D社長視察訪問4日目 その1

              福岡からD社長が来て4日目。

      午後3時に石巻の渡波にある寺院を訪ねる約束なので、朝の自分の仕事を

      終えた後、再度南三陸へ向かう。D社長に電話をすると、仮の公的機関が置かれ

      ているベイサイドアリーナの役所で、情報収集中だった。建設、電設という彼女(

      D社長は女性。私の学校の後輩)の会社の同業者で被災した人がいれば、訪ね

      て何か出来ることを提供したいというのが目的だった。

      これは後での話だが、「家も工事車も道具も流されたけど、仕事はあるって。

      道具をを送ってあげたらいいのかな」と考え込んでいた。

      D社長が同業被災者に会いに行っている間に、私は前に一緒に竹盆栽を作った

      鳴子温泉避難者のSさんが入居したK仮設住宅に行くことにする。志津川まで

      出ない集落だけれど、国道から支道に入り、また細い車一台しか通れない畑の

      脇の道を入って行く、こんなところに仮設住宅があるのか、と疑いたくなうような

      場所に仮設住宅はあった。K仮設住宅はカンカン照りの日差しの中で、カンカン

      に照らされていた。これまでみた中で最もさっぱりしているというか、表も裏も

      何もない、ただの箱型の倉庫が並んでいるような印象。洗濯物を干す場がない

      ようで玄関扉の上にハンガーを架けてたくさんの洗濯物が干されている。必然

      的に、お客であっても干されたシャツやパンツの下でドアを叩かざるを得ない。

       Sさんの奥さんは留守だった。帰ろうとした時Sさんから電話。奥さんが急いで

      そちらに向っているので少し待っててくれ、とのこと。しばし待つが奥さんは来な

      い。仕方がないので、、待ち合わせ先の志津川ホテル観洋に向う。

      ホテルに着いたところで奥さんから電話がかかってきた。ベイサイドアリーナ

      まで(自転車で40分くらいかかりそう)私にくれるためにワカメを買いに行ったそ

      うで、渡したいのでタクシーで持っていきます。と言う。断ってから20分後には

      お隣さんの車に乗せてもらって奥さんとあと二人のK仮設住宅の住民が

      やってきた。

      D社長と並んでK仮設住宅に於いての不安や不自由さなどを3人から聞く。

      

      

    

      

      

      

      

      

      

再び南三陸町へ

              三日間の東北被災地視察を終えられた福岡県の建設会社サン電工舎の重役

       方が帰福された二日後、今度は社長が来られた。1週間の予定であり、今日は

       その3日目。前回の視察で撮ったビデオ写真を見て、南三陸町に行きたいとの

       ことなので、ご案内した。A仮設住宅。小野寺さんが入居している。

       前回同様自治会長さんと、その奥様も同席してくださった。

       福岡という遠方からの支援で何ができるか、を話し合う。

       南三陸の仮設住宅は50数か所に分かれているようだけれど、建てた建設会

       社によって、仕様が全く違う。窓が掃出し引き戸だったり、上だけの窓だったり、

       扉も引き戸だったりドアだったりで、使い勝手が仮設ごとに違う。

       A仮設の場合は建物そのものが箱型で雨が降れば窓からも玄関口からも

       雨が降りこんでくるのでその対策、雨樋がないのでその対策など、この先

       連絡をとりあって会社の方で材料など支援していただけることになった。その他

       衣類、生活用品、なんでも困ったことがあったら連絡できるようになった。

       ほんとに有難いこと。

       ここでは男の人たちの仕事であるガレキ処理が9月下旬で終わる、その先の

       仕事をどうするか、など密度の濃い話し合いだった。

       明日は石巻渡波地区を訪問し、つい先日閉鎖になって避難所の役目を終えた

       お寺のお住職を訪問する。

       良いお話合いが進むことを願いつつ、明日は石巻に行きます。

       またご報告します。

      

       

       

    

       

       

 

