ファシリテーション

2012年1月7日、古川の町のとある喫茶店兼レストランで年初のランチミーティング。

山の手メンバー4人、日頃入れ違ったり、すれ違ったり、違うミーティングで顔を合わせたり、
ということはよくあるが、4人集まってじっくり話すという時間がなかなかとれない仲間うちの
重要な時間です。

11時に始まってお昼を食べてコーヒー2杯に紅茶を飲んでケーキまで食べて、3時間あまり
しゃべるは説明するは、飲み込む間も惜しいほどしゃべりまくって、各自持ち寄った情報や
重要案件を片端から説明、議論、合意形成に結び付けて終了。
あ~、目が凹むほど疲れた。喉がかわいた。

確かこのレストラン、予約が入っていて他のテーブルは女性の団体さん、その他にも
ランチタイムには満杯で新しいお客さんを断っていたような記憶があるが、ほとんど覚えて
いない。他の3人も同様だと思うが、それほど真剣にミーティングをしたということだ。
ママさん、ごめんなさい。「いいよ、大丈夫よ」と言っていただいたおかげです。

こういう、情報はたくさんでアイデアもたくさんで話し合うこともたくさんある、というような
ミーティングを短い時間でこなさなきゃならない場合、絶対的に必要なことは改めて確認
し合わなくても大丈夫な、共通の目的に向かって進んでいるという協働意識です。
海山ネットの目標は、海の手も山の手も一緒によくなる自立支援。
この共通認識がなかったら、何時間ミーティングやっても各自の意見はテンデンバラバラで
何のために貴重な時間を費やしてミーティングをやっているのかと空しさだけが残ってしまう。

海山ネットのミーティングはその空しさが全くありません。
自分の中にあるものを全部出しきってすっきり!という感じ。
各自生業を持つ多忙さの中で海山ネットの中の役割を認識し、情報を交換し合いながら
役割をクリアし、組織全体の次の段階へと進む。

といえばかっこうがいいけど、海山メンバーは道の駅で10年この方一緒にやってきた仲間で
気心、考え方がわかるからできること。新しい仲間で何かをやろうというような場合には
とてもこんなふうにはゆきません。

そこで重要なのがファシリテーション。

様々な価値観やスキル、アイデアを持つ多様なメンバーの意見や認識を、引出し、共有して
合意形成や意思決定に結び付け、メンバーの参加意識を高める。とwikiにはありますが、
会議の場などで公平な立場に立って話し合いに介入してファシリテーションを行う者を
ファシリテーターというそうです。

海山メンバーの一人Kはファシリテーター。
ファシリテーターの力を借りて、意見百出のなかなかまとまらない、論点がぼやけるミーティング
や会議を、客観的に「見える」化するというのも、これからの会議のあり方には重要ではないか
と思います。

一人ぼっちのお正月

今、東北はこんな状態でありながらも普段と変わらぬくらい、年賀状が届く。
出す方は、年賀状なんて出していいのかなあ、と迷われた方も多いかもしれない。

正月前までは、どうしようかなあ、と迷ったりしていたけど、やっぱり一日一日と年賀状を書いて
普段の年と同じくらい書いて出し終えた。

テレビで見た仮設住宅住まいの年配の女性の方が「いつもだったら50枚くるんだけど、今年は5枚だけ。
住所がわからないからねえ」と寂しそうに言っていた。
仮設住宅で、息子さんが亡くなられたか来られなくなったかで、お正月を一人で過ごされている方だった。
炬燵の上にはちゃんとお重におせち料理が並べてあった。

何時もの年だったら近所の人と賑やかにお正月を過ごせるのだが、仮設で知っている人がいない。
だから一人で過ごすしかないんだ。笑顔でそう言い切っているけど、一人だよ。
一人でおせち食べて誰とも話さないでテレビを見て三が日を過ごすなんて寂しいだろうなあ。

