再び南三陸町へ

              三日間の東北被災地視察を終えられた福岡県の建設会社サン電工舎の重役

       方が帰福された二日後、今度は社長が来られた。1週間の予定であり、今日は

       その3日目。前回の視察で撮ったビデオ写真を見て、南三陸町に行きたいとの

       ことなので、ご案内した。A仮設住宅。小野寺さんが入居している。

       前回同様自治会長さんと、その奥様も同席してくださった。

       福岡という遠方からの支援で何ができるか、を話し合う。

       南三陸の仮設住宅は50数か所に分かれているようだけれど、建てた建設会

       社によって、仕様が全く違う。窓が掃出し引き戸だったり、上だけの窓だったり、

       扉も引き戸だったりドアだったりで、使い勝手が仮設ごとに違う。

       A仮設の場合は建物そのものが箱型で雨が降れば窓からも玄関口からも

       雨が降りこんでくるのでその対策、雨樋がないのでその対策など、この先

       連絡をとりあって会社の方で材料など支援していただけることになった。その他

       衣類、生活用品、なんでも困ったことがあったら連絡できるようになった。

       ほんとに有難いこと。

       ここでは男の人たちの仕事であるガレキ処理が9月下旬で終わる、その先の

       仕事をどうするか、など密度の濃い話し合いだった。

       明日は石巻渡波地区を訪問し、つい先日閉鎖になって避難所の役目を終えた

       お寺のお住職を訪問する。

       良いお話合いが進むことを願いつつ、明日は石巻に行きます。

       またご報告します。

      

       

       

    

       

       

 

閖上漁港、石巻

              家の前の電線の不調でブログが書けなくなっていたよっちゃん農場のドタバタ日

      記が今日から復活しました。これで一安心です。

      私もよっちゃん同様、福岡からお客様が見えたり、四万十ドラマの畦地氏やデザ

      イナーの迫田氏とお会いしたりいろいろ忙しい時間を過ごしましたが、今日は初

      めて行った閖上漁港と石巻のことを書きます。

      福岡から東北被災地を視察に来られた(株)サン電工舎の取締役3人とカメラマン

      をご案内して閖上漁港と石巻に行きました。仙台東部道路から見る県南被災地

      は塩水を被った木や草は茶色に枯れています。一面に茶色で所々水が溜まって

      います。朝市で有名だった閖上漁港はどこにあるのかわかりませんでした。「閖

      上漁港はどこですか」と尋ねて「その辺り」と教えてくれたガードマンが指差す辺り

      には10メートルもそれ以上もあるガレキの山々々。「復興」とか「復旧」とか言葉

      では言うけれど、元に戻るとは思えない光景です。振り向くと、震災前にはあった

      だろう住宅の全てが土台を残して全くなくなり、草が生えた広場の風景でした。

       石巻は全く違う、津波に貫通されて空洞になりぼろぼろになった住宅の密集

      地でした。これだけたくさんの家々にどれほどたくさんの方々が住まわれていた

      のか。人の姿はないに等しいけれど、どこに行かれたのだろう。そしてこれだけ

      の家を解体するとどんなにたくさんのガレキが出ることだろう。いつか新聞で

      見た、宮城のガレキ処理は100年かかる、と書かれた記事が心に蘇ります。

       日和山から海を見ると、バラバラになった防波堤が海に沈んでいました。

      1日2回家の中に入ってくる海水です。もし私の家がこの中にあって住める形

      を僅かでも残していたとしたら。壁や窓にブルーシートや板を何枚も張り、人

      が住まわれているらしい家もあります。

      何もかもすっかり失くなってしまった南三陸とは全く違う被災地の形でした。

      このブログは復興へ向かっての一歩一歩の記録として書き始めたのだけれど、

      今は復興という文字が心に沿わなくなってきています。もしかしたら復興でも

      復旧でも再生でもなく、創生、新しく作ることへの一歩一歩の記録なのかもしれ

      ない。そんな思いがしています。

      

      

歌津

      

