金色の翼に乗って

修道院に泊まったことがあります。

那須のトラピスにトは一般の人が泊まれる宿泊施設があります。格別な飾りのない簡素なお部屋は、清潔で
必要なものは全て揃っている。過不足がないとはこういうことなんだ、と納得しました。

朝食の時のパンがこれまで食べた中で1番というくらいに美味しかったことを覚えています。

何故修道院に泊まったかというと、カルチャーセンターで一緒だった友人が、ご主人とご子息を失くした後、
この修道院に入ったので、会いに行きました。

会う、と言っても会いたい日も時間も前々から予約して、忙しい日々の修行の合間に会わせて
頂けるのです。何かできることをと考えて、1日に何度もある礼拝に朝と夕べの2度出させて頂きました。

とてもとても不思議な体験でした。この世の中にこういう方たちがこういう形で暮らしておられるのか!
黒やグレーや白い衣の修道尼たちが50人ほども美しい高い声で合唱し祈り、一人だけ男性の外国人の
神父さまが朗朗と祈りの言葉を述べられます。

今思い出しても夢の中の時間だったような気がします。

 

帰ってきてから、その時から、私が作るお餅を送ることにしました。似合うとか似合わないとかは無視して
外国人の神父さまの分も入れて、あんころ餅5、60個どっさりと送ります。
一日で作るのは難しいので、少しずつ作っては冷凍し、まとまったところで、道の駅で販売している松山の
一六タルトと一緒に送ります。

栄子さんのご両親は松山のご出身。お祖父さまの兄上が松山大学の創始者であり、、一六タルトは
栄子さんが子供の頃から最も親しんだお菓子だそうです。
4年前に私の両親が1日違いで亡くなった時、「自分のせいだ、自分のせいだ」と取り乱す私を全身全霊で
慰めてくれました。今手元にある栄子さんからのお手紙の数の多さにびっくりします。

今日は栄子さんにお餅を送る準備をしました。新米とかりんごとかこの秋に実ったものを送りたいのですが、
自給自足で賄われている修道院なのでお餅だけ送ります。

グリーリ栄子さんの著書をご紹介します。

『いのちの椅子』
『金色の翼に乗って』
戦後の日本の音楽文化発展に尽くされたマルセル・グリーリの奥様が、ご主人とともに数多く出会った世界の巨匠、美智子皇后陛下、中村宏子さんたちとの思い出を綴った心温まるエッセイ、と紹介されています。

音楽がお好きな方は是非。素晴らしいエッセイ集です。

 

 

 

 

実りの秋

毎日暑くて真夏の気温ですが、お米はしっかりと実りました。

そろそろ稲刈りです。早いうちではスマッコ(隅っこ)刈りが始まりました。

遥かに鳴子の山々を望みます。その向こうは山形です。ツヤヒメの産地。その向こうは日本海。

町はこんなふうに低い里山に囲まれています。
豊作かな? 色は真っ黄っ黄ですごくきれい!
今年は雨が降らないのでまっすぐ立ってます。これで雨が降ったら重みで寝倒れてしまうのだけど、今年は
それがない。

ここはササニシキ発祥の地、ササニシキ、ヒトメボレ、ツヤヒメ、その他いろいろ。
東北のお米はほんと、美味しいです。魚沼コシヒカリのようにもっちりではなく、ちょっともっちりが入っているけど、
さっぱりとして噛めばお米の味が甘く感じられます。私はササニシキファンです。

福岡の友人たちも宮城米のファンになって、食べ比べてますが、ササニシキが人気があります。

反対側の里山の連なり。47号線を望みます。

こちらに来て、「今どんなお米好き?」「前はどんなお米食べてたの?」と聞かれることがあります。
ここのお米はどれもおいしいです。古米でも冷えたご飯でもおいしい。おかずなんかなくても梅干し、
漬物で充分食べられます。ご飯がおいしいから。