私は全くの市街地の生まれ育ちで、結婚してからは九州から東京までの大都市を転勤した後
首都圏に住み、最後にこの山間の集落に移ってきた。夫も子供もいるけどずーっと核家族だった。
都会の転勤族には地域での繋がりは無いに等しいから、一人には慣れている。
一人が寂しかったら、自分から求めて仕事に出たり、サークルに入ったりしなければ寂しさは
解消されない。

そんな風に生きてきて、人間関係が濃密なこの集落に住み始めた時、この小さな町の人々はほとんど
みんなが知り合いなのだろう、と思ってしまった。
でも月日を重ねるにつけ、だんだんわかってきたことは、山一つ越えた向こうの集落の人をここの集落の
の人は知らず、逆もまた同じということだった。

東北沿岸部のリアス式海岸。入り江のひとつひとつにある漁港の町は、きっとそこだけでみんなの顔が
わかりあって助け合いながら暮らして来られたのだろうと思う。入り江がひとつ違えばもうそこはもう
違う人たちの漁港の町だったのではないだろうか。

集落の人たちがみんな一緒で固まって仮設住宅に入れればよかったのだが、あの混乱で仮設住宅
入居は抽選になり、私たち海山ネットが親しい避難所の方々も散り散りになってしまった。
仮設の女性の方の一人で過ごすお正月の寂しさを、ただ見るのではなく、少しでも寂しくないような
次のお正月が迎えられるように、心を寄せ続けたいと思ったものだった。

 

 

 

新年会

私が住むこの町では、毎年1月2日に各集落の集会所で、新年会が行われる。
もてなしは持ち回りの当番制で雑煮が振る舞われ、寿司の折詰などが出て、集落の人々が
集まり、この地域選出の市会議員さんや県会議員さんにも出てもらって、今この町や市などに
起こっていることが話し合われる。

10年前この町に移住してきた翌年の1月2日、私たち家族は全員この新年会に招待された。
まだこの地方の言葉にも慣れない頃で、緊張してみなさんの前に並ばせてもらったが、口々に
「都会からよくこんなに田舎に来てくれた。よろしくお願いします」とこちらがお願いするようなことを
逆に言っていただいたことが印象深かった。
以来10年余り、住んで仕事をして、嫌なことは全くなかった、と明確に言える。
集落のみなさんには、後から移り住んできた私の両親(3年前に91歳で二人とも亡くなりました)をも
含めて、大変よくしていただいた。

そして2012年、今年の新年会。
私が出たのではなく、出席した夫から聞いた話だけれど、がっかりした。
私たちが来た頃には27軒あった世帯数がもう20を切った。どんどん人の数が減ってゆく。

そして、311の地震で私たちが外側から見て認識していたよりももっと方々の家が、道路が
壊れていることがわかった。
ちなみに集会所そのものがひどく損傷していて、治すには160万円以上かかるとのこと。
県にも市にもお金がなく、無論みんなの家もそれぞれの損傷を抱えたままだから、個人的に
協力するなんて無理。

集会所のお隣の家はこの間から修理の工事をしているのかと思っていたら、損傷がひどいので
取り壊して撤去したのだそうだった。
我が家でも壊れた部分はそのまま放置の状態だけど、もし集会所用に160万円の用意が
できたとしても、人的に今修理をしてもらうのは無理とのこと。

今我が家の前の県道は11月から始まった「地震で壊れた道路を治しています」という
標識を立てた工事が未だ終わっていない。ずいぶん長い間応急処置をほどこしたまま
になっていたが、いざ工事が始まってみるとその規模の大きさに驚かされた。

我が家から岩出山の町まで約7キロ、その大部分が大規模修理の対象で、ちょっと見た
だけではそれほど壊れているとは予想外だった。反対方向の一迫町までの6キロも
ほぼ同様で未だに工事は終わっていない。

次に町まで出るもう1本の道路の砂田線。この道路の壊れ方は激しく、用水路に掛かっている
橋は傾いて落ちそうになっている。応急処置をしても応急処置をしても壊れ方がとどまらず
ひどくなってくのが私のような素人目にもわかる。

