日本の宝もの

              温度が高いうえに間々で雨が降るので、至るところがものすごい草。竹盆栽

      に使う苗も草に埋もれて見えなくなるので、昨日、今日と草取りに精を出したら

      案の定腰が痛くなった。取っているときは腰痛のことなど忘れていて、夜になっ

      て、ああ、そうだった、と思い出すので始末が悪い。

       及川さんより電話があり、新聞バッグに使ってほしい新聞があるので見てくだ

      さいとのこと、間をぬけて古川へ行く。

      「使ってください」と喫茶店のテーブルの上に置かれた一締めの新聞の束を

      見て呆然!

      英字新聞、日本の各新聞、農業新聞に子供新聞にスポーツ紙、全部まっさら。

      手付かずで及川さんは読んでいない。及川さんが選ばれたのだろう。311以来

      の悲惨な記事や写真ではなく、人が救われたり笑顔があったり、自衛隊や米軍

      が活躍する姿が撮られた感動的な素晴らしい写真が数々ある。一見しただけで

      3月からの様々な場面が思い出されて思わず涙が出てきた。でもこんな新聞を

      新聞バッグには使えない。絶対に使えない。

      「私の宝物です。役に立つのだから使ってください」

      強行におっしゃる及川さんの言葉に負けて新聞をお預かりした。

      津波に流された南三陸新聞社の記者の及川さん。津波に襲われる南三陸の

      町を撮られた写真の力強さといい、仮設住宅に入られた時には疲れて元気

      が失くされていたが、それでもこれだけの新聞をきちんと保管されている

      及川さんの新聞記者魂。

      新聞は及川さんの宝だけではなく、日本の宝だと思います。新聞バッグに

      作り、パネルにもして、後々日本中の人たちに見せる機会ができたら、及川

      さん、どれほど喜ばれることだろう。

      大切にお預かりします。ありがとうございました。及川さん。

      

      

      

      

     

      

      「ダメですよ。こんな新聞いただけません。及川さん、読んでないじゃないですか」

      「読んでないです。いつかゆっくりと読もうと思っていました。私の宝物です」

      

      

妄想から前進へ

             市川コルトンプラザ出店時に来てくれた元陶芸を習っていた先生から、今不在

      中の別荘をお借りできることになった。我が家から車で3分。ここでの暮らしは

      どこへ行くのも車、隣の家でも車というところなので、よっちゃんなんばんからは

      10分、梅農場からも同様なので、みんな大喜びで使わせていただくことにした。

      広ーい、築100年の古民家。ひとかかえもあるような梁、柱がある大きな倉庫。

      今はお留守だから草ぼうぼうだが、立派な柿の木が2本、竹林もある。

      何より広いので、これまで各自で預かっていた日本中の皆様から送られてきた

      布地や、三陸しいたけ、新聞バッグなどをまとめて置けるのがありがたい。

       さっそくオープン記念ミーティングを開く。4人顔を寄せてみると、この先身体が

      もうひとつ欲しいような過密スケジュールで復興販売プロジェクトが詰っている。

      本当にありがたいことだ。

      今全国的にもそうだが、特に東北の状況は厳しい。先日、道の駅の放射能

      勉強会で講師の取締役が「税収がないうえに借金返済と弱者救済のお金が膨

      らむばかりで通常の予算が立てられない」と仰っていたが、周囲の状況を見回し

      てみると本当にその通りだと思う。行政頼みでは何も動かないし、大きなお金

      が動く商売はできそうにもない。まず小さく自分たちでできるかたちの商売で

      小さな経済復興を、をいうのが私たちumiyamanetの基本の考えだから、過密は

      過密なりに工夫してひとつ、またひとつと人の輪、想いの輪を広げる場にして

      ゆきたいと思うのです。

      それにしても商品作りが忙しい。そんな中、今少しばかり仮設に入居する日が

      延びた新聞バッグ作りのエース、さおちゃんから電話がありました。

      「新聞バッグ、大きいのを先に作ります?それとも中ですか?

