日本農村生活研究大会in筑波

久しぶりの筑波です。

筑波といえば筑波山。もちろん登ったことはありますが、最も馴染んだ筑波体験は、一昨年まで
1年に1度、東京の仲卸で仕入れた花の苗を宮城まで運んでいました。その途中に、宮城に来る前に4年間
学んだ益子の陶芸の先生宅に寄るために、筑波学園都市を貫通する道を通っていたのです。

つくばエキスプレスという新しくできた電車に乗るのは初めてです。
東京から電車で筑波に行くのは実にに不便だったのに、このつくばエキスプレスに乗れば、40分
ちょっとで筑波到着。速いです。便利になった。

賑やかな町ではなかった途中の町々も、新しい駅ができて賑やかな町になっただろうなあ、と想像しながら
筑波駅に着いて、駅から外に出て見てびっくり。近未来都市みたいになってました。。SEIBUもHOTELも積木の箱のよう。

 

で、今日の用事は何かと言うと、日本農村生活学会主催による日本農村生活研究大会に招かれました。

前から資料などは送って頂いていたのですが、正直なところ、それを読んでも今日自分が何をするのか
理解できていませんでした。余りにも不慣れということなんでしょうが、もう一人話題提供者として栃木県
の茂木から来られた、有機農業を実践されている新規就農者である松井さんも来られていて、そこで
初めて自分が農村移住についての発表をするのだと知りました。

きっとそのようにご連絡頂いていたのだと思うけど、ピンと来ていなかった、ということです。
準備万端整えられた松井さんと比べて、準備も何もなく、お土産にと持参してきた新聞バッグと海山の
チラシだけ持って、丸裸同然のぶっつけ本番で、首都圏から宮城に移住してきたこと、翌年道の駅が
できたこと、お餅と花を販売する生産者になったこと、農村には外部からの人の移住が重要であること、
資金が必要な農業に従事しなくても定年退職後の移住には、土地の産物を加工して販売していく道
もある、ことなどをお話ししました。

後半は新聞バッグと海の手山の手ネットワークのことをお話しました。

聞いていらっしゃる方々が、大半は大学の先生方のようで、余りの場違いに緊張して、普段のように
楽しくなんて全然しゃべれませんでした。

この次もし同じような機会があったら、準備します。写真とかいろいろ。四季折々に色や姿を変える
里山の連なりの中でイグネに囲まれた家が点在する岩出山の美しさや、道の駅や、南三陸の仮設の
集会所でみんな揃ってのの新聞バッグ作りなど、映像で見て頂きたかったなあ。

この大会の参加者に女性の大学の先生が多いのには驚きました。同時に女性の農村生活研究者が
これほど多数いらっしゃるということに、心強い思いをもちました。
たぶん新聞バッグが繋いでくれて、この先もまたご縁があると思います。

素晴らしい体験をさせていただいてありがとうございました。

帰ってくると、楽しいメールが来てました。
いつもドイツの新聞を送ってくださる横浜のSさんが、ドイツに行ってらっしゃったそうです。
新聞バッグを作って持って行ったら、ドイツのお友達の方々が喜んで、作り方を知りたいという方も出て
来て、一緒に取っ手を作る棒を買いに行った、とのことでした。シーボルトが生まれた町に住むSさんの
お友達の方々は、311の時から東北の支援を熱心にして下さって今も続いているそうです。

 

支援の先は一関の藤の園というところで、私もそのうち藤の園にお邪魔してみようと思います。
新聞バッグを作り始めた時には、仕事を作る、そのことしか考えていなかったのに、時が経ってこうして
国境を越えて人と人とが繋がるきっかけになっていることを思うと、不思議で嬉しいです。

 

 

 

 

スマートホン

携帯電話をスマホというのに変えることにしました。

アイホンというのもあって、スマホとアイホンは「どこが違うのですか」と訊いたら、アイホンは
アイパッドとほとんど同じだというので、スマホにしました。アイパッドはあるので・・・。
夫が使ってました。