がっかりしたのはこの大崎市で今修理をしようとしても全容がわからず本格的な修理が
できない道路がたくさんあるというのだ。それもこの辺りで。この先表面は大丈夫のように
見えても深いところで亀裂や崩壊しそうな場所が多くあり、それを調査する期間が3年。

市では3年。県では4年が調査期間で、本当の工事が始まるのはその後ということ。
調査する人も足りないということ。

なんだか聞いているうちに壊れているのは道路だけ?と自分の土地を疑う気分になってくる。
地震後、我が家の前の田んぼの向こうの山の用水に近い部分が木ごとドサドサと
あっちこっちで落ちていた。そのまんま草が生えて当たり前の風景のようになってしまって
いるけど、また大きな地震が来たらどうなるんだろう。

一度大雨で畑がある土地の端が生えている木や草ごと10メーターくらいに渡って崩落し、
下の道路を埋めてしまった時には、ほんとに驚いた。これは町では経験できない出来事で
どうしたらいいかと町役場に連絡したり土建屋さんに電話したりで慌てた。

復興、復興というけど、ほんと復興というのは先が読めなくて大変です。
こんな小さな集落でさえも。

新年おめでとうございます

2012年 新しい年の朝の空は快晴。
元旦にこんなふうにすっきり晴れた空を見ることは珍しいような気がします。
大体年末にどかっと雪が降ることが多いので。
窓越しに昇ってくる太陽に向かって手を合わせ、仕事初めです。

搗きたてのお餅を持って道の駅へ。お客様がたくさん。なんでこんなにお客様が多いのだろう、
と驚きました。観光バスも数台留まっています。お正月こんなふうにたくさんのお客様や駐車場に満杯の
車を見るのは嬉しいことです。よし、今年もがんばろうと元気が湧きます。

午後にもう一度お餅を運んで帰ったら、2011年分の疲れがどっと出て、今日は休憩すること
にしました。道の駅は年中無休なので、毎日の生産物を持っている生産者はお正月だからといって
休めません。

 

2日は午前中で仕事を終えた後、午後2時になってから初詣に世界遺産になった平泉の中尊寺へ。
驚いたことにうちの近所には溶け残った雪がまだあるのに、岩手県はと言ったら語弊があるけど
東北道から見る景色の中に雪が全く見えません。山の上まで雪がない。鳴子から山形側の
山々は雪で真っ白なのに。

山道をだいぶ登ったところにある中尊寺にはきっと雪があるだろうと思っていたのですが、
なんと雨が降ってきました。1月2日の中尊寺で雨なんて!
世界遺産になったとはいえ、東京の明治神宮とか成田山の参拝客のことを思えば、こちらは
ぐっと人が少なく静かです。本堂でも金色堂でも今年の平穏を祈願して参詣を終えました。

福島は未だ先の見えない困難の渦中にあり、沿岸部の復興はまだまだまだまだ先のこと、
加えて内陸部の私たちはこの先セシウムの問題を抱えて、今年はより一層厳しい年に
なりそうです。

最後になりましたが、
お世話になっています皆様に新年のご挨拶を申し上げます。本年も花栽培、お餅の仕事、
海山ネットワーク、微力を尽くしながらなんとかやってゆきたいと思っています。
よろしくお願い申し上げます。

大晦日

昨夜は大雪で心配したけど、本日は抜けるような青空の大晦日。
朝のうち1回目の道の駅出荷は圧雪状態。雪道ドライビングで慎重に走りましたが2回目
に行く時には、お日様に暖められて溶けてしまいました。

一応明日はお正月だから、売れる売れないは別で、道の駅にはお花も出荷して飾って
今年は終了。
午後になって古川までお正月のお買いもの。全然気が乗らなかったけれど、やっぱりお雑煮
だけは作ることにしてブリを買いました。