       すぐに何枚必要ですか?」

      静かで無口なさおりちゃんが自分から頼もしい電話をしてくれてます。

      最初の頃は口を開けば「妄想」だったみんなの考えが、ひとつひとつ形を

      なして、少しづづ前進している気がします。

   

      

    

及川さんと再会しました

      山の手メンバーよっちゃん農場こと高橋代表より、「9月、マルシェで使う新聞

      バッグ、外国の新聞で」と言われて「えーッ?」

      ただ普通に外国の新聞だったら、従姉妹とか知人とかに送ってもらうこともできる

      だろうけど、日本の震災時の報道が載った外国の新聞となると、込み入ってくる

      のでアプローチが難しい。どうしようか、と考えた時、思い浮かんだのが元南三陸

      新聞記者の及川さん。及川さんは若い時分の外国放浪で鍛えた外国語堪能者 

      だし、自らも津波で被災されているので、お願いしてみようと電話をしたら、歌津

      の仮設入居後、少し元気をなくされていた及川さんは、しっかり元気を回復され

      て、古川七夕祭りでご自分が撮られた津波の写真展を開かれているとのことだ

      った。高橋代表に電話をしてさっそく古川の写真展へ急行。

      博多の人間の私から見ると及川さんはいかにも東北人で物静かで奥ゆかしい。

      でもその写真は新聞記者らしく、本当に迫力ある津波に押し流され壊滅してゆく

      南三陸町の写真の数々だった。

      新聞のことをうかがってみると、311以来の河北新報の全て、英字新聞の全て

      を保管している、ということでさすが及川さんと感心しました。

      将来ライブラリーを作りたいという夢を持っていた及川さんは、津波で家ごと5

      000冊の蔵書と300枚のCDを流失。残念で残念で仕方がないと仰っていたのに

      もう新聞は保管し、写真はパネルに入れていつでも展示できるように用意されて

      いるとのこと。やっぱり私たち山の手は及川さんの夢を応援し続けたいと思いま

      す。ツイッターで流したいという高橋代表の要望に応えて日本語の翻訳を引き受

      けていただきました。

      夜は、道の駅で放射能の勉強会。

      借金と弱者救済金ばかりが膨らんで固定資産税も所得税も入らなくなり、国民

      の税金に頼らざるを得ない今の東北の実状をしっかり認識するように、そして

      その現状を発信できるのは東北人しかいないということ、放射能汚染は怯えず

      正面から引き受けて検査し、安心できる米や野菜を提供するように、という

      取締役からのお話でした。   

      

      

           

市川ニッケコルトンプラザに行って来ました。

       7月30日、31日の土曜、日曜日に千葉県市川ニッケコルトンプラザ「宮城つく

       びと産直市」に参加してきました。

       金曜日の午後出発。話には聞いていたけど、東北道の混み方にはびっくり。

       郡山から常磐道に進路を変更して8時過ぎには市川に到着しました。10年ぶり

       に見るコルトンプラザは方向がわからないほど大きく立派になっていてまたび

       っくり。そして市川なのになんとなく薄暗いのにも驚きました。これが節電な

       んですね。

       翌土曜日から販売開始。販売場所をダイエー、ピーコックと専門店外の

       間に設置していただいているので、たくさんのお客様においでいただいて、

       産直市は盛況でした。

       夜は本八幡で懇親会を開いていただきました。席上、挨拶に立ったタカちゃ

       ん、南三陸から避難してきてよっちゃんなんばん高橋夫妻に出会い、なんば

       んの仕事をするようになったことを「嬉しい。感謝しています。これから岩出山

       住みます」と話すうちうるうるしてきて涙声に。傍にいたみちよさんも「ちょっと

       今の言葉聞きました?」と涙ぽろぽろ。高橋君も私もさおちゃんもこれまで

       あまりにも一生懸命だった反動でうるうるしてしまいましたが、タカちゃんの

       挨拶は大拍手で終わりました。

       翌日曜日は、最終日ということで気合を入れて臨み、土曜日以上にがんば

       ってお客様と接することができました。

       海山ネットワークに寄ってくださったお客様、そして、こんな機会を設けて

       くださった関係者の方々、ありがとうございました。