閖上漁港、石巻

              家の前の電線の不調でブログが書けなくなっていたよっちゃん農場のドタバタ日

      記が今日から復活しました。これで一安心です。

      私もよっちゃん同様、福岡からお客様が見えたり、四万十ドラマの畦地氏やデザ

      イナーの迫田氏とお会いしたりいろいろ忙しい時間を過ごしましたが、今日は初

      めて行った閖上漁港と石巻のことを書きます。

      福岡から東北被災地を視察に来られた(株)サン電工舎の取締役3人とカメラマン

      をご案内して閖上漁港と石巻に行きました。仙台東部道路から見る県南被災地

      は塩水を被った木や草は茶色に枯れています。一面に茶色で所々水が溜まって

      います。朝市で有名だった閖上漁港はどこにあるのかわかりませんでした。「閖

      上漁港はどこですか」と尋ねて「その辺り」と教えてくれたガードマンが指差す辺り

      には10メートルもそれ以上もあるガレキの山々々。「復興」とか「復旧」とか言葉

      では言うけれど、元に戻るとは思えない光景です。振り向くと、震災前にはあった

      だろう住宅の全てが土台を残して全くなくなり、草が生えた広場の風景でした。

       石巻は全く違う、津波に貫通されて空洞になりぼろぼろになった住宅の密集

      地でした。これだけたくさんの家々にどれほどたくさんの方々が住まわれていた

      のか。人の姿はないに等しいけれど、どこに行かれたのだろう。そしてこれだけ

      の家を解体するとどんなにたくさんのガレキが出ることだろう。いつか新聞で

      見た、宮城のガレキ処理は100年かかる、と書かれた記事が心に蘇ります。

       日和山から海を見ると、バラバラになった防波堤が海に沈んでいました。

      1日2回家の中に入ってくる海水です。もし私の家がこの中にあって住める形

      を僅かでも残していたとしたら。壁や窓にブルーシートや板を何枚も張り、人

      が住まわれているらしい家もあります。

      何もかもすっかり失くなってしまった南三陸とは全く違う被災地の形でした。

      このブログは復興へ向かっての一歩一歩の記録として書き始めたのだけれど、

      今は復興という文字が心に沿わなくなってきています。もしかしたら復興でも

      復旧でも再生でもなく、創生、新しく作ることへの一歩一歩の記録なのかもしれ

      ない。そんな思いがしています。

      

      

歌津

      

       東関東大震災が起こるまで一度も行ったことがない南三陸町に、初めて行った

       のは一月ほど前だった。南三陸町で一番大きい街である志津川は、津波で流さ

       れて何もなかった。流れ残った鉄筋の建物だけが、ところどころで痛ましい姿で

       立っていた。屋上に車が乗ったままのところもある。信号も標識も目印にする建

       物もないのですぐに迷子になった。その日の目的である気仙沼に近い小野寺

       氏が住む仮設住宅に向かう途中、歌津を通った。自分が走っている道路左手

       の高い場所に駅舎が見える。当然列車は走っていない。駅の下は広場で簡易

       トイレが2個置かれている。駅を背にして海の方向を見ると、海に面して大きな

       橋梁がが何本も立ち、橋は流されたのか何もない。手前に青いウタチャン橋。

       暫く橋に居ついたアザラシの名前らしい。駅から海までは広い空間で、津波の

       あとの荒れた部分はたくさんあるが、草も生えて静かだった。一度も歌津へ

       行ったことのない私は、それが歌津の風景だと思った。

         そして2度目。今度は一人ではなかった。海山ネットメンバーと一緒だった。

       歌津の駅舎の写真を撮りに行った。線路はないそうである。海の手前の橋梁

       を「あれはなあに」と聞くと、「45号線」と意外な返事が返ってきた。ええっ、じゃ

       今私がいる道路は?あれが海沿い幹線道路45号線だとすると、駅から海まで

       の空間は? 動転している私にメンバーが言った。「駅の下には駅舎があって、

       駅舎で切符を買って階段を登って駅に行ったのよ。駅の前は七十七銀行とか

       お店とか向こうが見えないくらいのたくさんの建物が海まで続いている街だった

       よ」

       驚愕した。ほんとに驚いた。前の街を知らない人間にとっては今の歌津は、

       以前からある風景のように見える。この風景が元の街に戻ることが

       可能なことなのか、まったくわからない。

       今日歌津の人に会った。鳴子の温泉にいる頃より屈託のあるお顔に見えた。

       現実の生活に向き合うことはとても厳しいことだけれど、人と人との軋轢に

       心を痛めないでください。そんなところに捕らわれたら復興も復活もできなく

       なってしまいます、とお伝えしたい気持ちになった。

       

       

       

     

       

       

       

       おっかなびっくりで始めた菊、小菊2000本、輪菊1000本、が咲き始めまし

       た。お盆には咲かなくて、咲かない、咲かない、と言っていたら、いっせいに咲き

       始めて大慌てです。先日、南三陸まで菊のお師匠さんである小野寺氏に見せ

       に行ったら、予想に反して真面目な顔で「立派だ。よくできてる」と誉めていただ

       いてびっくり。冗談かと何度も聞き返したら、やっぱりよくできているのだそうで

       す。よかった!!

       一度見たら、他はどんなかと思われたのか、わざわざよっちゃん農場とうちの菊

       を遠路遥々見に来てくださいました。”秀”だそうです。いやあ、なんと言ったらい

       いのか。小野寺さんも奥様もお話する度に、津波で家が流れたおかげで会えて

       よかった、と仰るのだけれど、返す言葉もないので、やっぱり教えていただいた

       菊作りをこれからもしっかり続けて行きたいと思います。

       今日、メンバーである梅農場の専務と会ったら、「俺は仕事が忙しくて海山ネッ

       トの活動はちっともできないけれど、たくさんの避難者の方人たちに梅農場の

       仕事に来てもらって、これからの絆ができた。梅ができたらみんなに送るし、み

       んなも海のものが採れたら送ってくれる。これからもずーっとこの関係は変わら

       いと思うよ。タカちゃんはこの岩出山に住んでくれることになって、家もうちの

       近くに借りることができた。長男は涌谷町で就職できたし、下の息子は鳴子

       温泉に就職した。たかちゃんはよっちゃん農場で働く。大崎氏の人口が増えた。

       その意味ではおれは俺なりに充実した思いがあるよ」

       いい言葉だと思いました。彼は彼なりの海山ネット活動をしています。

       もうすぐ6か月になります。現状はほとんど何も変わっていないけど、小野寺さ

       んや専務のように「よかった!」と思えるようになれたらいいな、と思います。