がんになってから、大震災以後、世の中を見つめて書きたいことがいっぱい出てきたらしく、時間を
見つけてはパソコンの前に座っているので、ベッドでも書けるように、長い時間がかかる抗がん剤
投与の時でも書けるようにとIーPadを買いました。
今は5歳の孫がゲームをやってます。

スマホを買っても、使い方はなーんにも解からないんですけどね。
ただパソコンは簡単なことならできるので、パソコンとこれまでの携帯電話の使い方を組み合わせれば
なんとかなるのではないか、と携帯の電話屋さんに行ったのだけれど、時間のかかること、かかること
ほんと、まいりました。

ついでに、これまで夫が使っていた携帯電話の解約をお願いしようと、手続きをお願いしてみたら
「死亡診断書」が必要を言われてびっくり。私の本籍は千葉県市川市なのですが、戸籍謄本も必要と
言われて、いったん家に戻ってまたこの間夫が亡くなった時に、息子から送ってもらった謄本持って
行きました。

いやー、持ってなかったら、更に面倒だったと思います。
簡単に考えていたけど、携帯電話の名義変更とか機種変更とか、いや、ほんとに大変な手間で、
何も今やらなくてもいいんだから「止めようか」という誘惑に何度もかられながら、最後は意地のように
なって、ついにスマホをゲット。3日がかりで今日は夕方までかかった。

待ちの時間が長すぎる!

それに窓口の女性が実によどみなく説明をしてくれるのですが、まー、中味が難しい。
「年金みたいだね」と思わず言っちゃいましたよ。

実は、私は明日、筑波大学の農村学会にうかがうことになっているんです。
こんなにわけが解からないもの持って、携帯の用を足せるのか実に不安です。

 

昨日は東北村からの取材でした。

うちまで来てくださったのは初めてお会いするライターさんです。

仙台から長時間かけて車で来てくださったのに、古川から47号線に入って追突されてショックを
受けられてました。
時間がずれて遅く来られたので、思わず話し込んでしまって、遅くまで付き合って頂きました。

筑波から戻ったら、そのライターさんに、夫が書き残した文章を整理、編集して頂こうと思います。

明日の農村学会では、農村移住について、そして海の手山の手ネットワークの活動について
お話しさせて頂きたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東北新聞バッグプロジェクト第2弾の2日目

明けて2日目                                                                                                                                                                                                    今日はお餅はお休みしました。夫亡き後にお餅作りを開始してから初めてお休みです。

たまにこうして6時頃まで寝ると、「ゆっくり休んだなあー」という満足感があります。

さて昨日の会議で、東北新聞バッグコンクールは、もしかするとニューヨークで開こうということに
なったけど、どうやってこの目標を完遂させるのか。

今日は、今回第2弾を共にやることになった陸前高田からは、本当は東京の方、今は陸前高田に
居続けて陸前高田の人みたいになっているH女史。気仙沼からは唐桑半島のミチタさん、が
出席してくれています。

これから先の道筋を話していかれる畦地社長。
出席者の一人一人が意見を出すように導き、出て来た意見を余すことなく、文字や絵柄にして
書きとっていくファシリテーターの智子さん。
論議が重なり話が煮詰まってくると、要所要所で、両手でも抱えきれないほどの広さと深さを内包する
話を見事に整理してしまわれる梅原先生。                                        文章を作り、書き、新聞バッグの検品を一手に引き受けておられる道の駅十和の森岡駅長。

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今日ほど、四万十チームの一人一人の凄さ、チームとしての凄さを感じたことはありません。

一見荒唐無稽のような、東北新聞バッグコンクールinニューヨークも、四万十チームの方々と同じところに
立って、一人一人の役割を真剣に果たせば可能になるのではないか、と初めて思えました。

振り返れば大震災直後、被災地を見に行って衝撃を受け、「東北の経済復興なくして日本の再生はない」と
本気で思っていた日々がありました。そんなこと全然なかったんだ、と今は解かりますが、でも
川を保全するために作り始めた四万十新聞バッグと、仕事つくりのために残った手を活かして作り始めた
東北新聞バッグが、手を繋いで、東北や四万十を越えて普遍的な意味での手で作る仕事として新聞
バッグを作り続けてきてよかったな、と今は素直に思えます。

 

今日も横浜の方Sさんから、少しづつ溜めて頂いたドイツ新聞が送られてきました。
私たちがこうして活動を」続けられるのは新聞紙を送ってくださる皆様のおかげです。
ありがとうございます。

南三陸のムッちゃんから、「秋刀魚もらったから、送るね」と電話がありました。
ありがとうございます。明日は秋刀魚だ!!

