ブラブラ作戦

 私が出荷している道の駅では、出荷組合の全員が売上から少しお金を出し合って、

沿岸部から近隣の町に避難してきている方たちに支援をすることになった。

支援の形はいろいろある。お花見をして楽しんでもらったり、一緒にお仕事をしたり、

アルバイトをしていただいたり。明日、どういう支援をするか、という会議がある。

 今私が考えているのは、地元の新聞「大崎タイムズ」の支え合いというコーナーにある

支援物資のことだ。初めのうちは紙面の半分以下くらいだったのが、今はほぼ紙面一面

分くらい今避難所で必要とされているものが書かれている。避難している方々が生活を

始められたのだ、とその必要品目から読みとれる。

 その中でたくさんのブラジャーが欲しいと書かれているのが目にとまった。

 多数だから支援物資に書くことができたけど、個人では言いにくかっただろう、と思う。

 男の人には解らないだろうが、ブラジャーというのは女の人にとって無いでは済まされ  

ないものだ。婦人用の下着売り場などで見るブラジャーは、お洒落な洋服の一部の

ように見えるが、実際には生理学的にみれば、ブラジャーで胸を固定しなかったら       

安定が悪い、動きづらい、歩きづらい、 肩がこる。それにこれからの季節、着るものが

薄物になれば、堂々と歩きづらくなるだろう。女の人にとってこんな大事なものが

大量に不足しているなんて気の毒だ。こういうものこそ組織で支援するのが一番よい

のではないかしら。何故ならブラジャーは一個人一サイズだから。そしてどんなに

支援したくても自分の下着は、あげにくい。

 私が時折りボランティアに行く介護支援センター「ひとあかり」では、気仙沼の大島の

女の人たちに、水がやっと出るようになったからお風呂と洗面台をプレゼントしたいと

策を練っている。題して「きれいきれいプロジェクト」。

 ならば私も題して「ブラブラ作戦」。明日私は会議に出られないけれど、私の提案

「ブラブラ作戦」が会議決定することを祈りたい。    山の手S記

 

梅農場の「お茶っこのみ舎」

朝、土壌検査の土を持って農業改良普及センターへ。

土壌検査というもの、受けたことがないのだけれど、今回菊栽培のご指導を受ける

O氏が津波被災を受けた南三陸志津川で菊栽培をなさっていた方なので、第一歩から

まじめにきちんと学ぶために土壌検査を受けることにしたのだった。

センターのIさんが、ついでにお願いしておいた蓬の加工についての資料をいろいろ

調べて用意してくださっていた。またそのついでに試行錯誤する我ら海の手山の手

ネットワークの活動のお話をすると、時間をかけて丁寧に聞いてくださり、適切な

アドバイスもいただいて、ここでも暖かいご支援の心を感じた。有難く感謝です。

今朝梅農場のSさんから電話。

「おれ、思いついたんですけど、梅農場に避難者の人がいつでもきてお茶っこ飲む

場所作ります。普段から近所のおばちゃんたちが押し車押してくるんですよ。だから

一緒にお茶っこのんで話していたら、中からなんか作ってみようかなあ、と思う人出て

くるかもしれないし、できたら売ってみたいという人が出てくるかもしれないじゃない

ですか。このままここに住んでもいいという人が出てきたら最高ですよね。

難しくないよ。簡単なんだ。すぐできっから」

そう言ってたとIさんに話したら「それはいいことだ。まず話すことが復興の第一歩。

話したことの中から次何をするのかが見えてくる」と確信的にうなずいた。

広大な梅林が続く梅農場。緑濃い一角にある「お茶っこのみ舎」が出来上がったら

誰よりも先に入り浸っている私の姿が目に見えるようです。  山の手S記

梅農場で植樹会

 地震騒ぎで右往左往している間に新緑の季節になった。

 鳴子温泉の避難者の方々2百名と一緒に梅見の会を楽しんだ梅農場の6、7千本の梅の古木は満開の花を散らし、今は小さな実を育てている。社長のS氏が、いつの日にかと今は亡き奥様と計画をなさっていた花桃の桃源郷の植樹会を開いてくださった。今日は5月11日、鳴子の避難所では合同慰霊祭が催されるというので、来られる方は少ないだろうと予測していたら、
かなりの人数の方が参加されていた。未来の桃源郷は、広大な梅林の一角にある。600本の苗木は前もって植えられていたので今日植える苗木は少なかったが、植樹の後の山菜採りや輪になっての顔合わせや自己紹介など、みなさん楽しまれているようだった。