版画家の岡澤さんは以前は玄米のみ食べてたのに、ここに来てから宮城のお米大好きになりました。

 

前はどんなお米を食べてたか、というと、都会にいる間はずーっと値段でお米を食べてました。
3000円以下では美味しくないのじゃない?
4000円以上だったら間違いない、とかね。友人たちとお金でお米の値踏みしてた。

お米だけではなくて炊飯器もある程度値段が張るものがご飯がおいしく炊けるのだろう、と思ってました。
でも全然関係ない。今は近所のスーパーで買った一番安くて小さい炊飯器でご飯を炊いてますが、
変わりなく美味しく炊けます。

 

こうして黄金色に染まった田園風景を見ていると、お米こそが命の源だと思えてきます。
お米を食べて、田んぼを失くさないようにしよう。この風景を見ていると、東北は日本の食糧庫だ、
と思わせられます。

そしてこっちでは、大変な暑さの中、パンジーもビオラも苦戦を強いられています。

ハボタンもここまでなりました。

温度が高かったら色が出ないけれど、、それでもどの苗もがんばってここまで大きくなりました。
パンジーもビオラももうパラパラと咲いてます。
でもまだこれからが栽培の本番です。市場に良い苗出せるようにがんばります。

 

 

 

 

会社を作る

さをほど深く考えたわけではないけれど、海の手山の手ネットワークとして活動を始めてからほぼ1年。
ほんとうにたくさんの方と知り合って、繋がって、援けていただいていることに驚くばかりです。
最初はそんなこと、全然考えなかった。ただ活動を通じて人と人が繋がり、大きな輪になったらいいなあ、
くらいに思っていた。

ところが、今どのくらいの方と知り合ったか、どのくらいの輪になったか、どのくらい援けて頂いたかと考えると、   数えられません。あまりにもたくさんで。
大震災がなかったら、こんなに短い間にこれほどのいろんな職種のいろんな立場の方々と知り合うことは
決してなかっただろう、とそれだけは確信できます。

海の手山の手ネットワークの山の手メンバーは最初からよっちゃん農場のよっちゃん、梅農場のS、
お餅と花を作っているomochi、そして事務局のKJ。彼女はNPO大崎創造研究会の事務局が本職です。
海の手さんは多数。南三陸、南相馬、女川などの沿岸部で被災した方々です。

 

新聞バッグや布の小物を海の手さんたちに作ってもらって販売する事業のようなことをしていますが、
(海の手さんたちはもう150万円くらいのお仕事をされました)人の繋がりが大きくなるにつれて、海山ネットを  NPOと思われる方が増えてきました。私たちはNPOではないので、どうも居心地が悪い。
「山の手は自営3人が一緒に活動しているだけのちっちゃな任意団体なんです」とその都度説明しても
どうも存在の形そのものがウヤムヤ形態のようで、このまんまじゃまずい、という場面が多くなりました。

 

先日、よっちゃんちの昼下がりでよっちゃんと、家電会社の経営悪化について論を展開していた時、

「クローズアップ現代を見たから、悪化の理由は分かった。でもその理由が納得できない。だって、
いくらでっかくて画面の精度がいいテレビ作ったって、私のような年よりばかりこれから増えるのよ。         それに 名前も知らないお笑いさんのバラエティーばかりやってるのに精度なんか意味ないでしょ。
どうせ老眼で眼が見えてないんだから。だいたいそんな立派なテレビをどこ向けて売りたいのかしら。
そこがわからん」

といいかけて、ふッと、儲かって儲かって仕様がなかった会社がどん底のような経営悪化なのなら
全く利益を追っていない海山ネットのようなところが株式会社になったら??
「株買う人いるかしら。私買う。お金儲かりたい会社じゃなくて、手仕事作る会社だもん」

 

言ったとたんよっちゃんが「それだ!」と乗りました。
妄想力の逞しいよっちゃんの妄想が加速して上昇します。

 

