物で子供たちが通っていた時代そのままのお教室や裁縫室などが再現され、オルガンの音に合わせて小学唱歌

が流れています。小学唱歌って今知ってる人いるのかしら。

設計者はこの後行く予定の登米警察署の建設にも携わった日本建築の棟梁、山添喜三郎氏。明治時代の半ばに

日本の大工の巧の技と西洋建築の知識の両方を取り入れて建物を作ったこういう建築家がいたことに感動します。

そしてこれらの建物や当時使われていた資料を、これほど丁寧に大切に保存してきた登米市という町にも、その

姿勢に感服します。

 

今はもう歳を重ねてしまった海山女子部3人も、往時を偲んで学問のススメを再現しました。

黒田さん、教育勅語。あとの二人は、サイタサイタ、サクラガサイタ・・・の音読。

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心に残ったのは、保存されていた学級日誌。

私が生まれた昭和16年11月19日の日誌には出征する兵士を歓送したとの記述があり、「そうか、私が生まれた

時にはもう日本はもう戦争をしていたのか、と少なからずショックを受けました。自ら中国へ兵隊さんを送っていたと

いうことです。そして12月8日午前11時に大東亜戦争の宣戦布告との記述。その後にはあそこが陥落とかここが

陥落とかの日本軍の勢いのいい記述があり、これはほんものの日誌だと思うと実に生々しいというか、身が震える

ような気持ちになります。

思えば私が生まれる前から日本はずーっと戦争をしていて、4歳の時にメタメタに負けて終戦。終戦というより敗戦

なんだよね。それから食べるものも仕事もなかった戦後の混乱の中を私は育ったわけで、みんな貧乏だったなー、

とシミジミ思い出します。

 

教育資料館の後は警察資料館へ。

ここも同じように和洋折衷木造の素晴らしいデザインの建築で、中には昔のパトカー、白バイなども展示されていて

楽しみながら見られるように保存展示されています。

 

あまりにもゆっくり丁寧に遊びながら見たものだから2箇所見たところで夕方になり、それぞれの日常雑事に戻る

ことにしました。登米にはまだまだ見るところがたくさんあります。

伝統芸能伝承館「森舞台」、武家屋敷春蘭亭、秋の薪能。楽しみにしてまた行きます。