海山ネットのこれからは

悩み事ではないんだけど、まあ、年の初めも関係してのことだと思うが、海山ネットを
どう続けるかということが頭を離れない。

ありがたいことですが、近頃新聞バッグをご注文くださるお客様が少しづつ増えてきた。
これから「置いてもいいですよ」と言ってくださるところも、お願いすればある。
南三陸、女川、南相馬(今は大崎市)の海の手さんたちの新聞バッグ作りの腕前は
数を重ねて職人はだしの見事さだ。

今朝は湘南の素敵な喫茶店の方から、ご連絡をいただいた。
近場では宮城の酒蔵一ノ蔵さんはもとより、これからは志津川のホテル観洋さん、
東京や仙台のギャラリーさん、その他単発でのご注文も多数ある。

比べて少数なのが海山ネットの山の手メンバー。
全4人のうち3人は個人事業者で、家でものづくりの仕事をやっている。生産物を作る
ために、農作業、加工場作業と日々時間に追われる作業をしながら、もともと居住人口の
少ない町での役割を務めることもあり、道の駅での出荷という日課もある。

個人事業者ではない事務局のKはもともと某NPOの事務局が本職であり、そちらの仕事
の比重が重い。その中で、新聞バッグ発注、受取り、ラッピング、発送、営業、広報、
海の手さんとの連携と、一人飛び回ってがんばってくれている。

これ以上忙しくなったらどうするか、が大問題。
初めに4人で決めた海山ネットの目標は、海と山、力を合わせて「手仕事で経済復興」
現状では経済復興なんて全然成ってないのだし、今年は更にスケジュールは過密に
なりそうだから、そこをなんとかクリアする方法を考えなければならない。

誰かにお手伝いをお願いすれば雇用が発生。お給料を稼がねばならない。
ということで私は新たな商品を販売することを考えています。

それが手拭い。福島、宮城、岩手、青森、東北の心を伝える手拭い。今三春で怖い想いを
なさった方に心を伝える絵を描いていただけますか? とお願いしたら、考えますとのこと。

できあがるのがとっても楽しみです。

今日の東京のお天気はどうだったのでしょう。
新聞バッグや布のバッグなどの販売をお願いしたチームワンネスの皆様、気仙沼の皆様
2日間、お疲れさまでした。ありがとうございました。

 

 

朗報!

朗報です。!!

さっき福岡の「木の花」さんから嬉しい連絡がありました。
「木の花」さんは、昨年末私の親友のご主人の病気見舞いに帰福した際に、街を歩いていて
飛び込みでフラリと入った素敵な木綿屋さんです。

その「木の花」さんの人気商品、作務衣スタイルの上っ張りの縫製を、南三陸の海の手さんに
発注してくださることになっていたのですが、その最初の上っ張り5枚がきれいに縫い上げられて
戻ってきたそうです。

「とてもきれいに縫っていただきました。感謝します」と書いてあって、これから月20枚の上っ張りを
注文してくださるということでした。
なんと嬉しい!! 私は嬉しくて涙が出ましたよ。
だって普通見も知らぬ者に、お店の看板商品の縫製を頼んだりしないでしょう。
もちろん東北応援のお気持ちもあったと思いますが、それでも福岡の女性の懐の深さ、心優しさに
(この10か月変わらずずーっと支援し続けてくれている級友たちも含めて)、心から感謝し、私も
福岡出身の一人として誇りに思いました。

「着物も縫ってくださいね」とおっしゃっていたから、この先ご縁が深くなったら、もっと違う
お仕事もできるかも。
南三陸がいつか再興する日まで、遠い福岡とご縁をつないで質の高い手仕事を続ける
ことができたら嬉しいことです。

お餅屋の私は朝ドラを見る時間はまずないのですが、たまたま見かけたカーネーション。
糸子さんが
「服はしょせん服。戦争で傷ついた人の心を助けることができるのはこの手なんや」
と言ってました。「神様、力をお貸しください」と祈ってました。
いい言葉だなあ、とお餅を切りつつ感動!
海の手も山の手も手を大切にし、手を磨きあげましょう。

朗報2
南三陸志津川のホテル観洋さんでも新聞バッグお買い求めになれるようになりました。
よろしくお願いいたします。

 

 

 

