「屋根」まで届く道

今日はあの日から5回目の3月11日。

3月18日の「屋根」の公演には、劇団員さんが来るだけではなく、それに伴って我が家で泊る方も何人か

いて、その準備の買い物に行って車を止めた駐車場で、「あ、2時20分だ」と。

奇しくも、あの時と同じ店の同じ駐車場で、これから外に出れば2時42分になる。

どんなふうにその時間を迎えるんだろう。

 

その時間、見ていた店内2階のお鍋の棚の前で天井からマイクの声が降ってきました。

「これより1分間の黙祷を始めます。みなさまのご協力をお願いします」

通りかかった人は通路で、私はお鍋の棚の前で手を合わせ黙祷。20000人にも近い亡くなられた方々のご冥福

をお祈りします。なんという亡くなられた方の数。その数の数倍もの遺された方々の数。

今日は5回目だけど、何回目が来ても何も変わらずに悲しみは深く、朝からテレビの報道を見ては泣きそうになり

、天皇陛下のお言葉を聞けば涙が出、同じ駐車場であの時の場面の数数を思い出すと、胸も目頭も熱くなって、

1日泣きそうになってばかりいる。

何が悲しいんだろう。

驚愕も焦燥も諦められない様々な事態も、見るもの聞くもの全てが悲しかったし、思い出すと今も悲しさは全然

薄れずに変わっていない。あの時東北のあの惨状の中にいたものの傷の深さを思い知らされる、3月11日です。

1年の区切りが12月31日と3月11日があるようで、また明日3月12日から1年が始まります。

 

震災後、一緒に海の手山の手を始めた宗一さんがさっき電話をかけてきて、「あの時に作った新聞や(よそから

貰ったパソコンと私のプリンターを提供して津波で社屋を流された元南三陸の新聞社の方が避難所新聞を作り

ました)、印刷物など見てました。あれから5年、よくがんばって活動を続けてきましたね。ごくろうさま」

とねぎらってくれました。

 

海の手山の手には初めから道などなかった。最初に道もなくお金もなかったけれど、南三陸で流れ残ったワカメ

と出合ったことが道の始まりでした。ワカメを全部買ってあげたかったから、みんなでお金を出し合いました。

買ったはいいけど、売り方も解らす、売るのには実に苦労しました。やっと売り終わってお金を回収したと思ったら

今度は南三陸で干し椎茸に出逢い、また干し椎茸販売に四苦八苦しました。最後は売り切れずよっちゃん夫妻も

私たちも自分で食べる羽目に。

何にも無かった道を切り開いて踏みしめてまた切り開いて踏みしめて道を作り、気がつけば「「屋根」まで届く

道ができてました。この5年で。

 

お世話になった皆さま、ありがとうございました。

たくさんの方々と知り合い、たくさん学んだ5年の歳月でした。

東北には5年の区切りなどありません。ずーっとこれからもつながり続いている時間です。

風化も忘れないで、という言葉もここにはない。そんな言葉を超えて、前を向いて進めばいつか悲しみが少し

づつ癒える日が来るのだろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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