なぜお雑煮にお魚のブリかというとうちのお雑煮は博多雑煮だからです。小倉、大阪、神戸、
東京、福岡、いろんなところに住んだけどお雑煮はそれしか知らない。
博多雑煮は干しアゴ、干し椎茸、昆布、カツオブシでしっかり出汁をとって、塩で締めたブリを
塩抜きして入れ、サトイモやゴボウ、しいたけ、人参、鶏肉、かつお菜など入れて具沢山に
贅沢に作ります。あとお花をたくさん買って帰宅。

ようやく今年が終わります。
きびしい歳でした。3月9日には古川のフラワーアレンジメントの教室から、先生が止めるのも
聴かずに庭に飛び出して逃げ、3月11日にはコンクリートのエントランスが割れていく5階建ての
ビルの1階から道路まで這って逃げて街路樹にしがみつき、4月7日にはうちの地面にには大きな
亀裂が入ってとどめを刺されました。今も治してもらえない。

来年が穏やかな歳でありますように、沿岸で被災された方々の生活が少しでも安定して
ゆきますようにと祈るばかりです。

お世話になったみなさま、福岡のみなさん、今年はありがとうございました。
良い歳をお迎えくださいね。

 

雪の年末

昨日から雪が降り続いていて今朝は積雪10センチほど。たぶん朝の外気温は-7、8度くらい。
気温が低いので雪はサラサラのパウダースノウ。風が吹くとパーッと飛んで辺りが見えなくなる。

という状況だけれど、私の仕事は餅屋なので、雪降りしきる中、道の駅へ正月用餅を出荷に行く。
昨日も一昨日も感じたことだが、年末の28、29日だというのに、お客様が少ない気がする。
もっというならお正月前の賑わいが薄いというかないというか。

「なんでだろう?」と思わず口に出したら、出荷者の一人が「人が少なくなったからねえ」と
答えてくれた。そういえばそうだ。昨年まで毎年お会いしていた石巻などの海の方の方たち
のお顔を見ていない。
本当にとんでもない年だった。来年は少しでも今年よりよくなって、またみなさんが道の駅に
来てくださる日を心待ちにしたい。

午後から注文のお餅を持って三本木のパン工房「青い虹」さんへ。
「青い虹」さんは先月の全国発酵サミットでお会いして以来、時々お会いしてお話をうかがう
機会ができたが、パンやクッキーのことについては何を聞いてもすぐさま明快な答えが返って
くるパン作りのプロの方である。
闘病中の私の家族のために、無塩、無脂肪、全粒粉で天然酵母使用という、どう聞いても
まずそうなパンを作ってくださるようお願いしたら、おいしく食べられるようにとずいぶん長い
時間をかけてくださって、希望どおりのおいしい病人用パンを作ってくださった。

お餅を持って行ってフランスパンをいただき、ご友人であるイタリア在住のアサクラさんの
お砂糖が入っていないオレンジのジャムをつけて食べた。食が進まない夫も「おいしい」
と言って食べました。

相変わらず雪はしんしんと降り積もっています。
今デッキの手すりの積雪10センチくらい。
明日の朝20センチ以上にならないことを祈って(雪かきしなければならないから)今日は
終わります。

 

うーみさんのリサイタル その2

うーみさんのリサイタルに行った話の続きです。

うーみさんは可愛らしい若い女性です。 小柄。 声はちょっとハスキー。声量は大。
性格はたぶんとても優しくてエネルギッシュ。そしてちょっぴり天然っぽいかも。
その小柄なうーみさんが歌の合間に、突然立ち上がってみんなに言いました。

「私、こんなに小さいでしょ。でもこれでバスケットの選手だったの。学生の時バスケットの推薦で
大阪に行ったの。そしたらね、試合に出て飛び上がった時相手チームの選手と空中で衝突して
頭から落ちたの。頭にも首にも障害が出て、自分で自分のことを何んもできなくなっちゃたの。