うん、給料もらおう。社長は200円。社員100円。関係者みんな出資する! すごい数になるよ。面白いねえ!!
なにせ付き合いが広いものだから、ちょっと想像しただけでもどれだけの数の人が関係者なのか
思い浮かばない。

すごい話になりました。もしかしてもしかすると何かの変化はひょっとした時にひょっとするかもしれないのだから
最初に話した記念に書いておきます。

 

海山ネットの始まりだって、大震災後初めて顔を合わせた時、「お見舞いのお金って使っちゃったら何にもならない
よねえ。壁直したら直しただけだもの。やっぱそんなお金って回さなきゃいけないお金だよね」と私。
「そうですよ!!、直した壁の写真見るよりそのお金が経済復興に使われたほうが、送ったほうだって
嬉しいですよ!!」とよっちゃん。

 

みたいな会話から始まったのですから。それが新聞バッグ1万枚に繋がりました。
がんばろう。                                                             妄想は絵に描け、とプロフェッショナルデザイナー梅原真氏に言われたから絵を画いてみよう。

 

 

 

食われる、食われる!

4種類も植えたのに、実った端からハクビシンが食べてしまう枝豆。

悔しいから全部引き抜いて家に持ち帰りました。
枝から豆を外すだけでも1時間いじょうもかかったけれど、じゃあこれ全部食べられる?
かと聞かれたら食べられないかもしれない。

でもでもやっぱり畑で毎日食べられるのを、毎朝見つけるのはなんとも悔しいんだよねえ。

スイカは1個食べただけで後全部食べられた。何がスイカ食べるのか。ぱっくり食われているところをみると
熊かなあ、と思うんですが。

去年かぼちゃは見事に半分くらいぱっくり食べられてました。何だろうかなあと思っていたけど、今年になって
熊がかぼちゃを食べると聞かされてガックリ。

トウモロコシは熊は食べます。一昨年畑を3段にわけて気合を入れて作ったら、3段とも食べごろだなあ、と
こっちも思った頃にやってきて、親子で食べちゃいました。畑の濡れた土の上にぼっこり大きい足跡と
小さい子熊の足跡が残ってました。山の雑木林から同じところを下りてくるので、草が倒れて熊道ができてます。
トマトがいっぱいなってるのだけれど、全部実が青くて全然赤くならない。不思議だなあ、と思っていたら       トマトも食べられてました。何がトマト食べるんだろう。ほんと悔しい!畑の実なりのトマトは美味しいので私も食べたい。

いっぱいなる茄子を食べてほしいけど、茄子は食べないんだよねえ。ピーマンも唐辛子もオクラも食べない。
やっぱり動物でもおいしいのだけ食べるんです。

道の駅で生産者仲間のAさんが「ハクビシンにぶどう食われた。悔しいから食ってみたけど酸っぱくて食えない」
と言ってました。Kさんはハクビシンに見つからなかったんだねえ。トウモロコシを出荷に持って来て、大きいのを
ふた袋もくれました。2、3年前Kさんのところに行ったら、「トウモロコシまだ烏に見つかってないから、 御馳走すっから」と声を潜めて言うのでおかしかった。

うちでも最初トウモロコシを何者かに食べられ始めた頃は鳥かと思って、畑中釣り糸を張り巡らして自分が
ひっかって歩けなくなったりしていました。悪戦苦闘ですが、今のところ完全に負けている。

畑にはすごく大きな丹波栗が3本あって今たくさんの実をつけています。これも熊の好物で、この先栗の木に
熊がのぼるんじゃないかと心配です。
近くのSさんのところのりんご園には時折熊が入ります。熊が食べたから後のを採って道の駅に持ってきたのを
もらって食べたことがありますが、やっぱり若くて美味しくなかった。

 

