元気だねえ!

去年7月、海山ネットガ新聞バッグ作りを始めた頃、よっちゃん農場の発信を補助しよう、とパソコン音痴の
私が始めたこのブログ。よっちゃんから「毎日続けるのが大事なんですよ!」と念をおされて、その気になって
ほぼ毎日書こうとは努力してきたのですが、風邪ひいてダウンしたらなかなか復活できません。

先生からはインフエンザじゃありません、と言われたのに、ちっとも風邪っ気がぬけない。
朝だけ元気で、時間を追う毎に、「具合悪ーい。なんだ、なんだ、どうなってるの、この咳、この熱」という日々。 続きを表示

「怖い」って、何がこわいんだろう?

半分くらい復活してきました。ありがたいことにインフルエンザではありませんでした。

今日はいい天気。どこまで続くのか信用できないけど、今は真っ青な空。窓から見える立木の枝にちっちゃな鳥がたくさん飛び回ってます。ちっちゃいからツツピー、ツツピーと囀るガラ類ですね。

この2日、熱も高かったので、頭がボーっとしながらも考えていたのですが、「怖い」ってなんだろう、ということ。 続きを表示

風邪

鬼の攪乱!

終に風邪を引きました。ここ2年くらい鼻風邪もひいたことないのに。

昨日、一昨日と、午後になると雪が降りしきり、夜は凍りつき、朝になると晴れて溶ける、という日々です。

昨日の午後の雪もフロントガラスの向こうが見えないくらい。これは積もるだろうと覚悟していると積もらない。
朝は晴れて溶けます。その溶ける時が寒いんです。雪が溶ける時は冷えます。

今日テレビを見ていて昨年の311の翌日に栄村というところで、大きな地震があり、家が壊れてたくさんの
方がたが仮設暮らしを余儀なくされている、というニュースを見ました。 続きを表示

祝、東北村開村

昨日、3月11日は1日中、気が滅入るというのではないけど、普段よりもトーンダウンしてしまった気持で、
テレビを見たり、考えたりして過ごしました。

被災者にとって、1年という区切りに何か意味があるのかな。道の駅とか自分の商売とかというと、やっぱり震災前と後では、お客様の数も売り上げも変わってしまった感があるし、うちの地面は亀裂が入ったままだし、建物は傾いたままだしなあ。亡くなられた方だって、いっぱい見つかってなくて、今だって、毎日のように捜索があっているのだし。少しでも立ち上がった方たちは、これだけ復興したよ、と1年の意味もあるだろうけど、悲しさとか苦しさとか寂しさとか、そのまま続いている人は昨日の続きだからなあ。 続きを表示

南三陸町からの手紙

今日3月11日は、去年の大震災の日。この地に来て10年余り。何回も震度5とか6とかの地震を体験したけれど、
本心からあれほど怖いと感じたことはなかった。何かに捕まって耐えられる、という揺れではなくて、右へ左へと体が振り飛ばされるような揺れがやっと小さくなって、車に乗り込んだら、ガタガタガタガタ体と指が震えて、ハンドルが握れなかったことを思い出す。東京にいる子供に無事を知らせようなんてことは全く頭になくて、ここにいる家族や知り合いが生きてるか、生きてるか、とそれしか思わなかった。 続きを表示

310  南三陸へ

東京のチームワンネスOT隊長から、「南三陸からの手紙」ができました。南三陸に来ました、
というご連絡をいただき、急遽南三陸へ。

あいにく天気は朝は雪。後雪混じりの雨。
今日の南三陸は人がいっぱい。車もいっぱい。南三陸以外の土地の人がたくさんいるという感じ。
明日が311だからだなあ。みんな写真を撮ってます。

防災庁舎。真ん中に献花台がああります。お線香あげられるようになってます。いつもお花がたくさんです。
今日は観光バスも入ってます。

戸倉の海。泳ぎたい海ではありません。まだ・・・・・。

1年経っても何も変わらないですね。

信号はできたけど、ガレキも潰した車もそのままです。ガレキといってもゴミじゃないんです。
よーく見ると、今でもマットレスだったり、毛布だったりします。一口にガレキというとゴミみたいだから
嫌な命名だと思います。

2月半ばにオープンした南三陸さんさん商店街の理容店。息子さんとお母さんとチームワンネスの女性陣。
使用5年限りという仮設のお店。息子さんの手によるインテリアが素敵です。

みなさんどうぞ南三陸さんさn商店街をよろしくお願いいたします。

 

それからそれから現在、トレッサ横浜で田舎郡東北村催事が開かれています。
おなじみ、よっちゃんなんばん、新聞バッグ、my竹箸、福幸手ぬぐいなど、品揃え。
お時間ありましたら是非寄ってみてください。

