町がないから。

今週末は高知県四万十川から四万十TOHOKU SHINBUNBAG PROJECTチームが宮城まで来てくださって
ワークショプ第2回目が行われます。

このTOHOKU SHINBUNBAG PROJECTというのは、私たち海の手山の手ネットワークが大震災後に
「何にもなくなったけどあるもの使って手作りでの経済復興活動を」と作り始めた新聞バッグの生みの親である
(株)四万十ドラマの畦地社長や、プロフェッショナルデザイナー梅原氏が中心となって、東北や福島の
生活再建支援のために新聞バッグの拡散を組織だってやりましょう、という大変完成度の高い優秀な
PROJECTです。

せっかくそれだけの企画をもって来てくださるのですから、迎えるこちらとしてはやはり是非とも
成功させたい。滅多なことでは出会えない本物の実力のある方々からアイデアやアドバイスを得られる
機会を海山ネットとしても最大限活かしたい。

とは思うものの、企画書を読めば読むほど、そのPROJECT自体が、海山の現状からかけ離れているような、
やりたい気持ちはあるけど、実力やその他の不足でできないような、なんとも悩ましい気持ちになるのです。

とはいえ数日後に迫っているワークショップ第2弾。
考えてばかりでも仕方がないので、よっちゃん宅で二人ワークショップをやることにしました。

こんな時、家が近いのがありがたいです。
大きな真っ白い紙を広げて、よっちゃんと二人頭を振り絞って超真剣になぜやりにくいのか、どこが
なんか違う気がするのか、意見を出し合いました。

まとまらない、まとまらない! ぜーんぜんまとまらない!

2時間半くらい経って、ようやく書きなぐった白い紙の中から問題点が浮かび上がってきました。

TOHOKUSHINBUNBAGPROJECTの優秀な企画書に呑まれてしまって見えなくなっていましたが、四万十チームで
ノウハウ移転事業として考えられた企画は、いずれはソシアルビジネスを目指す大きな公共事業。

そして私たち海山ネットが日々やっている新聞バッグづくりは、とうがらし屋と梅っこ屋とお餅屋という自分の
生業を中心にしながら、生み出した残り時間を使って右往左往しながらの手弁当でのカツカツ活動。
一方的な支援をするのではなくてお互いよくなるお互い有難うの活動。

そこが違うんだなあ。

そこまでわかって初めてこの手弁当でのカツカツ活動で、どう優秀な企画書に沿えるのか、を率直に四万十チーム
にご相談しようということでワークショップを終えました。

終わった後の帰り道で、ふッと頭に浮かんだこと。

そうだ、町がないんだもの、と気づきました。街がない。コミュニティがない。
なんでこんなに企画のひとつひとつがやりにくいのか。町がないから、公民館やなんとかホールや普通の町にはあるようなものが何にもないから、普通だったらすぐできる通達、伝達することすら難しい。ひとつひとつ達成するだけでもけっこうなエネルギーが要るんです。

 

四万十という町で考えられた企画は町があっての企画で、町がないところでそれをやるのはもの凄い工夫を
しないとやれないんだわー、と最後の最後で気づきました。

 

ノロマな頭を使ってくたびれる1日でした。

 

 

 

 

 

 

 

災害の備えは

台風一過。どうなることやら、と不安だった台風17号、大きな被害が出ることなく行っちゃいました。

よかった。
収穫の秋です。りんごもぶどうも暑い夏をなんとかやり過ごして今からが収穫本番。りんごはつがる、さんさ、
こうりん、と早生が出たばかり。稲刈りもまだ終わってません。

昨夜はやることもなくて、早々にベッドで転がってテレビを見ていたら、ふッと電気が消えて真っ暗に。
停電じゃないですか!
いやー!、想定してなかった。台風で停電になるという構図を忘れてた。
停電で何が困るのか。

冷蔵庫は開けなきゃいい。トイレはもうみんな寝たからいい・・・、と数え上げていて、アッ、そうだ、と思い出したのが
水!  うちはボーリングの井戸なので停電になったらポンプが動かなくなり水が出ません。
お風呂の水は大丈夫です。落としっぱなしということはしなくなりました。

でももう水を使うこともないだろうから、気にしない。寝る!
と寝てしまったら、朝、台風はいなくなり、停電が終わって電気がつき、水も出てました。ホッ!
これで朝になっても停電だったらえらいことでした。

災害の備えというのは、やっぱり時間が経つとおろそかになってしまう。
昨年の東北大震災の時、うちの停電は8日間でした。その間、水を得るのに苦労しました。湧水が出るところは
あるのですが、地震で水が濁ってしまって使えない。発電機を使えば水は上がるのですが、ガソリンがないので
発電機が使えない、という具合で、最後に隣の集落の消防ポンプ場の壁に「水が必要な方、湧水使って
ください」との張り紙があるのに気づき、ガソリンを惜しみながら貰いに行ってことなきを得ました。

 

8日間だったから洗濯物は貯めに貯め、顔もろくろく洗わず、お風呂に入らないのは当たり前、着の身着のまま
寝て起きて(寒いので用事が無い限りは布団にくるまってました)、という日々を過ごしましたが、もっと
停電が続いたら、川まで洗濯に行っていたかもしれないなあ、と今思います。

 

1日動かず寝て暮らしてもお腹は空くので、食料品がもたなくなってきました。でもお米はあるので大丈夫と
思っていたら、精米したお米がなくなってきた。精米機はあるけど電気がないので使えず、ビンで搗こうかしら、と考えました。ついには食料品がつき、九州や新潟や東京の親戚や友人に送ってもらいました。銀行も郵便局も
コンビニも閉まっていて、お金を引き出す場所がなく、お金も送ってもらった。

お米も味噌も漬物も保存食もある集落の人たちは落ち着いたものでしたよ。全然慌てない。
で、私は考えました。10年この地に住んで集落の人たちにはずいぶん親切にしていただきましたが、でも
お米がなくなって譲ってもらえるかというと、譲ってもらえないと思う。

戦後の育ちの私は、終戦後の食べ物がない中、母が着物などを持って農村までお米を買いに行っていた
ことを覚えています。闇米です。
でも今は何を持って行っても、お米に替えてもらえるなんてことはあり得ないと思う。お米そのものをたくさん
作ってないから。

今首都圏で大災害が起こったら。こちらでその話になると、「餓死者が出るだろう」と誰でも言います。
首都圏の人口の食を満たせるほどの食糧があるとはだれも思ってないし、日本の食糧倉庫のような東北も
満身創痍のような状況の中にあり、他所を援ける余力はないし、西の半分で賄うのは無理でしょう。

いったん本物の災害にあうと、考えることが想像することがもの凄くなります。
大災害からの復興というものは、その大変さは半端なもんじゃない、と海山ネットの活動を1年半やってきて
今しみじみと思います。

台風の後のパンジーやビオラ、そしてハボタン。みんな無事でした。

そして私もやっと白菜を植えました。

明日はレタスとキャベツを植えます。