とられるのは嫌なんだけど、一生懸命動物のエサを作ってきたような気もするんだけど、やっぱり秋になると
木の実の豊作を願います。熊がお腹いっぱい食べて冬眠に入れるように。
そのくせ春筍の時期になったら出会うんじゃないかとビクビクするんですが・・・。

動物たちも作物を全部食べなきゃいいのに。一部食べて一部残しておいてくれたら、憎まれないのになあ。

見た!! 今朝家から道路に出る出口で、リス(ホンドリスだかエゾリスだかわからない。ちっちゃくて細くて
焦茶色でしっぽが太い)が、胡桃を口にくわえて地面を横切っていきました。

 

 

 

 

 

 

復興予算の使い道

今日は9月11日。東北大震災から1年半の日です。

死者、不明者18684人に震災後に起こった震災関連死1632人を加えると、犠牲者は20000人以上。
そして今なお、仮設住宅や借り上げ住宅で暮らす避難者は34万3000人。

数字として見ると34万はただの数字ですが、一人一人の苦しい避難の生活が34万件今もなお先の見通しが
ないまま続いていると考えると、これは国民全体で考えてもどうしたらいいのか答えが出ないような事態なのだと
思います。

内陸部の自宅から仮設住宅に行くと行く度に、どうなるんだろうなあ。この仮設住宅での暮らしは・・・・と必ず思います。同行する仲間たちも、口には出さないけど、みんな同じことを思っていると思う。

1年半前も今もほとんど何も変わらない。

仮設住宅の入り口の前に、テント屋根のみんなが集う場所ができていたり、食品販売の車が来ていたり、
あと、行く度に、前にはなかった商店とかコンビニとかできていて、一見、復興が進んだみたいに見えるけど、
個人でそれができる人ができてるだけで、仮設住宅はやっぱり小さな部屋が連なった仮設住宅です。
それと志津川の被災地を流れる川の水と陸の差。ほんの少ししかなくて、あれじゃあちょっと雨が降ったら水が上がるだろうなあ、どうにかならんのか、と痛ましいです。私も行く時は平気でも夕方帰る時は海のほうの浸水が気になって落ち着きません。

そんな被災地の状況の中で

9月9日にショッキングなNHKの番組を見ました。
スペシャル番組で「復興庁の予算はどう使われているのか」
復興予算総額19兆円。

その使い道は復興のための予算であるはずなのにまず最初に取り上げられたのは岐阜県のコンタクトレンズを作る
工場の増設。コンタクトレンズを増産することによって、仙台に店をオープンして雇用を発生させる、という理由だけれど被災地の仮設住宅で不自由な生活をされている被災者の生活再建よりも優先されるとは思えない。

次に沖縄の国道整備。国立競技場の補修費、7億円 調査捕鯨でのシーシェパード対策、23億円。
公安調査庁のテロ対策費。北海道と川越の刑務所の人材養成費、
どこが何が被災地の復興と関係あるの?というようなところへ使われたのが200事業以上。被災地で認可されたのが30事業。その他にもいっぱいあるんですよ。書ききれないだけ。

どう考えても復興のために集められたお金の各省庁による分捕り合戦としか思えませんでした。
この財源は増税。14年から始まる所得税、住民税の増税が当てられ、それは25年間も続くわけです。

何故被災地以外に復興予算がこれほど遣われるのか。その根拠は政府の基本方針に「活力ある日本の再生」と
いう一文が入っているから。ということでした。

そして一方被災地では病院の再建資金の予算の認可が下りず、診療を続けたいが事故負担を強いられる医師
たち、そしてその医師を頼りにする避難住民の苦しさは置き去りにされている。

これは見るべきスペシャル番組でした。もっとこんな番組は増えなくてはいけないと思う。
NHKの受信料、惜しまず払うからもっと次々番組で私たちが知らないことを伝えてほしいと願います。

 

 

サービスエリア夜8時

暑いです。!!