 

 

 

 

 

嵐のような2日間  1日目(見えないー迷いの日)

新聞バッグプロジェクト第2弾2013の会議の2回目。

東北新聞バッグプロジェクト第2弾2013の第1回目の会議会場は陸前高田、気仙沼だったので、     2回目の今回は大崎で会議ということに決まってます。

早朝に出て遥々高知県四万十からお出で頂いたのは、いつも通り四万十ドラマの畦地社長、そして
デザイナーの梅原真先生他5名。こちらからは海山メンバーが揃って出席しました。

論ずるのは、前回から引き続いて、今回のプロジェクトの目的である、「ジモトツツムシゴト」をテーマ
とする「東北新聞バッグコンクール開催について」

もうひとつはこれまでは四万十だけで行なっていた新聞バッグインストラクターの「養成講座を東北
で開くことについて」

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その前に、

よっちゃんは埼玉県日高市のたねの森さんイベント(東北応援も含まれます)から帰ってフラフラの様子。
初めて埼玉でワークショップを開くことになり、南三陸のさおちゃんに来てもらうことになりました。そのため、
南三陸周りの埼玉行きで、片道9時間。さすがのよっちゃんも音を上げる遠さだったと思います。

でもそこで行われたことは、言葉にできないほど尊い紙英三郎さんを中心とする仲間の方々の東北応援の姿でした。「一生忘れられるものではない、ご恩の返しようもないほどの東北を応援してくださる皆さんのお心尽くしだった」とよっちゃんは言ってました。

たねの森さま、みなさま、雨の降る中を、本当に本当にありがとうございました。

 

まず、「東北新聞バッグコンクール」をどこで開催するかについて。
これまで新聞バッグコンクールは毎年四万十で行なわれていたのですが、大震災を機に四万十から
バッグの作り方を教えていただいて、東北でも作れるようになりました。作り始めて3年経つ今、東北でも
新聞バッグコンクールをやろうじゃないか、というプロジェクトです。

でも、うーん。正直なところやりたくない。

私たちが新聞バッグを作っているのは、趣味で作るのではなく、製作費は折り手さんたちの生活費の足し
になり、お客様からたくさん買って頂いてたくさん折って技術を上げ、完成度の高いクラフトとしての新聞
バッグを作りたい。大量生産大量消費ではない、人の手による産業をもう一度取り戻したいという目標が  あります。そして、その新聞バッグには自分たちが自身で作った生産物を入れて販売したい。

と思っています。新聞バッグの出来栄えやアイデアを競うのも楽しいことかもしれませんが、私たちは   モノを作る企業、モノを作らない企業に関わらず協賛してもらって、秋刀魚を入れる新聞バッグ、米を入れる新聞バッグ、わかめを入れる新聞バッグなど、生産物を入れる新聞バッグを作って商談まで繋げられるようなコンクールを開催したい。

わがままを省みず、前回そうお話ししてみたら、梅原先生が「やりたい形でやっていい」とゴーサインを
出してくださったのです。
あの時から、どんな企業にお話ししたらいいのか、と頭がいっぱいでした。

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秋刀魚を入れる新聞バッグ。英字では映えないので、日本語の新聞で作りなおすことになりました。
でもこの新聞バッグに入った秋刀魚を思い浮かべるだけで、ユーモラスでしょう!

