価値がわからない

今朝道の駅で生産者が持ってきたキャベツ。1個100円だけど、いかにも採れたての柔らかそうな葉の緑、
そしてその大きさ。思わず「立派なキャベツだねえ!私も買うから」

とは言ったもののこれで100円という値段はないでしょう。市販ならば180円とか200円。都会だったら250円
から300円くらいはするだろう立派なキャベツ。
100円は安過ぎよ。手間かけて作っているんだから、もう少し値を上げていいんじゃない。
私とともに他の生産者も同調して、「久しぶりに来たものだから普通のキャベツの値段がわからない」とマゴマゴ
している生産者に手伝って100円の値札を150円でも安いとは思うけど150円に替えました。

これだけのキャベツにするには、どれだけの広さの畑に石灰や肥料を撒いて耕して、タネをまいてどれほど手をかけて想像すると1個100円ではとても合わない。30個というとおよそ畑一畝分くらいあると思うけど、それで3000円。
そこから直売所の手数料引いて材料代、機械の油代、種代、肥料代、ガソリン代とマイナスしたら人の労働
に対するお金はないに等しい。

買う側からすると安いほうがいいんです。私も消費者だからそれはわかる。でも消費者専門をやめて半分生産者
という立場になってみると、安いもの、安いものという目でばかりモノを見ているうちに、自分の目が安い、高い
の価値基準でモノを見てしまって、モノが作られた背景とか価値に思いを致さなくなっていることに気付くんですね。

ここに来てから、ここの人に「前はどこのお米を食べていたの?」と聞かれたことがありました。
何処のって、そんなこと訊かれても。そんなこと考えたことなかった。アキタコマチとかウオヌマコシヒカリとか名前は
知っているけど、そのお米が何時でも普段買い物するスーパーに売ってるわけじゃなし、ウオヌマコシヒカリのお米の値段が高いことは知っているけれど、どれほど美味しいのかよくわからないし。

「じゃあ、どうやってお米選んでたの?」と訊かれてハタと思い当たりました。
「お金で選んでた」
「えッ?」てなものですね。ここの人にしてみれば。
「だからお金で。2千円代だといろいろ混じっていて信頼できない気がするから10㎏3500円か4000円以上なら
美味しいのかな、なんて」今考えるとなんていい加減な選び方なのか、と思うのですが。
「へーェ!、そういう選び方があるんだ!」
訊いた人は思わぬ答えにびっくりしてるけど、答えた私もびっくりして、お互いちょっとしたカルチャーショックです。

そうしてここに来て10年。春の田植えから秋の収穫までお米中心の人々の暮らしを見ていると、お米を作る
苦労がわかってきます。今の時代、米作りが農家の生活を支えるほどの収入にはならないことも、やれば
やるほど赤字を抱えるといわれることも、子供に米作りをさせたくないとみんなが思っていることも、ここで作る
お米はササニシキとヒトメボレが主体で、コシヒカリもあるけど倒伏し易く作りにくいこともいろいろいろいろ
知りました。

背景も価値も知ったら、選ぶ基準がお金だけではなくなりました。
10㎏3000円以上だったら大丈夫だろう、なんて考えられなくなった。ここでは30㎏入り1袋を直接農家から買うので
最初にササニシキを食べたら次にヒトメボレを食べてみて、ちょっと値が張るけど次はツヤヒメ食べるかな、なんて
味で選ぶようになりました。

海山ネットに関連して言うなら、これまで何度か新聞バッグにここで採れたお米を入れて販売したことがあります。
新聞バッグセットに何を入れたらお客様に喜んでもらえるか。そんな相談をしました。
ここの人ではない私は1番に「お米だ!」と手を挙げました
「ここのお米は美味しいよ!。東北のお米は美味しいんだよ!」
私の力説に、シーン、他のメンバー3人が反応しません。

海山ネットのメンバーは私を除いて3人とも、お米は生まれた時から家で作っているものであって、買ったことがない人たちばかり。「お米なんか入れて、ほんとにお客様が喜ぶの?」
お米、お米とわーわー騒ぐ私を訝しんでの反応なのでした。価値がわからないのです。

花のタネを蒔いて育てて販売している私自身、花を人に差し上げて大変喜んで頂くと、「こんなもんでそんなに喜ばれていいのかなあ」といつも思います。でも喜ばれる割には買う人からは安さを求められる。売れなければ値を下げるという売り方をしているうちに、自分でどんどん花の価値を下げていってしまう。価値を無視してしまう。

原発の問題、世界の状況、いろんな意味で大量生産、大量消費という在り方を見直さなければならない今の時代、
利便性とか安い、高いとかのお金の多寡でモノを求めるのではなく、価値に目を向けなかったら、その労働に対価は結びつかないだろう、と私は思うのですが・・・。

 

 

価値がわからない” への2件のコメント

  1. う、ううん、考え込んでしまう問題ですね。
    自分の労働の価値の代価(正しく評価されていると思っている人は少ないでしょうが)として支払われたお金を使って生活している者にとっては、やはり高い安いは重要問題ですからね。その人が何に価値を感じお金を使うかは別として・・・。

    ただ最近、農産物等だけでなく、人の手がかかった商品がなぜ、こんなに安いのだろう・・・その人はそれだけの時間を働いていくらの賃金をもらい、どんな生活をしているのだろう・・・と考えてしまう品物に出会うことはよくあります。

     大昔、物々交換であった時代には、どんな価値観で交換が成立していたのか・・興味深いです。
     物や人間の行為に対してどんな価値観を持つかが、暮らしのスタイルを決めていくのですね。ただ、もう選べない状況のレールにのせられているといった感もあります。
     

  2. 農作物を作ってみると、その手間、期間に値する対価が低すぎることも理解できます。一方、消費者も生活に厳しいものがあるから、安ければ安い方がいいと思ってしまいます。この間を埋めるにはどうしたらよいのでしょうね。

    でも、安ければ安いほど良いという考えは危険だと先日の高速バスの事故で思いました。それなりの対価を支払うという考えは健全な社会を作る上で必要なことだと思います。

    それにしても庶民は買う方も売る方も楽ではない。大きなお金はどこでどう動いているのでしょう。

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