9月も半ば近いというのに、毎日のこの暑さ、たまんないです。
早蒔きしたパンジーは、暑くて乾くから水をやらねばならず、やったら水が熱くなって根が焼ける。

温度が高いから上へ上へと延びてふにゃふにゃになる。なんてことの連続で、暑さの中での外仕事の
疲労も重なって、ほぼ夏バテ状態。

私ともう一人うちの花担当は二人して食欲なくして、水のお茶漬け食べてる状況なので、夜は外食
と決定。どこがいいかということになって、東北自動車道のSAのレストランに行くことにしました。

家から車で10分ほどで行ける長者ヶ原サービスエリアは外にも駐車場があって出入り自由(無論徒歩で)。

で、前回行った時、お盆の頃だったか、人であふれるようだったから、レストランの脇の小道から中をのぞいて見ると
ガラーン! お客さんは一組だけ。静かにお食事中でした。

ここは下りのSAなので、上りのSAに較べれば人も少ないのかなあ。とは思うもののあまりの人気、車気の少なさに
どうしちゃったの、という心境。表の大きい駐車場は遠くにトラックが2台止まっているだけ。そして乗用車はというと
1台停まっているだけのまさにガラガラ状態。

長い年数車に乗って高速自動車道のサービスエリはよく来るけれども、こんなに人も車もいないサービスエリアは
初めて見ました。どうして?

 

東北自動車道、仙台以北の普通の日ってこんなに車が走ってないのかしら。

車がいないんだから当然お土産ショップもお客の姿はなく、従業員の姿だけが目立ってました。

ちょっとショックだった。                                                      近頃テレビに出て来る政治家たちが、東北の復興とか東北大震災だとかについて話すところを
見たことないような気がします。自分たちの党の誰が総裁になるか、そんなことばっかり言ってる。

これが毎日のことだったら大変なことだから、交通料を安くするとかして、お客さんを呼ぶように
してほしいです。
また、2、3日してお客さんしてきます。

 

今日わかった。事故でした。トラックが横転していたんですって。私の早トチリだった。
よかったー。「東北は大丈夫だよッ!」と道の駅のバックヤードで笑われました。

 

 

 

 

 

 

 

よっちゃんちの昼下がり

きのう、相談事があって、「よっちゃんなんばん」のよっちゃんちに寄りました。

丁度お昼時で(いつもお昼時で申し訳ない)、よっちゃんが飲み物を出してくれました。
海山ネット開始前は、よっちゃんのこと、同じ道の駅の役員で長い付き合いなのだけれど
料理とかあんまりやってないように思ってました。

でもこの頃は違います。
だんだん料理の腕が上がってきた。奥さんのみっちゃんは料理上手です。でもこの頃、よっちゃんたちが
よく参加する出店販売のために、新しく自分が作った農産物をいかにおいしく食べるか試作するからでしょう。

よっちゃん農場焼きそばや、豚丼など美味しいです。おいしいね、という感じじゃなくて「うまッ!」という感じ。
お祭りで、よっちゃん焼きそばを買い、その焼きそばをバーチャンの私が全部食べたと言って泣く
うちの4歳のために、翌朝わざわざ作ったよっちゃんなんばん焼きそばを届けてくれたこともあります。

今は地震で窯が潰れてなくなってしまったけど、彼は竹炭を焼いてました。

藁編みも得意でムシロや草鞋は編めると思います。木を削って鉛筆作ったり、南三陸新聞バッグ制作用の
簡単机を作ったり、小野寺さんのハウスの棚を作ったり。

トラクターを操って米を作り、野菜を作り、なんばんを作り、自分の炭でなんばんを焼き、辛さのエキスで咳は
ゴホゴホ、目を赤くしながらなよっちゃんなんばんを仕込む。いっぱい売るためには宣伝文句を考え、それを
パソコンで絵や文字にし、ラベルを作って貼ってという作業をして、製品にしています。