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あやさんが作った、これは何を入れる新聞バッグなんだろう。興味津々です。
みんながどんな想像力で作ってくるのか。                                         ほんとにびっくりするような」新聞バッグが出てきたりするので楽しみです。

 

で、この東北新聞バッグコンクールをどこでやるのか。

これが最初の難問。
四万十チームの方々はどこでもいいよ、と言ってくださるのですが、東北以外の土地の名が出て来ると、
うーん、と立ち止まってしまうのが海山チーム。じゃあ、東北で?と問われてもうーん・・・。
胸の奥底ではいろんな思いがあるのですが、整理しきれないで場所も決められない、というのが本音
のところ。

じゃあ、東京か? 六本木?
六本木?、というあたりで、ポーンと何かが弾けました。

じゃあ、六本木もすっ飛ばして、外国?アメリカ?ロスか、ニューヨークか?

 

ニューヨーク!!

いいんじゃないですか。
新聞バッグコンクールだもの。お客様にたくさん来て頂いて楽しんで頂くためには楽しくやりたい。
でも大震災後のこの3年、ほとんどなーんにも変わっていない東北の現状に気持ちが戻ると楽しく
やりたいとは思うけど、はしゃげないです。

でもアメリカなら、そんだけ遠くに行っちゃったら思いっきり楽しいコンクールやって、もし成功だったら、
喜び勇んで「成功したよー!」って、張り切って東北に戻ってきたい。いいこと持って帰りたい。

四万十の川を汚さないエコの心から始まった新聞バッグ。大震災を機に新聞バッグは東北にきて、東北
では残った手を活かす手仕事としての役割を担う新聞バッグになりました。
そして今、四万十と東北と手を繋いで、梅原先生が仰るように「日本人の美意識」「日本人の手仕事」を
世界の人に見て貰えるコンクールを開けるならばこんな嬉しいことはない。

そんな思いで、みんなそろって「アメリカに行こう!!!」
で今日の会議は締めくくられました。 次、どうなっていくんだろう。

 

夜はほっかぶりの面々も加わっての恒例懇親会。
肉離れで整骨院通院中のあかりちゃんもお母さんと一緒に参加。せっかく料理屋に来ているのに「お握り」食べてる。

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そしてまたもや偶然去年と同じで今日はよっちゃんの誕生日。2年連続で四万十チーム、海山チームから
「おめでとう!!」
41歳になりました。

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明日は朝から会議続行です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がんの話

新聞をゆっくり読むという時間はあまりないのだけれど、読まない新聞でも開いて新聞バッグに良い、と思う
紙面を選ぶ作業は必ずします。

その時にパラパラと気を引かれる記事は読みますが、今日は下の広告にえーッと思わず見直す本の広告
があった。

「抗がん剤のやめどき」というのですけど、副題に「あなたの治療は延命ですか。縮命ですか」と書いて
ある。あなたの治療というからには抗がん剤のことでしょう。

こんなのどんな人が読むんだろうか。
思いがけずがんを患って、一生懸命の思いで、呑んでも注射で入れても気持ちの悪い、身体に大きな
打撃を与える抗がん剤治療をしてもらっている人達が読んで、自分が受けてる治療が延命になっている
んだろうか、もしかして縮命になっているんだろうか、と自分の治療を見直すために読む本?

だとしたら、ずいぶん乱暴な酷な題名の付け方じゃない?

実際抗がん剤治療の現場に行ってみれば、いくつもあるベッドの空きがないくらいたくさんの患者さん
たちが入れ替わり立ち替わり抗がん剤治療を受けています。ほんとに抗がん剤の患者さんは多い。
ということはそれだけがんに罹っている人が多いということでもありますが。

こないだ亡くなったうちの夫も、最後までもうちょっと体重が増えれば抗がん剤が受けられると
楽しみにじゃないものの、抗がん剤を受けることに希望をつないでいました。
抗がん剤で治るなんてまったく思っていない。抗がん剤が肝細胞に効かないということも承知している。  でも抗がん剤によって抑えられる細胞があれば、その分でも長く生きられる、と思っていたのかも
しれません。

私たち家族はあまり賛成ではなかった。抗がん剤を受けると副作用が出るからです。
髪の毛は抜けないけれど、口内炎、味覚障害、倦怠感、免疫力が下がる、などいろいろ出ます。本人もしんどいでしょうが、見ている家族もつらい。でも本人がそうしたいならフォローするしかない、と思い決めて
いました。