 突然、南三陸たいむずを発行されているOさんが「運の悪いことに仮設住宅に当たりました」と発言。うれしいことなのに、なんだかガッカリしてしまう一瞬だった。南三陸たいむずは発行されて第3号で廃刊になるのはあまりにも寂しい。こちらの記録も大事だが、歌津に戻っての仮設住宅での新聞発行も大事に思えるので、なんとか両方続くように一緒に考えたい。

 それにしてもみなさん、とても素直に心を広げてお話されているようだ。社長も専務である山の手メンバーのSSさんも、この梅の農場をとても大切に想われているが、その想いのこもった梅農場は避難者の方々の心の復興に大きな役割を果たしていると思える今日の植樹の会だった。 

「10年後、復興してみんなで花見をしよう」社長の言葉が心に沁みた。   山の手S記

黙祷時の思いがけない参加者!

 地震発生から2ヶ月経ち、花ももの植樹会を佐藤農場でおこないました。

 午後からの慰霊祭がおこなわれることもあって、参加者は少ないかなと思っていたところ20名を越す参加者が参加してくださいました。

 冒頭に亡くなられた方々への黙祷をおこないました。目を閉じ、南三陸の方角へ想いを馳せていると、素晴らしく良い声で「ホ~ホケッキョー」とホトトギスが鳴くではないですか。

 まさしく「法華経」と感じ入ってしまったのは、私だけではなかったことでしょう。

 この間の「恐怖」「空しさ」「悲しさ」「不安」を振り払ってくれるような鳴き声は、きっとホトトギスに成り代わったそれぞれの誰かが寄り添ってくださったに違いない。

メンバーK

仲間が増えた

 

 私が所属する同人誌「みず」発行時に必ずお世話になる元印刷所、現在退職なさってフリーのS氏より、丁寧な
お手紙と支援金が送られてきた。「みず」は作家の高田宏氏の「エッセイ教室」に在籍していた仲間で発行する「同人誌」で、今回21号になる。S氏には21年間お世話になり続けている。

 4月末に東京で行なわれた打ち上げの会食に、どうしても行く気になれずに、この宮城の被災地の現状
を書いた手紙を送ったところ、認識が甘かった、というお手紙をいただいたのだ。

 新幹線ならたった2時間しか離れていない東京。首都圏からこの土地に来た私は、東京に友人、知人が多いが、被災していない人に被災の現実を伝えることは難しい。ましてや津波を受けた悲しみや苦しみは、すぐ近くにいる内陸部の被災者ですら簡単に復興だの復旧だの言葉にできないほど大きな災害なのだ。

 わかってもらえないかもしれない、と思いつつ書いた手紙に心からのご支援のお気持ちをいただいたことが素直に嬉しい。日本のどこに住んでいても共に復興への道を歩む仲間がまた一人増えたことがとてもうれしい。

 

こんな時だからこそ「逢って話すこと」が大事なんだなぁ

古川駅での早朝ミーティング[E:bullettrain]

福岡のK氏が震災後無事かと顔を見に立ち寄ってくださった。

震災直前に大崎市で研修をおこなっていただいたのが遠い日に思えるほど。「支(四)援」はやがて「互(五)援」になるよって・・・・なるほど。

できることから少しづつでかまわないから動き始めよう。そして情報を発信することは忘れないで!の言葉を残し東京へ向われた。

ほんの1時間20分の情報交換に「力」をいただき嬉しかった~。ここにも福岡のご縁が・・・

道の駅の採ったばり市[E:bud]で出逢った

南三陸のお母さんはじめ有志の方々が、玄関で販売のお手伝いをしていた。「水」を得た魚のように張り切って頼もしかったよー。ここでも「動き」が生まれてきた!