一旗揚げるつもりで大阪行って逆に何にもできなくなっちゃったんだよ。今でも全部よくなったわけ
じゃない。でも先の希望も見えなくなっている時に、出会わせてもらったのが音楽だったの。
キーボードたたいて指のリハビリでしょ。歌を歌って元気になっていったの。
歌はいいよ。力をもらえるよ。だからみんなこんな時だけど一緒に歌を歌って元気になろう。
私は何度でも来るよ。桜の花が咲く頃に。あれ?2月の復興市来るんだった。あれ、1月もだ。
あははははは。ずーっと来るんだった!!」

 

次のお話し。
「私ね、夏リサイタルやってる時置き引きで荷物ぜーんぶ盗られたの。家の鍵も車のキーもお財布も
カードもぜーんぶだよ。ショックだった。がっかり落ち込んでたら、ここ来て言われたの。
”荷物くらいいいじゃん”って。
びっくりしたあ。そうか、そうだよなあ。みんなほんとすごいなあ、って思ったの。」

この話でみんな大笑いでした。

そして最後に
うーみさんは南三陸町志津川の防災庁舎で命の限り町民の避難を呼びかけて津波にのまれた
防災放送の担当職員だった遠藤末希さんのことを
「絶対に忘れてはいけない人」として遠藤さんに贈る「あなたに」という曲を作りました。
前夜の南方のトルティーヤでのリサイタルの時に(吹雪で私が行けなかった時)、初めて披露し
たそうです。
その席に遠藤さんのご両親がみえて大変喜ばれたとのこと。そしてここでもみんなで聴かせて
いただきました。あの人、この人、涙を拭いながら聴いていました。

 

CDは来年2月に発売されます。
うーみさんは南三陸の津波被災者50人と深くたくさんお話をして、その本を出版します。それも来年です。

うーみさんのリサイタルに行って私が思ったのは、有識者とか国だの町だのの偉い人が、束になっても
できないような大きな事をうーみさんは一人でやっているということでした。
だってみんなを見てればわかるもの。みんなうーみさんが大好きで、うーみさんが来るのを「待ってるよー!」
と叫んでました。一人でこれだけの人の心を動かすなんて、ちょっとやそっとでできるものではありません。
そしてもうひとつ驚いたのは、こんな短い間に南方の仮設住宅にはNPOが立ち上げられてました。

 

福岡や東京から沿岸被災地向けのお仕事をもらっても、どこへ持っていけばいいんだろ、と困っていた
私はうんと気が楽になりました。これからはお仕事もらったら、「だれかお仕事できる人いますか」と
NPOに持ってゆけばいいのです。
うーみさんは雪の中、温かい高知に帰られました。立派な女性だと思いました。
CDを買って聴いてくださいね。車を運転しながらCD聞いてると明るいうーみさんがそこにいるようです。

うーみさんのリサイタル

きのう吹雪で行けなかったうーみさんのリサイタルに行ってきました。
昨夜はレストランでのリサイタルだったけれど、今日は登米市南方にある南三陸の方たちの仮設住宅。
昨日とはうって変わってお天気は晴れ。
行く道の両側の田んぼに雁や白鳥が降りているのが見られます。

久しぶりに見る南方の仮設住宅は、全戸の玄関口に風除室が取り付けられてました。
以前は箱型の建物に扉があって、それが玄関口だったから雨や雪が降ったら大変だったと思います。
家から出たら軒がなくてそのまま外という感じだったから。
でもどうせ付けるのだったら最初から付けてくれていたほうが、暮らすに便利だっただろうし、
お金もかからなかったんじゃないか、と思いました。

 

仮設住宅の集会所は人がいっぱい。年配の方が多いです。赤ちゃんや子供さんもチラホラ。
設えられたテーブルを前に、みなさん、サンタクロース風の赤い服を着たうーみさんの唄を
楽しんでおられました。
飛び入りで仮設居住者の方のカラオケ風独唱というのもあり、お父さんたち歌が上手なので
驚きました。

