集落新年会

ネットのニュースで、「この4年間で首都圏や大阪から地方へ移住する人が3倍近く増えている」という

のを見ました。へえー、そうなんだ。知らなかった。

それは私にとっては凄く興味深く、そして嬉しいニュースなんです。

 

毎年正月の2日は集落の新年会です。私が住む真山という集落はこの町の五つに分けられた一地区で

あり、小学校、公民館などが地区ごとに配置されています。その地区をまた細かく集落ごとに分けて、そこ

には区長さんや集落単位をまとめる親交会長さんが存在します。

新年会はこの小さい地区の集会所に全世帯集まって、新年のご挨拶をし、この一年で集落で起こったこと、

新しい年の課題などのお話を聞いたり意見の交換をします。そして集会所ごとの新年会を廻ってこられる

この町在住の市会議員、県会議員氏のお話を聞きます。この新年会に年に1度出るだけで、この集落で

起こっていること、市や町や県の現状などがわかるので非常に合理的にできた仕組みだと、私は出席する

度に感心しています。

 

市街地で生まれ育ち人生の大半を都会で暮らした経験しかない私は、つくづく自分が超個人主義で

自分のことしか考えない暮らしをしてきたんだなあ、と思い至らせられます。

 

今日聞いた話の重要項目は、昨年の米価の暴落が、栗原、登米、大崎合わせて120億の減収であった

ということ。米10町歩作れば300万円のマイナスになる。今の農政、農協の施策では米価を元に戻すとい

うことはもう無理でなので、米を作る経費をいかにして抑えるかが課題。マイナス120億というのは大変な

ことで、米は作れば作るほど赤字になるという構図は農家ではない私でさえ読みとれて、暗澹とします。

 

孫が春から通う小学校は近い将来に合併になります。この町にある五つの小学校全てが、全校生徒が

50人に届くか届かないか。1学年1学級以下という合併される条件に当てはまります。

 

宮城県の仮設住宅在住者は現在11万人。必要とする災害公営住宅12000戸のうち、出来上がるか

出来上がりそうなのが2000。

この小さい集落でこの一年に亡くなった方が6人、施設に入った方が一人で減る一方。

県会議員のN氏によれば、とにかく今のところは「消滅可能都市」の中には入ってないみたい、ということ

ですが、この別荘地の住民もいなくなったり病気をしたりで、空き屋だらけ。いずれうちもその運命を辿り

そうなので、私は巻き返しを決意しています。

 

先日お父上を失くされて、東京から50年ぶりにこの集落に戻られた長男氏が、「なんとかしろというから

戻ったけれど、農業がこれほど壊滅状態にあるとは知らなかった。なんとかすることを今考えています」

と仰っていました。東京の会社を辞められたわけではないので、これからこのような方が地方を変えて

行かれるのではないかと期待します。

 

「地方再生。ちょっと遅いという気がするんですけどねー」

苦笑しながら仰るN氏の言葉が印象的でした。私も同感なんですよね~。

正月早々、いいこと書きたいんだけど、そんな状況ではないんだよね。

 

夜は2日目のお雑煮会。終わって東京のおじちゃんから送られてきたゲームで、白熱しました。

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最後は負けた孫の大泣きで終了ー。

明日はお餅づくりに戻ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年元旦

あけましておめでとうございます。

12月31日の夜から降り出した雪は夜中中降り続き、一時はどうなることかと思いましたが、元旦の

朝目覚めると雪は止んでいて日が差しかけていました。よかった。大荒れのお正月を覚悟していた

けれど大丈夫みたい。

元旦の空です。

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正月三が日に仕事を休むのは日銭稼ぎの商売人としての仁義に反するというポリシーのもと、、雪もこもこ

の道路に苦戦しながら道の駅へ。

 

そうだ、その前にこの雪の中、午前10時前には年賀状が届いてました。分厚すぎて入り切らない元旦の

新聞がビニール袋に包んで県道沿いの新聞入れの箱の横に置かれていました。

ありがとうございます。郵便配達のおじさんはもう10年来同じ方です。すっかり顔馴染みというか、もう

遠くを走っていても、全体的に大きなその体つきで、あ、郵便屋さんだ、と解り、大雪の中でもまっすぐ身体

を立ててバイクに跨っている完全装備の姿を目にすると何故か安心します。この間の雪の日に後ろから

ついて走って行ったら、私は車で時速50キロなのに、郵便屋さんは時速60キロくらいでどんどん遠ざかっ

て行っちゃう。バイク運転の技術はきっとプロ並なのでしょうね。

 

雪なのにお客様はそれなりに混雑してました。

私たち生産者も道の駅からお正月のプレゼント「ボールペン」と洗っても溶けない(当たり前だと思うけど)

タオルを頂きました。今日から三日間、お餅つきやお神楽などのお正月の行事を道の駅で行います。

是非たくさんのお客様のご来店をお待ちしています。

 

道の駅の帰りの農道で目に付いた八幡神社のお正月迎え。

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まだ行ったことはないのですが、鳥居の奥は長ーい急な階段になってます。こういう八幡神社があと

いくつかあちこちで見るような気がします。登って行ったら甘酒かなんかあるのかな?