明日までです。

311を前にして、テレビの映像はあの日を映し出しています。
連日見てると、やはり気が滅入る。
みんなで話したこと。あれ以上地震続いたら地球が壊れるんじゃないかと思った。と異口同音。
思い出して話していると、だんだん血の気が引くような気分になります。

なんというか忘れないようにと思い返すのも疲れます。

 

 

 

 

 

311を前にして その2

昨年の秋ごろから我が家の庭に居ついている真っ白で目が青い猫ちゃん。最初に見た頃には体が小さいような
気がしたのだけれど、春には大人になるのか、このところの深夜の猫、猫、猫の乱戦は、耳を覆わんばかり。
かくなる上は、と勝手な行動を猫に詫びつつ、病院に連れて行ったら、予約なしで手術はできません。

断られてすごすご戻ってきました。はアー、来週まで不眠が続きます。

大震災から1年。テレビの番組で被災者からの手紙、1年経った今、という番組を見ました。
家族も家も仕事も津波でなくして、悲しみに沈んでいたけれども、今言いたい言葉は「ありがとう」って。
どうしてそんなに、と思うんだけれど、でもその悲しみをどこに向けようもないから、結局「ありがとう」になるんだね。
きっと心の中には、いっぱいいっぱい話したいことがあると思います。

220人の死亡診断書を書いたお医者様が出てました。話しながら泣きそうになってました。
子供がいて働けないお母さんが、収入が得られないと悲痛な手紙を書いてました。住んでるアパートが流れなかったから支援金が出ない、と。
仕事が遠くで見つかったからと仮設住宅からいったん出ると、戻れません。自立とみなされるから。

報道にはあまり出てこないけど、自立しようにも不都合なことがいっぱいあります。

花の出荷に行ったら、ばったり、南三陸で被災し、今はよっちゃん宅の近くで暮らすAさんご夫婦に会いました。
アルバイト先の梅農場で、落ちてきた剪定後の梅の枝が目を刺したと、病院帰りのサングラス姿でした。
奥さんのTさんは毎日1年後のテレビ番組を見ては涙が止まらないそうです。でも「見ちゃうのよねえ」と。
「波を被った者しかその痛みはわからない」と。
そうだろうなあ、と納得しました。

海の男であるご主人は今は仕事に就いてません。「仮設住宅の近くにいくら仮設商店街を作ったって、お金がなきゃ
何も買えないんだよ。作った人らはできるからいいけど。仕事がなければお金が入らないから何も買えない」
そのとおりなんですよね。

きのうも南相馬から避難中のKAさんが、ビラ広告の仕事に行くというから、「ちょっと待って。よーく調べて」なんて
言っていたのですが、とにかくKAさんに仕事をしてもらうためにはパソコンを覚えてもらいたい。でもパソコン受講の
費用が出てこない。原発事故さえなかったら、KAさんはパソコンやる必要はなかったんだけど、今はなんとしても
やってほしい。

みーんなひっくるめて一緒に仕事をしたいねえ、と言ったら、ご主人が「そうだ、そうだ、何かやろう」と言ってました。
こういう状況の中でもみんな明るいんです。立派です。

 

 

 

 

 

 

311を前にして

春でーす! 田んぼの白鳥。ドロンコの白鳥。

雪はこれだけ溶けました。

昨年は大震災の前の湿った大雪で、ハウスが潰れ、その後大震災が起こりました。電気もガスも全てが止まった
中で、農場の家の猫の餌やりに往復2時間歩いてましたが、あの時も雪道だったなあ。その時はまだ田んぼに白鳥
はいました。我に返った時には、白鳥はいなくなっていました。

大震災で何もかも滅茶滅茶になって、もう何にも来ないのかなあと、思っていたら、道の駅にいつもと同じ時期に
ツバメが現れました。ああ、鳥は関係ないのか、と思って嬉しかったし、大震災の最中に北へ戻って行った白鳥や
雁が10月半ばに飛来した時も、よかった!、戻って来るんだ、と嬉しかった。

鳥はいつもと同じだけれど、人間のほうは大変です。311を前にしてこのところのテレビは、あの日から1年の番組が満載。朝から、夜までそればかりだと、なんだか見るのが嫌になるというのか、切なくなるというのか。
これだけ復興しましたという被災者の笑顔はまあいいのですが、テレビの報道番組での復興討論などを見ると、ピントが外れているというのか、基礎的認識が間違っているというのか、がっかりを通り越して絶望したくなります。