大正ロマン

「ほーッ」
居並ぶ5人から嘆息の声が漏れる。
保管している着物地の中から、私が一等気に入っている薄地の布を出した時のことだ。

なんと、きれいな、エレガントな着物の布。色は赤とも朱とも形容のしようがない。
黒い格子柄が入っている。もう一枚は全体に薄淡いピンクの花柄が描かれた総柄。
「大正の着物よ。大正から昭和の初めの着物の布。なんてきれいなんだろう!」
手芸の先生の声ご一緒にみえた先生のご主人も身を乗り出して来られた。

そいえばそうだ。初めて見た時からなんと美しい布だろうと思っていたけど、言われて
みれば見覚えがある。昔の雑誌「ひまわり」に中原淳一が描いた少女が来ていた着物の柄、
そして竹久夢二の絵の中の美少女の着物の柄だ。

午前10時半から始めた手芸の先生と、手拭いのデザインの絵をお願いしたくて
三春からお越しいただいたAさん、そしてAさんのお兄さんご夫妻との6人ミーティング。
初対面のご挨拶が終わった後、すぐにAさんが「こんなものを作ったのですが」と出して
くださったのは、破竹のような細い竹を使って作ったお箸入れ。ほんとうに見事なもので
スポンと音をさせて蓋を抜き取ると、きちんと普通のお箸の形をした、けれど竹で
作ったお箸がお行儀よく現れる。矢竹という竹を使用するのだそうだ。

物作りの極致というか、ほんとうに素晴らしい。
全国の皆様から送って頂いた着物を利用して、どんな方法で家庭洋裁から仕事としての
洋裁、または手芸に転じることができるのか、一過性の品物を作るのではなく、永続性の
ある商品としての製品を作れるのか、そんな相談をお願いした手芸の先生が、この
お箸入れには袋があるほうがもっと素敵になりますよ、とおっしゃった。

そして選ばれたのが男性の袴の布地。
黒い色の布地があるな、とは思っていたけど、男性用袴の布地だなんて考えたことも
なかった。大正の布地と袴の布地を合わせて袋のモデルができました。
これはミラノ行き。

着物布地の選別、整理。手拭いの話、志津川のご出身で津波でご実家を無くされた
先生のご主人のお話、三春で、原発の爆発のきのこ雲を見、翌日には閃光、そして爆発音
を聞いて、逃げました、とおっしゃるAさんのお話、宮城では話題にもならないリアルな
放射能の話。
話題の種はつきず、ミーティングは夜7時半に終了。

話のあまりの面白さに気が付きませんでしたが、外はしんしんと雪が降り積もり銀世界に
なっていました。

 

 

 

 

着物

昨日は仙台での会議で1日が終わってしまったので、今日は15日からの世田谷ボロ市で
販売をお願いする新聞バッグや布小物を送り出さなければならない。と一日の時間割を
考えているところに、手拭いの絵をお願いした方のお兄さんご夫婦と食品スーパーで
バッタリ遭遇。思わず長時間ミーティングになる。

奥様は以前から私がお願いしていた、手芸の先生を探してくださったそうで明日仙台から
ご夫婦でお見えになるとのこと。私もお目にかかることにして、急ぎ事務所で保管している
布地の点検へ。ちょっと見ない間にまた着物が増えている気がする。よっちゃん農場が
持ってきたのかな。

これまで送っていただいた布地、反物、帯地、着物などなど見ていると、今日本には
どれだけの着ない着物が女性たちのもとで保管されているのだろう、と想像してしまう。
天文学的数字じゃないだろうか。まったく着物を着ない、この先も着るあてのない私でさえも
若い時からの着物を数えあげれば数枚ではきかない。亡くなった母の着物も手つかずで
あるし、結婚した娘の着物もそのままだ。

こういうのをどうにかしてなんとかならないのかしら。
復興に役立たない? 着物地のスリッパというのも見たよ。わんちゃん、ネコちゃんの
着物地のお洋服というのもあるんだって。
一日世田谷ボロ市用新聞バッグのラッピングに余念がないメンバーのKに言うと、「着物
地のまんま売ったらいいんじゃないんですか」とバッサリ。

