帰れてよかった

2020年の終わりから2021年の我が家です。

落ちてくるのが怖いつらら。

町までの道。

裏庭。

雪の重みで全ての竹が撓んだ裏の竹林。
竹林の向こうの雑木林がまる見えになるのは初めて光景。
丈の高い竹林に遮られて普段は雑木林は見えません。
3日後、折れた竹が棒状に突き出てる。

ああ、雪が溶けた後の竹林の惨状を想像したくない。
折れた竹をノコギリとチェーンソーで切断し、折れた先をズルズル
引きずって捨てる重労働を思うと気落ちする。

ああ、JEJEさんがいてくれたらなあ。
こういう時、どんな重労働でも「なんでもない、なんでもない」
とニコニコ引き受けてくれたjejeさんを思い出します。

コロナの所為で長いこと自国のナイジェリアに帰れなかった
JEJEさんは12月半ばに飛行機が飛んでやっと戻れてもう
日本にはいないのですが。

帰り着くまでほんとうにハラハラものでした。

jejeさんとは昨年の春の終わりに教会で知り合いました。
牧師さんから「礼拝にくるようになったアフリカの青年が
日本語を全く話せないのでちょっと来てみて」と言われて
行ったのが最初の出会い。

黒光りするような褐色の肌とキラキラ光る大きな眼と真っ白な歯
が印象的な、手足が長くて背が高い、初めて接するアフリカの
人です。とてもシャイでとても敬虔なクリスチャン。

東北大学で感染症、特にマラリアの研究をしているとのこと
だけれど、日本に来たばかりでもないらしいのに、日本語が
全く話せないのか、話さないのか、これまで出会った外国人で
これほど日本語を話さない人は初めてでした。

いつも静かでひっそり微笑むだけで、サヨナラもンニチハ
もアリガトウも普通外国人が言うような日本語も言わない。
「どうして日本語話さないの?嫌いなの?」
一度訊ねてみたら、また恥ずかしそうに笑って交わされました。

アフリカ音痴の私はナイジェリアがどこにあるかもわかって
なくて、テレビの旅番組で見るアフリカの国々くらいしか
知らなかったのですが、調べてみるとナイジェリア連邦共和国
は人口2億、アフリカ1位の経済大国であり、そこの大学で
化学を学ぶjejeさんは超エリートなのだと思います。

初夏、思いもしなかった世界中のコロナの蔓延で、夏に留学
期間が終わるjejeさんの帰国予定は全く立たなくなりました。
そこでjejeさんの数少ない日本人知り合い仲間で相談して、
jejeさんの大学での時間以外の余暇をどうするかと、、、。

ということでうちでは非力の私が持て余している庭仕事を
少しhelpしてもらえないかと。一緒に花の仕事をするYおじさん
は、これから始まる畑作りを少しhelpしてもらえないかと。

快諾を得て、jejeさんは筍が出揃う時期辺りから我が庭や
畑に来てくれるようになりました。

電車で来るjejeさんを駅まで迎えに行くのは私。なんですが、
これがなかなか大変で、ちょっとでも時間が遅れたりすると
jejeさんは私を「待つ」とか「探す」とかの選択なく、確固
たる意志をもってどんどん歩いて行ってしまう。
歩くことなどなんとも思っていないアフリカ人の足チカラを
目の当たりにさせてもらうようでした。

そして私たちに立ちはだかるのは言葉の壁。
jejeさんが話す言葉は(500の民族、言語が集まった連邦国
であるナイジェリアの公用語は英語。1960年の独立までは
イギリス統治下にあったことから)イギリス英語です。
軟弱な私の耳には実に聞き取りずらい。

花の仕事をhelpしてもらうYおじさんは言葉での疎通は
ハナから放棄してモノを指差しながら「What you say?」
を連発。jejeさんの答えを待って「ソレ、をやる」という
新しい交流方法を生み出していました。

言葉の壁もなんのその。
ほぼ1日一緒にいて、笑いながら喋りながら耕運機を動かしたり、
畑にマルチを張ったりの農作業を進めるふたりを見ると、
うーーむ、言葉というのは喋れれば便利なんだろうけど
なくてもなんとかなっていくのか、と妙な感慨を持ちます。

歩くのも木に登るのも重いものを持つのもjejeさんは平気。
来ると上から下まで作業着に着替えて、どんなに暑い日でも
平気。勧めても勧めても休みたがらずに水を一本飲んで
(コーラとか絶対に飲まない)ハウスの屋根に届きそうに
伸びた大木の胡桃の枝を払ってくれたり、伐った枝の始末
をしてくれたり、時間がある限りいてくれる本当に有難い
存在でした。

不透明だったjejeさんの帰国は12月になってやっと動き出し
12月も半ばを過ぎてやっと飛行機を確保し、奥さんと
息子のダニエル君、jejeさんがまだ会ったことがない女の子
の赤ちゃんが待つナイジェリアに帰れることになりました。

このコロナ禍のなか、小さい送別会をしました。

「大学で研究をしていた時よりも、知り合ったみんなとと仕事を
したり食事をしたり話したりした帰れなくなってからの時間が
自分にとってはとても貴重で楽しかった。
Yおじさんと一緒に作った畑をしっかり記憶しておいて、
ナイジェリアで畑を作ってみたい。またいつか家族を連れて
ここに戻ってきたい」

そんな言葉を残してくれての出発でしたが、飛行機の途中の
乗り換えのフランクフルト、そしてナイジェリアに到着する
までほんとうに着くのかと心配しました。

今年の正月、jejeさんがようやく帰ることができてひと安心。

でもまだ心配は続きます。
ヨーロッパで南アフリカで猛威を振るう新型コロナの変異種。
そしてナイジェリア北部を拠点とする「西洋教育は罪」という
思想を持つテロ組織「ボコ・ハラム」のコロナ禍での擡頭。

敬虔なクリスチャンで西洋教育の成果を体現したようなjeje
さんに危険が及ばないようにと祈るばかりです。

いつかまた奥さんや子供達を伴って宮城に戻ってきてほしい。
その時には是非、どんな畑ができて、どんな作物が穫れるのか
聞いてみたいものです。

やっと大寒波が過ぎ、少し気温が上がって、破裂した水道管
も修理が終わりお湯がでるようになりました。


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