要するに原材料の制作から、加工、販促、営業まで全部みっちゃんと二人でこなしているわけで、その上、
原材料になる農産物は季節季節で変わっていきます。畑や農地にある原材料をほぼ見落とさず、手を使って
モノにしようと日々がんばっているのがよっちゃん夫婦です。

彼が勉強したのは東京の大学の工学部。そのまま東京で会社などに職を得て、パソコンの前に一日座って
満員電車に揺られて帰るみたいな日々を送っていたら、今頃は手でモノを作ることとは程遠い、全てを
稼いだお金で賄わなければならない生活をしていたと思います。

都会での働く価値の中心がお金という暮らしの中で見れば、第一次産業は働いても得られる収入は低く、働く
価値が低いように見えます。が、不景気になったら、天候異変や災害などでお金が動かなくなったら、お金の価値が
下がったら、手でモノを作り出すことがどれほどの価値を内包していることか。
土と水と太陽と手があったら生きられるもの。でもさ、今は手でモノを作り出す価値がどん底まで下がったんだよねえ。

それで思い出しました。昔、今はあまり見かけなくなったけど、新聞には風刺漫画が載ってました。
ブラックユーモアが効いてる漫画が多くて、その核心の付き方に感心したものです。
例えば、都会の真ん中でドデカイ災害があって、食べ物が得られなくなった。たまたま見つけた食べ物。
魚であっても乾物であっても、今だったら「これは何?食べ物だと思うけど、どうやって食べたらいいの?」と
端末機器をまず探さなきゃならないんだろうねえ。電気はどこどこ?とか、さ。

 

まさに現代は風刺漫画そのもの、と二人で大笑い。そんなことにならないように用心しようね、
と話が盛り上がった昼下がりでした。

 

 

 

 

 

折鶴ー滋賀からの便りー

この2、3日雨が何度か降ったら、急に気温が下がって夕方には肌寒いほど。
一気に秋の風情です。
朝、畑で「百舌の高鳴きを聞きましたよ」とラジオで聞いて、家に帰ると窓の外でぴーっ、ぴーっと百舌の声。
百舌の高鳴きから75日で霜がおりると聞きました。

夕方の畑で喧しいほどの虫の声の声を聞き、家に帰ったら真っ暗な森のどこかからホーッ、ホーッ、
ゴロスケホーホー。朝、うちの4歳にフクロウはゴロスケホーホーと鳴くんだよ、と聞いたばかりだったから
慌てて孫を呼んだら、いなくなっちゃいました。
フクロウの声を聞くのは久しぶりです。しかし文字通りほんとにゴロスケホーホーと鳴くんだね。

南三陸の小野寺さんの菊をたくさんご注文をいただいた滋賀県の方から心温まるお手紙をいただきました。

大切なことがいくつも書いてあります。

「大震災後自粛ムードが高まる中、私たちは今ここで自粛するのではなく、何もなくしていない無事だった
私たちが日本を東北を護っていくべく、今まで以上に元気に活動して、その分の利益を東北に還元していく
という考えで行動しました」と。

だいぶ前、土曜日の朝の番組で、俳優の中井貴一が、インタビユアーの阿川佐和子に
「このところずいぶんお忙しくお仕事なさってますね」とその理由を聞かれて、
「東北大震災が起こってから、被災していない人間ができることは基本的には仕事をがんばること
しかないと思った」
と言うのを聞いて、核心をついた言葉だなあ、と感心したことがあります。その言葉と同じです。

高知に行った時、ご一緒した女性陣が「東北の人にがんばってくださいって励ますでしょ?
あれって違うよねえ。頑張らなきゃいけないのは被災してない私たちだよねえ」という言葉に、
なるほど、と得心したことがありますが、あれも同じです。

そんな考えが基本にあって、「たまたま知ったよっちゃんなんばんをこの土地で紹介したら少しづつでも
応援にならないかと考え、よっちゃんに連絡したら新聞バッグと出会った。とともによっちゃんブログや        山の手ブログとも出会い、小野寺さんの菊と出会った。」と。