亡くなる3か月ほど前に黄疸が出て、その処置を受けました。内視鏡手術だったので、その予後のために
抗がん剤治療を受けられない期間があり、その間に少し体重が増えました。夫は喜んでもう少ししたら
抗がん剤を受けられるなあ、と言っていたのですが、先生からもう少し待ちましょう。もうちょっと体力    をつけましょう、と止められた。

それから2週間もしないで亡くなってしまったわけですが、この期間のどこで「やめ時」なんて見極められる
のか、と思います。ただでも死ぬことは怖いのに。

「延命ですか、縮命ですか」なんてまったく他人ごとの言葉。
以前夫に、本屋の店頭に積んであった「余命3年のうそ」という本を買ってきて、「読んでみる」と見せたら
「そういうものを書いて金を儲けるという神経がいやだ」と目もくれなかった。

私は若い頃からがんの闘病記の類の本はたくさん読みました。なんでかわからないけど、興味深かった。

でも実際に、友達が大腸がんになり、ご主人が大腸がんからの肺転移で亡くなり、別の友達のご主人は
肺がんで亡くなり、夫の父親は胃がん、私の父は膀胱がん、母はずーとなんともなく91歳まで生きて
死ぬ20日前に肺、肝臓、胃ががんであるとわかりましたが、自分の夫ががんになってから全然何にも
読んでません。がんは千差万別。読んだって何もわからない。

 

私の夫は二人同時に91歳でなくなった私の両親の、父のほうの介護を引き受けてくれました。ご飯を
作っておむつを替えて付き添って、それは細かく気を配って気難しい父の世話をしてくれました。
私はがんにはならないけど(ほんとはなってた)、骨折を繰り返す母担当で母の世話をしてました。

二人が12時間違いで亡くなった、その翌月に夫の前立腺がんが判明しました。
手術を受けて前立腺がんは再発はなかったのですが、1年半ほどして、大腸ガン。手術をしてまた
1年半ほどで肝転移。手術をしてまた1年半くらいで再発という経過でした。

これだけたくさんのガンの本。
誰だって生きたいもの。

あなたの治療は延命ですか、縮命ですか、なんて、そんなのわかんないですよ。本読んだって
決められないです。
その時の患者の状態に合わせて、先生とよく相談をしながら、抗がん剤を受ける受けないを決める
というのが、延命にしろ縮命にしろ、安心できる治療だと思うのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がんばれーッ、がんばれーッ!

あーッ、また忘れちゃった。

せっかく用意しといたのに。忘れると思って最初から用意して、わざわざ別に置いといたのに。

お餅を搗き終わって、「あー、やっと終わった!」とホッとしたところで、目の前に準備しておいた塩が・・・。

うちのお餅は搗きたて柔らか餅なので、すぐにお客様が車の中で食べられるようにと味付きなのです。

豆入りは塩味。ごまは砂糖味。

ということでお客様には知って頂いているのに、入れ忘れたよ、塩を。

どーしよう!!

お米だからね。お餅だから捨てるわけにはゆきません。どーしよう、と悩みに悩んで先日は紙に「塩が

入っていません。よって塩なし値段で」と書き出して、少しお安く販売しました。

オトーサンはこんなことなかったんです。私がやるからこんなことがあるんです。

オトーサンがいる時には船頭が二人で、ちょっとしたことでぶつかってはお互い「黙れ、黙れ」と怒鳴り

合ったりしてましたが、こうして一人でお餅を作るようになってみれば、船頭が一人でスイスイスイと

うまくいくみたいなもんですが、実際は緊張し過ぎて準備し過ぎて何をどこに置いたかわからなく

なったりする。

搗き終わってそこに忽然と塩入お皿が残っているのを見た時には、ほんとに自分の頭を呪いたくなります。

 

今日も致し方なく、無塩お餅の注釈入りでお餅を販売することにしました。                                                                                         枝豆入りではなくて黒豆入りです。

と、寄ってきたお客様の旦那さまのほうが、「オレ、黒豆がいい」

 

ええー、よりによって黒豆?

