閖上被災地支援オペレーション

1-7丁目まで壊滅。死者、行方不明者1000名という大きな被害を受けた宮城県名取市閖上地区。

そこで定期的に閖上地区被災地支援オペレーションという支援活動を続けておられる方がいる。

前回のオペレーションのちょっと前、友人からかなり多量の支援用衣類が送られてきて、その衣料
をどうしようか、と考えてたまたまネットで見つけたのがこの支援活動でした。 続きを表示

南三陸へー志津川菊生産再開のお手伝い

今日は以前から企画されていた東北村村民交流の第2回目です。

南三陸で実施したいということだったので、私の菊の先生の小野寺さんの菊栽培のお手伝いを
お願いしました。女性は菊の下葉かきとか、脇芽摘みや草むしりなど、男性はハウスの屋根ビニールに
日よけをかけることと、ハウスの固定が今日のお手伝いの内容です。

現地、歌津の駅前で(現実には駅はありません。駅の跡)10時集合。

南三陸町歌津駅です。駅下は駅舎の跡。初めて来たとき、ここに移動式のトイレがあったので
歌津に来たことがない私は、初めからこんな景色なのかと思いました。
今、線路はありません。

私は仕事を終えてからなので到着はお昼近くになりました。

ものすごくいい天気。真っ青な空の下で見る被災地は、空、海、緑の美しさと現場の光景の
荒々しさとの落差が激しく、痛々しくて目を背けたくなります。

不思議に思うのは、いったんきれいになっていた被災の跡にガレキが徐々に徐々に増えてきている
感じがすること。きのせいかな?と思うのですが、よっちゃん奥さんみっちゃんい聞いたら「なんか、
なかったところにまたあるような、そんな感じが・・」と言うので、そう感じるのは私だけでは
ないようです。

今は岩出山在住のショーエイさんに訊いたら「そうだよ。海から上がるのがだんだん増えてくる」
ということでしたが、やっぱりこれはここの人しか分らないことなんだなあ。

かつてここに町があった頃、海からアザラシが現れ、しばらく滞在した。アザラシの名は「うたちゃん」
青い橋はうたちゃん橋。流されませんでした。その向こうが国道45号線。最初に見た時下の土台
しかなかったので、国道とは全然思わなかった。今は繋がりましたがまだ走れません。

ここに銀行とか商店とかぎっしり町並みがあったそうです。
夏草が生い茂った元歌津の街の跡。

歌津の駅の横にある山の木々。

津波にやられた山の木々は全てこのように茶色に枯れています。

到着すると、作業はほとんど終わってました。

日よけを被せ終わったビニールハウスと葉欠きが終わった菊畑。

食事が終わってから、小野寺氏の要請で今日作った棚の贈呈式。

贈呈式が終わったら定位置に設置して、みんなの芸術的センスが爆発!

ダンゴウオの手拭いあっぱっぱを着てくれているノンちゃん。嬉しいです!

小野寺さんのハウスのお手伝いが終わったら、Y仮設住宅の恵子さんのお宅へ。
お宅といっても仮設住宅ですが、集会所でワカメだのイカだの魚だのの料理を作って待っててくれました。

出されたもの食べて、いっぱいしゃべってから新聞バッグ体験です

みんな1個づつ作って、お手伝いのために取っ手をいっぱい作って終了。

今日は、わかめの収穫のお手伝いだったり、これから先の菊の手入れだったりのボランティア
交流の始まりの日。みんなこれから先も来てくれるそうです。

どうでしたか?みなさん楽しかったですか?また南三陸に行ってくださいね。

 

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中国国家行政学院公務員の方々とともに新聞バッグづくり

今日は中国から県内被災地を視察に来られているこ国家行政学院公務員の方々42人に新聞
バッグの手ほどきをする日です。
といっても公務員の方に新聞バッグを作って頂くのが主眼ではなく、残った手で残ったモノを利用して新たなモノを作り出そうという海山ネットの復興プロジェクトを、新聞バッグを通して伝えたいというのが目的なのですが、伝わるかどうか。

公務員の方々は既にたくさんの視察、研修を終えられてこの新聞バッグつくりが最後のプログラム
だということです。

8時過ぎに集合して準備中です。きのうのうちから準備万端整えたはずなのに、肝心の名札を
作り忘れて、急遽、新聞で制作中。

一行42人。将来の中国を担う若手の方や学者さん、裁判官もいらっしゃるようです。みなさん、中国語
だけではなく、英語も話されます。

こちらは日本語オンリーで、間に通訳に入っていただいてのご挨拶になりましたが、通訳さんの
一生懸命のお仕事ぶりを見て、中国語はちょっと無理だけど、せめて英語はもっとまじめに挨拶だけでも
できるようにしておくべきだった、と反省しました。

高橋代表と私の面白味のない挨拶に続いて、海山ネットの事務アルバイトのTちゃんが「ニーハオ!」
どっと座を和ませてくれました。次には南相馬のKMさんの「ニーメイハオ!」みなさん、こんにちは。
ドッと笑いがこぼれてさらに座が和みます。
「よくいらっしゃいました」とか「よく被災地へいらしてくださってありがとう」とか伝えたいことはたくさん
あるのですが、全然言葉がわからないので、何にも言えない。

でも新聞バッグを折る手仕事は中国も日本も共通です。
私たちインストラクターが6人いるので一人1班7人受け持ちです。不思議なものでアッという間に
自分の受け持ちの班に必死になっちゃうのですよ。上手に作って欲しい一心で日本語、英語
滅茶滅茶に駆使して一人一人に作ってもらいます。


できあがったバッグにサインをしてくれてます。大崎がんばれ!と言葉を添えて。

その文字の達筆なこと。中国の名前は漢字だから読める、と勝手に思い込んでいた私は、
サラサラサラと行書のように草書のように書かれた漢字を見て、「へえ、こんなふうに書けるんだ!」と
驚きました。

公務員の方々は母国語の他に英語を流暢に話し、グループのどの方も立派な文字を書かれます。
日本人は勉強しないなあ、と反省。

東京の版画家オカザワさんが今日のためにと、忙しい中を4、5日で「いろはにほへとちりぬる・・・」
のハンコを作ってくれました。できあがった新聞バッグに自分の名前の頭文字のハンコマークを押したら
楽しいんじゃないかと作って頂いたのですが、時間ギリギリで到着したのが今朝。

そのまま出したら、ハンコの文字は押さなかったら裏文字になるので、探すのに大騒ぎ。
文字を裏側から見て探すってなかなかできないもんですねえ。
通訳の方から「努力して頂いたのはとてもよくわかるのですが、これはちょっとなくてもよかったかも・・・」
と言われてしまいました。お騒がせしてすみませんでした。

はい、出来上がりました。

謝々。私のほうがお礼を言いたいです。

みんなにこやかで友好的な方々でした。
作り終えて2台のバスで帰途につかれるみなさんを旅館の外でみんなでお見送りしました。

大変面白かったし、よい経験をさせていただきました。この歳になって、中国の女性たちに囲まれて
写真をとってもらう日が来ようとは想像したこともなかった。「なんか涙ぐみそうになるわ」と言ったら
よっちゃんが「俺もですよ」と。

この経験で、外国との交流はパーソンtoパーソンというのがまず基本なんだなあ、ということ。
人と人との交流から始まってそれがやがては国レベルになるというのが理想なんだなあ、と。
そういうことを思いました。

この想いがどんなふうに発展していくのか楽しみです。