なんとお客様に南三陸の別旅館の避難者の方もおいでなって、互いの無事を確認し合う機会にもなって何より。「南三陸」の入った名札が功を奏したね

「南三陸たいむす」第2号が発行された[E:good]

記事を書いたO氏と道の駅で逢い、手渡しいただいた。嬉しかった!

梅見の会の出逢いからもう2号が刷り上った。その記事を読むと「ふり返りの会」で出された話が積み上がって進展していることに気づいた。・・・機動力の成果「想い」と智恵の結集に感謝。

どんなことでも動きたい、働きたいとの要望に「シルバー人材センター」の仕組みを活用しようとの動きが生まれた。グランドゴルフ親善交流大会も開催されることに。畑や貸し出し、植樹会のおさそいなど、動きが早い。

O氏とやっぱり「一同に会する機会って大事なこと」だね~、そして本音で話すことができたらもっといいねと立ち話。

MY-ドリーム(宮城県青年育成事業)で出逢った青年たち[E:annoy]

三陸で活動していた彼たちの無事と笑顔を確認できほっとした。頼もしい彼らのこの間の動きが凄い!

G君は、仕事先の京都から地元大谷エリアの情報発信の支援をmixiを使い地道におこなっていた。錯綜する情報を交通整理しながら遠方で想いを寄せてくれていた。MY-ドリームで開発した「気仙沼さんまカレー」を実現させるゾと嬉しい約束をしてくれた。

T君は、歌津で自宅と船、車が流されたが、次の日に考えたことは「2,3年後にまた漁師として戻るために頭を切り替え何をするか」だったと言う。そのために海を離れ会社勤めにシフト。両親は自力で仮説住宅を建てた。この切り替えの早さが今後の立ち上がりの違いに反映されるよね。

それから、南三陸産の売れるものを集めてくれていると情報を入れてくれた。共に良くなること・・・考えなくっちゃね!

人はこういう時に成長するものなのね[E:up]

嬉しい出逢いが続いて私の貯金が増えたー。

今日は「採ったばり市」でした。「採ったばり市」というのは、私が出荷している道の駅の

年に4回行なうイベントです。今回は今年になっての第1回目。テーマは今の時期ですから

山菜祭りですが、私は山菜がないので花で参加です。先日花の出荷仕事を手伝って

もらった鳴子の南三陸避難者の女性3人に売り方をお願いしました。

昭和11年生まれのNさんは志津川ではわかめ現役。前回わかった事ですが、みんな

大変な働き手で、沿岸部の(海の手の)女性の強さに感じ入りました。

 花を売ったことがない人たちが、あッという間に花が売れる売り場を作り、ダンボール

を切って作ったポップを貼り、売値を工夫し、お客さんに親切に面白おかしく声がけして

くれたおかげで、花売り場は大繁盛。私の花は誰よりも一番たくさん売れました。

 仮設住宅に当たって志津川に戻ったら、花を売るといいんじゃない。今のうちに作り方

を覚えて、と思わず薦めたものです。当面は仕事ができないでしょうから。         

 花は種をまいてポットにあげれば咲きます。ただ南三陸は仮設住宅ができても水が

出る目処が立たないのが問題ですが。

 もうひとつよいことがありました。南三陸と書いた名札をつけてもらったら、同じところ

から別の避難場所に来られている知り合いの方との出会いが多くありました。

ああッと知った顔を見つけて手をとって抱き合って喜ぶ姿は、傍で見ている私達の胸も

熱くなるようでした。Nさんは涙ポロポロでしたよ。

 