 

隣の家の主が仕事に出ているので、帰るのを待って隣家の三人、花作りおじさん、みんな一緒に元旦の

ご挨拶。

全くの思いつきおせちで、縁起ものもお重に詰める順番もめちゃくちゃなんですが、ともかく3段お重と

鰤のお雑煮で新しい年のお祝いをしました。少しづつ入ったお年玉袋を3個ももらって、孫は大喜び。

このおせちは恥ずかしい。でも記念に撮れ、というので撮ります。お餅をつきながら合間合間に作りました。

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年末に鳴子温泉の老舗喫茶店「玉子屋」さんにお餅を持ってお邪魔しました。

「お買い物に行くと、お寿司とかお肉とかがたくさん並んでいておせち料理というのがあまり売っていない

気がするんですよねえ。どうして?」と聞いたら

「ここはおせち料理の習慣があまりないんですよ」との奥さんのお返事。

そうなんだ。ここ東北はというより、ここだけかもしれないんだけれど、お盆迎えの盛大さに較べると

お正月はさっと来てさっと過ぎ去るみたいな、割とあっさりとした行事のように感じられる、その

原因に触れたような気がしました。

 

お盆は大切に思うご先祖さまが帰ってくる日なので、それはそれは丁寧に行事が行われます。仏様を迎え

た最初の日からお土産のお餅(お帰り餅といいます)を持って彼岸に帰られるまでの毎日の食べ物まで決

まっているのですもの。びっくりする!お帰り餅の数もその家々によって決まっています。それからお野菜も

大根を作っちゃいけない家とかお葱を作っちゃいけないおうちもあります。理由はわからないけど、先祖代々

作っちゃいけないんだって。

 

住むところで行事を受け止める文化が違うのですね。

お盆はご先祖さまが帰ってこられる、という意味があって、お正月は前の年が終わって新しい年を迎える

というただの行事なのかもしれない。

静かな元旦の夜です。怪我をすることや病気をすることが少ないように、新しい1年を過ごせたら、と

願います。

みなさま。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大晦日

とうとう大晦日。紅白も終わり、行く年くる年が始まりました。

夫が大好きだった行く年くる年。まあなんとなく夫の写真のほうにテレビを向けてあげているけれど、

結局は一人で感無量です。

今年はなんとも出来事の多い年でありました。

春まではgo to newyorkの会議などやっていたのですが、6月にロイズコンフェクトさんとの出会いが

あり、あっという間にロイズ新聞バッグ10000枚の注文を頂き、そのお話で北海道の当別に行って

戻ってきたらすぐに富良野の倉本先生からのお話があり、また富良野へ行って戻ったらよっちゃんは

怪我をし、年末になっちゃった、というようなことで。

 

海山関連で云えば、ひとつの扉が開いたら次の扉がまた開くというような、自分たちで何かをした、と

いうのではなく、導かれるように起こってくるいろいろな出来事に乗っかって、動いたような時間でした。

その時間の中で、これまで知らなかった方々に出会う機会をいただいたことに感謝です。

年末、南三陸のけいこさんから立派なホタテがたくさん届きました。富良野のみや子さんからワインを

送って頂きました。このお正月には富良野ワインを楽しみながら歌津のホタテを食べます。

そういうことがとても楽しい。

倉本聰先生の著書に「北の人名録」という大変面白い本があります。描かれている富良野の方々は

大変魅力的ですが、大震災後私たちが出会った海山ネットの人名録は人の玉手箱です。

新しい年、出会った方々とご縁を繋げての歩みはまだまだ続きそうです。

 

そして私自身について。

宮城県北のこの町に住み着いてから13年。ひとつところに6年以上住むのは初めてです。

福岡出身ですが、結婚後は、北九州、神戸、大阪、名古屋、東京、福岡、また東京と転勤で渡り

歩いて転居歴は20回近いかもしれない。子供たちには過酷な経験をさせました。3人の子供

たちはみな世帯をもって堅実に暮らしていますが、ふとした時に申し訳なかったなあ、と思います。

夫が東京の会社を退職して、老後の人生をとここに越してきた時には、なんとも落ち着きが悪くて

ここを終の住みかにしよう、と思いたいのですが思えませんでした。

またどこかに行くんじゃないかなあ、と思ったり思わなかったり。そうこうするうちに道の駅がオープン

して、そこで花屋とお餅屋などするようになったら、生まれて初めて生産者として働くことの面白さや

楽しさで元からここに住んでいたようにこれまでの10年余りを過ごしてきました。

 

いつの間にかこの家が終のすみ家のような気持ちになってました。

2013年に夫が亡くなって、2014年は夫がいた時と同じようにお餅屋をやって暮らしてきましたが、

この年の終わり近くになって、気持ちが変化しつつあります。

来年は考えます。時間をかけて。どこで暮らしてどこで死ぬか。

 

今年お世話になりました、みなさま。ありがとうございました。

陸君。試験がんばってよ。あなたのこと、忘れたことありません、宮城から応援しています。

新しい年も、よろしくお願い申し上げます。