「あのー、 この黒豆塩入ってないんですけど」(歯切れが悪い)

「いいよ、いいよ、醤油つけて食べるから」

と、奥様が「あ、ここのお餅は味がついてるんだよね」

 

「あのー、味ないの。忘れちゃいました。塩入れるの」

「えッ、忘れたの!」

お客様ご夫婦のびっくりした顔。 恥ずかしい。穴があったら入りたい。

「あのー、夫と二人でやってたんですけど、この間亡くなったので一人で続けてますけど、忘れる、忘れる

なんでも忘れるんです。すみません」

 

「いいよー、いいよー。塩なんかいいよ。続けてね。がんばってね。」とだんな様。

と奥様さまが

「いつもお客さんが待ってるもんね。がんばれーッ、がんばれーッ、フレーッ、フレーッ」

 

はあーーッ、肝が縮んだけど、励まして頂いて涙でそう。 ありがたいです。

塩なしお餅はすぐに売り切れになってしまいました。

お客様、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

みんな大変!

3、4日前からくしゃみの連発、鼻むずむず。
顔の真ん中あたりが気持ちが悪ーい。なんでだろう、と思っていたら娘から「それは花粉症だよ」との指摘。

えーッ、秋にも花粉症ってなるの。何の花粉ですかね。ブタ草?

70年生きて花粉症になるのは初めてです。家中で花粉症、花粉症と病院に行ったり、マスクかけたり
帽子被ったり、窓を開けるのも嫌うのを「大変だねえ」と、夫と私二人だけどこ吹く風と見てたのが、
夫が亡くなったかと思うとなっちゃった。

なってみると花粉症というのは気持ち悪いもんです。初めて花粉症の人の気持ちがわかった。

ついでに5歳の孫が突然喘息発作を起こした。連日点滴したりたくさんお薬飲んだり、外でも遊べず
かわいそうですが、喘息という病気が何の前触れもなく突如として起こるとはびっくりしました。
なり始めが大事だから、今は大事をとっておとなしくおとなしく。
花粉症ももしかすると喘息も環境が変わったり、疲れて体が弱ったりする時になり易いのよ、と聞きました
が、まあー、疲れているのかもしれません。

 

疲れているといえば海山ネットはみんな今は大変です。

よっちゃんはここんとこ全然お休みなくぶっ続けで動いてます。3日間連続で仙台の勾当台公園で
販売。今朝は頭が痛いと言ってましたが、今日の夜から夜討ち朝駆けで埼玉のたねの森さんの
お祭りに参加させていただくことになっています。今頃眠い目を無理やり見張って東北自動車道を
ひた走っていることでしょう。気を付けてね。

とんぼ帰りで帰ってくるとすぐに2日連続で新聞バッグプロジェクト2013の会議です。

黒田さんは今から11月の終わり近くまでのほぼ2か月間、パソコンの上級者のお勉強に行きはじめ
ました。毎日朝9時から4時まで講義を受けて、戻って新聞バッグの検品などすることになりますが
いかになんでも大変なので、今日はあやさんとアカリちゃんと私で、検品、箱詰め、発送。

 

今日の空は薄い空色でとてもきれいです。

よっちゃんちによっちゃんなんばんを取りに行って、ついでによっちゃんちがある谷をぐるーっと回って
帰りました。稲刈りが終わって広々とした暖かい農村風景。

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墓地がありました。彼岸花が咲いてました。
明るいお墓ですねえー。怖くないお墓。

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梅農場のソーイチさんからお父さんにとソーイチさん大自慢の枝豆「三代目」を頂きました。

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由実さんからは新米が届きました。早速炊いてお父さんにあげました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

支え合って

1年365日毎朝顔を合わせる岩出山の中森豆腐店の中森社長。

道の駅は年中無休なのです。野菜出荷の人は野菜がない時には持ってこないけど、中森さんも私も
豆腐とお餅なので、よほどの用事がある時以外は休むこともなく、毎日顔を見てしゃべります。