私の菊の師匠、小野寺氏が今再開を期してがんばって作っている菊を、買ってくださった方々は
毎朝水を替え、お墓でも水を替えて大切にしてくださったそうで、「作り手の人の想いとそれを伝える皆さんの想いと
受け取る人の想い、たくさんの人の想いが繋がって、みんなが喜びあえるとても良い出逢いをさせてもらった」
とありました。

海の手山の手ネットワークの根底にある考えがそのまま書かれていて、嬉しかったです。

菊を買っていただいたからには、その事情を知っていただきたいと、私もお手紙を書いたけど
こうしてお返事のお手紙をもらって、買っていただいてからの向こうの事情を知ると、人と人が繋がるとは
こういうことなんだなあと納得します。

 

昨日の新聞の第一面には
「被災3県アンテナショップ 売り上げ半減。復興したと誤解か。応援ファンドも反応鈍く」という記事が載ってました。
その記事の反対側には「除染 重い住民の負担」とありました。

応援ファアンドでどうにか再開できた商店や被災企業が、再開はしたもののその後やっていけないというのでは
何のために応援してもらったのかわからない。アンテナショップの売り上げ半減というのも、ええッと驚くのではなく
「そうだろうなあ」と妙に納得してしまう。

こういう状況にあって、今日のお手紙は、中井貴一氏のように、被災が少なかった私たちはとにかく
「がんばらねばならん」という気持ちにさせてもらえます。有難いです。

 

封筒の中にお手紙とともに折鶴が入っていました。

 

大切に飾って置きます。滋賀の皆さま、ありがとうございました。

 

 

 

 

再会

昨日から、東京の岡澤さん、そして長野での大人の文化教室でお世話になった第一企画の
Mさんが長野から来てくださいました。二人は美術の学校での親しいお友達だとのこと。

岡澤さんは大崎に来るのは2度目です。1回目は第1回目の海山教室の講師として、「ハンコで遊ぼう」
というお教室を開いてくれました。その時とうがらしのハンコを作ったよっちゃんが、そのハンコを            販売しているとうがらしの包紙でも梱包したダンボール箱にも朱色のスタンプでばんばん押すので
「うれしいわー」と喜んでます。

岡澤さんは折に触れては「私はちっちゃなことしかできないけど、お仕事作りましょうーよ」と凄いことを
サラリと言います。
自分の頭で考えて自分の手で素材を選んで物を作って自分で流通させて販売している人
だから、普通にそんなふうに言えるんですねえ。

 

以前に来た時、初めて南三陸へ行き、せっかくだからと菊の師匠の小野寺さん夫婦に会ってほしくて
仮設住宅に案内しました。小野寺さんのご主人と奥さんのムッチャンに会って、すっかりファンになりました。
で、今度も行きたいと。

で、南三陸へ

防災庁舎で。

普通の日なのにけっこうな人出でした。みんなお線香を持って並んでました。お線香を立てる灰は
お線香でいっぱいで私のお線香1本が入らないくらいぎゅうぎゅうでした。
ここに来た人たちはみんなこうしてお線香を立てて手を合わせてくれます。

防災庁舎から海側に見えていた志津川病院が壊されてなくなってました。
なくすしかないんだけど、でも複雑な心境。そこにあった病院での日常の暮らしの思い出や津波や来た時の恐怖や悲しみまでも一緒になくなってしまったような気がするからだね。きっと。

 

Mさんはデザイナーでもあり、出版やイベント、ウェブなどの企画やプロデュースなどのお仕事を
なさっています。
長野ではテレビや文化教室の進行で大変お忙しそうでほとんどお話しする暇がなかったので、今回は
南三陸に案内して、車中、たくさん海山ネットや新聞バッグのはなしを聞いていただきました。