違うよー。討論するのだったら、しばらくこっちに住んでみてから言ったほうがいいよー、と言いたくなってしまう。

大震災から1年。この2、3日の新聞の一面の見出しです。

「農地 津波浸水2万ヘクタール超」
塩害や地盤沈下で大変な困難を伴いながら復旧は進んでいますが、原発周辺は先が読めません。
「見えぬ出口 復興阻む。ガレキ処理3県の進行率5.6%」
ガレキの持って行き場がないので復興が進みません。石巻の要解体家屋は今でも約2万棟。解体しても持って行き場がないので、倒れかかったまま、空洞化したまま建ってます。
「人口流動 深刻な転出超過。自治体存続の危機も」説明の必要がないような見出しです。

未だこういう状況の中で、「風化した」とか「復興が進んだ」とかと言われても、よそのことのようです。

 

昨日、南三陸の海の手Sさんから
「新わかめできたよー。食べてみて」と電話がありました。みんなで元避難していた鳴子温泉の旅館に一泊で来ている。明日朝、道の駅まで持ってくよ、ということだったので、朝、もらいに行きました。前、志津川のウジエスーパーで働いていたMちゃんも一緒だった。全員支援品の服を来ていた時とは違って、元気でお洒落で素敵でした。

これが新わかめ。柔らかくて肉厚で美味しいと評判だったわかめです。

しかし、値段が高い!去年の2、3倍。少ないわかめにたくさんの人手がかかっていると思うと、値段は
高いほうが理に適っているのだけれど、「売れるかねえ?」と苦笑いのSさん。

もうしばらくしてたくさん採れるようになったらもう少しは値段が下がるかも。
でも売れます!おいしいから高くったって売れる。
みなさん復活した志津川のわかめです。ちょっと高いけど、どうぞ食べて見てくださいね。

 

 

 

高島屋催事終了

大きすぎて、ちょっとピンボケ。

新宿高島屋でこういう和風スタイルでお餅つきまでやってのける催事出店者はあまりいないと思うのですが、
よっちゃん夫婦、いい雰囲気のこの姿で6日間をとおしました。

デパートでの販売時間は午後8時までとけっこう長い。足が痛かったけど、初めは大雪、最後は大雨という
お天気状況最悪コンディションで、客足は今いち、というかんじだったけれど、楽しかったです。

私たちをボランティアで手伝ってくれた千葉大学の学生たちです。植物、農業、昆虫などを研究している園芸学部の学生たちで、ほんとうに素晴らしい若者たちでした。
日々、実のない、被災地の現状を知らない、人間の復興を忘れて町の復興ばかりをあーでもないこーでもないと
論議している国会討論、テレビ討論を見ては聞いては、先の希望を見い出せないでいた私の心に、「えーッ、こんな素晴らしい若者がちゃんと育っていたんだ!」とほんとに嬉しい希望の光を灯してくれましたよ。

 

売り上げ的に言うなら、この高島屋催事は、お天気に恵まれないことや、その他諸々の理由で大変に厳しいもので
ありましたが、でも初めて出会う方々とたくさんお話しすることができました。大きな収穫でした。出会ってお話し
すれば、新しいアイデアが生まれ、新しい行動が始まります。新しい行動の中で、また新しい人と出会います。

まず人と人。人と人が繋がらなければ何にもできない。一人で出来ることなんて限られてますから。
その意味でこの「田舎郡東北村」構想は、初めから根っこで「結」という心で人と人が結ばれています。
出店した村民は初めてお顔を見る方も多かったけれど、根っこで「結」と思っているから、始めっから気楽に仲間としてお話しできました。自然に、この次もがんばろうねえ、また必ず会いましょう、という気持ちになります。

 

東北被災地を案じて、話しかけて下さったたくさんのお客様、東北一団の意向にできるだけ沿おうとご協力くださった高島屋の方々、被災地には来たことがないのに、事情を深く汲みとって販売してくれた千葉大学学生たち、ほんとにありがとうございました。

 

今週末はTRESSA横浜、そして月末の週末は柏の葉ららぽーとでの販売予定です。
「結」の心で踏ん張る『田舎郡東北村』に是非お出かけください。

 

ピンクの梅と棟方志功

私が東京から帰ってきた金曜日は、1日晴れ。よほど晴れて温かかったようで、ハウス周りや家の周りにけっこう山になっていたカチカチ雪が、溶けてなくなっているのでびっくり!

そして翌日土曜日。つまりきのうは、午後から大雪。なんでこんなに降るの?というくらいどんどんどんどん降り積もって、朝には木の枝もハウスの屋根も雪だるまのようになってました。その後やんだかと思うとみるみる積もった
雪が溶けて、夕方気温が下がり始め、明日朝はマイナス9度の予想だとか。 続きを表示