なんだかねえー。

「聞いでけさいん新聞バッグのはなし」
という文章を書いたのは昨年の秋。四万十へ行ってからのことでした。

毎年行われている新聞バッグコンクールに海山ネットメンバーも誘っていただき、その審査当日よっちゃん、
みっちゃん、私の3人は初めて四国の四万十にお邪魔しました。ほんとに本当にご親切に歓待していただき、嬉しく
有難かったのですが、随所随所で感じる地震も津波被害も受けていない土地での生活感覚から生じる違和感がどうにもこうにも払拭できなくて、帰って1週間くらいで書き上げました。

これは書かなければいけない。書かなければせっかく被災地を心配してたくさんの心遣いをしてくれる非被災地の方と、その心遣いに有難いけど違和感を感じてしまう被災地の人の心にずれが生じる、と思って。

買いてよかったと思うし、たくさんの方に読んでいただいて有難かったです。

それから1年近くが経ってまた新聞バッグコンクールの季節になりました。
この1年でどんなふうに変わり、どんなふうによくなったか。

海の手山の手ネットワークが「手仕事で経済復興」を目標にして活動を続けているのは、新聞バッグだけではありません。「聞いでけさいん新聞バッグのはなし」に書いたように、小野寺師匠の菊や師匠に指導して頂きながらの私やよっちゃんのお父さんの菊栽培。そして師匠の奥様mucchanを中心をする布小物作りも手仕事で経済復興活動の一端です。

 

きのう師匠と話していて、来年の菊の苗が手に入らないかもしれないことを知りました。
最初の年、去年の4月ですが、小野寺師匠と初めて梅見の会でお会いした時、「私たちの農地でご一緒に菊を
作られませんか」と恐る恐るお誘いしたのですが、断られました。鳴子温泉に避難して来られてまだ間がなかったから、そんなお気持ちになれなかったのだと思います。でも指導はしてくださることになりました。

 

その時期でも既に菊苗の入手は遅すぎて難しかったのですが、宮城県の農業普及センターが動いてくださって
普及センターの方も一緒にみんなで加美町の菊農家の方の菊苗を穂刺して4000本の苗を作り、よっちゃんのお父さんと私とで分けて栽培を始めたのでした。去年の春から秋まで、師匠は私たちへ熱心に指導をしてくださいました。そして昨年秋からは南三陸の高台に畑を借りて、この春からご自分の菊の栽培を再開されました。

 

これで仕事に関してはスムーズに行くかと思ったら、なかなかなかなか・・・・。
栽培の周辺事情が整わないので、ご苦労なさってます。
海山ネット、よっちゃんが村長を務める東北村、混合で時々お手伝いには行ったりしていますが、お盆の菊、彼岸の菊が終わった今、菊の畑を片付けてきれいにしたら、後は来年の菊苗の注文、といきたいところですが、その苗が手に入らないかもしれないというのはちょっと難問です。

 

何故入手しにくくなったか。私の想像ですが、

先日新聞で復興予算の何億円かが、菊の栽培施設に入るという記事を読んで、「よかったなあ」と思ったのですが、
その余波が力が弱い栽培者のところに来るだろうことは予測できませんでした。
大金がつぎ込まれた立派な栽培施設ができればそこが菊流通の中心になり、高値で買い付けられれば苗もそこに集中します。
家も畑も流失してまだ1年半。やっと1回目の菊を販売しただけですから(それも機械も道具もなくて)高値の苗なんて
師匠は買いたくないでしょうけど、師匠から苗を分けてもらっていた私も買えません。

親苗を冬越しさせて新苗を穂刺しして作ろうにも師匠の畑にはその場所がなく今あるハウスを使うのも難しい。
人手が足りなさ過ぎます。さて、どうするか。今うーん、と考え込んでいます。
必ず何か方策を見出すとは思うけど、なんだかねえー、難儀です。