小野寺さん宅では師匠は菊の圃場めぐりで留守。奥様のムッチャンに朝獲れのサバの味噌煮をごちそうになりました。ムッチャンは長年の縫製工場勤めで縫物も上手ですが、料理が上手です。数か月に渡る3食温泉付きの
避難所暮らしでも腕を落とさなかったんだね。

ムッチャンからいい知らせを聞きました。
先日よっちゃんたちと一緒に小野寺さんの菊畑を訪問した埼玉のくるくるネットの方たちがみんなの分、
彼岸の菊の注文をくださったそうです。よかった、よかった。こうして少しづつ人の心だけでも元気で
元に戻らなくちゃ。そうしてそういう人達が増えなくちゃ。

夜は仙台で東北村のメンバーと一緒に懇親会。
仙台に向かう途中の東北道で、またもやドーッと雨が降り出しました。
楽しい1日でした。

ちょっと新聞バッグのご紹介。

大和総研調査本部から送っていただいたフナンシャルタイムズで作った新聞バッグです。

 

 

 

 

手紙

お中元の季節はもう過ぎてしましましたが、日頃からお世話になっている方々に気持ちだけですが、
何か品物とお手紙を送ることにしました。

ほんとはね、海山ネットメンバーである梅農場の3代目、S0さんが作る枝豆ができていたら送り
たいのですが、まだ豆はできてません。畑で育ってるとこなので、山形のだだちゃ豆せんべいを用意しました。

SOさんが作る枝豆。その名を自分と重ね合わせてサンダイメと言います。食べた者が誰でも「うまい!、甘い!」と感動するほどおいしい枝豆です。でもできてないんじゃ仕方ないものね。

普段海山ネット関係はパソコンで書いてしまうことが多いのですが、お礼の気持ちをまっすぐ伝えたい
ので、便箋にお手紙を書いて送りました。

いつもイギリスの経済紙、フィナンシャルタイムズを送ってくださる大和総研調査本部の方々。
そして、先日小野寺さんの菊を大量に買ってくださった滋賀県の方。

に最初にお手紙書きました。
そしたら今日お返事が返ってきた。

大和総研調査本部の方からは気にしなくていいから、これから新聞バッグを海の手さんが作ってる現場
写真など見せて頂いたら嬉しいと。送ります。海の手のみんなが新聞バッグ作っているところの写真を。
そして滋賀県の方。
そしたらなんと、南三陸の私の菊の師匠、小野寺氏の彼岸菊をご注文いただけることになりました。
嬉しいですねえ。
小野寺さんは菊作りを1年休んだ後、一大決心で畑を借りて自分で耕しお盆の菊作りを再開したものの、津波の前とは勝手が違って、奥様ともどもだいぶ農作業や販売に苦労なさってました。

海山代表よっちゃんは、私が南三陸に出向いて預かってきた見本の菊を持って、仙台まで未経験の
菊の営業に出向いたりしましたが、何人かのお客様に「買うよ」と言っていただいて完売しました。

ほんとによかった。
で、その時に一番たくさん買ってくださった滋賀県のお客様が「素晴らしい菊だ!」と誉めてくださり、これから最盛期を迎える彼岸菊も買って頂くことになったのです。小野寺さん、張り切ってます。誉めて注文いただければ、作る方も嬉しくてお客様の期待に応えようと楽しい気持ちでがんばっちゃいますから。

本当の商いってそういうもんなんですね。どっちも嬉しいもの。

お手紙には小野寺さんの菊栽培再開後、販売に苦心なさっている様子。そして何故買い手を探さなきゃ
ならなかったか。その理由なども書いておきました。

被災した一人一人が少しづつでも生活を再建させようと踏ん張ったり、落ち込んだりする物語を
お手紙に託して送りたいと思ってます。

そしたらそのひとつひとつの物語の中から新しい人と人との繋がりと、新しい未来ある展開が生まれるかも
しれません。今度の小野寺さんと滋賀県の方のようにね。