海山ネットの一連の活動の中で思うのは、中間の作業の大変なこと。着物地でリメイク
されたお洋服は素敵だけれど、作ったら?とよく人には言われるけれど、中間のほどいて
洗ってという手間のところで必ずひっかかる。誰がやるのか。
一部南三陸に送ってほどいて洗ってをお願いしたけれど、安い手間賃に気がひける。
とはいえ、海山ネットもお金がないのです。

今日は南方仮設住宅で立ち上げられたNPO代表のUさんに、手芸教室を開いたら来たい
人いるかしら、と尋ねてみました。声をかけてみるわ、とのこと。
明日先生に、効率的に着物を活用するには、とご相談してみましょう。経験豊かな先生の
お考えで、着物や布や帯が、仮設の人たちの手によって、新しい価値のある品物に生まれ
変わったら素晴らしいですよねえ。
世田谷ボロ市用大きなダンボール箱が2個出来上がって、ヤマトに運んで今日の海山
の仕事は終了。

東京のみなさま、15日16日には是非世田谷ボロ市、NPOリブ・フォー・ライフ(本田)美奈子
基金のブースまでおでかけくださいね。

 

東北地域活性化推進協議会&ミラノからの便り

マイナス6度!
朝9時半、道の駅に出荷にいく途中の国道47号線の電光掲示板を見て目を疑る。

うそーォ。 寒くて電光掲示板が壊れた?
年中無休の道の駅に毎日通っているが、朝9時にマイナス6度なんてことはかつてない。
30分ほど経ってやってきたA出荷者が「マイナス4度だ」というのを聞いて、やっぱ
ほんとに寒いんだ、と納得。
雪はないけど猛烈に寒い。昨日販売機で買ったお茶を飲もうとしたけど、逆さにしても
出てこない。

ミラノからのお便りが届く。
ハンドメイドのお店を経営なさっている日本人の女性で、イタリアも物作りが盛んな国。
でも実際に売られているのは中国製品ばかり。ものづくりを大切に思う者として、大震災で
大きな痛手を負いながらも、一歩一歩踏み出そうとする東北の人々の心や力やものづくりの             、
工夫を、経済の低迷で荒れてゆくイタリアの人々に伝えたいと。

午後から仙台で、東北地域活性化推進協議会に海山ネット代表の代理として出席。
代表のよっちゃん農場は少し遅れるということで、私一人でそうそうたる男性メンバーの
お話を聞きました。総括して「東北村プロジェクト」

つまり「東北村プロジェクト」では
田舎郡東北村という現実の地図にはない仮想の村を作り、その住民は東北の生産者、
工業者、商業者、その他東北の物を作る人たち。そこはみんなで助け合い、分け合う
結の里。そこで作ったものは実際のリアル事業へと展開し、プロジェクトを担うTLC事務局
によって首都圏への流通に向かい、向かった先の販売場所では、物を売るだけではなく
再生する東北の心を伝えます。同じ動きがバーチャル事業としても展開されます。

これもまたイタリアへ伝えたいお話ですが、逆にまた東北の心を世界に向けて発信
できるということでもあり、今日は寒くて会議は濃密でとても疲れたけれど、豊かな時間
をもらえた一日でした。   感謝!

 

 

 

手拭い作り

ここ2、3か月手拭いを作りたいなあ、と思っている。何の手脱ぐいかというと、新聞バッグと一緒に
販売する手拭い。手拭いって素敵な手拭いはほんとに素敵でしょ。私たち加工をする人間は
いつだって頭に被ってるし、縫えば袋にもバッグにもなるし、小さい子供の夏のアッパッパーなんか
手拭いで作ったら涼しいだろうなあ、と思って。

これまで東北復興イベントなどで、新聞バッグと共に布で作ったエプロンや袋ものなどを販売して
きましたが、正直エプロンは土地の暮らしと密着しているので、東北で作ったエプロンが東京で
たくさん売れる、ということはちょっと難しいのです。好まれるデザインがちょっと違うから。

それにたくさん持って行きたい時は嵩張るし重い。これまで作ってもらったエプロンは12月の世田谷
ボロ市で完売しましたから、これを機に、少しエプロンを減らしてもうちょっと軽くておしゃれで、お客様に
買って頂き易いものに変えてゆきたいと思ってます。