中森さんの前にあるのは真山のサトーさんご夫婦が持ってきたコルチカム。一昨日持ってきた分は
1ケース全部売れてました。

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サトーさんご夫婦は高齢なので、値札を出す機械が苦手。
大抵の時は同じ時間帯に行き合わせる中森さんが、なんとなんとなに持ってきたのー?とサトーさんの奥さんに訊ねながら値札を作ってあげます。

今その作業中。

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写真をとってもらったからと、赤いカブとインゲンマメを「食べなさい」とくれました。
「一人だから食べないから要らない」と断ったら「一人でも食べなかったら死んでしまうんだよ」と
叱られました。

中森さんは岩出山の昔からの名物である凍み豆腐を作っているお豆腐やさん。10年近くも毎日顔を見て、
役員研修旅行などにも何度も一緒に行っているうちに、食べ物の好き嫌いも、好きなことも苦手なことも
何でも解かるようになっちゃいました。

夫は抗がん剤で味覚が変わってしまってからは、中森さんのお豆腐だけを食べてました。たまたまなくて
よそのお豆腐を買っても、味が違う、と食べませんでした。最後の最後の食事はずいぶん中森さんの
お豆腐に助けてもらいました。

最上のキノコ屋さんのマッシュさんからは、東京の柘榴という料理屋さんで、舞茸の根っこがガンにきくと
いう話をきいたのよ、と舞茸を採った後の根っこをずいぶんたくさん持ってきてくれました。

こうしてみなさんに支えられていた3年だったと思います。

 

早くもパンジーが咲きました。

まだたくさん咲くのはこれからです。しっかり株ができるのもこれからです。

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もうすぐ紅葉シーズン。忙しくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約束

朝、道の駅に向かって出ようとしているところに、ユミちゃんがやってきました。

「用事はないんだけどね。どうしてるかなあーと思って」

稲刈りで1日忙しいのに、私を心配して寄ってくれたのでした。ありがたいなあ。

なんだか忙しくって、いろいろ考えている暇がないのですが、でもガシャガシャ動いていても、心ここに

あらずのような茫然とした感じはあります。

終わって、今いろんな書類を書いたり見たりしながら思うのですが、夫のガン発病は22年の初夏の頃。

亡くなったのが25年の9月だから、 わずか3年半。ガンになって10年も生きる人がいるのに、3年とは

なんと早かったんだろう、と今にして思います。

ユミちゃん曰く

「若い人は進行が速いけど、70代になったらもっと遅いかと思っていたんだけど。病気のことを

詳しく知ってたの?」

いや、知りませんでした。

ガンになってから死ぬまで「ガンは自分の細胞の問題だ。悪い細胞が勝つか、良い細胞が勝つかだな。今

は悪いほうが勝っている。悪いほうが勝つのは自分が悪かったんだ」と言ってました。

ずーっとそんなこと言っているんだもの。病気のことなんて全然話さなかった。普通のことを話してました。

でも良い細胞を勝たせるために、人参ジュース飲んだり、甘いもの食べなかったり、辛抱強く努力してました。

そして約束は3つ。

年の順序に死ねるのは有難いこと。

二人で始めた二人の世帯を二人の力で終わらせられそうなこと。

そして私の両親が二人一緒に91歳で何もかもそのままにして亡くなってえらい大変だったから、必ず

早くに生きた始末をしておくこと。

「その3つを何時も話していたけれど、なんとかなりそうだ」

 

もうすぐ49日。ユミちゃんの力で、お墓の土地も和尚様のところでなんとか分けて頂けそう。

みんなでご飯を食べて、夫に喜んでもらえる楽しい1日にしようと思います。

 

 

梅農場の3代目であるソーイチさんが3代目という甘ーい枝豆を毎年作っています。

作る前は、今年は美味しい枝豆作れるか、と考えて寝られなくなるそうです。

その枝豆をたくさんソーイチさんから頂きました。

私はこの枝豆をお餅に入れて枝豆餅を作ります。

 

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もらったはいいけど、茹でるのも薄皮までむくのも大変。

時間さえあれば枝豆を茹でてます。