うーみさんとお話しする機会はこれまで何度かありましたが、歌を聴くのは初めてです。
ちょっとハスキーな声で「テネシーワルツ」を歌ってくれたのですが、昔私が若い頃に聞いた
江利チエミの声によく似てなつかしかった。
うーみさんは歌も素晴らしいけど、トークがとても素晴らしい。感心しました。

 

とてもいいお話を聞きました。
明日、そのお話をご紹介します。

雪のクリスマス

とうとう真冬が到来。
この2、3日嫌になるような気温が低い日が続いています。
おとといは夜から朝にかけて15センチくらいの積雪で、もっと続くのかなあと思っていたら
昨日は温度が上がって雨が降って溶けてしまい、改めて今日の午後から雪。

今夜は登米市南方のトルティーヤというレストランで、高知の観光大使、歌手のうーみさんの
リサイタルが行われるので行くつもりにしてました。なのに夕方4時頃から強風が吹いて
先が見えない地吹雪状態。夜帰ってくるのは危険だからやめろ、という家族の意見で断念しました。
でも明日南方の仮設住宅で再度行われるリサイタルには行きます。
行って先だって福岡の80歳になられるキルトのA先生とそのお仲間の生徒さん達からクリスマスに
間に合うようにと送られてきた手作りマカロンコインケースを仮設の子供たちにプレゼントしてきます。

マカロンコインケースはまだこの辺りでは目にしたことがない小さなかわいい布で作ったまん丸い
コイン入れです。サンタやトナカイの絵柄のかわいらしいケースには、先の希望がみえますようにと
50円玉を入れてくれてました。

一緒に参加して荷造り、運送を担ってくれている友達が、「けっこう作るの大変なのよ」と
言っていましたが、福岡の私の友達のおばさんたちの「元気でいてね。よいクリスマスを」という
心を届けてきましょう。

それにしてもうーみさん、温かい高知県から、この冬になってからの一番の寒波の時に来られて
びっくりされたことでしょう。せめて高知に帰られる明後日まで、これ以上荒れませんように。
じゃないと飛行機が飛ばなくなってしまうかもしれないから。

 

世田谷ボロ市

東京世田谷で四百数十年の歴史があるという世田谷ボロ市で、新聞バッグと布の小物を販売させていただきました。といっても海の手山の手メンバーが自ら参加したのではなく、たまたまお知り合いになった、震災後気仙沼で炊き出しのボランティアをなさっていた東京のチームワンネス代表の大谷さんと事務局の大島さん、そして才能あるリメイクデザイナー川上かおるさんに朝から夕方まで販売していただいたのでした。

 

販売場所のブースを使わせてくださったのは認定NPO法人リブ・フォー・ライフ美奈子基金さんです。リブ・フォー・ライフでは来春、白血病の子供さんたちの本を出版するための基金を募集しています。

首都圏在住中は世田谷近辺に住んでいたこともありますが、ボロ市というのは知りませんでした。世田谷線、世田谷駅で降りてからは人の渦でした。毎年30万人からの人出があるのだとか。たくさんの出店がある中で東北支援の看板や垂れ幕が多く目に付きました。

 

5時に終わってから自由が丘に移り、駅前の居酒屋「あわい」で気仙沼の内海ご夫妻にお会いしました。仮設住宅で福っころというフクロウの飾り物を作っていらっしゃるそうでした。
15、16日の2日間で福っころも新聞バッグも布の小物も完売しました。寒い中ブースで立ち続けてくださったチームワンネスの皆様にはお礼の言葉もありません。
また1月15日、16日に世田谷ボロ市は開催されるそうです。

戻ってきて新聞バッグ制作者の南相馬のKさんにボロ市のことを伝えたら
「なつかしいなあ!!」
えッ、ボロ市知ってたの。と言ったら「学生時代寮があってボロ市でバイトしてたんですよ」
なんだ、南相馬から来て今は鳴子温泉で新聞バッグ作っているKさんだけが、ボロ市を知っているなんて不思議な巡り合わせですねえ。