       東関東大震災が起こるまで一度も行ったことがない南三陸町に、初めて行った

       のは一月ほど前だった。南三陸町で一番大きい街である志津川は、津波で流さ

       れて何もなかった。流れ残った鉄筋の建物だけが、ところどころで痛ましい姿で

       立っていた。屋上に車が乗ったままのところもある。信号も標識も目印にする建

       物もないのですぐに迷子になった。その日の目的である気仙沼に近い小野寺

       氏が住む仮設住宅に向かう途中、歌津を通った。自分が走っている道路左手

       の高い場所に駅舎が見える。当然列車は走っていない。駅の下は広場で簡易

       トイレが2個置かれている。駅を背にして海の方向を見ると、海に面して大きな

       橋梁がが何本も立ち、橋は流されたのか何もない。手前に青いウタチャン橋。

       暫く橋に居ついたアザラシの名前らしい。駅から海までは広い空間で、津波の

       あとの荒れた部分はたくさんあるが、草も生えて静かだった。一度も歌津へ

       行ったことのない私は、それが歌津の風景だと思った。

         そして2度目。今度は一人ではなかった。海山ネットメンバーと一緒だった。

       歌津の駅舎の写真を撮りに行った。線路はないそうである。海の手前の橋梁

       を「あれはなあに」と聞くと、「45号線」と意外な返事が返ってきた。ええっ、じゃ

       今私がいる道路は?あれが海沿い幹線道路45号線だとすると、駅から海まで

       の空間は? 動転している私にメンバーが言った。「駅の下には駅舎があって、

       駅舎で切符を買って階段を登って駅に行ったのよ。駅の前は七十七銀行とか

       お店とか向こうが見えないくらいのたくさんの建物が海まで続いている街だった

       よ」

       驚愕した。ほんとに驚いた。前の街を知らない人間にとっては今の歌津は、

       以前からある風景のように見える。この風景が元の街に戻ることが

       可能なことなのか、まったくわからない。

       今日歌津の人に会った。鳴子の温泉にいる頃より屈託のあるお顔に見えた。

       現実の生活に向き合うことはとても厳しいことだけれど、人と人との軋轢に

       心を痛めないでください。そんなところに捕らわれたら復興も復活もできなく

       なってしまいます、とお伝えしたい気持ちになった。

       

       

       

     

       

       

       

       おっかなびっくりで始めた菊、小菊2000本、輪菊1000本、が咲き始めまし

       た。お盆には咲かなくて、咲かない、咲かない、と言っていたら、いっせいに咲き

       始めて大慌てです。先日、南三陸まで菊のお師匠さんである小野寺氏に見せ

       に行ったら、予想に反して真面目な顔で「立派だ。よくできてる」と誉めていただ

       いてびっくり。冗談かと何度も聞き返したら、やっぱりよくできているのだそうで

       す。よかった!!

       一度見たら、他はどんなかと思われたのか、わざわざよっちゃん農場とうちの菊

       を遠路遥々見に来てくださいました。”秀”だそうです。いやあ、なんと言ったらい

       いのか。小野寺さんも奥様もお話する度に、津波で家が流れたおかげで会えて

       よかった、と仰るのだけれど、返す言葉もないので、やっぱり教えていただいた

       菊作りをこれからもしっかり続けて行きたいと思います。

       今日、メンバーである梅農場の専務と会ったら、「俺は仕事が忙しくて海山ネッ

       トの活動はちっともできないけれど、たくさんの避難者の方人たちに梅農場の

       仕事に来てもらって、これからの絆ができた。梅ができたらみんなに送るし、み

       んなも海のものが採れたら送ってくれる。これからもずーっとこの関係は変わら

       いと思うよ。タカちゃんはこの岩出山に住んでくれることになって、家もうちの

       近くに借りることができた。長男は涌谷町で就職できたし、下の息子は鳴子

       温泉に就職した。たかちゃんはよっちゃん農場で働く。大崎氏の人口が増えた。

       その意味ではおれは俺なりに充実した思いがあるよ」

       いい言葉だと思いました。彼は彼なりの海山ネット活動をしています。

       もうすぐ6か月になります。現状はほとんど何も変わっていないけど、小野寺さ

       んや専務のように「よかった!」と思えるようになれたらいいな、と思います。

       

福岡へ行ってきました

       ある企業の女性社長さんから東北支援のお話をいただき、詳細をうかがうべく

       久しぶりに故郷福岡へ行ってきました。大都会! 学校へ通った時の面影は

       どこにもなくたくさんのビル、たくさんのお店、たくさんの人、生まれ育った町なのに

       博多駅で迷ってしまう始末でした。

       福岡と東北は本当に遠く、なかなか交流したり情報が行きかう距離ではないの

       で現在の被災地の様子をお話しし、是非東北に来ていただくようにお願いしてき

       ました。早速いらしてくださるそうです。

       詳細はまたお知らせします。

     

       

      