そんな訳で、手拭い作るっていくらくらいかかるんだろう。どんな風にして手拭いって作ったらいんだろう。
その辺りが知りたくて、ネットで探した手脱ぐいを作る会社に2、3電話を入れたら感触が悪かった。
個人はダメ。忙しいからと断られたりしました。

デザインをどうしたらいいんだろ。誰に頼もう。やっぱりネットで探した手拭いを作る会社に、福島、
宮城、岩手からのメッセージ性があるデザインをお願いできませんか、と問い合わせてみたら
やっぱり断られた。そうだ、じゃあ東北の方にお願いするのが一番だ、と考えて調べてみたら
岩手、釜石で見つかりました。お願いしようと思ったら被災されてお店を閉められていた。

じゃあどこかにいらっしゃるだろう、と探したら津波で亡くなられていた。まだ34歳の才能あふれた
女の方だったのに。お一人残っていらっしゃるようだからと避難者の避難先名簿を見てみたら
その名簿が700ページくらいあって、家を無くした方がこんなにいらっしゃるんだ、と胸が苦しく
なって、290ページあたりで中断しました。

でも、やっと光が見えてきました。三春在住の素敵な温かい優しい絵を描かれる方に巡り会いました。
染めは私の大切な友人の幼馴染であるたけひろちゃんにお願いしたい。
ミラノに間に合えばいいのですが。

 

ミラノと世田谷ボロ市

昨年の12月15日16日に開催された、東京世田谷のボロ市が、また今月15日16日に開催されます。
寒い時期の最中だし、12月の時も夕方になると底冷えがしてずいぶん寒かったので、「いいです。
寒いから。12月だけで充分です」と販売を引き受けてくださるチームワンネスさんにお断りした
のだけれど、「構いません。売る品物を送ってくだされば売れるものは販売します」おっしゃって
くださった。

販売場所は前回と同様世田谷信金の横の代官屋敷。認定NPO法人リブ・フォー・ライフ美奈子基金
さんのブースをお借りするのも前回同様です。前回はがんばっていただいて全商品完売だったので、
今回は、東北のイベントでは時々行う、新聞バッグ入り自然食品、保存食品、常備食品と半ば
冗談混じりで謳っている、よっちゃんなんばん、梅干し、餅(私たちメンバーの自家生産品ばかり)セット
も販売していただけませんか、とお願いしてみました。

返事がない。
1日半ほど経って「止めとけばよかったなあ」と後悔。

だって東京で宮城の食品を売ってくださいというのは、言いにくいじゃないですか。相手の方が
親切であればあるほど、「ダメ」と言いにくいだろうなあ、とそんな立場にチームワンネスさんを置いて
しまった自分に後悔。

もう1日ほど経って代表のOさんから電話がかかりました。「いろんな方がいらっっしゃるのだから試しに
でも置いてみませんか。少なく。売れなかったら悪いから」と。
そうなんですよねえ。昨年はそうでもなかったのだけれど、この頃は、放射能の数値が出ている訳でも
ないのに自ら遠慮して、東京で食品買ってくださいというのは言いにくいなあ、と思うようになって
しまっています。メンバーのKは食材を東京で、と言ったとたんに「無理でしょう」と言います。

福島とその先の土地の間に1本の線が引かれてしまっているような気がします。

昨夜珍しいメールがありました。イタリアのミラノから。3月に経営なさっているお店で新聞バッグや
布小物や写真の展示でのイベントを考えられているとのこと。
イタリアの方々に何を伝えましょう。
やっぱりなんて言ったって、援けて頂いたお礼、感謝の言葉を真っ先に伝えたいですよねえ。
準備をするのが楽しみです。

 

 

 

ファシリテーション

2012年1月7日、古川の町のとある喫茶店兼レストランで年初のランチミーティング。

山の手メンバー4人、日頃入れ違ったり、すれ違ったり、違うミーティングで顔を合わせたり、
ということはよくあるが、4人集まってじっくり話すという時間がなかなかとれない仲間うちの
重要な時間です。

11時に始まってお昼を食べてコーヒー2杯に紅茶を飲んでケーキまで食べて、3時間あまり
しゃべるは説明するは、飲み込む間も惜しいほどしゃべりまくって、各自持ち寄った情報や
重要案件を片端から説明、議論、合意形成に結び付けて終了。
あ~、目が凹むほど疲れた。喉がかわいた。

