内陸部の被災

 用事があって車で佐沼の方まで行って来ました。

我が家の周りは山間部ではありますが、311の地震と407の余震の被害はかなりひどくて、

県道、町道合わせて5本のうち3本が通行止めになっています。でも佐沼方向は通行止めなし。

 10分ほど走って国道4号のガード下を抜け高清水の町に入ると、様子が悪くなってきました。

道路の損壊。一応直してはありますが、ガタガタ。亀裂が入った壁、曲がった窓や扉、傾いた家。

そーいえば高清水は407の余震から4月末まで水が出ませんでした。瀬峰を過ぎ、南方の道路は

100メーターの間がないほど、陥没、隆起の繰り返し。中央線で左右に段差ができてしまった道路が

長々と続き、佐沼の町の石畳の道は石が弾け飛んでバラバラ。目に入る家々は外見は普通に

見えても、大小の被害はあるに違いありません。

 この道をまっすぐ進めば沿岸被災地の志津川に行きます。ここからさらに地震の爪あと深い町

をぬけ、津波でガレキに埋められた志津川まで行く、と思っただけでどっと気持ちが疲れます。

用を終えて買い物に寄ったイオンスーパーは外見は地震の前のままなのに、中に入ったら

営業しているのは半分の面積でした。

知られざる内陸部の被災。これも深刻で、沿岸部まで考えるともっと広くて深刻で、これで復興がいつ

の日かできるのかなあ、と目も心も体も疲れた佐沼行きでした。

南三陸タイムズ第1号発刊

 4月に催した佐藤農園での「梅見の会」で初めてお会いした

Oさんは、南三陸新聞の記者さんでした。津波で新聞社の社屋が流され、

今は読者がいないので、3年間は休刊。また新聞社が再開されたら戻られる、

というお話でした。91歳のお父様、80歳代後半で介護が必要なお母様、そして

介護をなさっている奥様と4人で鳴子温泉に避難なさっています。ご両親のために

家をバリアフリーにして、さあ、これからという時に家も流されたとのことです。

 仲間のKが0さんのためにパソコンを探しました。翌日には静岡の方から送られて

きました。プリンターは私が差し上げました。「梅見の会」の反省会の日に鳴子の

公民館の方が、仕事部屋の提供を申し出てくれました。

 さあ、南三陸新聞、O記者のお仕事再開です。

 鳴子温泉郷にはほぼ1000名弱の避難のかた々がおられます。そこから記事を

拾ってどんな新聞ができるのか、と楽しみにしていたら、「できました。届けます」と

元気な声でお電話がありました。鳴子避難の方々の全所帯に配られるそうです。

 「南三陸タイムズ」の第1号!うれしくてFAXしてコピーして、みんなで読みました。

 Oさんとお話すると、その目は記者の目であり、聴く姿も記者の姿勢を感じました。

 2号ももうすぐ発行とのこと。

 南三陸タイムズから復興へのどのような光が放たれるのか、心待ちにしています。

   

復興ってなんだろう

 南三陸志津川で菊栽培をなさっていた0さんご夫婦にお会いしました。

 0さんは船のお仕事を辞められた後菊栽培に携わって10年。

 311には津波で家と菊の畑と愛犬が流されてしまったそうです。

 奥様は出先の仙台から戻る途中に地震が起き、ご主人と6日間

 連絡がとれなかったとのこと。静かなご主人と元気でかわいらしい

奥様から直接お話をうかがっていると、本当にご主人が助かってよかった、

と心から思います。

 今年菊を作ってみたい私は、0さんにめぐり合えたこの機会に菊の栽培を

習うことにしました。0さんが菊のピンチをやってくださっている間、奥様と私は

おしゃべりが止まりません。

 0さんは66歳。20万円とかいう電器製品1セット付き仮設住宅を申し込まれて

いるそうです。でも当たったら、入るでしょうけど水が出ない。仮設住宅を期限の

2年で出ても元の場所には住みたくない。と奥様は言います。

 仮設住宅に被災者のみなさんが入居したら、それが復興のような気がするけど、

それは全然復興じゃない。復興市も復興イベントもそれはやっぱり復興じゃない。

 住宅に入居して、それからがほんとうの復興。自分の住まいを作って、畑を得て

 またお仕事の再開ができるまで、何段階ものご苦労です。

 ご夫妻にお会いできて今日は良い日でした。

 これから0先生、とお呼びします。