英字新聞が少しずつ

      秋に必要な英字版新聞バッグを作るために、英語の新聞が欲しくてあちこちに

      お願いして2週間くらいになるが、なかなか集まらない。

      それでも私の陶芸の先生からのご紹介で外務省勤務の方から、送っていただ

      いた。これからもまとまったら送ってくださるという。そして仙台の方からもいただ

      くことができた。自分も英字新聞の購読を初めて、少しでも数を増やそうとしてい

      るのだけれど、なかなかなので英語を習っている友人に頼んでみることにした。

      話が速い。いいよ、いいよとほんとの英字新聞。ついでにイギリスの新聞、

      ベルギーの新聞も手に入れてもらえることになった。

      そこにメンバーからの連絡でフランスの新聞、これは相当数いただけるようで

      こんなふうに外国の新聞が集まると、読めないのだけれど興味が湧いて

      楽しくなってくる。あとお願いできそうなのが、カナダの新聞、ニュージーランドの

      新聞、そして思い切ってマルタの新聞も頼んでみよう。

      新聞バッグを東北地元紙で作って被災地の様子を知ってもらいながら、長期

      に渡る少しずつでもの支援をお願いし、なおかつ、大震災をきっかけに使い

      捨てではない、ものを大切にし、自分の手でものを作り出す生活に戻りましょう。

      というメッセージを込めて新聞バッグを作り始めたのだけれど、だんだん苦しか

      ったり、悲しかったりする記事がバッグの表になるのがせつなくなって、私たち

      自身も買ってくださる方たちも、笑顔があったり、希望がみえたりする記事のほ

      うがいいんだろうなあ、と気持ちが変わってきた。「世界中の新聞折ってみたい」

      と言っていた新聞バッグ作りのエース、さおちゃん。明日、仮設住宅に入った

      さおちゃんのところに、よっちゃん手作りの新聞バッグ作り用簡易机(黄色で

      かわいい)とこのニュースを運んで行きます。喜ぶだろうなあ。     

     

      

花を切る日々

       お盆に間に合わなかった小菊がようやくポツポツと蕾を開き始めた。花栽培

       を始めて20年近くになるのに、菊は病気をし易いという印象が強くて、作りたい

       と思ったことがなかった。ところがこの震災で、亡くなった方に手向けるために

       菊を作らなければならないと何故か思ってしまったのだった。

       うちで作った菊なのに、菊の畑に行くと物珍しくて離れられない。震災後に被災

       した茨城からの苗と、県の農業普及センターにお願いして手配してもらった、

       津波で流された志津川の菊の残り苗などで合わせて3000本。病気もせず虫

       もつかず私の背丈よりも大きく育っている。

       菊に合わせて作ったアスター、赤とピンクの真ん丸い玉のセンニチコウも今が

       花の盛りで、これから10月末まで、毎日毎日夕方には花の畑に出て花を切る

       日々が始まる。

       それにしても思い立ったのが震災から半月ほどたった3月末で、菊の苗は

       届かず、余震は続き、畑を耕すのもままならない状況の中で、ようやく届いた

       苗を遅れに遅れて植えつけた菊なのだが、たまたま梅見の会で知り合った

       南三陸の小野寺さんのご指導の下で、こんなに立派に育ったこと、有難く

       感謝している。

       明後日はまた南三陸へ行きます。菊をたくさん切って持って行こうと思ってます。

キャンベル先生と「読もう」第5回目から

       全10回の予定で鳴子温泉に滞在している被災者支援のために、東京大学

       教授のロバート・キャンベル先生が始められたホットスプリング読書倶楽部

       「読もう」が5回を最後に中止になった。先生がご病気になられたからだ。

       5回目は千葉県市川市での販売会に参加していたため、参加できず、お会い

       できなかったのが、ほんとに残念だった。

       日本での滞在25年ほどとお聞きしたような気がするが、先生は今の若い人

       たちだったら聞いたことも使ったこともないような古い美しい日本の言葉を

       日常の会話の中で話されるので、私はいつも驚き感心していた。

       そしてまたとても気遣いが細やかな方で、最初のうちの少人数の時も、参加

       人数がだんだん増えて長く連ねた座卓の周りに参加者が座りきれなくなった

       時も、変わらず全員に「たまごや」さんというところのケーキをご馳走してくだ

       さっていた。

       4回目の時、39度もの高熱があるのに東京から鳴子にみえたと聞いて、驚き

       正直先生の責任感の強さに呆れてしまったのだが、どう考えても一日3回の

       プログラムをこなして、その日のうちに東京に戻られるのはあまりにもハード

       スクジュールではないか、と思ったものだ。熱があるのに、翌日は参加者と一

       緒に「歩こう」という行事があり、それが終わってから中学校で子供たちに、ご

       自分が生きてきた道と経験のお話をされ、熱でうるんだ目のまま3時からの

       「読もう」を通常どおり終わってから東京に帰られたと聞いた。

       先生はテレビなどでご活躍だと人に聞いたが、私は鳴子温泉「読もう」講座

       のキャンベル先生しか知らない。

       短い期間だったけど、先生の真摯なお人柄に触れることができた貴重な

       時間だった。

       少し長引くご病気とのこと。ゆっくりとご病気を治されて、また鳴子温泉で

       お目にかかれることを楽しみに待ちたい。ありがとうごさいました。キャン

       ベル先生。

 