確かこのレストラン、予約が入っていて他のテーブルは女性の団体さん、その他にも
ランチタイムには満杯で新しいお客さんを断っていたような記憶があるが、ほとんど覚えて
いない。他の3人も同様だと思うが、それほど真剣にミーティングをしたということだ。
ママさん、ごめんなさい。「いいよ、大丈夫よ」と言っていただいたおかげです。

こういう、情報はたくさんでアイデアもたくさんで話し合うこともたくさんある、というような
ミーティングを短い時間でこなさなきゃならない場合、絶対的に必要なことは改めて確認
し合わなくても大丈夫な、共通の目的に向かって進んでいるという協働意識です。
海山ネットの目標は、海の手も山の手も一緒によくなる自立支援。
この共通認識がなかったら、何時間ミーティングやっても各自の意見はテンデンバラバラで
何のために貴重な時間を費やしてミーティングをやっているのかと空しさだけが残ってしまう。

海山ネットのミーティングはその空しさが全くありません。
自分の中にあるものを全部出しきってすっきり!という感じ。
各自生業を持つ多忙さの中で海山ネットの中の役割を認識し、情報を交換し合いながら
役割をクリアし、組織全体の次の段階へと進む。

といえばかっこうがいいけど、海山メンバーは道の駅で10年この方一緒にやってきた仲間で
気心、考え方がわかるからできること。新しい仲間で何かをやろうというような場合には
とてもこんなふうにはゆきません。

そこで重要なのがファシリテーション。

様々な価値観やスキル、アイデアを持つ多様なメンバーの意見や認識を、引出し、共有して
合意形成や意思決定に結び付け、メンバーの参加意識を高める。とwikiにはありますが、
会議の場などで公平な立場に立って話し合いに介入してファシリテーションを行う者を
ファシリテーターというそうです。

海山メンバーの一人Kはファシリテーター。
ファシリテーターの力を借りて、意見百出のなかなかまとまらない、論点がぼやけるミーティング
や会議を、客観的に「見える」化するというのも、これからの会議のあり方には重要ではないか
と思います。

一人ぼっちのお正月

今、東北はこんな状態でありながらも普段と変わらぬくらい、年賀状が届く。
出す方は、年賀状なんて出していいのかなあ、と迷われた方も多いかもしれない。

正月前までは、どうしようかなあ、と迷ったりしていたけど、やっぱり一日一日と年賀状を書いて
普段の年と同じくらい書いて出し終えた。

テレビで見た仮設住宅住まいの年配の女性の方が「いつもだったら50枚くるんだけど、今年は5枚だけ。
住所がわからないからねえ」と寂しそうに言っていた。
仮設住宅で、息子さんが亡くなられたか来られなくなったかで、お正月を一人で過ごされている方だった。
炬燵の上にはちゃんとお重におせち料理が並べてあった。

何時もの年だったら近所の人と賑やかにお正月を過ごせるのだが、仮設で知っている人がいない。
だから一人で過ごすしかないんだ。笑顔でそう言い切っているけど、一人だよ。
一人でおせち食べて誰とも話さないでテレビを見て三が日を過ごすなんて寂しいだろうなあ。

私は全くの市街地の生まれ育ちで、結婚してからは九州から東京までの大都市を転勤した後
首都圏に住み、最後にこの山間の集落に移ってきた。夫も子供もいるけどずーっと核家族だった。
都会の転勤族には地域での繋がりは無いに等しいから、一人には慣れている。
一人が寂しかったら、自分から求めて仕事に出たり、サークルに入ったりしなければ寂しさは
解消されない。

そんな風に生きてきて、人間関係が濃密なこの集落に住み始めた時、この小さな町の人々はほとんど
みんなが知り合いなのだろう、と思ってしまった。
でも月日を重ねるにつけ、だんだんわかってきたことは、山一つ越えた向こうの集落の人をここの集落の
の人は知らず、逆もまた同じということだった。

東北沿岸部のリアス式海岸。入り江のひとつひとつにある漁港の町は、きっとそこだけでみんなの顔が
わかりあって助け合いながら暮らして来られたのだろうと思う。入り江がひとつ違えばもうそこはもう
違う人たちの漁港の町だったのではないだろうか。