内陸部の被災

 用事があって車で佐沼の方まで行って来ました。

我が家の周りは山間部ではありますが、311の地震と407の余震の被害はかなりひどくて、

県道、町道合わせて5本のうち3本が通行止めになっています。でも佐沼方向は通行止めなし。

 10分ほど走って国道4号のガード下を抜け高清水の町に入ると、様子が悪くなってきました。

道路の損壊。一応直してはありますが、ガタガタ。亀裂が入った壁、曲がった窓や扉、傾いた家。

そーいえば高清水は407の余震から4月末まで水が出ませんでした。瀬峰を過ぎ、南方の道路は

100メーターの間がないほど、陥没、隆起の繰り返し。中央線で左右に段差ができてしまった道路が

長々と続き、佐沼の町の石畳の道は石が弾け飛んでバラバラ。目に入る家々は外見は普通に

見えても、大小の被害はあるに違いありません。

 この道をまっすぐ進めば沿岸被災地の志津川に行きます。ここからさらに地震の爪あと深い町

をぬけ、津波でガレキに埋められた志津川まで行く、と思っただけでどっと気持ちが疲れます。

用を終えて買い物に寄ったイオンスーパーは外見は地震の前のままなのに、中に入ったら

営業しているのは半分の面積でした。

知られざる内陸部の被災。これも深刻で、沿岸部まで考えるともっと広くて深刻で、これで復興がいつ

の日かできるのかなあ、と目も心も体も疲れた佐沼行きでした。

南三陸タイムズ第1号発刊

 4月に催した佐藤農園での「梅見の会」で初めてお会いした

Oさんは、南三陸新聞の記者さんでした。津波で新聞社の社屋が流され、

今は読者がいないので、3年間は休刊。また新聞社が再開されたら戻られる、

というお話でした。91歳のお父様、80歳代後半で介護が必要なお母様、そして

介護をなさっている奥様と4人で鳴子温泉に避難なさっています。ご両親のために

家をバリアフリーにして、さあ、これからという時に家も流されたとのことです。

 仲間のKが0さんのためにパソコンを探しました。翌日には静岡の方から送られて

きました。プリンターは私が差し上げました。「梅見の会」の反省会の日に鳴子の

公民館の方が、仕事部屋の提供を申し出てくれました。

 さあ、南三陸新聞、O記者のお仕事再開です。

 鳴子温泉郷にはほぼ1000名弱の避難のかた々がおられます。そこから記事を

拾ってどんな新聞ができるのか、と楽しみにしていたら、「できました。届けます」と

元気な声でお電話がありました。鳴子避難の方々の全所帯に配られるそうです。

 「南三陸タイムズ」の第1号!うれしくてFAXしてコピーして、みんなで読みました。

 Oさんとお話すると、その目は記者の目であり、聴く姿も記者の姿勢を感じました。

 2号ももうすぐ発行とのこと。

 南三陸タイムズから復興へのどのような光が放たれるのか、心待ちにしています。

   

復興ってなんだろう

 南三陸志津川で菊栽培をなさっていた0さんご夫婦にお会いしました。

 0さんは船のお仕事を辞められた後菊栽培に携わって10年。

 311には津波で家と菊の畑と愛犬が流されてしまったそうです。

 奥様は出先の仙台から戻る途中に地震が起き、ご主人と6日間

 連絡がとれなかったとのこと。静かなご主人と元気でかわいらしい

奥様から直接お話をうかがっていると、本当にご主人が助かってよかった、

と心から思います。

 今年菊を作ってみたい私は、0さんにめぐり合えたこの機会に菊の栽培を

習うことにしました。0さんが菊のピンチをやってくださっている間、奥様と私は

おしゃべりが止まりません。

 0さんは66歳。20万円とかいう電器製品1セット付き仮設住宅を申し込まれて

いるそうです。でも当たったら、入るでしょうけど水が出ない。仮設住宅を期限の

2年で出ても元の場所には住みたくない。と奥様は言います。

 仮設住宅に被災者のみなさんが入居したら、それが復興のような気がするけど、

それは全然復興じゃない。復興市も復興イベントもそれはやっぱり復興じゃない。

 住宅に入居して、それからがほんとうの復興。自分の住まいを作って、畑を得て

 またお仕事の再開ができるまで、何段階ものご苦労です。

 ご夫妻にお会いできて今日は良い日でした。

 これから0先生、とお呼びします。