      

       

       

別れ

              鳴子温泉S旅館に避難滞在中のさおちゃん、けいこさん、しんこさんとお別れに

      行きました。丁度夕食時で、けいこさん、しんこさん2家族の全員が揃ってのお食

      事が始まりました。おばあさん、お父さんが2人、お母さんが2人、全員がひと家

      族のようにお世話をし合って和やかです。これまで核家族で生きてきた私には、

      縁がなかった多人数の和気藹々とした家族の風景でした。津波の前までこうし

      て毎日みんなでわかめのお仕事をして来られたのでしょう。心の中にはたくさん

      の不安があると思いますが、みんなとても元気で朗らかです。

      さおちゃん、けいこさん、しんこさんとは、海の手山の手ネットワークを立ち上げ

      て最初に催した梅農場での梅見の会で初めて会いました。津波被災からまだ日

      が浅い時期だったので、どのように接したらいいのか、腫れ物に触るような気持

      ちだったことを思い出します。

      梅の実がなる頃からみんな梅農場でお仕事をし始めました。だんだん暑くなって

      きて、7月から8月にかけての日照り続きの時には、日焼けして汗をだらだら流

      しながら梅の実採りに励んでました。梅が終わったら新聞バッグ。3人とも四万

      十系新聞バッグのインストラクターです。梅の実が終わってからの短い時間に大

      中、小の新聞バッグを各自たくさん作ってくれてました。

      明日からは南三陸の仮設住宅で作ってくれます。「おんなの人がたはいいなあ。

      その仕事があって」仮設ではガレキの仕事に行くお父さんがそう言うと、「だから

      あなたも作ればいい」とお母さんにハッパをかけられてました。

      南三陸には車以外に交通手段がないので、これからは私たちが南三陸まで

      新聞バッグを届けに行きます。ご用ききもして、食料も届けます。さおちゃんが

      花嫁さんになってお母さんになるくらいまで、長ーいお付き合いをしたいと思いま

      す。

      

 

     

      

           

      

英字新聞をお譲りください

              さっき英字の新聞バッグをumiyamanet代表よっちゃんに渡したら、もうブログ

      に立派な写真が載っていてびっくり。そうなのです。来月英字の新聞バッグがど

      っさり必要なので、お持ちの方、是非お譲りください。折るのは南三陸歌津の新

      聞バッグつくりのエース、さおちゃんとお母さんです、そして避難所の仲間です。

      南相馬の人、女川の仮設に入った方も作ってくれています。

      さおちゃん一家と仲間の方は明後日の19日(8月19日に全部の避難所が閉鎖

      されるということです)に4ヶ月余り過ごした鳴子温泉S旅館を離れて、南三陸町

      歌津の仮設住宅に入ります。さおちゃん一家は大人ばかりの6人家族ですが、

      4畳半の2DKがふたつという生活空間になるので、行ってみたけど「狭かった

      た!」とさおちゃんは苦笑していました。抽選に外れた人のために建てられたた

      った9世帯の仮設住宅だそうです。飲み水はまだ出ません。

      南三陸町歌津には先日私も初めて行ってきましたが、まだ復旧は始まっていな

      いというか、どこを見てもどこに復興の兆しがあるのというくらい、たぶん震災後

      からほとんど何も変わっていないんだろう、というような情景でした。仮設店舗

      のコンビニ以外まったくお店がない。電車は復旧の見込みが立たず、バスが

      あるはずもなく、車以外の交通手段がないなかで、さおちゃんやこれまで親しん

      だ被災者の方々がこれからどうやって暮らしていかれるのだろう、と心配です。

      さおちゃんは仮設住宅に入ってもこれまでどおり、新聞バッグを作り、イベント

      にもumiyamanetメンバーとして参加してくれる、ということですが、どうやって

      さおりちゃんを石巻とか仙台とかに連れ出したらいいのか、これからの課題

      です。被災者の自立支援、そして使い捨ての生活をちょっと見直しましょう、

      という気持ちで新聞バッグを作っています。英字新聞をお持ちでしたら是非

      お譲りください。お願い致します。