何からどう書いていいのかわからない。
「 聞いでけさいん 新聞バッグのはなし
それはリサイクル、包装紙、持ち運びに便利
宮城の今を伝えます。
山に避難した『海の手』から生まれました。
私たちは、
山間からヨノナカを変えていくメッセーシを小さな新聞紙に詰めて送りたいのです」
新聞バッグを作り始めた時、
「バッグに何かメッセージをつけたいんですけど、何か考えてくれません?」
と啓子さんのアトリエ兼レストランの『風のアトリエ』まで頼みに行った時、いいよ、と即座に承諾してくれて
その翌日だかに受け取ったのが、薄いベージュ色のタグに書かれた『新聞バッグのはなし』だった。
宮城の人ではない私は、「けさいん」や「けらいん」というこの辺りの言葉はつかえない。
とてもとても気に入って、啓子さんがその時一緒に考案してくれたumiyamanet(うみが青、山が緑、ネットが赤)
のおしゃれなロゴマークと共に、どれだけたくさんの新聞バッグにタグをぶら下げただろう。
その時、アトリエの庭の木に何かたくさん実がなっていたような気がする。なんだっただろう。
プラムだ。紅く熟したプラムが大きな木いっぱいに成って、ポタポタ地面に落ちていたっけ。
あの時はそんな時期だったんだ。
去年の震災からまだ間もない4月、佐藤農場で鳴子温泉に避難している方と一緒に梅見の会をやろう、ということになって、「啓子さん、一緒に参加してもらえませんか」とお誘いに行った。その前の年の暮れあたりから、啓子先生はご病気だ、という噂は聞いていたけど、
私が行った時は、痩せてもなくていつもと同じようにお洒落で清潔できれいだった。
「ごめんねえ。一緒にやりたいけど私ガンなのよ」とご自分の病気のことを話してくれた。
「でも絶対大丈夫。私のガンは生存率がうんと低いんだけど、私はその中に入るような気がするの。だから大丈夫」
そう笑って話してくれた啓子さんの身体の中には、生きようという想いが心棒のように入っているように見えた。
だから私も、大丈夫、と啓子さんを信じた。
大震災が起こってから、啓子さんが入院している病室には津波から救われた人々が入ってくるようになった。
「みんな、ものを言わない。入院している間なーんにも言わないの。そして退院したら避難所に運ばれるのよ。
その前の日くらいからバーッと津波のことなんか話し出すの。話し出したら止まらない。私こんな体だからなんにも
できなくて、その話をずーっと聞くの。それくらいしかできないから。そしてこの頃思うんだ。がんばるけどね。
でも死ぬのは仕方がないよ。もう死ぬんだったら死んでもいいかなあーって」
ほぼ2週間おきに入院、自宅療養を繰り返す闘病の間を縫って、私はアトリエで啓子さんと会い、病院で読む本を
自分の書棚から3冊選んで持って行っては、次の時にまた3冊取り替え、本や食べ物や死ぬ話などをした。
それからしばらくして、私は生きるよ、という言葉どおり、啓子さんは元気になった。以前と同じように賢くて清潔で
お洒落できれいな啓子さんに戻った。「髪の毛生えたよ。見て!」と帽子を脱いで髪が生えた頭を見せてくれた。
秋、「なんだかお腹が痛いんだ。もしかして、もしかして!」とふざけていた啓子さんは、病院からあまり出てこなくなった。自宅にいる時間も短いようだった。だから私も会えなくなった。携帯メールで話すことにした。
「新聞バッグじゃ海山ネットの活動が続かない。復興手拭い作りたいけどどう思います?」とメールで聞いたら
「サンセーイ! すごく好い考え。でも被災を無理強いしないで。みんなが欲しがる素敵な素敵な手拭いを
作ってね。そうだ!復興は福幸にして!」と返事が返ってきた。「染屋のタケヒロは幼友達だから相談してみて」
と古川のタケヒロちゃんを紹介してくれた。
秋が深まって「足が浮腫でむくんで歩けません」とメールに入っていた。私は手拭い作りに真剣になり、急ぎ始めた。
新聞バッグがイタリアに行くことになり、報告したら「すごい!すごい! 楽しみです。イタリア語で「みんな幸せに」って入れらどうかしら。鹿島台にイタリア語の先生がいます」と教えてくれた。メールの一文字、一文字が私には
啓子さんの遺言に見えた。「福幸」とイタリア語の「みんな幸せに」はどんなバランスで入れるんだろう。
そう思って、「みんな幸せに」の前に入れる日本語はと尋ねたら、「福幸のみ」と返ってきた。
それからメールは返らなくなった。
ミラノのKMさんから「みんな幸せに」というイタリア語を教えてもらった。啓子さんが元気だったら考えてもらうのに、
と思いながら、四苦八苦して手拭いのデザインを5種類選んで発注した。もうすぐ出来上がります。
たまたまのことで、「聞いでけさいん 新聞バッグのおはなし」という題で書いた私の文章が、みんなの力で
薄いけど冊子になった。それもあと2、3日でできあがります。
両方揃ったら啓子さんの病院に送ろうと、思っていた。メールは返ってこないけど、きっと病床で喜んでくれるだろう、と思っていた。なんだかわからないけど、気が急いていた。でも間に合わなくて、啓子さんは天国へと旅立った。
海山ネットで何かをやる時、考える時、啓子さんを忘れたことはなかった。ここにはいないけど、いつも居るつもりで
必要に応じて相談し、できない時は、メールが返っても返らなくても近況報告をした。
病床にはあったけど、闘病しているだけではなくて、海山ネットワークの重要な。山の手メンバーだった。
私は啓子さんの本当のお仕事をずーっと知らなかったのだけれど、造形作家なのだ、と今日初めて知った。
だから私が何かを頼む度に、手品のように短い時間でデザインや文章を作ってくれたのだって、わかった。
私の大切なラブラドール犬2頭が年老いて、相次いで亡くなった時、悲しんで泣いてばかりいる私に娘が教えて
くれた。「お母さんが死んだら、門まで2匹が迎えに来てくれるって江原さんが言ってたよ」
私はそれで泣かなくなった。 手拭いも本も間に合わなくて、見せることも持って行ってもらうこともできなかったけれど、私が持って行くから。
犬に案内してもらって、必ず会いに行くから。
いろいろほんとうにありがとう。啓子さん。相談する人がいなくなって不安だけれど、啓子さんに聴いたことをしっかり
胸に置いて、これからも新聞バッグに詰めたメッセージをおくり続けます。
また会いましょうね。今少しの間さようなら。
とうとうこの日が来たのですね。「なぜ・・・、神様、あまりにも早過ぎませんか・・・」
啓子さんが地元紙にエッセイを寄せていましたよね、素敵で面白くて芸術的で切り抜いてとっています。今、私の宝物になっています。
啓子さん、安らかにお眠りください。天上から海山ネットの皆さんを見守ってくださいね。
まいりました。昨日は1日、どうしても泣いた。
彼女は海山メンバーでした。病床にあっても大切なメッセージを送り続けて
くれました。でも啓子さんはその辺にいますよ。悲しいのは彼女がやりたいことが
あったということです。