集落の人たちがみんな一緒で固まって仮設住宅に入れればよかったのだが、あの混乱で仮設住宅
入居は抽選になり、私たち海山ネットが親しい避難所の方々も散り散りになってしまった。
仮設の女性の方の一人で過ごすお正月の寂しさを、ただ見るのではなく、少しでも寂しくないような
次のお正月が迎えられるように、心を寄せ続けたいと思ったものだった。

 

 

 

新年会

私が住むこの町では、毎年1月2日に各集落の集会所で、新年会が行われる。
もてなしは持ち回りの当番制で雑煮が振る舞われ、寿司の折詰などが出て、集落の人々が
集まり、この地域選出の市会議員さんや県会議員さんにも出てもらって、今この町や市などに
起こっていることが話し合われる。

10年前この町に移住してきた翌年の1月2日、私たち家族は全員この新年会に招待された。
まだこの地方の言葉にも慣れない頃で、緊張してみなさんの前に並ばせてもらったが、口々に
「都会からよくこんなに田舎に来てくれた。よろしくお願いします」とこちらがお願いするようなことを
逆に言っていただいたことが印象深かった。
以来10年余り、住んで仕事をして、嫌なことは全くなかった、と明確に言える。
集落のみなさんには、後から移り住んできた私の両親(3年前に91歳で二人とも亡くなりました)をも
含めて、大変よくしていただいた。

そして2012年、今年の新年会。
私が出たのではなく、出席した夫から聞いた話だけれど、がっかりした。
私たちが来た頃には27軒あった世帯数がもう20を切った。どんどん人の数が減ってゆく。

そして、311の地震で私たちが外側から見て認識していたよりももっと方々の家が、道路が
壊れていることがわかった。
ちなみに集会所そのものがひどく損傷していて、治すには160万円以上かかるとのこと。
県にも市にもお金がなく、無論みんなの家もそれぞれの損傷を抱えたままだから、個人的に
協力するなんて無理。

集会所のお隣の家はこの間から修理の工事をしているのかと思っていたら、損傷がひどいので
取り壊して撤去したのだそうだった。
我が家でも壊れた部分はそのまま放置の状態だけど、もし集会所用に160万円の用意が
できたとしても、人的に今修理をしてもらうのは無理とのこと。

今我が家の前の県道は11月から始まった「地震で壊れた道路を治しています」という
標識を立てた工事が未だ終わっていない。ずいぶん長い間応急処置をほどこしたまま
になっていたが、いざ工事が始まってみるとその規模の大きさに驚かされた。

我が家から岩出山の町まで約7キロ、その大部分が大規模修理の対象で、ちょっと見た
だけではそれほど壊れているとは予想外だった。反対方向の一迫町までの6キロも
ほぼ同様で未だに工事は終わっていない。

次に町まで出るもう1本の道路の砂田線。この道路の壊れ方は激しく、用水路に掛かっている
橋は傾いて落ちそうになっている。応急処置をしても応急処置をしても壊れ方がとどまらず
ひどくなってくのが私のような素人目にもわかる。

がっかりしたのはこの大崎市で今修理をしようとしても全容がわからず本格的な修理が
できない道路がたくさんあるというのだ。それもこの辺りで。この先表面は大丈夫のように
見えても深いところで亀裂や崩壊しそうな場所が多くあり、それを調査する期間が3年。

市では3年。県では4年が調査期間で、本当の工事が始まるのはその後ということ。
調査する人も足りないということ。

なんだか聞いているうちに壊れているのは道路だけ?と自分の土地を疑う気分になってくる。
地震後、我が家の前の田んぼの向こうの山の用水に近い部分が木ごとドサドサと
あっちこっちで落ちていた。そのまんま草が生えて当たり前の風景のようになってしまって
いるけど、また大きな地震が来たらどうなるんだろう。

一度大雨で畑がある土地の端が生えている木や草ごと10メーターくらいに渡って崩落し、
下の道路を埋めてしまった時には、ほんとに驚いた。これは町では経験できない出来事で
どうしたらいいかと町役場に連絡したり土建屋さんに電話したりで慌てた。

復興、復興というけど、ほんと復興というのは先が読めなくて大変です。
こんな小さな集落でさえも。